エンゼルフィッシュ               

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 エンゼルフィッシュというものは、すべて縞模様である、とアザミは思っていた。

 だから、その水槽の中を泳ぐ綺麗なオレンジ色をした姿に、ちょっとした驚きを覚えた。名前は? と尋ねると、名前なんかないよ、オレ、魚と話すような趣味ないから、という無愛想な答えが返ってきた。ふーん、と水槽を指で突つきながら、アザミは感心したような声を洩らしたが、その実は内心、カワイくない男だと思った。しかし、水槽の魚に向かってぶつぶつと話す男を想像し、その方がかえってブキミか、とすぐに思い直した。

 男に似て部屋も無愛想だ。物が少ないわりにどことなく乱雑な印象を受けるのは、それぞれが一見無目的に置かれているせいだ。こういうのを生活感があると言うべきなのか、そうでないのか、アザミには判断がつきかねた。そこは十畳ほどのワンルームで、部屋の真ん中に円形のテーブルがあり、水槽はその上に置かれている。まるでそれがこの部屋の中心であるかのように。だからアザミは名前を訊いたのだ。それが部屋の主のように思えて。

 アザミは二脚ある椅子の片方に腰を下ろした。

 男は部屋の片隅にあるキッチンで湯を沸かし、ドリップでコーヒーを淹れた。その香りが部屋を満たす。男はできあがったコーヒーをスターバックスのマグカップに注ぐと、はい、とアザミに差し出した。ありがと、と微笑むとひと口すすり、おいしい、とアザミは呟いた。

「ねえ、仕事なにやってんの?」

 アザミはようやく興味を失ったかのように水槽から目を離すと、男に問いかけた。

「なんに見える?」

 男は同じようにマグカップのコーヒーをすすりながら、キッチンの流しにもたれて言った。

 うーん、とアザミは唸りながら、もう一度部屋を見渡した。必要最小限のものが適当に置かれた、という感じの部屋。窓際に机はあるものの、デスクライトの他には本が二三冊、ぞんざいに置かれてあるだけで、パソコンの類はない。なんの飾り気もないパイプベッド。壁際に打ち捨てられたように置かれてあるCDラジカセ。その周りに散らばる数枚のCD。あとはこの水槽の置かれたテーブルと、椅子が二脚。アザミはこの部屋にはテレビがないことに気づいた。たぶんそれが生活感を中途半端なものにしているのだろう。目の前の水槽だけが異彩を放っているように思えて、アザミはまたのんびりと泳ぐオレンジ色の魚に目を戻した。

 なんか、仮の住まいみたいだ、と思った。

「わかんない」

 結局、アザミはさじを投げた。

「そりゃあ無理もないな。自分でもよくわからないぐらいだから」

 男はそう言ってにやりと投げやりな笑みを口元に浮かべると、マグカップを持ってない方の手で煙草を取り出してくわえた。

 なにそれ、とアザミは眉をひそめ、それから紺のハイソックスを穿いた両足をぶらぶらさせながらもう一度男を観察した。

 無造作に肩の辺りまで伸ばした毛先の不揃いな髪、濃いめの眉、不精髭を生やした、鼻筋の通った精悍な顔。黒のサマーセーターにジーンズ。学生と言うにはもっと歳がいっているように見える。二十代後半か、もしかしたら若く見えるだけで三十代かもしれない。第一印象で頭に浮かんだカタカナ系の職業も、この部屋を見る限り怪しい。要するにいろんな意味で不詳な存在ではあるのだが、アザミが何故部屋までついてきたかと言うと、そのルックスが好みだったからというそれだけのことで、その不詳さにも惹かれたのかどうかは自分でもわからなかった。アザミは男のクールさにちょっと惹かれた、というところはあったのだが、今となってはそれが逆にちょっとした違和感になろうとしていた。果たしてこの男は、わたしという「女」に興味を抱いているのだろうか? という疑念が湧いてくる。

