autobiography

「自伝(前編)」

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本来自伝などというものは、偉人もしくはひとかどの人物が書くものであって、僕のような何者でもない、一介のうつ病のギャンブラーが書くものではない。ま、しかし予告した手前、っつーか、基本的に僕のプロフィールは大学を卒業してからのものしか載っていないので、一種の読者サービスですな、これは。って、どの辺がサービスになるのかは自分でもよく分からないが。というわけで、大学を卒業するまでの自分の半生(でもないか)を綴ってみようと。なので、前編とありますが後編はありません。あしからず。

僕は1959年、つまり昭和34年に山形県西村山郡河北町という町に生まれた。この町は別に極端にさびれているとかいうわけではないのだが、地元住民が反対したとかで何故か駅というものがない。山形盆地のど真ん中で、町の端を最上川が流れ、川を渡ると東根市神町、つまり阿部和重が生まれ育った町である。今でこそ住宅が立ち並ぶようになったけれど、僕の生まれたころは、実家の向かいにある大きな寺の向こうは、最上川の堤防まで一面の田んぼだった。360度、どこを見渡しても地平線というものは存在せず、必ずそこには山があった。僕はそういう風景の中で生まれ、育った。

僕の最初の記憶というのは、順番が曖昧でどれが最初かよく分からない。でもたぶんこれが最初の記憶だろうな、と思われるのは、家の前の道がまだ舗装されておらず、道の真ん中に馬糞が落ちていた、という記憶だ。一体、馬なんてどこにいたのだろうか。謎である。いたとすれば、川向こうだと思うのだが。次の記憶は幼稚園の記憶だ。僕の両親は二人とも教師で(父は高校の英語教師、母は中学の音楽と社会の教師)、共稼ぎということもあり、僕は2歳のときから幼稚園に預けられた。そこで、小便を漏らしてスカートを穿かされたことを覚えている。それが幼稚園での最初の記憶。幼稚園の間は、新潟地震があったのが強烈な印象として残っていて、そのときに山形でも地割れで一人死んで、僕はそれ以来地震イコール死、というトラウマを持ってしまい、いまだに地震が怖くてしょうがない。幼稚園のころからヤマハ音楽教室に通い始めた。僕は器用貧乏というか、大抵のことは人より上手く出来るのだが、何故かヤマハ音楽教室では劣等生だった。なので、いまだに絶対音感がない。家族の話に戻ると、僕には2歳年下の弟がいて、僕ら二人の面倒は基本的に祖母が見ていた。だから僕はおばあちゃん子として育った。祖父は父が小さい頃に亡くなっていた。祖母はよく、僕の鼻をつまんで引っ張り、鼻が高くなりますように、と言っていたが、その目論見が成功したかどうかはいまだに謎である。両親は幼稚園のころから僕に少年漫画雑誌を買い与え、そのお陰で小学校に入学するころには、理科室とか職員室とか保健室とか、とにかく読めない漢字はなかった。

小学校の記憶。まず思い出すのは、入ってすぐに、僕は恋をしたということだ。彼女はアサギヨシコと言って、僕の母と名前が同じだった。僕は結婚したら母親と名前が同じになるのでややこしいなあ、などと悩んでいた。要するにませたガキだったのである。彼女とは後に高校時代、付き合うことになる。ませたガキと言えば、僕は小学校のころから膨張する宇宙の外には何があるのだろうと考え、無とは何か、無限とは何か、ということを理解出来なくて恐怖を覚えていた。母が音楽の教師ということもあり、自宅にピアノがあったので、小学校時代は独学でピアノをやっていた。バイエルから順番に。一応、小学校一杯はピアノをやっていたが、指使いを全く無視してやっていたので、ソナタアルバムあたりでつまずいた。

小学校時代は、簡単に言えば優等生だった。我ながら阿呆だと思うが、自分を天才だと本気で思っていた。体育が4以外は常にオール5。演劇をやれば主役。絵を描けば県展で金賞。その幻想が崩れたのは、いつだったか、知能テストをやったときだ。僕はマジでアインシュタインぐらいのIQがあると思っていたのだが、テストの結果はIQ120という凡庸な数値だった。これには酷くショックを受けた。お、オレは凡人だったのだ……ということを受け入れるのに苦労した。ちなみに、最近ネット上でIQテストを受けると大体120〜140という結果が出るので、あいだを取ってたぶん130ぐらいなんだと思う。ま、要するにちょっとした優等生程度である。このころはとにかく、ヒマさえあれば実家の真向かいの寺の境内で遊んでいた。主に野球。今の僕からは想像がつかないが。あとは、墓地で墓のあいだを探検したりして、よく蝋燭を立てる釘が足に刺さったりした。田んぼの脇を流れる小川でナマズを捕まえて、年上の奴に川原で見つけたカルシウムかなんかの塊を入れられてナマズが死んだりした。冬になると、寺の裏手の田んぼを探検して、一面の雪で360度真っ白で方向が分からなくなって迷子になったりした。要するに、そこそこ普通の田舎の子供であった。ちなみにこのころ(60年代)はいろんな意味で世界が激動していた時代で、安保問題から始まった学生運動や、ベトナム戦争が始まったりした。僕は何故か68年という年が妙に記憶に残っている。どうしてだろう。68年に何があったのか、調べれば分かるのだろうけど。どういうわけか最近僕が好きな作家はやけに68年生まれの人が多い。偶然の一致。

