autobiography

「自伝(中編)」

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さて、と。何故大学時代を中編として独立させたかというと、まあ前編が長くなり過ぎたというのもあるけれど、前編の18年に比べてたったの5年間ではあるけれど、この時期は僕の人生にとって転機となる時期だったからだ。

まだ浅い春の日、僕は中野の駅に降り立った。学校が四谷だったので、同じ中央線の中野にある下宿に住むことになったのである。これは僕が決めたわけではなくて、父が決めた。まあ、僕はまだ、東京なんてなんにも知らなかったしね。駅を出て線路伝いに歩き、最初に目に入った喫茶店に入った。なんて名前の喫茶店だったかは忘れた。僕のことだからコーヒーを飲んだのだろう。そこで僕は何を考え、思ったのか。今となってはまったく思い出せない。喫茶店を出て、さらに線路沿いの住宅街を歩き、途中でマーサ三宅のジャズボーカル教室を通り過ぎ、角の美容室からジェフ・ベックの「Air Blower」が聞こえてきた。ああ、俺は東京にいるんだなあ、と思った。

今の若い人はもしかしたら知らないかもしれないが、下宿というのはアパートと違って、入り口こそ違えど、大家の家の一室を間借りすることである。つまり、大家と同居していることになる。僕は2階の四畳半一間に住むことになり、すぐに隣の部屋の同じ大学に通う通称「おっさん」と仲良くなった。なんで「おっさん」なのかと言うと、二浪していたからである。彼は確か四国から出てきて、やたらと饒舌な男だった。ともあれ、このころ間違いなく入学式というものがあり、それに僕は出席した筈なのだが、まったく記憶がないのである。まあ恐らく緊張と不安で頭が真っ白になっていたものと思われる。最初の授業が一体なんだったのか、全然覚えていない。ただ、教室に入ってクラスの全員を見渡すと、女子が半分以上だということに気づいた。おまけに可愛い子が多い。おお、俺の選択は間違っていなかったのね、なんて思った。クラスで一際目を引いたのは、まるで少女漫画から抜け出したような、それまで見たことのない、長髪の美少年だった。それがベースのアラキヨウタロウとの出会いだった。彼の父親は東大の仏文の教授で、僕らが使っている辞書を作っていた。女の子で一番目を引いたのは、一番前に座って教授の言葉にいちいちうなずいている美少女だった。それがタカハシマユミだった。彼女は岩手の出身だった。もう一人、男子で目立っていたのは、まるで牛のように体格がよく、やたらと声のでかい男。それがミヤザキ。彼は東大を目指して一浪していた。とにかく、ミヤザキは猪突猛進というか、イノセントというか、やたらと直球だけを投げまくる投手のような、単純で純粋な男だった。アラキヨウタロウとミヤザキとは、いつの間にか無二の親友になっていた。僕はとにかくやたらとシャイな男だったので、僕の方から近づいたわけではなく、彼らの方から僕に近づいて来た。クラスのみんなが初めて顔を合わせたころ、新宿の深夜喫茶で皆であだ名をつけようということになった。それで僕は「すけざ」になった。アラキヨウタロウは確か「ヨウちゃん」だったと思うが、僕は最初からずっとヨウタロウと呼んでいた。ミヤザキは本名のタケシをもじって「ゴウ」と呼んでくれ、と自己主張したが、誰も相手にせず、「牛」とか呼ばれたりしていたが、結局ミヤザキはミヤザキ、ということで収まった。ちなみにタカハシマユミは「マユ」。

僕はとにかく音楽をやるとは決めていたのだが、一体どのサークルに入っていいかよく分からず決めかねていた。そこに、やっぱり高校時代からバンドをやっていたミヤザキとヨウタロウが、大学公認の「フォークソング愛好会」に入ろうと誘ってきたので、一緒に入ることにした。「フォークソング愛好会」とは言っても、フォークをやっている人間はほとんどおらず、要するに公認のサークルなので学校のスタジオを使える、というだけの話。「軽音楽同好会」という非公認のサークルもあったが、そっちは地下の薄暗い部屋で練習するサークルだった。ドラムのミヤザワはそっちの方に入っていた。結局、マユも含めて、クラスから確か4・5人がフォークソング愛好会、通称フォークに入った。僕らはいつもカフェテリアにたむろしていた。正直言って、僕は一年のときに何をやっていたか、あまりよく覚えていないのだ。何故かというと、僕が自分のバンドを始めたのは、キーボードのヤマザキと出会ってからであって、ヤマザキは一学年下なので、そうすると二年になってから、ということになる。そう言われてみると、僕が最初の曲を書いたのは、レミと付き合っていたころで、やっぱり二年のときなのであった。とすると、一年のときに僕はサークルで何をやっていたのか? 不思議なことにぜーんぜん覚えていない。とにかく音楽はやっていたのだけれど。

