anxiety vol.1

「20世紀の終わり」

去年書いた文章です。そのまま載せてみました。ちょっと語り口固いな..

「ノストラダムスの大予言」が流行ったのは随分前のことだが、彼の予言した1999年七の月まであと2年を割ってしまった。

「空からやってくる大魔王」については、様々な解釈があり、最近では例の麻原彰晃が地元フランスの研究家に食い下がったことが記憶に新しいが、そのときの研究家の言によれば、地元では必ずしも世界の終わりという解釈ではないということであった。しかしながら、少なくとも日本では、先のベストセラーの解釈から、麻原がこだわったように世界の終わりと解釈するのが通説となっている。穏やかならぬ話である。私も前書をちゃんと読んだ訳ではないが、世界が終わるといわれれば気になるものである。つい先頃もテレビのバラエティーでノストラダムスの特集を組んでいたところをみると、私以外にも気になっている人々が結構いるようだ。

ローマ法王が失神したというファティマの予言等、不吉な予言というものはどこかしら人を不安にさせるものだ。すごくいい予言というのは、楽天的過ぎてどこか陳腐な印象を受けてしまうが、人の不安をかきたてる予言というのは、心理のうまいところをついて、妙なリアリティーというか、存在感を持ってしまう。富士山が何月何日に爆発するなどといわれれば、特別何の根拠がなくとも右往左往してしまう人間が必ず出てくる。不思議なものである。

かつてあった(今もあるのかも知れないが)「不幸の手紙」というのも同じ類のものである。何日以内に何十人に同じ手紙を出さないと、不幸が訪れる。現にテキサスでは16才の少年が云々、というアレである。私も中学生のときに手紙(私の場合ははがき)を受け取ったときは随分不安になり、書いてあるとおりにするべきか迷った覚えがある。結局両親が始末してくれたが、いま考えればなんのことはない、たちの悪いただのイタズラである。しかしながら、始めに思いついた人間がそこまで計算して行ったのであれば、ある種たいしたものである(しかし嫌な奴だ)。誉める訳ではないが、麻原の行った行為も所詮不幸の手紙の延長とはいえ、不安の心理を逆手にとってあれだけの人間を動かして、あれだけのことをしでかしてしまったのであるから、不安のもたらすパワーというのはいかに大きいか、ということが分かる。考えてみれば、これと同様なことは世の中にいくらでもある。歴史上の独裁者と呼ばれた人物は多かれ少なかれこの心理を利用して台頭してきたものであり、そもそも宗教の発端というのも死の恐怖や不安からの救済ということではなかったか?

何やらだんだん話が大袈裟な方向に向かってきたので下世話な方向に戻すと、この不安の心理を商売(というより金儲けというべきか)に生かせないかと考えると、あるある、それこそ山のようにある。世の新興宗教がらみのいわゆる霊感商法などは最たるものである。ちなみに私は誰でも知っている某超有名アーティスト(名は伏す)から「最近壺(数珠だったかな?)を買ってから調子がいいのよ」と言われて返答に困った経験がある。ただ、詐欺という犯罪は被害者が存在しないという論理があるように、結果的に不安が取り除かれ、幸せになればいい、というのも一理である。

話はだんだん脇道にそれているような気もするが、霊感治療というのも、いんちきであろうが何であろうが、結果的に治れば本人にとってはいいのである。ますます脇道にそれるが、かつて私はレコード会社で人を治療することで有名で映画にもなった超能力者の制作担当になったことがある。私自身が治療を受けた訳ではなく、超能力を盲目的に信じているわけでもないが、彼が手をかざしただけで病気や怪我が治ってしまうということが現実としてあったのである。かくして奇跡は存在せり、という感じで額面通り受け取ればキリストの再来かとも思えるが、問題は果たして彼が治したのか、それとも治療を受けた本人が治ってしまったのか、ということである。これに関しては超能力者自身が後者である、と明言している。自己治癒能力を引き出す手助けをしているだけだと。身も蓋もない言い方をすれば病は気から、ということになる。醒めた見方をすればキリストの行った奇跡もこういうことだったのではないかと、個人的には思っている。もっと前向きに考えれば、先程来の不安の持つ負のパワーもすごいが、逆の意識が働いたときの正のパワーもまたすごいということである。これは朗報である。何しろ、気の持ちようひとつで病気や怪我を治す力が人間にはあるということだから(考えてみれば当たり前だが)。考えようによっては、そういう意味では人間みな超能力者だ。

話を元に戻すと、ノストラダムスの予言が妙にリアリティーがあって不安に感じるのはもうひとつ理由がある。1999年という年である。これは20世紀のちょうど終わりに当る。つまり世紀末なのだ。まあ、ノストラダムスにしてみれば単なる思いつきで浮かんだ年で、たまたま我々がその時代に生きているという可能性が多分にあるけれども。世紀末というのは昔から何かと不安感がつきまとうものだ。しかしながら、現実というのはおもしろいもので、一方では2002年のワールドカップ開催決定で浮かれたりしている。そういえば、昭和という時代が終わって平成という時代が突然現れたときも、ピンとこなかった。昭和天皇には申し分けないけれども。ベルリンの壁の崩壊やソ連の消滅という、一昔前なら驚天動地のことも、不思議と当たり前のことのように受け止められた。もしかすると、私が思っているよりも世の中は意外と楽天的に動いているのだろうか?とすれば私のような小心者にとってはこれまた朗報だ。世界が負のパワーでなく、正のパワーでうごいているのであれば心強い限りである。願わくば、ノストラダムスの予言が大ハズレして、私の大好きなキャスリーン・ビグローの映画「ストレンジ・デイズ」のラストシーンのような、21世紀を迎える馬鹿騒ぎを、ポテトチップスでもかじりながら見たいものである。

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