 部屋の中はやけに静かだった。ポコポコという水槽に空気を送り込むポンプの音が微かに聞こえるくらいだ。アザミは腰の落ち着かなさを覚えながら、もう一度尋ねた。

「ねえ、だったらなにやってるの、いつも?」

 男は煙を吐き出すと、ふん、と鼻で笑いながら言った。

「いつも、ね」

「もしかして、プー?」

 アザミは眉をひそめた。男のイメージが自分の中で次第に色褪せていく。

「失業中って言って欲しいな」

 男の答えに、アザミの失望はよりいっそう顕著なものとなった。あーあ、なんでこんな男を引っ掛けちゃったんだろ。アザミは回想する。声をかけたのはアザミの方からだった。本屋でナンパするのは考えものだ、といまさらながらアザミは思った。考えてみれば、本屋というのは一文無しでも立ち読みができる場所なのだ。新刊のコーナーで立ち読みしている男に、ねえ、カラオケでも行かない? とアザミは制服から伸びた自慢のすらりとした脚を下品にならない程度に誇示し、清楚と媚びの割合をフィフティフィフティにして微笑みかけた。男はきょとんとして言葉を失っていたが、にこりともしないその顔を、クールでカッコいい、などと思ってしまったのだった。男はおもむろに口を開いて、オレ、カラオケは苦手だから、と精悍とも無愛想ともとれる表情で言った。アザミがその答えに口を尖らせると、男は溜息をひとつついて、また手元の本に視線を戻した。アザミは膨れっ面をしてその様子を眺めていたが、このままではコケンに関わると思い、再度のアタックを試みた。なにしろ、これまでこのパターンで袖にされたことなど一度もないのだ。大概の男はやに下がってほいほいとついてくる。アザミは強引に男の顔を覗き込むと、小首を傾げて笑みを浮かべ、ねえどっか行こうよ、カラオケやだったらお茶しようよ、と制服をくねらせた。男は一旦頁を閉じると、また溜息をひとつつき、なに? と煩わしそうな顔で言った。だからお茶、とアザミは頬を膨らませた。男は呆れたようにちょっと肩を落とすと、手に取っていた本を棚に戻しながら、あんた何者? と無愛想な顔で訊いた。アザミは、へへ、と笑うと、見ての通り、ぴちぴちの女子高生じゃん、と答えた。男は一瞬きょとんとした顔をすると、学校は? と尋ねた。創立記念日、とアザミは答えた。男はジーンズのポケットに両手を突っ込むと、どうせ毎日そうなんだろ、とぶっきらぼうに言った。違うもん、とアザミが語尾を伸ばしながら不満げに言うと、男はにこりともせずにしばらくアザミを見つめ、コーヒーでいいか、と呟いてすたすたと店の外に向かった。うん、とアザミは満面の笑みでうなずき、これじゃあまるで飼い馴らされた犬みたいだ、と頭の片隅で思いながらも、一種自虐的な快感を覚えながらほいほいとそのあとをついていった。

 男はポケットに両手を突っ込んだまま、ちょっとうつむき加減で真っ直ぐに前を向いて黙々と歩いた。男の長いストライドに急ぎ足でついていきながら、広い肩越しにときおり覗く男の横顔を、クールかもしんない、とアザミは思った。信号待ちをしているあいだに煙草をくわえてジッポで火を点ける男の仕草を見て、アザミはちょっと濡れた。

 ドンキホーテの角を曲がり、東急本店の前をすいすいと男は歩いていく。スタバや洒落たカフェがいくつもあるのに男はそれには一瞥もくれずに、左手に円山町のホテル街が広がる中を大股で歩いていく。アザミはそのあとをついていきながら、まさかいきなり、と目の前にホテル街の入り口が迫るのを見てちょっと動揺し、もうちょっと濡れた。ところが男はそのままホテル街の入り口も通り過ぎると、ずんずんと神泉方面に歩き続け、そのうち住宅の立ち並ぶ入り組んだ脇道へと入っていった。その間、男はひとことも言葉を発せず、気がつくとアザミはこの部屋にいたのだった。

