アフターアワーズ                        

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1.

 

 お先に帰ります、と言って唯一の女子社員である小島なつみが帰っていった。

 矢島洋一はその背中にお疲れ、と声をかけると、事務所にひとり取り残された。時計を見ると六時ジャストだった。矢島はもう少し私物を整理することにした。なにしろ、この会社も明日までなのだ。

 矢島はひとつ背伸びをすると、事務所の窓際にあるコーヒーメーカーのサーバーからコーヒーをプラスチックのカップに注いだ。それをすすりながら自分の席に戻るついでに、壁際にあるミニコンポのスイッチを入れた。FMからは首を締められた直後のような女のだみ声が「サマータイム」を唄うのが聞こえてきた。あ、ジャニスだ。やっぱりかっこいいな、と矢島は思った。

 今日はもう客は来ないだろう。来てももう実際問題として仕方がない。矢島はコーヒーを手に来客用のソファーに座ると、ネクタイをゆるめてポケットから煙草を取り出した。ライターで火を点けると、溜息まじりの煙をひとつ天井めがけて大きく吐き出した。

 ようやく落ち着けると思った会社がまさか倒産してしまうとは、オレもつくづく運のない男だ、と矢島は思った。

 自分のツキのなさがいつから始まったのか、矢島は嫌が応でも覚えている。もう後悔するにはあまりにも考え過ぎた。いつの頃からか、そのことに関しては感覚が麻痺している。起きてしまったことはもう仕方がないのだ、という諦観が矢島を支配していた。オレはそれから逃れられないのだ。だったら受け入れるしかない。もう何百回も考えてきたことを矢島は改めて思った。オレは運命論者なのだろうか? あれは偶然ではなく、必然であって、それでいまのオレがあるのだろうか? 矢島は苦笑した。どちらでも同じなのだ。偶然であっても必然であっても。いずれにしてもオレはそれを背負って生きていかなければならない。

 また職安通いか、と明後日以降のことを考えるといささか憂鬱になった。今回はまだ失業手当が出る分だけマシだ、と思うことにした。それに三年も勤められただけでも十分だ。社長の高木には感謝こそすれ、恨む筋合いはない。高木は学生時代の矢島を覚えていた。偶然一度試合を見たのだ。そのことだけでもツイていたと思うべきだ、と矢島は自分に言い聞かせた。ただ、これからも同じような出会いがあるかどうか、と考えると、暗澹たる思いに捕らわれてしまう。所詮、オレは自分で足枷を作って、それを引きずりながら生きているようなものだ、と矢島は思った。もうオレは一度落ちるところまで落ちた人間なのだ。いまさらヘンな夢を見るのはよそう、少なくともオレはいま自由だ、それだけでも十分ではないか。そう思うと少しは気が楽になった。

 どうせまた次の仕事が見つかるまでは時間が掛かるだろう。最近はすっかり運動不足になって体がなまっている。この機会にまたジムに通ってみようか、と矢島は思った。またサンドバッグを叩いて汗を流せば少しは気が晴れるかもしれない。しかし、皮肉なことに元はと言えばそれが自分の運命を狂わせたと言えなくもないが。ボクシングさえやっていなければ。オレは人殺しにならずに済んだかもしれない。

 そんなことを考えていると、携帯が鳴った。高木からだった。事務所にいる時間だろうがなんだろうが、携帯にかけてくるのは高木の癖である。

「矢島くん、今日はもう適当に切り上げちゃっていいから」

「分かりました」

「いろいろすまんね」

「いや、社長こそ大変ですね、これから」

「ま、身から出た錆だよ」

 覇気のない声で電話は切れた。矢島は切れた携帯電話を見つめ、これももういらないかもしれないな、と思った。いまの会社に入って仕事上必要なので持ったが、これからはたぶん誰からもかかってこないだろう。もしかしたら一生鳴らなくても不思議はないな、などと思った。やれやれ。どうも今日のオレは妙に悲観的になってるな、と矢島は思った。

 

 矢島はコーヒーカップを手に、ソファから腰を上げて自分の席に戻ろうと立ったとき、ドアが開く音がした。

 見ると、白髪交じりの五十代とおぼしきスーツ姿の痩せた小柄な男がドアから顔を覗かせていた。

「申し訳ありません、本日は終了いたしましたので」

 矢島が声を掛けるのを無視するように男は事務所の中に入ってきた。幾分顔が赤らんで見えて、なんだ、酔っ払いか、こんな時間から、と矢島は思った。

 男は後ろ手にドアを閉めると、こちらを向いた。矢島が驚いたのは男が散弾銃を右手に持っていたことだ。両手には射撃用らしい指抜きの手袋をしている。

「あの、高木さんは?」

 男は紅潮した顔と、手にした散弾銃とは裏腹に気弱そうな声を出した。矢島はその異様な光景にごくりと唾を飲み込むと、動揺を見せないように努めて冷静を装いながら答えた。

「留守にしておりますが」

 男の目に落胆の色が浮かんだ。見ると、ネクタイはよれ、髭は二三日剃ってないのか、不精髭がうっすらと生えている。男は悲しげに眉をひそめると、足元に一度目を落としてから、さっきまで矢島が座っていた来客用のソファに目をやると、ぼそっと言った。

「呼んでもらえませんか?」

「えっ?」

「呼んでもらえませんか、ここに」

 男はそう言うと、散弾銃の銃口を上にしてソファに腰を下ろした。右手の人差し指は引き鉄に掛かっていた。

 矢島は言葉に詰まった。強盗にしてはやけに腰が低いが、それがかえって切羽詰ったものを感じる。ここはひとまず大人しく相手をすることだ。

「申し訳ありませんが、本日は千葉の方に出張しておりまして…」

 矢島が最後まで言い終わらないうちに、男は天井に向けて引き鉄を引いた。

 凄まじい音が響いて、天井のかけらや壁に掛けていた額縁の破片がぱらぱらと飛び散った。矢島は思わず手にしていたコーヒーカップを落とした。

 男は天井から煙のように破片が舞い散っても、相変わらずしょぼくれたと言ってもいい、物悲しげな目をして、無表情と言ってもよかった。それが故にかえって不気味だ。FMから流れてくるレニー・クラヴィッツが、目の前の男となんともミスマッチである。

 男がまたぼそりと言った。

「呼んでもらえませんか、ここに」

 矢島はもう一度ごくりと唾を飲み込んだ。まったく、なんてこった。こいつは本気だ。男の酷く悲しそうに見える目を見ながら、これは何事か腹を括った目なのだ、と思った。例えて言うならば、江戸時代の貧困に喘ぐ農民が、自分の子供を間引きするときにこんな目をしたのではないだろうか。ここで自分が取り乱しては、事態がさらに悪くなるのは目に見えている。矢島は叫び出したくなる衝動をこらえて、どうにか答えた。

「今日は千葉の方に出張に出ておりますので、すぐには無理かと思いますが」

「構いません。待ちますから」

 男は相変わらずの物悲しげな調子で答えた。痩せた貧弱な体型ながら、てこでも動かない、ということを全身で表している。矢島はひとつ小さく溜息を吐くと、携帯を取り出そうとした。

 

 そのとき、がちゃっとドアが開く音がした。矢島が顔を向けると、ドアが開いて小島なつみが飛び込んで来た。矢島が声をかける間もなく、彼女はロクにこちらの方を見ないで自分の机目指してすたすたと歩を進めながらおどけた声を出した。

「すみませーん、小島、忘れ物しましたー」

 矢島が唖然と目を見張る中、なつみは自分の机の引出しを開けながら、なんか廊下で隣の人が顔出してこっち指差してたりしてたんですけど、なんかあったんですかあ、と呑気に喋っている。

「あった」

 どうやらなつみが忘れたのは携帯電話のようだった。なつみがそれを手にへへ、と照れ笑いを浮かべながら顔を上げて矢島の方を見て、それでようやくもうひとり部屋の中にいることが分かった。

 なつみは、あ、お客さん、などと一瞬思ったが、客用のソファに座った男の手に散弾銃が握られていることに気づいた。男の背面の額縁が斜めに傾いでガラスが飛び散っていること、見上げると天井に無数の穴が開いて、細かい破片の粒子が未だにゆっくりと落ちていることに。なつみはそこで凍りついたように立ち尽くした。

 矢島は胸中でこのままなつみがこちらを見ずに、何も気づかずに来たときと同じように部屋を出て行くことを期待していたが、固まってしまったなつみを見て失望の息を洩らした。まったく、なんてこった。自分ひとりなら、小柄な初老の男ひとり、隙を見て銃を取り上げるなりなんとかできたかもしれない。しかし、こうなってはどうしようもない。男が持っているのが普通の銃でなく、散弾銃というのもこうなると余計に厄介だ。