ところで、例の中野の下宿だが、結局僕は半年で出てしまった。というのも、やっぱり大家と同居というのはどうしても窮屈で、どうも一人暮らしをしているという感覚に欠けるからだ。そんなわけで、僕は高円寺の駅から5分の、家賃1万5千円の日の当たらない四畳半一間のボロアパートに引っ越した。もちろん風呂など付いているわけはない。当時の学生用のアパートはほとんど風呂なし、共同トイレであって、四畳半からスタートして六畳にグレードアップする、というのがスタンダードなコースだった。まだ四谷に3畳で5千円、なんて物件もあった時代だ。銭湯は200円だった。松本霊ニの漫画そのまんまみたいなボロアパートは、窓を開けると隣のアパートと1メートルも離れておらず、手を伸ばせば届く距離であり、従って日が当たる筈がない。一応、半畳ぐらいの玄関らしきものはあり、そこに石造りの小さな洗面所だけは付いていた。電話も共同で、アパートの入り口のところに公衆電話が一台あり、鳴ったら気がついた人間が出る(大概はその電話の隣の部屋の人間が出るのだが)ことになっていた。このオンボロなアパートに引っ越してから、僕の第二の人生が始まったと言ってもいい。どれほどオンボロかというと、アパートには予めネズミ捕りが壁にいくつかぶら下げてあり、ネズミが洗面所の管の隙間から縦横無尽に出入りしていた。冬ともなると、帰ってコタツに入ると何匹かのネズミが飛び出す、という始末。一度など、玄関の障子に開いた穴からこちらを覗いている奴までいた。ある日、女子学生が引っ越してきて、引っ越した当日に絶叫が聞こえて、その日のうちにその女子学生は退去した。まあこのアパートに引っ越してからというもの、ミヤザキやヨウタロウがやたらと泊まりに来て、四六時中たむろしていた。このころの高円寺は、ジャズ喫茶の全盛期で、貧乏学生と貧乏ミュージシャンの溜まり場と言ってよかった。そこら中をネパールの服かなんかを着たキリストみたいな風貌の奴が歩いていた。僕も暇さえあれば地下のジャズ喫茶に行って、コーヒー一杯で延々とアルバムを聴いていた。キース・ジャレットの「ケルン・コンサート」がやたらとかかっていた。ロック喫茶というのもあった。僕のアパートから駅と逆方向に歩くとすぐに早稲田通りに出て、そこを右に曲がると「漂泊人(さすらいびと)」という深夜喫茶があった。そこには「がんばれ元気」が全巻揃っていて、主にロックを中心にかけていた。僕は夜ともなると毎晩のようにそこに入り浸った。そこで、ジノ・ヴァネリのアルバム、「Brother to brother」と運命の出会いというべきものを果たした。それぐらい僕には衝撃だった。全身が総毛立つほど。それまで、これほど完成度の高いアルバムは聴いたことがなかった。これほど、あらゆるジャンルが高いレベルで融合している音楽を聴いたことがなかった。

どうも僕の記憶の中では時間が混乱していて、どれが何年のときか判然としないものも多い。例えば合宿。クラスの合宿、サークルの合宿。クラスの合宿ではフランス語劇の演出を誰がやるかで大激論になった。僕は関係ねえや、と思っていたが、いつの間にか準主役の王子役をやらされる羽目になっていた。えーと、その劇がこれ。確か一年のときのサークルの合宿は、武蔵嵐山でやったと思うのだが、ミヤザキが酔っ払って3mの高さの岩から落ちて気を失い、救急車を呼んだら、救急隊員に向かって「俺を誰だと思ってるんだ。なんならニーチェの講義をしてやろうか」と喚いた。ま、そんな奴だった。中禅寺湖の湖畔でやった合宿のときは、ミヤザキはまたも酔っ払って湖畔を走っていた車の前に立ちはだかり、何を思ったかその上に飛び乗り、驚いて発車した車の上に映画みたいにしがみついていた。僕らは一様に唖然としてそれを見送り、死んだな、と思ったが、やがて湖を一周した車がミヤザキを乗せたまま戻ってきて止まり、ミヤザキはひらりと飛び降りるとドアを蹴っ飛ばしてバカヤロウと捨て台詞を吐いた。まったくとんでもない奴である。もちろん、車は恐怖のあまり走り去った。千葉で合宿をしたときはヤマザキが急性アルコール中毒で一夜にして白髪になったが、これはfragmentsに書いたので割愛。これ