 アザミはできるだけ失望を顔に出さないようにしながら、質問の矛先を変えてみた。

「ねえ、なんでここ、テレビがないの?」

「貧乏だから」

 にべもない答えが返ってきて、アザミは自分が発したのが愚問だったことに気づいた。やれやれ、という思いでアザミは小さく溜息を洩らすと、どうやら貧乏くじを引いたらしい、そろそろフケるか、と頭の片隅で呟きながら、同時に自分がいまだにこの男に惹かれていることに驚いた。男が自分の目を真っ直ぐに見つめて、はにかんだようないささか自嘲気味とも取れる笑みを口元に浮かべながら、貧乏だから、とそっけなく答えたとき、アザミはまたちょっと濡れてしまった。わたしはマゾで淫乱なのだろうか、とアザミは考えた。確かに周りに比べると人数は少ないもののそれなりに男は経験しているし、セックスも好きだ。一方では自分は安い女じゃないというプライドもある。要するに、この男は自分がこれまで知っている男とはどこか違うのだ。結局、この男はセクシーなのだ。わたしにとって。どうしようもなく。

 アザミは冷めかけたコーヒーをすすりながら、改めてここは静かだな、と思った。渋谷の繁華街から目と鼻の先にあるというのに。結構するんだろうな、ここ。一度もひとり暮しをしたことのないアザミにもそれぐらいは想像がついた。つまり、男が自分で言っているほどには貧乏じゃないってことだ。この男はどうやって生活しているのだろう? また先程の好奇心が顔をもたげてきた。

「ねえ、じゃあどうやって生活してるの?」

 アザミはストレートに質問をぶつけてみた。男はマグカップを手にゆっくりとテーブルに近づくと、アザミの向かい側の椅子に腰を下ろした。煙草を深く吸い込んで煙を吐き出すと、テーブルの上にあった陶器の灰皿に灰を落とした。

「デリヘルってあるだろ?」

 アザミはうなずいた。男はまた煙草を吸い込むと、穏やかな笑みを浮かべながら言葉を繋いだ。

「運転手やってんだ、夜」

 ふーん、と相槌を打ちながら、アザミはちょっとほっとした。デリヘル、と聞いてすぐやくざが頭に浮かんだからだ。

「ねえ、でもそれってフリーターってことじゃないの?」

 男は自分の吐く煙に顔をしかめながら答えた。

「オレ、嫌いなんだ、フリーターって奴。なんか開き直ってるって言うか、逃げ道みたいで」

 ふーん、とまた相槌を打ちながら、それでもやっぱりそういうのはフリーターって言うんじゃないだろうか、と思った。少なくとも男の言う、失業というのとはちょっと違うような気がした。アザミは冷めかけたコーヒーをすすりながら、頭が混乱しそうになったが、それでもようやくあることに思い至った。つまり、男は失業してデリヘルの運転手になったのだ。なかなか今日はサエてる、とアザミは思った。

「ねえ」

 アザミが声をかけると、男は、ん、と目を細めた。

「その、前はなにやってたの?」

 男の眉がちょっと持ち上がり、短くなった煙草を最後にもう一服吸い込むと、灰皿に押し付けた。

「なんで?」

「だって、さっき失業したって言ったじゃない」

 アザミはちょっと誇らしげに言った。これでちょっとは頭の切れるところを見せられたかもしれない。少なくともオツムが空っぽの馬鹿ジョシコーセーじゃないってことは示すことができたような気がする。

 男はなにか考えごとでもしているような、ぼんやりとした視線をアザミに送っていたが、ふと視線を落とすとぽつりと言った。

「知らない方がいいと思うな」

 えー、しりたーい、とアザミは少々媚びの入った甘えた声を出し、紺のハイソックスの足先をばたばたさせた。

 男はアザミがせっかく演じてみせた媚態には目もくれず、目の前の水槽を泳ぐエンゼルフィッシュを人差し指でガラス越しになぞりながらぼそりと言った。

「殺し屋」

 えーっ、うっそー、と嬌声を上げてアザミはけらけらと笑った。男はそれにつられるように顔を上げてはにかむように微笑んだ。アザミはその笑顔を見てまたちょっと濡れた。

 

 ケンイチは目の前でからからと無邪気に笑う女子高生を眺めながら、やっぱり信じないよなあ、普通、と思った。まあ、オレでも信じないか、と思い、苦笑を浮かべた。

「ねえ、教えてよお、マジでえ」

 女子高生はまた甘えた声を出し、水槽越しに指を伸ばすとケンイチの鎖骨の辺りを突ついた。ケンイチは、この子は本当に無邪気なだけなのか、それとも単に馬鹿なのか、どっちなのだろうと思った。確率から言うと後者の方だろうな、やっぱり、と思い、一見すると典型的なお嬢さま学校の生徒に見える、美少女と呼んでもいい目の前の女子高生を眺め、そうするとこういうのも白痴美と言うのだろうか、と考えた。