「矢島さん、これ…」

 ようやくなつみは声を出した。矢島は一瞬顔をしかめると、無言で首を左右に振った。

 なつみは放心したように、どすんと自分の椅子に腰を落とした。見る見るうちに泣きべそをかきそうになる。

「かけてください」

 突然男が声を発した。見ると、いつのまにか銃は水平に構えられていて、その銃口は矢島に向けられていた。

「えっ?」

 矢島は問い返した。

「電話」

「あ、はい」

 矢島は、脇の下にじっとりと汗をかきながら、再び携帯を手にすると、短縮のボタンを押した。

「もしもし矢島です」

「ああ、どうした?」

「お客さんがみえているんですが」

「客? 誰だ」

「ちょっと待ってください」

 矢島は携帯を口元から話すと、男に問いかけた。

「あの、どなたか訊いているのですが」

 男は相変わらずの物悲しげな目つきでぼそりと答えた。

「川島です。川島武夫」

 矢島は再び携帯を口元に戻した。

「川島さんとおっしゃってますが。カワシマタケオさん」

「カワシマ? 知らないな。そんなに急ぎなの?」

「それがその…」

 矢島が口篭もると、高木は違和感を感じ取ったようだ。

「なんかやばい客か? やくざか?」

「いえ、そういうわけじゃないんですが、その…」

 矢島はなんと言っていいものか迷った。男は相変わらず無表情に見える。それを見ながら、ひとまず言葉を繋いだ。

「とにかくこちらに来て欲しいと」

「よく分からんな。何言ってるんだ?」

 矢島は焦った。この状況から考えられることはひとつだ。この川島という男は高木を撃つつもりなのだ。そうとしか考えられない。いずれにしてもわざわざ殺されに呼ぶようなものに思える。しかし、自分ひとりならともかく、このままではなつみも撃たれるかもしれない。ここは川島の言うとおりにするしかないのだろう。高木が気配を察して警察に連絡を取ってくれればいいのだが。

「来るまで待つとおっしゃってるので」

「何がどうなってるんだ? 警察に電話した方がいいか?」

 矢島はほっとした。これでなんとかなるかもしれない。

「ええ、そうしてもらえれば」

「分かった。とにかくそっちに向かうが、ここからだと二時間はかかるな。きみひとりなのか?」

「小島さんもいます」

「分かった。とにかく、警察が来るまで事を荒立てないように」

「分かりました」

 矢島は携帯を切ると、ふうと息をひとつ吐いた。なつみを見ると、自分の携帯を握り締めながら心配そうにこちらをじっと見つめている。矢島は川島に向き直ると、口を開いた。

「二時間ぐらいで来るそうです」

「分かりました」

 川島はそう言うと、ようやく散弾銃の引き鉄から指を離した。

 

 なつみは後悔していた。どうしてわたしはこうなんだろう。なんでこんなときに限って携帯を忘れたりしたのだろう。いつもそうだ。わたしは肝心なときにドジってしまうのだ。間が悪いって言うのか。そう言えば、学生時代も振られたばかりの友達を皆で慰めているところに、ねえねえみんな聞いて、わたし先輩に告白されちゃった、などと嬉々として割り込んでヒンシュクを買ったりしてしまったものだ。だいたい、四大を出たのにこんな小さな不動産屋にしか就職できなかったのも、大手企業の面接のときに限って、遅刻してしまったり、あがって上手く答えられなかったり、逆に一言多くなったりしたからなのだ。ルックスも悪くないと自分では思っている。ちょっとロリコン入っていると言われるけど。ただ、そういう生来の間の悪さみたいなものが馬鹿っぽく見えちゃうのだそうだ、友達に言わせると。可愛いっちゃ可愛いんだけどね、と一番仲のいい友達は言ってくれたけど、なんかそれって全然フォローになってない。ああ、どうしよう、こんなところでこんな冴えないオヤジに撃たれてわたしは死んじゃうんだろうか。そう考え始めると、ひとりでに涙がじわっと浮かんできた。どうもおかしいと思ったんだ。エレベーターの中でドン、ていう音が聞こえたし、廊下で隣のサラ金の女子社員がふたり、こちら向いてなんかひそひそ話してるし。会社は明日でつぶれるって言うのに。また就職先探さなきゃいけないって言うのに。明日社長と三人で送別会やって、そのあとで矢島さんに思いきって告白してみようかな、なんて思ってたのに。矢島さん、年がひとまわり以上も上だけど、年よりも全然若く見えるし、なんか役所広司をちょっとスリムにしたみたいでかっこいいし、ちょっと陰のあるところもクールで大人って感じだし。ああ、また涙が出ちゃう。なんでわたしはこう泣き虫なんだろう。

 なつみはふと手に握り締めている携帯に目をやった。そうか、これで警察に連絡できないだろうか。ちらっと川島の方を見ると、川島は矢島と向き合っていてこちらの方を見ていない。一一〇番するのはどうだろうか。でも、さすがに喋ったらバレてしまうだろう。一一〇番だけ押して、こちらの番号と音を拾うようにすればどうだろう。でも、携帯からじゃ駄目だろうな、事務所の電話からじゃないと。そうか、受話器を上げて一一〇番押せばいいんだ。

 なつみはもう一度川島の方をうかがった。まだこちらには目を向けていない。なつみはなるべく気づかれないようにそっと受話器に手を伸ばした。

 そのとき、いきなりドアが開いて、失礼しますという男の声が聞こえて、なつみは手を引っ込めた。

 

2.

 

 いきなりドアが開くのと同時に、失礼します、という男の声が聞こえて、矢島は入り口を見やった。

 見ると、制服の警官がふたり、入ってきた。矢島はそれを見て束の間ほっとしたが、次の瞬間にはこれはかえってまずい、と思い直した。

 先頭に入ってきた警官が、川島には気づかずに矢島の方を見て言った。

「こちらで銃声のような音が聞こえたって通報があったんですけど」

 警官はそう言いながら頭を巡らせて川島と散弾銃に気づくと、あっという声を上げた。同時に警官は腰の拳銃に焦って手を伸ばした。

 散弾銃の銃声が狭い事務所に轟いた。なつみが耳を塞いで悲鳴を上げた。

 矢島があっと思った瞬間に、先頭の警官は全身に無数の散弾を受けて辺りに血が飛び散った。かろうじて先頭の警官の陰になっていたもうひとりの警官も、いくつかの散弾を浴びてうっとうめき声を上げると、開きっぱなしになっていたドアから這うように出て行った。全身に散弾を浴びた警官は、無言のままゆっくりと仰向けに倒れた。

 轟音の後でまだ耳鳴りがする。矢島が川島の方を振り向くと、立ち上がって銃身を構えた川島の肩が小刻みに震えているのが分かった。やっちまった。最悪だ。矢島は思わず目を瞑った。背中の方からなつみのすすり泣く声が聞こえる。目を開けて倒れた警官の方を見ると、全身から床に血が滲み出していた。顔は散弾を浴びて血で真っ赤になり、造作もよく分からない。

 あ、あ、と意味不明の声を出してから、川島はどすんとソファに腰を落とすと、はあはあと肩で息をした。

 茫然と立ち尽くす矢島の耳に、廊下からきゃあという悲鳴と、逃げた警官らしい、離れて、という声が聞こえた。

「あんたなんて言ったっけ?」

 川島の声が聞こえて、矢島は我に返った。

「あ、矢島です」

「矢島さん、ドア閉めてくれませんか?」

 川島はまだ少し息を切らしながら、それでも表情は元に戻っていた。

 矢島はふらふらとドアに向かった。警官の足元を跨ぐように過ぎると、むせ返るような血の匂いがした。ふとこのまま走って廊下に飛び出せば、と頭をよぎったが、後ろから散弾を受けてこの警官のような姿のようになる危険と、なつみのことを考えるとそれもできなかった。

「ついでに鍵も掛けてください」

 川島の声が聞こえる。矢島はゆっくりとドアを閉めると、散弾を受けたドアのガラスのかけらが足元に落ちた。ノブの鍵を回すと、かちりと鍵の掛かった音がした。

 矢島は足元の警官をなるべく見ないように戻ると、なつみと向かい合わせになる自分の机に座った。なつみを見ると、涙で顔をくしゃくしゃにしながら、肩を上下させていた。

「なつみちゃん、大丈夫だから、落ち着いて」

 とりあえずそう声をかけるしかなかった。ここでなつみがパニックを起こして騒いだらもっと最悪になるのは目に見えている。

 なつみはこくん、とうなずくと俯いた。

 

 矢島が川島の方に目を移すと、川島はポケットから弾を取り出して装弾しているところだった。音からしても散弾銃は相当の反動がありそうだし、かなり銃の扱いには慣れているようだ。矢島はふと考えた。果たして散弾銃の装弾数はいくつなんだろう? 見ると、銃身は上下二連になっているので、二発撃てることは先ほどのことからも間違いない。三発目は撃てるものなのだろうか? 銃に関しては全くの素人だけに皆目分からない。もしかしたら、さっき二発目を撃った直後になつみを強引に連れて逃げることができたのかもしれない。それが唯一のこの場から逃げる機会だったのかもしれない。しかし、万が一にも薬室内に弾が残っていたらそれまでだ。やはり素人判断は命取りだ。ここは本当の隙が現れるのを待つか、それとも警察がなんとかしてくれるのを待つしかない。もっともそれまで生きていられたらの話だが。

 生きていられたら? 矢島はそう考える自分に驚いた。自分は生きていたいのだ。まだ川島が現れる前、いま川島が座っているあのソファで自分の人生というものに思いを馳せたとき、自分の人生はもう既に終わっているようなものだと思っていた。いま生きているのはおまけのようなものなのだと。こんなとんでもない事態に陥って初めて、自分はまだ生きていたいのだと気づいた。特に夢や希望があるわけではない。ただ生きていたいのだ。それとも死にたくない、という恐怖なのか。それとも、もしかしたら自分はまだ人並みに幸せになれるかもしれないという希望がどこかに残っているのだろうか。