当然のことながら、僕はいろんな女の子に恋をした。最初にいいな、と思ったのはマユだったが、ま、高嶺の花だな、と思って最初から諦めていた。しかし、ヨウタロウに言わせると「クラスの女の子の半分はスケザに惚れてる」らしく、どうしてだかやっぱり僕は何故か妙にモテるのであった。しかし、先にも書いたように僕はとんでもなくシャイで、田舎者であるというコンプレックスの塊であって、寄ってくる女の子から逃げ回ってばかりいた。例えば、コンパがあるというので生まれて初めて六本木に行き、ロアビルの前でヨウタロウと待ち合わせをしていると、OL風の女性に声をかけられ、僕は怖くて走って逃げた。ま、阿呆である。そんなわけなので、恐らくモテるにはモテたのだが、僕はとんでもなく奥手だった。上智は出席が厳しく、フランス語の授業はとてもじゃないけどサボることは出来ず、高校のころから既にフランス語を習っていた都内出身の奴とか、帰国子女とかが一杯いて、僕はますますコンプレックスを抱いた。友人はどんどん増えた。青森から来たスズキコウメイは詩人を目指していた。彼は僕のことを血が熱いと言った。スズキコウメイはいつの間にか授業に出なくなり、やがて中退して行方不明になった。長野から来たアカハネは眼鏡をかけたひょろりと背の高い男で、長野弁が抜けず、いかにも気の弱そうな、田舎者然とした男だった。彼は僕の隣の駅である阿佐ヶ谷のアパートに住んでいて、僕はときおり遊びに行って、キャベツの千切りの仕方を教わった。アカハネは後に30歳ぐらいで自殺してしまう。理由はいまだに分からない。

二年生になってからのことはわりかし覚えている。この年は僕にとってかなり重要な出来事が多かった。キーボードのヤマザキとの出会いは僕にとって非常に運命的な出会いだった。仏文の後輩に紹介されてヤマザキのピアノを初めて聴いたとき、ハービー・ハンコックを彷彿とさせるジャズ・ピアノに唖然とした。それで僕はヤマザキをキーボードにして自分のバンドを組んだ。ベースはもちろんヨウタロウである。ドラムはアキヤマ。僕はギターである。インストゥルメンタルのオリジナルをやった。曲は最初全部僕が書いた。いわゆる今でいうジャズ・フュージョンのバンドである。バンドの名前は「SUKEZA」という名前だったのだが、何故か誰もが「スケザバンド」と呼んだ。このころ、僕はヨウタロウから彼の高校の同級生であるレミを紹介された。ヨウタロウは鵠沼海岸という湘南の出身で、高校は鎌倉高校だった。レミは青山女子短大、いわゆる青短の生徒だった。背は小さいが、妙に大人びたところがあった。綺麗な子だった。レミも含めて、ヨウタロウの高校の友人たちは東京の子でもない、どこか今風な感じがした。そのころ、僕は同じサークルのフクシマタミコに好意を持っていた。その年の夏、僕はヨウタロウの叔父さんがやっている、長野の野尻湖の傍にある黒姫高原のペンションにヨウタロウと一緒に居候をすることになった。というのも、野尻湖畔には外人村と呼ばれる外国人が住んでいる場所があり、そこのパーティーが湖上で行われるのでバンドをやって欲しいと言われたからである。ヨウタロウの叔父さんはサンカクさんと呼ばれていた。僕らは屋根裏部屋で寝泊りした。屋根裏部屋は結構な広さで、関西方面から来た学生や、僕らのように東京から来た学生が、10人ほど寝泊りしていた。その中にレミもいた。僕らは基本的に普段はペンションの仕事を手伝い、僕はサイフォンでコーヒーを淹れ、野尻湖で生まれて初めてヨットに乗った。フクシマタミコもペンションに遊びに来る予定になっていた。そのうち、どういうわけか、ヨウタロウを含めたほとんどの人間が一度帰ることになり、ペンションには僕とレミの二人だけが残された。なんか、映画のシナリオみたいだ。僕らは当然のように恋に落ちてしまった。僕は生まれて初めてキスをした。最初のキスは煙草の味がした。僕らは二人でペンションの裏手の藪の中に突然開けてある公園みたいなところで話し、山道を手を繋いで歩き、立ち止まってはキスをした。しかし、それ以上の関係にはならなかった。そのうち、みんなが戻ってきた。おまけにフクシマタミコもやってきた。しかし、僕はすっかり上の空になっていた。僕はレミから同じ居候仲間の一つ年上の男と寝てしまったという告白を受け、しかし一旦落ちた恋から這い上がることも出来ず、自分の中でひたすら葛藤を繰り返していた。そのころの僕はとんでもなくやきもち焼きで、その嫉妬深さが故にますますレミに惹かれていくという矛盾のさなかにいた。ペンションでの生活から上の空のまま東京に帰り、僕は絵本の営業のバイトをした。暑い夏だった。僕は毎日黄色いTシャツを着て飯田橋の会社を片っ端から飛び込み営業をして、それは僕の性格上もっとも苦手な部類の仕事なのだが、僕はうだるような暑さの中、頭の中はレミのことで一杯で常に地上から50cmぐらい浮いているような状態だった。毎日が現実とは思えなかった。僕は飯田橋のOLから黄色いTシャツのお兄さん、と呼ばれた。結局、僕はレミを忘れることなど出来なかった。僕らは再会し、日の当たらないボロアパートで僕は遅い初体験を済ませた。毎晩、薄暗いアパートの廊下にうずくまって電話で長々と話した。彼女の通う大学の傍の喫茶店でデートをした。僕は一体何を話していたんだろう。ある日、レミから電話がかかってきて、しばらく会いたくない、と言われた。理由は聞かないで、とにかくしばらく会わないで、と言った。僕はまったく理解出来なかった。彼女を放っておく余裕も、包容力も持ち合わせていなかった。僕はただひたすらどうして、と繰り返すばかりだった。僕は我慢が出来なくて、レミがバイトをしている藤沢の喫茶店まで出かけて、彼女が出てくるのを待った。しかし、彼女はいなかった。すれ違えばすれ違うほど、僕は焦った。しかし、僕が追いかければ追いかけるほど、レミは僕から離れていった。しばらくして、僕は自分が振られたことにようやく気づいた。しかし、それが自分が招いたものであることに気づくほど、まだ大人ではなかった。