「だからマジだよ」

 ケンイチは努めて真剣な眼差しで答えた。彼女は不満げに頬を膨らませると、尋ねた。

「じゃあどうやって殺すのよお?」

「いろいろ」

 ケンイチはそっけなく答えながら、視線をぼんやりと宙に泳がせた。まだケンイチという名前を持つ前の、台北の雑踏を掻き分ける自分の姿が脳裏に甦った。路地裏の匂い。額を滴り落ちる汗。床の上の血溜まり。とがめるようにこちらを見つめる猫の目。まだガキだったころ。台湾人でも、日本人でもなかったころ。いまとなっては途方もなく昔の出来事に思える。にも関わらず、いまだに匂いだけは妙に鮮やかに鼻腔の奥に甦る。不意に血の匂いと、路地裏の屋台の匂いが混じり合ってケンイチを襲い、軽い吐き気を覚えた。それを飲み下すように冷めたコーヒーの残りをあおると、吐き気のおさまるのを待った。

 彼女は眉間に皺を寄せて戸惑っているように見えた。なにか不満げにも見えた。ケンイチの言葉の真偽を計りかねているのだろう。目の前にいるのが人殺しかどうか。しかし、とケンイチは考えた。オレはなんであんなことを言っちまったのだろう? ちょっとからかってみるつもりだったのだ。見知らぬ男の部屋にほいほいとついてくるような馬鹿女をちょっとからかってみたくなったのだ。どうせハナから信じはしないだろうと。いや、本当にそうだろうか? もしかしたらオレは、誰かに話したかったのかもしれない、とケンイチは思った。誰かに話を聞いて欲しかったのかもしれない。心のどこかで、いつもそんな誰かを探していたのかもしれなかった。

 そもそも、なんでこの子をここに連れてきてしまったのだろう? そのあとに押し寄せる自己嫌悪を思うと、お手軽で即物的なセックスをするつもりなどハナからなかった。オレはこの手のジョシコーセーって奴を腹の底から軽蔑していたのではなかったか? オレはいったいこの子になにを求めているのだろう? 

 仕事の最中はケンイチは余計なことを一切喋らない。春を売る女たちの、ときには軽薄な、ときには陰鬱な話に調子を合わせることの億劫さから、無口な男を通していた。台湾にいたころからそうだった。考えてみると、この部屋に他人を招き入れるのは初めてだった。今日のオレはやけに饒舌だ、とケンイチは思った。このままだとなにか余計なことを口走ってしまいそうだった。いや、既に口走っている。全くオレらしくない。いや、本当のオレはこういう人間なのかもしれない。昔のオレは幽霊みたいなものだった。存在していないも同然だった。オレは自分が存在していることを誰かに認めてもらいたいのかもしれない。オレは本当は淋しいのかもしれない。ケンイチは思わず口元に苦笑を浮かべていた。

 なにか後味が悪かった。何故だろう? ケンイチは煙草をまたくわえて火をつけると、煙を肺の奥深くまで吸い込んで、ゆっくりと吐き出しながら顔を上げてちらりと彼女を見た。彼女は自分のつま先をじっと見つめてなにごとか思案にふけっているように見えた。ケンイチは、てっきり彼女はもっと怯えているものと思ったのだが、そんな風には見えなかった。もしかしてこの子は本当に馬鹿なのだろうか? 単に鈍感なだけなのだろうか? それともハナからオレの話など信用してないということか。つまり、馬鹿なのはオレの方なのだろうか?