 ビルの外が次第に騒がしくなってきた気配がする。パトカーのサイレンが何台も近付いてくるのが聞こえる。恐らく下ではもう野次馬も集まり、既に相当の騒ぎになっているのだろう。しかし、雑居ビルの五階にあるこの事務所では、窓を閉めきった状態ではそれも分からない。同じ階にある隣の消費者金融の社員たちも避難したのか、先ほどの発砲でドアに付いたガラス窓が半分割れた状態なのに、そちらからは今は何も聞こえてこない。廊下の外は静まり返っているようだ。ただ、後十分もすれば、非常階段や隣の事務所は警官や機動隊員で一杯になる筈だ。つけっぱなしになっているFMは、ニューエイジ・ミュージックになっていた。ジョージ・ウィンストンあたりののどかなピアノにフィドルの音が加わり、古き良きアメリカの田園地帯を思わせる平和な音楽が流れていた。それが救いと言えば救いだが、今のこの状況にしてみれば皮肉と言えないこともない。

 矢島はもう一度床に倒れている警官に目を移した。見ると、微かに血だらけの制服の胸が上下している。まだ生きているのだ。しかし、このままでは失血死してしまうのは素人目にも明らかだ。矢島は思い切って川島に声をかけた。

「その人はまだ息があります。このままでは死んでしまいますよ。廊下に出しませんか」

 放心したように宙を見つめていた川島は、矢島の声に我に返ったように目の焦点をなつみに合わせると、おもむろに言った。

「お嬢さん、喉が乾いたんで何かもらえませんか」

 なつみがびくっと顔を上げた。矢島は自分の問いかけが無視されたことに失望を覚えながら、なつみに向かって無言でうなずいた。

 なつみは恐る恐る立ち上がると、コーヒーでいいですか、と言って窓際に向かった。

 矢島は無駄かもしれないと思いながら、もう一度声をかけた。

「あの、その警官、まだ息があるんで、廊下に出しませんか」

「えっ」

 川島はようやく矢島の言っていることを理解したようだ。

「生きてるんですか? その人」

「ええ」

「でももう駄目でしょう。もういいんです」

 川島は消え入るような語尾で答えた。

「もういいって…」

「もういいんです」

 川島はぼそりともう一度繰り返した。矢島はそれ以上は諦めて、ポケットから煙草を取り出すと、口にくわえて火を点けた。いったいこのおっさんは何を考えているのだろう。もういいっていうのは死んでもいい、ってことか。自分が人殺しになってもいいってことか。それは川島自身が死んでもいいという意味にも聞こえた。

 始末が悪い。まったく始末が悪い。自暴自棄になった人間ほど始末が悪いものはない。矢島はそう考えながら、半ば自暴自棄で人生を送っていた自分に与えられた、これは神様の皮肉なのだ、と思った。そう思ってから、神様なんてものを自分がちっとも信じていないことを思い出した。やれやれ。矢島は困惑を覚えながら煙をひとつ、溜息とともに大きく吐き出した。

 

 なつみはプラスチックのカップを三つ並べて、窓際の棚の上にあるコーヒーメーカーからコーヒーを注いでいった。注ぎ終わると同時に、上着のポケットに入れた携帯が震えだし、なつみは飛び上がりそうになった。バイブレーターにしておいてよかった。これがいきなり鳴ったら、あのオヤジがびっくりしてまた撃っちゃうかもしれない。窓に映る背後を見ると、オヤジはなにか矢島と話をしていてこちらは見ていない。そっと携帯を取り出すと、メールの着信だった。液晶に表示されたメッセージを読むと、どうしたの、遅いよ、とあった。明美からだった。今日は学生時代から一番仲のよかった明美と久々に会ってカラオケに行く約束だったのだ。明美はなつみよりちょっと要領がいいだけで、ちゃっかり大手の文具メーカーに就職していた。本当を言うと、それが羨ましくてしょうがない。給料だって、ちゃんと訊いたわけじゃないけど大分差があるに決まっている。明美はいい子だから、そんなところをひけらかしたりしないけど、周りにはカッコいい男子社員がたぶん大勢いるのだ。それに比べてわたしは自分を入れてたった三人の会社に勤めている。実際は四人なのだが、宅建主任は名前だけ借りていて会社には出てこない。明美はそういう方が気楽でいいわよ、と慰めてくれるのだが。ま、たった三人のうちのひとりが矢島さんみたいなクールな人だってのはラッキーだったけど。それでも明日でこの会社も終わりだ。明美にはまだその話はしていない。まだ話す勇気はない。なんかこれ以上みじめにはなりたくないから。あ、わたしったら何考えてんだろ、となつみはようやく気づいた。そんな場合じゃないんだ。今は。明日まで生きていられるかどうかも怪しい。明美とは大違いだ。神様はなんて不公平なんだろう。とにかく、返事打たなきゃ。どうしよう。今の状況を説明してたら物凄く長いメールになっちゃう。それに、上手く説明できる自信もない。なつみは少し考えて、ごめんね、今日は行けなくなっちゃった、とだけメールを打った。

 それから背後を振り返り、あの、と声をかけた。川島が驚いたようにこちらを向くと、砂糖とミルクはどうしますか、と訊いた。川島は、何もいりません、と答えた。どうしてこう腰が低いのだろう、ヘンなオヤジだ、と思いながら、なつみは自分のカップにだけ砂糖とミルクを入れた。

 

3.

 

 なつみが真っ先に川島の座っている来客用のテーブルにコーヒーを置くと、川島はありがとうございます、と言った。まるで普通の客を扱っているような錯覚に陥ってしまう。それから矢島にコーヒーを渡すと、矢島はありがと、と言いながら小声で下はどうなってた? と尋ねてきた。なつみは、すっかり携帯に気を取られて外の様子を見るのを忘れていたので、ごめんなさい、とだけ小さく答えた。

 FMは相変わらずのどかなニューエイジミュージックを流している。矢島はコーヒーをすすりながら、なんとか高木が来る前に川島を説得する方法はないものかと考えた。そもそもこの男は一体なぜこんなことをしでかしたのだろう。コーヒーで多少の冷静さを取り戻すと、矢島には一見不条理なこの川島の行動の原因を知りたいという好奇心が芽生えてきた。一体何があったのだろう。高木は不動産という業種にありがちな、強引さやぎらぎらしたところもなく、人当たりもいいので、ここまでの恨みを買うような人間には思えない。まあ、確かに今回は彼にしては珍しく、リゾート開発への投資という、言うなれば一発勝負に出てそれが裏目に出てしまったわけだが、それにしても組んだ相手がたまたま悪かったというだけで、強引な土地の買占めや、ましてや地上げのようなことに手を染めるタイプではない。どちらにしても、矢島が川島を見るのは初めてなので、彼が入社する以前の話であることには間違いはなさそうだった。

「矢島さん」

 突然川島が声をかけて来たので矢島は考えを中断した。

「窓のブラインド下ろしてもらえますか」

「分かりました」

 矢島は立ち上がって窓際まで行くと、下を覗き込んでみた。パトカーらしい赤い回転灯が幾つも光っているのがかろうじて見て取れた。恐らく野次馬も相当数集まっているのだろうが、角度的にはそれ以上は見えなかった。矢島がブラインドを全て下ろすと、閉塞感が募ったのか、なつみが不安げな視線をこちらに送っていた。

 突然矢島の携帯が鳴った。

 思わず矢島は川島の様子をうかがった。特に驚いている様子はなく、コーヒーを飲んでいた。矢島は鳴り続けている携帯をかざして、これ、出ていいですか? と尋ねた。川島はきょとんとした表情で、どうぞ、と答えた。

 矢島が携帯の通話ボタンを押すと、高木の声が聞こえてきた。

「おい大丈夫か?」

「それが…」

 矢島は床で血だらけになっている警官をちらと見ると、そのまま説明したものか迷った。

「大変な騒ぎになってるぞ。警官が撃たれたって」

 高木の車にはカーナビとテレビが付いている。恐らくそのテレビでテロップでも見たのだろう。それにしてもあれから二十分と経っていないのに、マスコミがもう嗅ぎつけているということだ。矢島は説明が省けてほっとするのと同時に、その素早さに半ば呆れた。

「まあ、そういうことです」

「きみも小島くんも大丈夫なのか?」

「今のところは」

「こっちはまだ高速に乗れていない。下がかなり渋滞してるんだ」

 矢島はちらっと川島の様子を伺った。こちらに聞き耳を立てている様子はない。矢島は声を潜めた。

「それなんですが、やめておいた方が…」

「なに言ってるんだ。オレが行かないと収まらんだろう」

「しかし」

「とにかく、行くまでなんとか我慢してくれ」

「分かりました」

 高木は妙に頑固なところがあって、一度言い出したらきかないところがある。それが今回の倒産という事態になった原因でもあるのだが、彼は彼なりに責任を感じているのだろう。いずれにしても、高木が到着したときに起こることを考えると、矢島は憂鬱になった。

 ここは川島にも一言言っておいた方がいいだろう。矢島は携帯をポケットにしまって、自分の机に戻りながら声をかけた。

「高木からです。渋滞しているそうで」

「そうですか」

 ぼそりと答える川島は特に動揺しているようには見えない。しかし、事務所に入ってきたときから失望を全身で表しているようなものなので、こちらからは計り知れないものがある。それがかえって厄介と言えば厄介だ。川島は相変わらず放心したように宙を見つめている。心ここにあらずといった風情だ。しかし、話す言葉尻からは特にドラッグのようなものをやっているようには見えない。矢島はなんとかして川島に正気を取り戻させることはできないだろうか、と考えた。それには少しずつでも会話をしていくしかないだろう。恐らく今の川島に一番欠けているものは現実感だ。まずはそれを取り戻すことだ。たぶん川島は今自分が何をやっているのかもよく分からなくなっているに違いない。