中学時代。学校では相変わらずの優等生。たぶん僕の人生のピークはこの辺りだったか。全国模試で全国で100番以内に入ったりしていた。このころの僕を知っている人で、現在の僕を想像出来た人は誰もいないと思う。友人に誘われてテニス部に入った。田舎なので軟式テニス。別にテニス自体に興味があったわけでもなんでもない。別になんでもよかったのだ。当時の中学の部活というのは、無茶苦茶ハードだった。リンチみたいなことも公然と行われていた。僕は練習のときはやたら上手く、試合になると下手になるという、典型的な本番に弱いタイプだった。要するに小心者だったのである。地区大会なんかになると、隣町の生徒なんかが、僕に勝ったと自慢してたりしてた。一応、上手い奴ということで名は通っていたのである。ま、それはともかく、中学に入ると同時に、僕はピアノを止めてクラシック・ギターを始めた。NHKの番組を見て感動したからである。やっぱり独学。このころから、それまでクラシックしか聴かなかったのに、ビートルズを聴き始めた。それは結構衝撃的な体験だった。でもやっぱり、僕はクラシック・ギタリストになるのだ、と思っていた。中学というのは、いろんな小学校から生徒が集まってくるので、僕はいろんな女の子に恋をした。想像上の。好きだ、とは思っても、それじゃあ一体どうしたらいいのか、何をすればいいのかというのは皆目見当がつかなかった。

このころ起こった連合赤軍事件は衝撃的な事件だった。いわゆるあさま山荘立て篭もり事件などは、24時間テレビが生中継していて、いつ何が起こるのか皆目見当がつかないという、テレビというリアルタイムのメディアならではの舞台で、ただ茶の間で何も起こらない画面を見ているだけで緊張感が伝わる事件だった。その後判明したリンチ事件は、その死者の多さ、凄惨さにただただ慄然とした。ベトナム戦争の虐殺事件の写真しかり。この60年代から70年代にかけては、とにかく冷戦の緊張状態もそうだが、世界中に何かが溢れていた。戦争、自由への渇望、革命という呪文、イデオロギー、とにかく、あらゆるものがめまぐるしく攪拌されながら物凄いスピードで世界中を引っかき回していた。そんな中からフォークが生まれ、ロックが生まれた。毎日どこかの路上で、もしくは密林の中で誰かが殺され、それはイデオロギーという不明瞭なもののためであって、さしたる意味はなかった。まるで殺すことに意義があるようだった。

いよいよ高校受験という段になり、僕は山形東高という、県内でもっとも難度も進学率も高い高校を受験したのだが、僕の合格を疑う人間は誰一人いなかった。何しろ、全国で100番以内なのだから。みんな、寝ていても合格出来る、と思っていた。しかし、中学のテニス部のときに述べたように、僕は特別に本番に弱かった。とにかく、腰が抜けるほどの小心者だった。とんでもないあがり性だったのである。お陰で、父の友人が高校にいたのだが(後に僕の担任になる)、彼の情報によると僕は校長裁量でぎりぎりで合格したのであった。やれやれ。高校に入っても僕はテニスを続け、クラシック・ギターを続けた。ところが、何年のときだったか、バンドをやらないかと誘われ、僕はクラシック・ギターをエレキ・ギターに持ち替えた。このころ、山形県内でバンドをやっている人間など数えるほどしかおらず、練習場所も市内に一箇所しかなかった。バンドではそのころ流行り始めたハードロックをやった。ディープ・パープル、レッド・ツェッペリン、バッド・カンパニー、グランド・ファンク・レイルロード、そんな感じ。どうでもいいけど、このときのバンドの名前をどうしても思い出せないのである。全然。まったく。バンドを始めた途端に僕は異常と言っていいほどモテ始めた。隣の女子高に僕のファンクラブができ、二階建ての喫茶店の二階が一杯になったほどだった。そんな中で僕が結局生まれて初めて付き合ったのは、初恋の人であるアサギヨシコだった。彼女もやはり隣の女子高に通っていたが、別に僕のファンクラブに入っていたわけではなかった。たぶん僕の方から誘ったのだとは思うが、今となってはどうやって最初のデートに誘ったのかは覚えていない。とにかく、喫茶店に入って、あまりの緊張に1時間で煙草を10本も吸ってしまったことは覚えている。付き合ったといっても、一緒にバスで帰るとかその程度である。しかし、僕にはそれで十分だった。今考えても、一緒に帰るバスの車中、ぼんやりと窓外を見ているアサギヨシコの顔が浮かび、熱心に聖書のパリサイ人のところを読んでと語る彼女、ほんのちょっとだけ僕の方に身体を寄せた彼女の身体が僕の身体に触れた感覚が鮮明に蘇る。なんか、人生で一番幸せな時間だったように思える。