 ケンイチはぼんやりと水槽の中を泳ぐ魚を眺めながら、溜息と一緒に煙を吐き出した。

 

 アザミはぶらぶらさせたハイソックスのつま先を見つめながら、本当にこの男は人殺しなのだろうか、と考えていた。ぼんやりと考えながら、ふと自分がちっとも怖がっていないことに気づき、少なからず驚いた。もしかしたら自分は人殺しとひとつ屋根の下にいるのかもしれないというのに。かと言って、男が嘘をついているとも思えなかった。つまり、ということは男が人殺しであるということになってしまうのだが、どうもそれも信じ難かった。アザミは自分の中のこの大いなる矛盾を持て余していた。ちらと目を上げて淋しげな顔で煙草を吸っている男の横顔を見た。途端に胸がきゅんとした。よしんばこの男が人殺しであったとしても、少なくとも彼はわたしを騙すような真似はしない、という妙な確信が湧いてきた。それで十分なようにも思えた。ここから逃げ出す、という考えはとうに頭から消え去っていた。それどころか、もう少し一緒にいたいと思った。もっとこの男を知りたいと思った。

 学校をサボったのは、今月これで三度目だった。しかし、エスカレーター式の学校だから余程のことがない限りそれほどの影響はない。もしなにかあっても、パパとママが必死になって守ってくれるだろう。わたしはいつも、安全なところにいるのだ。そして、それが物足りなくて学校をサボっては、こんな見ず知らずの男に声をかけたりしてしまうのだ。

 いわば、アザミは十七歳にして、既に人生に退屈し始めていると言ってもよかった。

 だが、この男は違う。恐らく彼はちっとも安全なところになどいた試しがないのだ。いまだに自分の居場所を探しているような、淋しい人間のように見える。そしてわたしはたぶんそれに惹かれているのかもしれない。

 アザミはいつのまにか、すっかり男を受け入れるつもりになっており、自分も男となにかを共有したい、と思い始めていた。

 

「ねえ、どれぐらい殺したの?」

 唐突に彼女が真剣な眼差しで訊いた。

「忘れた」

 ケンイチは煙草を灰皿に押し付けながらぼそりと答えた。言いながら、なにか酷く荒唐無稽な会話をしているような気がしてきた。いい加減、適当な嘘を話すべきなのかもしれなかった。もしくはなにも話さないか。

 妙な予感がして顔を上げると、彼女は目に涙を浮かべて、いまにも泣きそうな顔でこちらを見ていた。ケンイチは不意のことに驚いて、あ、と思わず声に出し、椅子から腰を浮かせた。彼女の頬を大粒の涙が伝った。

「ごめん」

 ケンイチはそう口にしながら、オレはなにを謝っているのだろう、と自問した。余計なことを話して泣かせてしまったことなのか、それとも自分が積み重ねてきたことなのか。

 ケンイチは部屋の隅に放ってあったティッシュの箱を取ると、黙って彼女に差し出した。彼女はティッシュを二枚引出すと、チーンと音を立ててハナをかんだ。

「なあ」ケンイチはまた椅子に腰を落として足を組み直しながら声をかけた。「本気にしたのか、まさか?」

 彼女は鼻の頭を赤くしながら、ちょっと不満げに唇を突き出すようにして、こくりとうなずいた。ケンイチはふんと鼻で笑うと、お前、変わってるなあ、と呆れた声を出した。なによ、嘘吐き、と膨れっ面をして、彼女は床を蹴り飛ばす仕草をした。ケンイチが新たな煙草をくわえると、彼女は、わたしにも一本ちょうだい、と言った。ケンイチが彼女の煙草にジッポで火を点けてやると、サンキュ、と言って彼女は微笑んだ。さっき泣いていたと思ったらもう笑っている。ケンイチは、ヘンな奴だな、と思った。

 