 そう考えると、矢島は川島に声をかけた。

「あの、テレビつけてもいいですか?」

 川島は、なんでそんなことをいちいち訊くのか、とでも言いたげな不思議そうな顔をすると、はい、と答えた。

 矢島は席を立つと、先にFMのスイッチを切ってから、来客用のソファのすぐ隣にあるテレビのスイッチを入れた。テレビがブーンという音とともについて、画面にアニメが映し出された。リモコンは川島の目の前の来客用テーブルにある。矢島は思い切って川島の向かい側のソファを指差し、ここいいですか? と尋ねると、予想通りはい、という答えがかえってきた。散弾銃を持った人間の目の前に座るというのはそれなりに覚悟がいるものだった。ままよ、と腰を下ろすと、矢島はテーブルの上のリモコンを取って、チャンネルを切り替えた。

 いきなり、このビルの下が映し出された。リポーターが何か喋っている。矢島は聞き取れる程度にボリュームを上げた。

――男は散弾銃を持ってこのビルの五階にある事務所に立て篭もり、警官ふたりに対して発砲し、社員ふたりを人質に取っている模様です。人質の氏名に関しては現在まだ判明しておらず、撃たれた警察官の安否が気遣われます――

 矢島が横目で川島の様子をうかがうと、川島はまるでひとごとのようにぼうっと画面の方を見ていた。

 突然、事務所の電話が鳴り出した。矢島はテレビの音声をミュートにすると、川島の様子に変化のないことを確かめ、立ち上がって自分の机に戻った。不安げにこちらを見つめているなつみにうなずくと、机の受話器を取り上げた。

「もしもし」

「あー、繋がった。繋がったよ、おい」

 若い男の素っ頓狂な声が耳に飛び込んで来た。電話の向こうで数人のざわめきが聞こえる。テレビを見て、どこでどう番号を見つけたのか、野次馬の電話だ。矢島は何も言わずに受話器を置いた。

「いたずらだ」

 矢島は眉をしかめてこちらを見ていたなつみに言った。すると、間髪置かずにまた電話が鳴り出した。矢島は軽く舌打ちをすると、また受話器を取った。

「もしもし」

「えー、こちらは警視庁の山田と申します。あなたは?」

 受話器の向こうから聞こえる声は、かすれ具合がちょうど小林旭みたいな声だった。山田、という凡庸な苗字が気になる。今しがたいたずら電話があったばかりなのでなおさらだ。矢島は答える前に問い返した。

「いたずらじゃないという証拠は?」

「そうですね、いまは麻布署にいます。番号を申し上げますので、呼び出してもらえれば分かります」

 矢島は番号をメモすると、一旦受話器を置いた。川島を見ると、相変わらず放心したようにぼうっとテレビを見ている。画面は天気予報に変わっていた。ここはとにかく、確認しておいた方がいいだろう。矢島は川島に、電話を一本かけたいんですが、いいですか、と訊いた。川島は意外なほどあっさりと、どうぞ、と答えた。矢島は本当に彼は人質を取っているという意識があるのだろうか、と一瞬いぶかしんだ。もしかしたらその意識すら希薄なのかもしれない、と。

 とにかく、メモした番号にかけてみると、麻布警察署です、と女性の声がした。矢島はメモした内線番号を伝えると、警視庁の山田さんをお願いします、と言った。

「山田です」

「矢島と申します」

「えーと、あなたは…」

「ここの社員です」

「もうひとりの方は?」

「小島という女性社員です」

「電話、大丈夫ですか?」

「いまのところは大丈夫みたいです」

「先ほど撃たれた警官の様子は分かりますか?」

 矢島は床に倒れている警察官に目を移した。ここから見る限りではもう胸は上下していないように見える。

「残念ですが、駄目みたいです」

「そうですか… 銃はひとつですか?」

「そうです」

「向こうは名乗りましたか?」

「ええ、川島さんです。川島武夫さん」

 思わず声を潜めて答えながら、もう一度川島の様子に目を移した。川島はこちらをじっと見ていた。ちょっと眉をひそめて、例の物悲しげな目をして。撃たれるかもしれない、と一瞬矢島は思った。脇の下に汗が滲む。オレが撃たれてもまだなつみがいる。彼は撃つときは平気で撃つだろう。あまり余計なことは喋らない方がいい。

「あの、もういいですか?」

 矢島が切ろうとすると、山田は慌てた声を出した。

「すみません、もうひとつだけ。向こうの要求はなんですか?」

「社長に会わせろと。それだけです」

「分かりました。あなた、携帯はお持ちですか?」

「はい」

「じゃあ、番号を教えていただけますか。今後は必要があればそちらにかけますので」

 矢島が番号を告げると、山田はいたずら電話がかかってくるようであれば、犯人を刺激しないように電話線は抜いておいた方がいいでしょう、と言って電話は切れた。

 受話器を置きながら、刺激してるのはどっちだよ、と矢島は思った。

 

4.

 

 自分の名前を呼ばれたような気がして、川島は声のする方を見た。先ほど矢島と名乗った男が誰かと電話をしている。

 オレはなにをしているんだっけ?

 傍らに目をやると、床の上に血塗れの警官が倒れている。床に敷かれている薄手のカーペットに、警官の体から血が滲み出て黒ずんだしみを作っている。

 あ、そうか、オレが撃ったのか。

 あれは正当防衛になるのだろうか? あのとき、撃たなければこちらが撃たれていた。反射的に撃ってしまった。しかし、なぜ彼はオレを撃とうとしたのだろう?

 オレは人を殺してしまった。

 人殺しだ。ひ、と、ご、ろ、し。しかし、なぜか怖くない。ちっとも怖くない。なぜだ?

 オレはなにをしてるんだっけ?

 練馬のアパートを出る前にビールを一杯飲んで。そうだ、オレは死ぬんだ。放って置いてもオレは死ぬ。踏んだり蹴ったりだ。その前にあの高木って奴に一言謝ってもらおうと思ったのだ。せめてそれから死のうと。

 あそこの女の子は何を泣いているんだ? なにをあんなに怯えているんだ? あの矢島って男が泣かせたのか?

 典子と同じぐらいの子だ。いや、もうちょっと上か。ノリコ。おとうさんは。

 あれ? オレの車だ。オレの車がテレビに映っている。その前で女のリポーターが真面目腐った顔でなにか喋っている。これは一体なんだ?

 オレのレミントン。オレにはもうこいつしか残っていない。オレの趣味と言えば、こいつぐらいだった。ゴルフもやらない。競馬もパチンコも。オレはこのレミントンを撃つときだけが至福の瞬間だった。そのときだけはなにもかも忘れられた。クレーが飛び散る瞬間。鹿がゆっくりと倒れる瞬間。

 ああ、でもオレは死ぬのだ。

 えーと、なんだっけ? そうか、高木だ。高木。遅いな。まだかな。もう一度あの矢島って男に訊いてみようかな。それにしてもこのコーヒーは煮詰まってるな。客にはもう少しいいものを出してもよさそうなものだ。日本茶にしてもらえばよかったかな。

 

 なつみは電話が鳴り出すと、酷くびっくりした。それがきりきりと頭の中にめり込んでくるようで、怖かった。電話の音がこんなに嫌なものだったなんて。鳴り止まない電話がこんなに怖かったなんて。

 矢島さんが出てくれて助かった。どうやらいたずら電話だったらしい。よかった。こんなときにヘンないたずら電話にわたしが出たら、また泣いてしまう。あ、まただ。また鳴ってる。嫌だ嫌だ。涙がまた出てきちゃう。

 今度は矢島さんがすぐ出てくれたのですぐ鳴り止んだ。よかった。また延々鳴り続けるようだったらわたしは気がヘンになってしまう。あのオヤジもあの西部劇に出てくるような銃を撃ってしまう。わたしもそこに転がっている警官みたいに穴だらけになっちゃう。怖い。怖いよ。

 矢島さんが電話をかけ直してる。あのオヤジは別に気にしてないみたいだ。なんだ、電話しても平気なのか。明美に電話しようか。それとも福岡のおかあさんに電話してみようか。駄目だ駄目だ。そんなことしたらまた泣いちゃう。絶対泣いちゃう。

 え? 矢島さんが警視庁の人と話してる。大丈夫だ。これで大丈夫だ。警察が来てくれる。今度はいきなり撃たれるようなことはないだろう。ちゃんと完全防備で、テレビでやってるアメリカの刑事ドラマみたいな機動隊がやってきて、あのおかしなオヤジを取り押さえてくれるだろう。よかった。大丈夫だ。これで穴だらけにならずに済む。ああ、また安心したら涙が出てきちゃった。

 あ、テレビにまたこのビルの下が映ってる。リポーターが白い車を指差してなんか深刻な顔で言っている。なんて言っているんだろう? まわりは野次馬で一杯だ。あ、後ろでピースなんてやっているガキがいる。なんて奴だ。帰って友達に吹聴するんだろう。テレビに映ったって。馬鹿な奴。田舎者。わたしは福岡から出てきたけど、あんな田舎者じゃない。あ、わたしもテレビに映るんだろうか? ここから出て行くときに。リポーターにマイクを向けられたりするんだろうか。きっとそうだ。だったら泣いてなんかいられない。メイク流れたりしたらカッコ悪い。後でお化粧直しておこう。マイク向けられたらまた間の悪いこと言わないようにしよう。クールな女に見えるように。なんてことなかったですよ。それじゃヘンか。大丈夫でした。わたしは十分落ち着いていました。警官の方は可哀相なことをしました。ええ、それほど怖いことはありませんでした。コーヒー出したりしたぐらいだから。まるで普通のお客さんみたいで。ちょっと喋りすぎかな。また余計なこと喋っちゃいそうだ。どれぐらいがいいかな? なにも喋らずににっこり笑うというのはどうだろう? ちょっとヘンかな? 福岡の家でも見てるだろうな、テレビ。わたしが映ったらおかあさん泣いちゃうだろうな。あ、また涙が出てきちゃう。

