まったく実感はないのだけれど、一応年末なので例年どおり今年を振り返ってみる。と思ったのだが、正直言って思い出すのも振り返るのも苦痛だ。この1年は信じ難いほど個人的には大きな出来事ばかり続き、それらはほとんどすべて、ロクでもないことだったから。今の僕の記憶力ではこの夏の酷暑をどうやってエアコンなしでやり過ごせたのかも思い出せない。それはただ通り過ぎ、ただひたすら酷かった、というだけの印象しかない。抑うつ状態のときに人生に関わるような大きな決断をしてはいけない、というのはうつ病の人間にとって鉄則だが、僕はそのタブーを冒してしまった。それらはすべて別居から始まったものだが、それは天から降ってきたように起こったわけではなく、なんらかの必然性あるいは伏線は当然あったのだと思う。さかのぼってしまえば、僕が彼女を選んだときからすべては始まっていたのだと思う。あらゆるいいことが起こり得るようにあらゆる悪いことも起こり得る。プラスがマイナスになることすら当たり前だ。もしかしたらそれはすべて自分の受け止め方次第。世界が主観的にしか存在していないように。いずれにしても1年で2度も引っ越したのも初めてなら、引っ越すたびに部屋が狭くなっていくというのも初めてだった。なんていうか、すべてが僕にはどうしようもないことだったように思える。物凄く長い下り坂を滑落しているような気がしないでもないが、たぶんそれは気のせいなのかもしれない。ひとこと、それはただの慣性の法則だよと言われてしまえばそれまでだ。あらゆる可能性をすべて同時に体験することも認識することも出来ない。僕らは常にひとつしか選択出来ない。
物凄く簡単にひとことで言ってしまえば今年は「喪失」ということをひたすら繰り返していた。時間が無慈悲に過ぎるたびにいろんなものを失った。ただひたすら失い続けた。お陰で僕は失うことに慣れてしまった。僕にとっての喪失感はただの日常的な感情に過ぎなくなった。ちょっとびっくりするのは、僕が失ったものはすべて人間である、ということだ。もちろん厳密に言えば誰かが死んだわけでも消えていなくなったわけでもなく、関係性と言うことも出来るが、主観的には「そして誰もいなくなった」という感覚。誰も彼もが巨大な遠心力で遠ざかり、いつの間にかいなくなっていく。そして、もしかしたらその遠心力を発しているのは僕自身だ。
とにかくひたすら耐える。毎日何かしら我慢する。その連続性で僕は疲弊する。しかしいくら疲弊しても現実は一切容赦せず、絶え間なく押し寄せる。さらなる連続性。チェイン・リアクション。スパイラル。音を上げることすら出来ない。僕に出来ることはただ耐えることだけだ。時間を失ってからもう大分経つし、ときおり自分自身すら失いそうになる。まさに恐怖の連続だ。しかし、その先が見たかったら生きるしかないし、耐えるしかない。何がストレスといって僕にとっては待つことが一番のストレスなのだが、実際の日々はただ何かを待ち続けているだけだ。そのうち、何を待っているのかすら分からなくなる。結局のところ僕が闘っているのは病気ではなくて自分自身そのものなのだ。僕を病気にしたのは僕自身であり、自分ひとりで勝手に病気になってしまったのだから。それを乗り越えるには自分自身の弱さを乗り越えるしかない。しかし、いまさらながら自分という人間がこれほど弱い人間だとは思っていなかった。これだけ長いあいだ、自分自身と向き合っていると見えてくるのは弱いところばかりだ。その弱さが遠心力を生むという皮肉。ある種のパラダイム・シフト。失うものなど何もない、と言うのは簡単だが、実際には際限なく失うものはあるのだ。それは裏返せば際限なく何かを生み出すことも可能だということになるが。表裏は常に一体だ。
失ったことだけを覚えているというのはなんとも悲惨だ。やり切れない。喪失の経験だけを積み重ねてそれが一体何になるのだろう。どうして僕は僕自身をここまで追い込んでしまうのだろう。夕闇が迫るころ、あとひとつ角を曲がれば自宅、というところまで来て、ここは一体どこだろう、と思う。どうして僕はここにいるのか。自分が何を何のためにしているのか分からなくなる。ワンブロック手前で道に迷いそうになる。自分の影さえ見失いそうになる。自分が自分であることすら怪しくなる。どこかちょっとだけずれた世界にシームレスに移動してしまったような気がする。何の言葉も浮かばない自分が実はドッペルゲンガーなのではないか、などと思ってしまう。鏡の向こうの世界。そこに立ち尽くす僕。自動ドアはいつまで経っても開かない。本当の僕は何処にいるのか。何故僕の過去は書き換えられるのか。
こんなことは回顧でもなんでもないな。ただの虚構だ。たぶん僕はメタフィクショナルな思考の中に閉じ込められているのだろう。感情だけを閉じ込めたいのに気がつくと感情だけで生きている。感情生活。これではまるで自分の書いた悲劇から抜け出せなくなった劇作家のようだ。キャベツの葉を一枚ずつはがしていくといつのまにか何も残らないように、自分という芯がない。芯≒心。僕は原点に戻ろうとあがく。これ以上何を捨てれば原点に戻れるのだろう。僕が渡された地図は偽りの地図で、僕は方向すら分からず彷徨する。目的地はないのに出発点だけはある。だがそれは何処でもない。面と向き合って携帯で話すとびっくりするほどの時差があるように、僕の認識は常に手遅れだ。ほんの数秒のずれがもたらす大きな喪失、それは僕だけではなく人間というのはそういう風に出来ている。ただそれを実感していないだけで。僕をひたすら揺さぶり続け攪拌し続けたこの一年の意味が僕にはまだ理解出来ない。それが喪失以外の一体何をもたらしたのか、僕にはまだ分からない。僕はいまだに月の裏側から一歩も動けず、そこには僕以外の誰もいない。茫漠たる空白。空虚。生きることの意味を見失って生きる。表情のない顔で生きる。そこからプリントアウトする世界に一体何があるというのか。それともある日突然すべては反転するのか。誰かがポストに新しい地図を入れてくれるのか。誰かと何かを分かち合う日は来るのか。少なくとも、ただ待ってるだけでは何も起こらないだろう。すべてが色褪せるだけだ。だから僕は恐る恐るでも一歩を踏み出さなければならない。アクションを起こさなくてはならない。ただ今はそれが何か分からないだけだ。センチメンタリズムの中を彷徨って。あらゆるものに意味はある。たぶんそれだけが救いだ。唯一の。
written on 29th, dec, 2010