 それから二人はしばらく黙って煙草を吸った。窓から射し込む傾いた陽光が二人の吐き出す煙を鮮やかに浮かび上がらせた。

「ねえ」アザミが天井めがけて煙を吐き出しながら言った。「なんで魚なんか飼ってるの? テレビもないのに」

 ケンイチは不意を突かれた表情で眉をちょっと上げると、少し考えて答えた。

「なんか生きてるものが欲しかったんだよ」

 ふーん、と言いながらアザミは水槽を覗き込んだ。

「あのさ、向こう向いてみろよ」

 ケンイチがそう言うと、アザミは怪訝な顔をした。

「いいから向こう向いて」ケンイチは手にした煙草で水槽を泳ぐ魚を指差すと言った。「こいつがいないと思ってみろよ」

 アザミはまだ要領を得ない顔をしながら煙草を灰皿に押し付けると水槽に背を向けた。その背中にケンイチは声をかけた。

「なんか救いがないって感じがしないか?」

 アザミは少しのあいだ、ポスターもなにもない、煙草のヤニで薄汚れた壁を見つめていたが、その壁に向かって答えた。

「そう言われてみれば、そんな気もする」

「だろ?」

 ケンイチはぼそっと言うと、半分ぐらいまで吸った煙草を灰皿に押し付けた。

 アザミがこちらを向き直ると、またその目がうるうるとしているのを見て、ケンイチは驚いた。

「なんだよ」

 ケンイチが戸惑いを隠せずに言うと、アザミはその瞳をうるうるさせながら言った。

「なんか、寂しくなっちゃった」

 そう言うと、アザミの頬をつうっと涙が伝った。ケンイチは辟易した顔で頭をぼりぼりと掻くと、ぞんざいにティッシュの箱を押しやり、ヘンな女、と呟いた。アザミはまたティッシュでちーん、とハナをかむと、だって淋しくなっちゃったんだもん、と唇を尖らせた。

 

 いつのまにか部屋は翳り始め、窓から射す西日が光線となって斜めに降り注いで、壁に二人の影を出来の悪い影絵のように映し出した。壁の中を巨大な魚が揺らめくように泳いでいた。

 ヘリコプターのプロペラの音がゆっくりと、しかし確実に通り過ぎ、束の間の静寂をやけにのどかなものへと演出する音楽のようだった。

 アザミはつい先程まで涙を流していたとは思えぬほどけろっとした顔で、頬杖をついてぼんやりと窓の辺りを眺めていた。ケンイチは手持ち無沙汰そうに手の中で一本の煙草をもてあそんでいた。彼は、自分がかつてないほどリラックスしていることに気づき、少なからず驚いた。ふと目を上げると、彼女は西日にちょっと目を細めながら穏やかな笑みを浮かべていて、その横顔が一種宗教的と言ってもいいほどの神聖なものを発しているような気がしてケンイチははっとしたが、気のせいだろう、と思い直した。光の加減で後光が差しているように見えるのだろう。

 アザミがケンイチの視線を感じて向き直り、ん、と眉を上げた。知らぬ間にケンイチも同じように眉を上げ、ちょっと肩をすくめてみせた。いつのまにかケンイチも穏やかな笑みを浮かべていた。それはもしかしたら、この国に渡って来てから初めてかもしれず、こんな風に無防備に人と相対するのは、父も母もまだ生きていた、子供のころ以来と言ってもよかった。

「ねえ」アザミが指で水槽をなぞると、ゆらりと泳ぐ魚を見つめながら言った。「なんでエンゼルフィッシュって言うのかな?」

 ケンイチもつられるように魚を見つめながら答えた。

「天使に似てるからだろ」

「だって似てないじゃない、ちっとも」

「お前、見たことあるのかよ?」

「ないけど」

「ほらね。こんな形してるのかもしれないじゃん」

「まさか。じゃあ天使って菱形なわけ?」

「うーん……そりゃそうだな」

 すると、アザミは水槽越しに目をきらきらと輝かせて言った。

「もしかして、天使がいるって思ってるわけ?」

「まさか」

 ケンイチは不意を突かれたかのように驚いた表情を一瞬浮かべ、水槽から目を離すと、新しい煙草をくわえてジッポで火を点けた。煙を天井目掛けて吐き出しながら、もう一度、まさか、と呟いた。それからぼんやりと宙を見据えると、煙を深く吸い込んで吐き出しながら、いたら嬉しいんだけどな、とぼそりと言った。アザミはそれを耳にすると、頬杖をついたまま口元をほころばせて言った。