 ああ、びっくりした。また携帯がぶるぶる震えている。今度は電話だ。誰からだろう? あ、やばい、事務所からだ。こんなときに。どうしよう。ほっとこうか。でもシカトしたりすると今度あまり仕事回してくれなくなっちゃうかもしれない。どうしよう。あ、矢島さんがこっち見てうなずいてる。大丈夫だ。話しても大丈夫だって。とりあえず出よう。こうやってじっとしてるよりはマシだ。

「もしもし」

「もしもし、エリカちゃん? 御指名入ってるんだけど」

「あ、すみません、ちょっと今日は…」

「え? 駄目なの? 例の医者だよ。エリカちゃんお気に入りの。もったいないなあ。もしかして生理? あれ、エリカちゃん生理まだだよね?」

「いえ、あの、今日はちょっと大事な用事があって」

「あれ? エリカちゃん彼氏でもできた? なんだそうなの? 仕事やめないでね。結構人気あるんだから。とりあえず彼氏には内緒でさ」

 へへ、となつみは笑ってごまかした。ちょっと悪い気はしない。すみません、と言って電話を切った。少しは気分がよくなった。あ、後でお化粧直すの忘れないようにしないと。

 

 川島はなつみが携帯で電話するのをぼうっと見ていた。今の若い子はみんな持ってるなあ、携帯。あ、あの子が笑った。さっきまで泣いてたのに。きっと彼氏とでも話したんだろうか。笑うとちょっと典子に似てるかな。いや、典子の方がもっと美人だ。典子はあいつに似たから。あ、あいつを思い出しちまった。くそ。なんてこった。あんな奴。

 

5.

 

 矢島はなつみが電話をしながら笑っているのを見て、なんだこいつは、と思った。まあ、めそめそ泣き続けられるのもかなわないが、まったく、いまどきの若い子は何を考えているのか分からない。

 考えてみると、出所してからこの方、女と付き合ったことがない。ハナからまともな結婚などもうできないと諦めている。だから商売女しか買ったことがない。別にモテないというわけではない。目の前にいるこのなつみでさえ、たまにそれとなく秋波を送ってくるし、客の水商売の女からは、しつこく飲みに行こうと誘われたこともある。矢島はそれを頑なに断ってきた。それはストイックに過ぎるというよりも、ある種の諦めに近かった。それに酷く面倒に思えた。これまでの自分を説明する面倒さ、それを聞いたときの相手の反応を想像する面倒さ。どうせオレは人殺しなのだ、と。

 考えてみると、あれ以来、オレには人生の目標というものがなくなった、と矢島は思った。ただ淡々と生きてきただけだ。もし今日でオレの人生が終わるとして、この十年というもの、オレは何かひとつでも楽しんだだろうか。接待で付き合ったゴルフも苦痛でしかなかった。家でひとりテレビを見て、たまに笑うことがあっても、その後にはかえって空虚さが増した。ましてや商売女とのビジネスライクなセックスの後には、底無しの自己嫌悪があるばかりだ。オレにはもう人生を楽しむ権利がないのだろうか? いや、もしかしたらあるのかもしれない。ただオレは面倒なのだ。なにもかも面倒なのだ。もうそろそろ四十になろうという自分にもうんざりだ。オレはなんの意味もなく年を取って行く。そうしていつか抜け殻のような老人になってしまうのだろうか。

 まだ山田という凡庸な名前の男からは電話がかかって来ない。警察はどこまで来ているのだろうか。音は聞こえないが、もう非常階段辺りには機動隊員が群れをなして息を潜めているのだろうか。それとも、もう既に隣のサラ金の事務所は警察官で一杯なのだろうか。そう考えると、ますます息苦しさは増した。いずれ、彼らは機を見て飛び込んで来るのだろう。そのときの騒ぎを考えると矢島はうんざりした。

 高木は本当にここに辿り着くのだろうか? 考えてみると、警察がそれを許す筈がないように思える。恐らく、さっきの山田なりが許さないだろう。案外こんな小男ひとりの篭城など、簡単に解決できてしまうものなのかもしれない。このビルは目の前が首都高なので、狙撃は難しいと思うが、もし、狙撃できる場所さえあれば、簡単に解決してしまうのかもしれない。それともアメリカの映画のように、階上から窓を突き破って突入したりするのだろうか。いや、それは散弾銃相手にはいささか無謀だ。昔見た高倉健の映画では、高倉健演ずる刑事が、出前持ちに扮して犯人を取り押さえていた。その手を使うには何か出前を頼む必要があるな。あのおっさんは果たして出前を頼むだろうか。どうもそんな風には思えない。そもそも篭城している自覚があるとも思えない。結果的にそうなってしまっただけで。ああ、面倒だ。もう考えるのも面倒になってきた。

 

 誰もひと言も発しない、息苦しい時間が十五分ほど過ぎた。矢島にはそれがとてつもなく長い時間に思えた。なつみは俯いて机の上で両手を組み合わせたり、ほぐしたりしていた。川島は相変わらずぼんやりと宙を見つめている。

 矢島は酷く喉が乾いていた。さっきコーヒーを飲んだばかりだと言うのに。

 無性に酒が飲みたかった。あの、例の日からだから、かれこれ十五年近く飲んでいない。緊張のせいなのか、体と頭がアルコールを強烈に欲していた。とにかく、ビールひと口でいいから飲みたい。その欲求は、これまでに覚えたことのない、まるでまる二日砂漠をさまよっている人間が水を欲するような、闇雲な欲求だった。もう他には何もいらない、と思った。酒を一杯、それだけでいいのだ。

 第一、一度それが人生を狂わせたからといって、二度も三度も狂わせるとは限らない。それに、飲んだからといって、また人を殺すはめになるとは限らない。考えてみれば、ここを無事に乗りきっても、明後日からはまた何もない人間に戻るのだ。いまさら何をためらうことがあるのだ。一度傾いた思考は速度を増すばかりだ。

 気がつくと矢島は目をぎらぎらさせて、あらん限りの記憶を辿ってこの事務所の中のアルコールを探していた。

 そうだ、冷蔵庫に高木のビールがあるかもしれない。いや、ある筈だ。そう思うと、いても立ってもいられなくなった。矢島はいきなり席を立つと、川島となつみが茫然と見守る中、すたすたと奥にある高木の机の方に向かうと、壁際に置いてある小型冷蔵庫の前に立った。

 しばらくじっと見つめてから、おもむろに矢島は冷蔵庫のドアを開けた。川島となつみは一体何が起こるのかと固唾を飲んで見守っていた。

 あった。缶ビールが六本。

 矢島はその一本を取り出すと、プルトップを引き上げて、喉を鳴らして一気に飲んだ。一息で半分ほど飲むと、ふうっと大きく息を吐いた。いつしか顔に笑みが浮かぶ。五臓六腑に沁みるとはこのことだ。

「うまい」

 つい声に出ていた。矢島は残りの半分も一息で飲み干した。うまかった。本当にうまかった。十五年も喉につかえていたものが下りるような爽快さだった。矢島はもう一本に手を伸ばそうとした。

「あの」

 背中の方から声がした。矢島が振り向くと、川島がソファから身を乗り出していた。

「わたしにももらえませんか?」

 

 矢島は満面に笑みを浮かべると、飲みましょう、と大きな声で言った。わたしも、という声が聞こえた。なつみだった。飲もう飲もう、矢島は嬉しそうに繰り返して、残りの五缶を全部抱えると、川島の前の来客用テーブルの上に置いた。飲もう、飲みましょう、そう言いながら矢島は川島の向かい側にどんと腰を下ろした。もう一缶を掴むと、プルトップを開けてごくごくと飲み始めた。川島も一本をおずおずと手にすると、思い切ったようにぐいっと飲んだ。そして、先ほどの矢島と同じようにふうっと大きく息を吐いて、うまい、と言った。矢島もそれに答えるように、うまいです、と声にする。なつみはいつのまにか矢島の隣に座ると、一缶をぐいと傾けた。やっぱりなつみも、うまーい、と口に出すと、ロクに飲めない筈のビールをぐいぐい飲んだ。実際、ビールがこれほどうまいとは思わなかった。

 矢島は楽しかった。この場の状況のことは頭からすっぽり抜けていた。知らぬ間に、三人が三人とも、うっすらと笑みを浮かべて、いつのまにかなごやかとも言える雰囲気になってしまった。

 ビールはあっという間に空になった。矢島はほんのり赤く染まった顔を、耳まで真っ赤になったなつみに向けると、なあ、他になんかなかったか、酒、と言った。いつのまにか口調もぞんざいになっていた。えへへ、と意味不明に笑いながら、あ、そういえばお歳暮でもらったブランデーがまだあったかもしれないですー、となつみは答えて、事務所の奥に向かってごそごそと探し始めた。

「ありましたー」

 なつみは高木の机の下から、封を切っていないレミー・マルタンを見つけると、高々と持ち上げた。

 おお、飲もう飲もう、と矢島は手を叩いた。なつみはブランデーとグラスを三つ抱えて戻ってきた。矢島は封を切ると、グラスにブランデーを注いで、かんぱーい、と声を上げた。なつみも一緒にかんぱーいと笑いながら言って、グラスを合わせた。川島だけは、無言で照れ臭そうにちょっとだけグラスを合わせた。

 矢島はグラスを一息に飲み干すと、う、うまい、と言った。なつみはいつのまにか矢島にもたれかかって、そんな飲み方するとつぶれちゃいますよお、と甘えた声を出した。矢島は馬鹿野郎、オレがこれぐらいで酔っ払うか、と言って、グラスでなつみの頭を小突いた。

 川島はその光景をグラスを片手に唖然として見ていた。

 なんだこいつらは? まるで居酒屋じゃないか、これでは。オレもオレだが、こいつらもこいつらだ。まるで緊張感というものがない。この矢島って奴は、ビールひと口飲んだ途端にまるで人が変わったようだ。女の子も女の子で、さっきまで泣いてたと思ったのに、今は矢島にしなだれかかって色目を使ってる。まったく、近頃の若い女ときたら。

 ん? オレはなにをやっているんだっけ?