僕が社会というものからちょっとずつ逸脱し始めた、つまり傾き始めたのも高校のころからだった。要因としてはまず、学生運動の影響で制服というものがなく、私服だったことが挙げられる。テニス部の同僚にナカノという奴がいて、こいつはテニスは一番上手かったのだがいわゆるちょっとした不良予備軍みたいな奴で、まず最初に体育の時間をサボってパチンコに行こうと誘われた。それで僕は生まれて初めてパチンコというものをやった。郊外の、「アタック」という店だった。それ以来、僕はナカノと授業をサボって映画「砂の器」を見に行ってボロボロ泣いたり、テニス部の合宿で煙草を覚えて喫茶店に行くようになり、学校の帰りにまだ手打ちだったパチンコを打つようになった。僕の成績は40番程度だったが、私立文系になった途端に2番になり、いわゆる一見優等生、しかし実態は登校時に校門の前でUターンをして喫茶店のモーニングコーヒーを飲みながら一服して、2時間目の授業から出席する、なんて感じだった。市内のパブが日中はコーヒー140円で営業していて、地下にある店は市内の高校の不良の溜まり場になっていた。僕はコーヒーが安いから、という理由だけで学校をサボってその店で一服していたりして、そうすると隣の工業高校の不良連中の方から寄ってきて、いつのまにか仲間扱いされたりしていた。僕の方としてはいい迷惑だったが。というのも僕には自分が不良であるという自覚はこれっぽっちもなく、何故なら不良ってものがダサいものだと思っていたからだ。学校の不良連中にも何故か同類と思われ、僕がパチンコで負けたのを見たことがない、と噂された。いつのまにか、僕はすっかり有名になり、漫画「愛と誠」(違うかな? ま、その手の学園もの)に出てくる影の番長みたいになっていた。僕にしてみればいい迷惑なのだが。一方で、当時名画座でやっていたビートルズの映画の3本立て(「A hard days night」「Help!」「Let it be」)を1日で二回り、つまり6本も見たりしていた。僕はテニスの方はそっちのけで、ますます音楽にのめり込んでいった。

僕が私立文系を選んだのは、とにかく音楽で食って行こうと思っていたので、それには東京に行かなければ話にならない、と思っていたからである。だから、別に大学自体はそれほど問題ではなく、東京に行くことが目的だった。僕は早慶上智、学習院、成蹊と受験することになり、初めに合格通知が出た学習院は滑り止めだったのだが、親が入学金を払った。その後、成蹊は結局受験せず、上智の合格通知が出て、慶応は補欠、早稲田は合格。で、僕は女の子が一番可愛いという理由で上智に行くことにした。非常に明快な理由である。学科は文学部のフランス文学科、いわゆる仏文で、これも選んだ理由は単純に英文よりも簡単そうだから、という理由だった(実際は難易度はこっちの方が高かった)。そんなわけで僕はちっとも迷いもなく、いよいよ生まれて初めての一人暮らしをするために上京することになった。あ、そうそう、アサギヨシコとは、彼女が神奈川にあるフェリスに行くことになり、いつの間にかフェイド・アウトしてしまった。なんでかなあ、と今でも思う。彼女とずっと付き合っていたら、僕の人生はたぶん、大きく変わっていただろう。しかし、現実の僕は、大学に可愛い女の子が多いのですっかり浮き足だっていた。馬鹿につける薬はない。

むむ、「前編」しかない、って書いたんだけど、この調子で行くと物凄い長文になりそうなので、とりあえずこの辺にして、大学時代は「中編」として別に書くことにしよう。というわけで続く。

written on 25th, nov, 2008

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