「ねえ、わたしが天使だったらどうする?」

 ケンイチは首をちょっと突き出して目を丸くして見せて、それから椅子の背にもたれると呆れた口調で言った。

「どっからどう見てもジョシコーセーにしか見えないぞ」

「それって先入観って奴じゃない?」アザミは不満げに語尾を伸ばした。

「だったらどうだって言うんだよ?」

「天使と殺し屋の組み合わせってのも面白いじゃない」

「それじゃあオレだけ悪役みたいだ」

「そうよ。アンタは悪の象徴なわけ」

「随分だな」

 そう答えながらケンイチは、いつも胸に漠然と去来するものを指摘されたような気がした。深く煙草を吸い込んだ。その煙をふーっと吐き出しながらぽつりと言った。

「じゃあ、お前がオレを救ってくれるのか?」

「うん」

 そう言うと、アザミは水槽越しに満面に笑みをたたえた。そのとき、ケンイチには一瞬アザミが本当に天使に見えた。

 ケンイチは短くなった煙草を吸うのも忘れ、放心したようにアザミの笑顔を見つめていたが、それから伏目がちに照れ臭そうな笑みを浮かべ、溜息ともつかぬ短い息を洩らした。

 不意に、メロディーが流れた。ケンイチはそれが誰の曲だったのか思い出せなかった。アザミは鞄から携帯を取り出すと、ディスプレイに一瞥をくれて、通話ボタンを切ってまた鞄にしまった。

「いいのか? 出なくて」ケンイチが訊いた。

 アザミは肩をすくめると、言った。

「いいのよ、人間からだから」

「あっそう」

 ケンイチはフィルターまで燃えていた煙草を灰皿で消した。それから、バーカ、と言った。アザミはそれに顔を思いきりしかめて答えた。

 アザミはぼんやりと窓に目をやると、西日に目をちょっと細めながらぽつりと言った。

「明日学校に行こうかな」

 それからケンイチの方を向き直ると、いたずらっぽく目を輝かせた。

「殺し屋と知り合いになったって、自慢しようかな」

「すれば」

 ケンイチがあっさりと言い捨てると、アザミは不満げに口を尖らせた。

「ホントにするんだから」

「だからすればいいじゃん」

 アザミはしばらく口を尖らせたままケンイチを睨んでいた。それから、不満げな表情のまま言った。

「ねえ」

 ケンイチは返事をする代わりに眉をちょっと上げた。

「わたしが頼んだら殺してくれる?」

「いいよ」

 ケンイチは事も無げに答えた。

「ホントに?」アザミは思いのほか真剣な眼差しで言った。

「ああ」

 ケンイチは面倒臭そうに答えると、いぶかしげな顔で訊いた。

「誰か殺したい奴でもいるのか?」

 アザミは、うーん、と唸ってから天井を見上げてしばらく考え込んだ。

「いまはいないけど、考える」

「無理すんなよ。それに後悔するぞ」

 ケンイチは窓外に見える西日に照らされた何の変哲もない住宅街を見やった。

「後悔した?」

 アザミは真顔で訊いた。ケンイチはそれには答えずに、宙を見つめたままだった。

「ねえ」アザミは頬杖をついたまま少し身を乗り出した。「ホントに殺してくれる?」

 ケンイチはアザミを見た。その目は真っ直ぐに射抜くようにこちらを見つめていた。

「ああ」

「いくらで?」アザミは眉をひそめた。

「そうだな……」

 ケンイチは自分が最初にやった仕事がいくらになったのか、思い出した。日本円に換算してみると、馬鹿みたいに安い金額に思えた。後悔、か。もう昔の話だ。

「サービスにしとくよ」

「ホント?」

 アザミは嬉しそうに目を輝かせた。

「馬鹿か、お前」

 そう言って、ケンイチは苦笑した。

「お互いさまー」

 そう言ってアザミは舌を出した。二人は顔を見合わせてくすくすと笑った。

 ケンイチは頬杖をつくと、おもむろに口を開いた。

「なあ」

「なに?」

「さっきの曲、なんだっけ?」

「当てて」アザミは水槽越しに微笑んだ。

 ケンイチはふたたび思い出そうとしたが、どうしても思い出せなかった。窓の外でカラスがカアと一声鳴いた。平和だな、と関係ないことを考えた。

 不意に、ばさばさと羽音がしたかと思うと、壁に濃い影を落とすアザミに重なって、彼女が羽ばたいたように見えた。ケンイチは思わず、あ、と声を上げそうになった。自分の心拍数が上がったことに一瞬戸惑い、軽く息を飲んだ。

「わかった」

「なになに?」

 アザミは制服の身を乗り出した。

 ケンイチは煙草をもう一本、箱から取り出して少しうつむいて微笑んだ。

 そして、答えを探した。

 水槽の中で、魚はオレンジ色のからだを翻した。西日を受けてきらりと鱗が光った。

<了>