 そう思いながら川島はグラスのブランデーをちびちびと飲んだ。

 

6.

 

 矢島となつみはちょうど三杯目のブランデーに口をつけていた。川島はなんだかんだ言いながら二杯目のブランデーをちびちびと飲んでいた。

 なつみはとろんとした目で矢島に訊いた。

「矢島さんって結婚しないんですかあ?」

「たぶんできないよ」

 そう答えて矢島は苦笑した。

「彼女はいるんですかあ?」

「いないよ」

「えー、うっそー、じゃあわたし立候補しちゃおうかな」

 そう言うとなつみは矢島の腕に自分の腕を絡みつけてきた。

 矢島は、なんかこういうのは苦手だな、なつみちゃん酔っ払い過ぎだ、これじゃあまるでキャバクラじゃないかと思いながらグラスを傾けた。ん? オレも酔っ払ったのかな。この程度で。なんせ久しぶりだからな。

「結構お似合いかもしれないな」

 突然川島がぼそりと言った。なつみがそうですかあと嬉しそうに言って、矢島を見上げて、ねえねえお似合いだって、ふふふと笑った。

「あ」なつみが突然顔を上げて目を丸くした。「わたしだ」

 音声を下げたままつけっぱなしになっていたテレビに、テロップが映し出されていた。

――矢島洋一さん(39) 小島なつみさん(24)――

 テロップの背景ではアナウンサーが小難しい顔をして何事か話していた。なつみはテーブルの上にあったリモコンを手にすると、ミュートを解除して音声を上げた。

――人質になっているのは以上のふたりと見られます。この人質ふたりを取って立て篭もっているのは、ビル前に止められていた車から川島武夫容疑者と見られています。川島容疑者は散弾銃と思われる銃を所持しており、警官ふたりに発砲して、うちひとりの警官は重傷を負っていまだに事務所内に放置されている模様で、安否が気遣われます。川島容疑者は八年前に猟銃所持の許可を受けており…――

 テロップが変わり、「容疑者 川島武夫(50)」という表示に変わった。

 あ、オレだ、と川島は思った。テレビで自分の名前を見るのは実に妙な気分だった。容疑者? あ、そうか、警官撃っちまったからな。人質を取って立て篭もる? オレは立て篭もっているのか? とすると、この目の前でいちゃいちゃしているふたりが人質だってわけか。なんてこった。もう少し正確に報道して欲しいよ。ちっとも人質らしくないじゃないか。

 突然、電話が鳴った。

 オレが出る、と言って矢島は立ち上がると、机に向かった。少し足元がふらついた。受話器を取ると、年配の女の声が聞こえてきた。ちょっとなまっている。またいたずらか、と矢島は思ったが、女の声が緊張で震え気味なのが分かった。

「もしもし」

「はい」

 矢島はそれ以上なんと言ったらいいのか分からなかった。

「あの、そちら様は…」

「矢島と申しますが」

「あの、わたくし小島と申しますが、なつみは」

「あ、ああ、なつみちゃんのおかあさんですか? いま替わります」

 矢島は受話器を放すと、なつみちゃん、おかあさんから、と声をかけた。

 はーい、と答えながら、ふらふらとなつみは矢島の机にやってくると、受話器を持った。矢島はまだ少し足元をふらつかせながらソファに戻ると、ふうとひとつ溜息を吐いた。それからグラスに残ったブランデーの残りを飲み干した。ふと見ると、川島がこちらをぼうっと見ているのに気づき、あ、まずかったですか、電話、と訊いた。川島は、いえいえ、と答えて、ブランデーをひと口すすると、やっぱり心配なんでしょうなあ、親御さんは、と言った。

 大丈夫よ、となつみが受話器に向かって話す声が聞こえる。矢島が見ると、なつみはうなづきながら電話に耳を傾けている。そのうち、なつみはまた目に涙を一杯溜め始めた。それを見て矢島は、やれやれ、また泣くのか、とうんざりした。やっぱり電話抜いておいた方がいいかな、とぼんやり考えた。そう言えば山田って警視庁の刑事からは電話がかかってこないな、と思った。刑事? 矢島は頭を回すと、すっかり忘れていた、床に倒れっぱなしの血だらけの警官を見た。すっと恐怖が甦った。相変わらずちびちびとブランデーを飲んでいる川島をちらりと見て、その右手に握られた散弾銃を見た。束の間、先ほどまでの緊張感が甦った。しかし、まったくの素に戻るには、いささか矢島は飲み過ぎていた。くそ、オレも弱くなったな。久しぶりだとやっぱり酔いが回るのが早いな。ふと矢島は思った。そうか。川島が酔いつぶれるのを待とう。なんだかんだ言ってもオレはまだ大丈夫だ。さっきから結構川島は飲んでいる。そのうち酔いつぶれて寝てしまうだろう。そうすればなつみを連れてここを出ればいい。それで一件落着だ。そう考えるとちょっとほっとした。矢島はもう一杯、グラスにブランデーを満たした。

 なつみは受話器を置くと、足元をふらつかせながら、矢島の隣に戻ってきた。すっかり泣き顔になっている。なつみはグラスにブランデーを満たすと、一息に飲んで、わたし、やっぱり福岡に帰ろうかな、とぽつりとつぶやいた。なんか東京いてもいいことあんまりないし、と言いながら、涙をぼろぼろとこぼし始めた。

 

 川島はなつみがぼろぼろ泣き始めたのを見て、ああ、泣いちゃったよ、また、もう一体どうなってるんだ、と思った。面倒くさいなあ。なんなんだ、この子は。笑ったり泣いたり。しかし、遅いなあ。ん? 何を待ってるんだっけ? あ、高木だ。高木。遅いなあ。ホントに来るのかなあ。

 それにしても、と川島は思った。オレという人間はどうしてこう酔っ払うことができないのだろう。遺伝なんだろうな。とうに亡くなった新潟の両親もやたらと酒に強かった。親父もおふくろも、酔っ払ったところを見たことがなかった。会社に入ってから、帰りがけに皆で飲みに行っても、川島はいつもひとり取り残された。こいつらはどうしてこうすぐ酔っ払ってくだを巻くのだろう。おまけにそれがやけに楽しそうなのだ。オレはいつも酔いつぶれた同僚を介抱する側だった。くそ。あんなに世話をしてやったというのに、あいつらときたら、いざオレの送別会となったら、やれカラオケだのと散々はしゃいでいやがった。まったく、オレにとってあの会社というのは一体なんだったんだろう。

 そういえば、さっき矢島が警察と話をしていたようだった。今ごろはこの周りは警官で一杯なんだろうな。無理もないな。警官を撃っちまったんだから。くそ。オレももうこれでおしまいだ。ん? いや、オレはとうに終わっちまった人間だった。川島はひとり苦笑した。オレは終わっちまったんだ。いまさら何が起ころうが同じだ。典子。せめて典子に会いたかったなあ。そうだ。オレは高木なんかじゃなくて典子に会うべきだったのだ。それも今となってはしょうがない。ま、なるようになるさ。

 川島がふと物思いから我に返ると、向かい側のソファでは、矢島となつみが寝息を立てていた。

 

7.

