nameless memory

「名前のない記憶」

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自伝なるものに書いたように、僕は学生時代を通して高円寺に住んでいた。上京して最初に住んだのは中野の下宿(死語かな。つまり間借)だったが、半年で高円寺のアパートに引越し、その後の8年ぐらいを高円寺で過ごした。中野から引っ越して最初に住んだのは、駅から歩いて5分ぐらいの、高円寺銀座を抜けて早稲田通りに至る途中の、商店街をちょっと脇に入ったところにある四畳半のボロアパートだった。一口にボロアパートと言ってもピンからキリまであると思うが、それは文字通りの「ボロ」アパートだった。ただでさえ木造の建物がひしめき合っていた当時の中央線、1階の僕の部屋から隣のアパートまでは手を伸ばせば届く距離にあり、日はまったくといっていいほど差さなかった。アパートの通路の壁には針金で出来たねずみ取りがいくつか掛けてあり、それこそ面白いようにねずみが取れた。まさに松本零二の漫画の世界そのものだった。今は知らないが当時の高円寺はアパート住まいの学生の人口密度が異常に高く、盆や正月になると街は一気に閑散とした。ガード下にはネパールの服を売る店があり、そういう服を着たキリストみたいな風貌のミュージシャン連中がサンダルや下駄で闊歩していた。学生時代に僕が足繁く通った店は3軒あった。駅前の地下にあったジャズ喫茶、同じく駅前の狭い路地の2階にあった、主にフュージョン(当時はクロスオーバーといった)をかけていた「アフターアワーズ」というジャズ喫茶、早稲田通り沿いにあった深夜3時までやっていたロック喫茶「漂泊人(さすらいびと)」。当時から高円寺には「次郎吉」を筆頭にライブハウスがやたらとあったが、極度の貧乏学生だった僕にはそういうチャージの高い店には行けず、自分が住んでいるアパートのすぐ近く、スーパーの2階にある小さなライブハウスにごくタマに行く程度だった。僕が足繁く通った3軒のうち、1番長い時間を過ごしたのは「漂泊人」で、理由としては深夜3時までやっていること、「がんばれ元気」を始めとする漫画がずらりと揃っていたことによるのだが、ロック喫茶と書いたけれど厳密にはそうではなく、ただそういう店と同じように今かけているアルバムをラックに載せて掲示していたというだけで、次に何がかかるのかはまったく予想がつかなった。ジノ・ヴァネリの「Brother To Brother」を初めて聴いて、腰が抜けるほどの衝撃を受けたのもこの店だった。ジノ・ヴァネリを発見出来ただけでもこの店に通った価値は十分あった。3軒に共通するのはコーヒー1杯で何時間でも粘れるということで、これは貧乏学生にとっての必須条件だった。先日、なんとはなしにグーグルで「アフターアワーズ」を検索してみたら、驚いたことに今でもまだあった。今度もし高円寺を訪れる機会があったら、是非とも寄ってみたいものだ。ジャズ喫茶としては「アフターアワーズ」よりも、地下の喫茶店に行くことの方が多かった。よくある穴倉のようなオーソドックスなジャズ喫茶で、メインストリームのジャズと、当時まだデビューしたてだったスクエアみたいなフュージョンが半々ぐらいかかっていて、一番よくかかっていたのはキース・ジャレットの「ケルン・コンサート」だった。僕はうんざりするほど若かった。スクエアはT-SQUAREと名前を変えた今ほど軟弱ではなく、当時のリー・リトナーのバンド、ジェントル・ソウツとスタイルが似ていた。ドラムのマイケル河合が大学の先輩に当たり、入学当初の学園祭で生演奏を見た。初期メンバーであるキーボードの鷺巣と、それから10年以上経って僕がディレクター、鷺巣がアレンジャーとして自分がスタジオで使って友人になるとは、もちろんそのころには夢にも思っていなかった。当時の僕はそもそも将来の展望なるものはこれっぽっちも持ち合わせていなかった。それは今でも変わらないと思う。僕は現実的な人間ではないが、夢見がちな人間でもなかった。ただ漠とした不安を覚えて絶望するような、そんな人間だったし今でもそうだ。とにかく、深夜の「漂泊人」と同じくらいに、昼間から薄暗い穴倉のような地下のジャズ喫茶がお気に入りだった。

ところが、その地下のジャズ喫茶の名前がどうしても思い出せないのである。あれだけ入り浸っていたのに。あの店の名前だけどうしても思い出せない。まるで何かのトラウマのように、僕の意識の裏側に回りこんでしまい、頑なに出て来ない。あの店で嫌な思いをしたのはただの1度もない。確かにコーヒーは褒められた味ではなかっただろう。だがあのころはまだ今のように生豆を自分で炒って飲んだりしていたわけではなく、それほどの拘りはなかった。ジャズを聴き始めたばかりの当時の僕にとって、あの店は毎日何かしらの発見がある場所だった。「ケルン・コンサート」の出だしの1小節で時間が凍りついたのもあそこだ。気になるアルバムがかかるたびに、ラックにかかっている30cm四方のジャケットを手に取って食い入るように見て、手帳なんてものを持ち歩く癖がなかった僕はアルバムタイトルとアーティスト名を覚えるために何度でも席を立って確認し、それからガード下の中古レコード屋に行って埃っぽいレコードを隅から隅までめくって探したものだ。一体全体、どうしてあの店の名前だけ思い出せないのだろう? これは高校のときのバンド名と同じく、長い間僕にとっての謎だった。で、あるときグーグルで検索してみた。まず、「高円寺 地下のジャズ喫茶」で検索してみたが、これといったものはヒットしなかった。それで、「高円寺にかつてあったジャズ喫茶」で検索してみると、ようやくそれらしいものが見つかった。見つかったページには2軒のジャズ喫茶の名前があった。その2つというのは、「Hot House」と「as soon as」である。

たぶん、この2つのどちらかだと思う。名前に聞き覚えがあるのは「as soon as」の方だ。しかし、マッチに見覚えがあるのは、困ったことに「Hot House」の方なのだ。恐らく、どちらの店にも行ったことがあるのだろう。とにかく、駅の反対側にあるロック喫茶や、ガード下にあったパンク喫茶まで、高円寺に山ほどあったその類の店には一通り行ったことがある。信じ難いことだが、こうやって具体的な店名を2つ出されても、いまだに確信が持てない。人間の記憶というのは、一体どういう構造をしているのだろう。ときとして、それは名前というものを必要としないのだろうか。なにしろ高校時代にやっていたバンド名をとうとう思い出せず、当時のボーカルに訊いてようやく思い出した、いや、思い出したわけではない、実を言うとバンド名を聞いてもピンと来なかった僕のことである、それほど不思議なことではないのかも知れない。要するに名前などどうでもよかったのかも知れない。だから、もしかしたらそれはこの2つではない、まったく違う名前だったのかも知れない。それを確認するには、同じころに高円寺に住んでいた人を見つけて、これこれこういう場所にあった、と具体的に説明して、なおかつその人が店名を覚えているという条件を満たすしかない。しかし、そこまでして確認したところで何がどうなるというわけではない。その店は確かにそこにあったのであり、あのころの僕は確かにそこにいたのだ。

written on 25th, jun, 2012

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