 

 ポケットの中で携帯が鳴っている。

 矢島はその音と振動で目を覚ました。どうやら寝てしまったらしい。傍らを見ると、なつみが上半身を横にして眠りこけている。はっと気付いて正面を見ると、そこに川島の姿はなかった。重い首を回すと、川島は散弾銃を手に窓際に立って、ブラインドの隙間から外を眺めていた。頭ががんがんする。矢島は一度ぐるりと首を回すと、ワイシャツのポケットに入れていた携帯を手にした。

「もしもし、矢島さんですか?」

 例の小林旭のような声が聞こえてきた。

「あ、はい」

「警視庁の山田です」

「あ、どうも」

 矢島は答えながら頭痛をやわらげるために左手の親指と中指でこめかみを揉んだ。

「で、どうですか、そちらは」

 まさか酔っ払って寝ていたとは答えられない。

「えー、どうというか、まあ、変わりないです」

「実は隣の事務所にいるんです、今」

「えっ」

「隣で待機してます。基本的には強攻策は最後に取っておく方針ですが、どうですか、犯人は説得に応じそうですか、矢島さんから見て」

「なんとも言えません。もうちょっと話してみないと」

「もうひとりの女性の様子はどうですか?」

 まさか寝ているとは言えない。

「落ち着いています」

「犯人の様子は? 興奮しているようですか?」

「いえ、落ち着いています。少なくともそう見えます」

「どうですか、矢島さんが説得できませんか? そこを出るように」

 人質の矢島にこんなことを頼むようでは、警察も対処に悩んでいる様子がありありと分かる。川島のことを掴みかねているのだろう。それにしても、先の電話といい、警察はと言うか、この山田という男は質問ばかりだ、と矢島は少々うんざりした。

「こういう場合、普通はそちらが説得するんじゃないですか?」

「いやあ、なにしろ動機が判然としない上に、いきなり警察官が撃たれているものですから、こっちでもいきり立っているのがいるんです。今はわたしがそれを押さえているという状態で。まずはなるべく犯人を興奮させないで、動機を探り出したいというのが本音です。ただ出てきなさいでは説得にならないでしょう」

「それもそうですが、僕に説得しろと言われても…」

「世間話程度でいいのです。それで犯人の態度も変わることも多いですから」

「やるだけはやってみますが」

「お願いします。二十分後、そうだな、三十分後にもう一度連絡します。そのときまでに状態が変わらないようだったら、そのときはわたしが説得を始めます」

「分かりました」

「無理はしなくていいですから。くれぐれも慎重にお願いします」

 矢島は電話を切ると、警察も案外無責任で頼りにならんなあ、と思った。しかし、強行突入となると修羅場になる可能性がある。それよりはマシか。それに、矢島自身も川島がなんでこんな行動に出たのか知りたかった。

 気がつくと川島が銃を手に横に立っていた。矢島は酷くびっくりした。

 川島は矢島の向かい側に腰を下ろしながら、警察からですか、と訊いた。ここは嘘をついても始まらないと思い、矢島はええ、と答えた。

「僕にあなたを説得しろと言うんです」

 川島は驚いたように目を見開いた。

「説得、ですか。なにを説得するんですか?」

「まあ、要するにここを出てくれないかと」

「それはできませんね。ただ捕まるようなものじゃないですか。それに高木さんにもまだ会えていない」

「もう警察はここを取り囲んでいるんですよ。まず逃げられませんよ」

「分かってます。それはいいんです」

「いいんですって…いいんですか?」

「いいんです」

 矢島は煙草を取り出すと、火を点けた。

「川島さん」

「は?」

「なんでここまでして高木に会いたいのか訊いてもいいですか?」

 川島は眉をひそめると、一瞬口篭もった。

「謝って欲しいんです」

「え?」

「だから、謝って欲しいんです。高木さんに」

「謝るって何をですか?」

「わたしにマンションを買わせたことをです」

 矢島は困惑と頭痛に顔をしかめながら、煙を吐き出した。

「あの、それがどうして謝らなければいけないんですか? ここは不動産屋だから当然のことをしただけでしょう?」

 川島はグラスにブランデーを注ぐと、ひと口すすって答えた。その目は相変わらず悲しげだった。

「誰かに謝って欲しかったんです。女房のところにも行ったんですが、留守だった」

「すみません、よく分からないんですが」

「高木さんに勧められてあのマンションを買ったところからおかしくなったんです」

 そう言うと川島はもうひと口ブランデーをすすって、言葉を繋いだ。

「わたしはもうじき死ぬんです」

 

「死ぬって…どうしてそうなるんですか」

 矢島は努めて穏やかに話そうと試みた。実際、頭が痛いので大きな声は出せなかった。

「癌なんです」

「癌――そうですか。お気の毒です。しかし、それとマンションとどう関わりが」

「あの頃はなにもかもうまく行っているように思えたんです。会社も順調で、娘も中学に合格して。まるで幸せを絵に描いたようだった。それでマンションを買うことにしたんです」川島は下を向いて淡々と話し始めた。「バブルはもう終わってたけれど、まだまだ高い買い物だった。だけど、高木さんがせっかく抽選通ったんだから、買わなきゃ損だと。それで無理して買ったんです。会社は、あ、証券会社だったんですが、至極順調で傾くことなんて考えもつかなかったし、わたしもこの会社に骨を埋めるんだろうなって思ってました。だから少々無理してもいいだろうって。それが五年前に急に業績が悪化して、リストラが始まったんです。まさか自分にお鉢が回ってくるとは思わなかった。突然肩叩きですよ。そのあたりから、なにもかもうまく行かなくなってきました。この不景気に、四十五も過ぎた男がいきなり放り出されたらたまりませんよ。まず、ロクな仕事が見つかりません。まず、まともなところで雇ってくれるところはない。よしんばあっても、マンションのローンに、娘の学費やらなにやら、とてもじゃないけど追いつかない。もうタクシーの運転手でもやるしかないか、というところなのですが、わたしにもまだまだプライドってもんがあった。上場している証券会社で、少なくとも自分ではバリバリやっていたつもりだったから。そのうち女房とも喧嘩が絶えなくなって。まあ、わたしもなかなか仕事が決まらなくていらいらしてるし、女房は女房で、仕事もせずにごろごろしてる、とでも思っていたのでしょう。とにかく、毎日喧嘩ばかりでした。」

 

 川島はそこでひと息吐くと、煙草を一本もらえませんか、と矢島に向かって尋ねた。矢島は一本差し出すと、川島がくわえた煙草にビックの百円ライターで火を点けた。川島はふうと煙をひとつ吐き出すと、子供ができてからずっとやめてたんです、と言った。矢島は、実は僕もずっとやめてたんです、アルコール、と言って苦笑した。

 矢島は川島の話を聞きながら、よく喋るな、このおっさん、と思っていた。その饒舌さに少々驚いた。きっと誰かに愚痴を聞いて欲しかったのだろう。そして、もしかしたらその誰かが高木だったのではないか、とふと思った。

 川島はしばらく黙って煙草をうまそうにふかすと、テーブルの灰皿でそれを揉み消した。そしておもむろに話を続けた。

 

「結局、離婚しました。もうわたしもどうでもよくなって。なにもかも嫌になって。何もいらん、と思いました。娘は女房が引き取りました。もっとも、もう今ではもう成人してますからあれですけど。マンションも女房に譲りました。ローンの残りもわたしが払うということで。退職金はローンの支払いと娘の大学の入学金やらなにやらで消えました。それでもマンションのローンはまだ二十年以上残っている。わたしに残ったのは車とこいつだけです」と右手の散弾銃を少し持ち上げた。「六畳一間のアパートに引っ越しました。家具も何もない部屋に。それで、結局はタクシーの運転手を始めました。なんだかんだ払うことを考えると、タクシーの運転手か宅急便ぐらいしかなくて。宅急便は体力的にきついので、タクシーにしたわけです。それがもうそれでもしんどくて。最初は道もよく分からないし、客もロクに拾えない。体力的にもきつくて、夜はすぐ脇道に止めて仮眠ばっかりですわ。だいたい、それでなくても近頃の不景気で、タクシー業界の客足は酷く落ち込んでいるので。もともと慢性の胃炎を抱えていたのが、きりきり痛むようになって、いよいよ潰瘍になったかと思いました。それがなかなかよくならない。毎日胃薬を飲んでいるのに。そのうち、どんどん体重が落ちてきたので、ようやく医者に行きました。そしたらあんた、癌だって。それももう手遅れだって」

 川島は話しているうちに次第に興奮してきて喉が乾いたのか、グラスの残りのブランデーをそこで飲み干した。矢島は川島の酒の強さに呆れた。このおっさんを酔いつぶれさせようなんて考えてもしょうがないな、そもそも、といまさらながら思った。川島は飲み干したグラスをテーブルに叩きつけるようにどんと置くと、幾分早口になって続けた。

「一体、わたしが何をしたって言うんです? わたしはただ普通に暮らしたかっただけだ。定年まで勤め上げて、娘を嫁にやって、後は趣味の射撃でもやりながら余生を楽しむってぐらいで。わたしが何をしたって言うんだ? ああ、あんときマンションなんか買わなきゃ、あのまま社宅に住んでいればこんな酷いことにはならなかったんだ。あの高木って人があんなに熱心に勧めなければ。あの人はいい人だったよ。親身になって相談に乗ってくれた。そう思ってた。だからオレもその気になったんだ。でも、今考えると、やっぱりあれも商売だったんだ。今買うのと倍ぐらい違うじゃないか。ああ、あんとき買わなきゃ。オレだって。癌だって。だから、だからひと言ぐらい謝ってもらったっていいじゃないか。え? 悪いか? オレはどうせもう死ぬんだ。タクシーだってもう辞めた。もう臭い息吐く酔っ払いを乗せることもないんだ。ざまあみろ。どうせ死ぬんだ。どうせ」

 川島は息を切らしながらひと息でそこまでまくしたてると、ぼろぼろと涙をこぼし始めた。

 矢島は困っていた。自暴自棄になっている人間にどう答えていいものやら。このおっさんにはもう何もないのだな、と思った。これからももう何もないのだ。そんな人間に何を言ってどう説得しろと言うのだ。正直途方に暮れていた。考えてみれば自分とて似たようなものだ。自分はもう普通の人間ではないのだ、と思っていた。普通の人間としての自分は既に死んだのだ。今の自分はゾンビのようなものだ、と。

「バッカみたい」

 突然、なつみの声が聞こえた。矢島は驚いて横を向くと、寝ていたと思ったなつみが、いつのまにか目を開けて話を聞いていたことにようやく気づいた。当然のようにまだアルコールが残っているらしく、不快そうに眉をしかめている。泣いていた川島も、なつみのひと言に唖然として口を開けている。なつみはむくっとからだを起こすと、憤然とした調子で言った。

「うっ、気持ち悪い。あたし、トイレ行ってくる」

 そう言うと、なつみは足元をふらつかせながら、虚を突かれた二人を尻目に、血塗れの警官の脇を通り過ぎてドアまで辿り着くと、鍵を開けて廊下へと出て行った。

 矢島と川島はそれを呆然と見送るだけだった。

 

8.

 

 なつみが廊下にふらふらと出て、突きあたりのトイレに行こうとした途端に、どこに潜んでいたのか、周りからどっと人が現れて、隣の消費者金融の事務所に引きずり込まれた。なつみは驚いて思わずひゃあと声をあげた。

 見ると、周りはジュラルミンの盾を持った機動隊員やら、制服の警官やら、私服の刑事やらで一杯だった。

 な、なにこれ。

 酔いが醒めないなつみはすぐに状況を把握できなかった。それよりもおしっこがしたいし、おまけにもどしそうだ。

「ね、トイレ。トイレだってば。わたしトイレ行くのよ。離してよ」

 なつみを両脇から抱きかかえるようにしていた機動隊員はどうしたらいいか分からずにゴーグルの下で指示を仰ぐように目を泳がせた。

「あ」

 即席の対策本部となった事務所で陣頭指揮を取っていた山田は、例によって小林旭のような声を上げた。そして頭をぽりぽりと掻くと、ト、トイレですか、と間の抜けた声を出しながら、なつみを保護している隊員に、キミ、ついてってあげて、と言った。

「失礼ね、トイレぐらいひとりで行けるわよ」

 なつみは憤然として押さえられていた手を振りほどくと、すたすたと部屋を出て行った。山田は四角い体格に乗っかった四角い顔の目を丸くして、その、終わったらここに戻ってくださいよ、お願いですから、となつみの背中に声をかけて、額の汗を拭った。

 

 矢島と川島はしばらく放心したようにお互いに黙っていた。

 つけっぱなしだったテレビからどっと笑い声が上がり、いつのまにかお笑い番組になっていることに気付くと、矢島はテーブルの上のリモコンを取り上げてテレビの電源を切った。

「とうとうわたしらだけになっちゃいましたねえ」

 先に口を開いたのは川島の方だった。そうですね、と答えながら、人質がひとり減ったことにも川島が特に興奮していない様子を見て、矢島は内心安堵の息を吐いた。それと同時に、なんか寂しくなったなという気持ちも湧いて、妙に全身から力が抜けて行くようだった。

 矢島はポケットから煙草を取り出して火を点けると、ぼそりと言った。

「僕も同じようなものなんです」

「えっ?」

 川島は放心状態から我に返ったように声を上げた。

「僕も死んでるようなものなんです」

「それって…」

「僕も人殺しなんですよ」

 そう言うと、矢島は大きく煙を吐き出した。矢島は酷く寂しかった。やけに孤独を感じた。誰かに話を聞いて欲しかった。ああ、オレはまだ酔っ払っているのだな、と頭の片隅で思いながら、矢島は話し始めていた。

「もう十五年も経ちますか。その頃は大学を出て、僕も一部上場のメーカーに勤めていたんです。週末の退社後に皆と新宿に飲みに行ったんです。ハシゴして歌舞伎町に流れて。その頃にはもうべろんべろんに酔っ払ってました。そこでちんぴらと喧嘩になったんですよ。肩が触れただの触れないだのってつまらないことで。向こうも酔っ払ってました。相手は二人でした。僕ね、ボクシングやってたんですよ。大学まで。インターハイでも準決勝まで行って。大学のときもオリンピックの候補とかまでなって。気がつくとボコボコに殴ってました。もう相手は一発目でとっくに終わってたのに。ひとりは片目が潰れて、顎とか骨折して。もうひとりは内臓破裂で死にました。止めに入った同僚の前歯も全部叩き折って。警官に三人がかりで取り押さえられて。その日は留置場で一晩寝て、翌日事情聴取受けてる間にひとりが死んだって聞かされて。目の前が真っ暗になりました。ああ、オレは人殺しになっちまったって。オレの人生は終わっちまったって。一応、扱いは傷害致死なんですが、殺したことには変わりないです。まだ若い奴だった。僕と同じぐらいだった。僕も若かった。本当に若かった。あのときから僕も死んじまったんです。僕はもう人を殺してしまった。もう普通の人間には戻れないんです。もう二度と酒を飲むまいと思った。怖くて飲めなかった。また人を殺したらどうしようと思うと。だからもう僕の人生は終わってしまったも同然なんです。今の僕はもう抜け殻みたいなものです」

 気がつくと、矢島は自分も知らぬ間に泣いてしまっていることに気付いた。酷く恥ずかしかった。人前で泣くなんていつ以来だろう。高木にこの話をしたときにも泣きはしなかった。ああ、やっぱりオレは酔っ払っているのだ、と思った。照れ隠しに苦笑を浮かべて言った。

「だからさっきの酒はホントにうまかったですよ」

 川島はもとの物悲しげな表情に戻って話を聞いていたが、ふと表情をやわらげると矢島に訊いた。

「なあ、矢島さん、あんたいくつだ?」

「もうすぐ四十になります」

「あんたはまだ若いよ。あんたはまだ生きてるし、これからも生きるよ。これまでだって死んでたわけじゃない。あんたはもう十分苦しんだんだ。これからはいくらでも酒を飲めばいい」矢島にはそう語る川島の顔がやけにやさしく見えた。「あんたはオレとは違うんだ。オレはもう時間切れだ。あんたは違う。オレはもう誰かを幸せになんかできないが、あんたにはできる。あんたはやろうと思えばなんだってできるんだ。あんたはオレとは違うよ」

 川島はもう一本煙草くれないかな、と言った。矢島に火を点けてもらうと、大きく吸い込んでゆっくりと煙を吐いた。そして、うまいね、と言った。本当にうまそうだった。

「なあ矢島さん」川島は、突然憑き物が落ちたような顔で言った。それはこの事務所に来たときとは打って変わって自信に満ち溢れた表情に見えた。「逆のことが言えないか?」

「えっ?」

「逆から考えてみるんだよ。あんたは自分のせいだと思ってる。自分があのとき酒を飲まなければって思ってる。しかし、死んじまったちんぴらの方はどうだ? 相手も酔っ払ってたんだろう? 向こうにしてみれば、あの日歌舞伎町で飲んでなければ、ってことにならないか?」

 いまや川島の目は何か素晴らしい発見でもしたように、きらきらと輝いていた。矢島はそれに魅入られたように、はあ、と答えた。

「だろ? だから全部あんたのせいだ、なんて考えるのはむしろ傲慢だ。自分勝手だ。向こうがたまたまその日に死ぬ運命だったとしたら、あんたは単に損な役割を押し付けられただけさ」

「それは誰にですか?」

「そうだな、神様かな。もしいればの話だけど。とにかく、あんたの話はどっかおかしいんだ。つまり、そのなんだ、あんたはその日に人を殺すためにそれまで生きてきたわけじゃないだろ? なんかあんたの話を聞いてると、まるでそういう風に聞こえる」

「そりゃそうですけど」

「だろ? 考えてみれば、オレもそうだ。オレはリストラに遭うまではまったく幸せな人生だった。あのマンションを買って引っ越した日なんてのは、幸せの絶頂だったよ。オレはたまたま終わりがこういう風になってしまっただけなんだ」

「なんか運命論みたいに聞こえますけど」

「いや、オレが言いたいのは、振り返ってみれば、オレの人生は案外幸せだったってことだよ」

 そう言うと、川島はにこっと笑った。

 矢島は戸惑っていた。オレは間違っていたのだろうか? オレは傲慢だったのだろうか? 気がつくととうにフィルターまで燃えて火の消えた煙草を灰皿に捨てると、しばらくその燃えさしを見ていた。それから、おもむろに携帯を取り出すと、それを川島の方に差し出した。

「高木と話しますか? たぶんここには来れないでしょう。来ても下で警察に足止めを食らうでしょうから」

 川島はうっすらと自嘲とも満足とも取れる笑みを浮かべると答えた。

「いや。もういい」

「どうしてですか?」

「もう話すことはないよ。もうあんたに話しちまった。すっかり。だからもういいよ」

 矢島はまだ戸惑いを見せながら携帯を引っ込めた。川島はもう一度煙草を深く吸い込んで大きく煙を吐き出すと、灰皿に押し付けて消した。そして、目を上げると、矢島を真っ直ぐに見て言った。

「もういいよ。もう終わったんだ」

「えっ?」

 矢島は川島の言っている意味がすぐには飲み込めなかった。

「もう帰りなさい。あんたと話せてよかった」

「しかし」

「もう終わったんだ」

 川島はもう一度繰り返した。矢島はしばらく言葉をなくして川島を見つめていたが、ちらっと視線を落として小さく溜息をひとつ吐くと、じゃ、と力なく言って立ち上がった。それ以上なんと言葉をかけていいのか分からなかった。ゆっくりと川島に背を向けると、ドアの方に歩き始めた。撃たれるという気はもうしなかった。

「矢島さん」

 背中から声をかけられて、矢島は足を止めて振り向いた。

「元気でな」

 そう言うと、川島はにこっと笑った。矢島は笑い返そうと思ったが、うまく笑うことができなかった。もう一度背を向けると、今度は振り返ることなしにドアを開けて廊下に出た。

 矢島が廊下に出ると、外に待機していた警官や機動隊員が一斉に色めき立ってこちらに走り寄ってくるのがまるでスローモーションのように見えた。背後で散弾銃の音が轟いた。

 

<了>