僕はありとあらゆるバイトをした。靴屋の店員、喫茶店のウェイター、絵本の営業、工事現場での基礎タイルの清掃、避難器具の点検、家庭教師の営業、モデルの勧誘、代筆、ビラ配り、音楽雑誌の編集、などなど。一部はfragmentsに「アルバイトな日々」として書いてある。当時は時給500円が普通だった。一番時給がよかったのは工事現場のバイトだったが、一番ハードだった。朝六時半に八王子の駅集合、なんて、今では考えられないことをやっていた。バンドの方は順調だった。僕は高校時代から変わらず本番に弱かったが、ときにはいいパフォーマンスをしたりもした。例えば、高田馬場でビクター主催で行われた大学対抗ジャズコンテストなんかでは、会場の評判は一番高かった。にも関わらず、審査員曰く、ジャズと言えるかどうか疑問、ということで何の賞ももらえず、例によってミヤザキが大声で騒いだ。吉田拓郎のラジオ番組主催のコンテストでは最終審査に残り、六本木のピットインで演奏した。いつの間にか、なんとなく、僕らも周りも、僕らはプロになるのだ、と思っていた。そんなころ、ヒマリに出会った。サークルの奴が連れてきた彼女は、僕がこれまで見てきた誰よりも魅力的な女の子だった。僕は例によって、これは高嶺の花だ、好きになっちゃいかん、と決め付けた。ところが、どういうわけかヒマリが僕のバンドのボーカルをやることになった。僕が曲を書き、ヒマリが詞を書いた。僕は女として見ちゃいかん、とずうっと自分を戒め続け、ヒマリを一人のシンガーとして見る、もしくはただの友人として考えるようになった。あれは三年のときだろうか、四年のときだろうか、僕が二度目の引越しをして高円寺から徒歩20分の六畳のアパートに移ってからのことだ。ある日、ヒマリから電話がかかってきた。彼女は泣きながら、僕のことが好きだ、と言った。僕は意味もなく外に出て歩き回り、生まれて初めて神様に感謝した。こうして僕はサークルで一番美人の彼女を持つことになった。

少々話は前後する。僕が学生時代を通してやっていたことは、バンドとパチンコぐらいだ。パチンコはヒコーキと呼ばれた羽根物が登場して、僕は日々悪戦苦闘してすっからかんになり、僕と同じ上智を受けて落ちて予備校に通っている弟の住む野方の下宿まで歩いていって、弟に金を借りたりしていた。一年浪人した弟は翌年も上智を受けて、僕はバンドの連中を連れて弟と一緒に合格発表を見に行った。そこに弟の番号はなかった。なんとも言えない空気が漂い、僕は弟に本当に悪いことをした、と思った。弟は結局立教に入った。大学生になった弟は、やっぱり僕と同じ高円寺のアパートに引っ越した。僕らはよく一緒に食事をした。ある日、弟のアパートで二人でこたつに入ってぐだぐだしていると、そのうちお互いに無口になり、なんだかぼんやりしてきた。ふと気がつくと意識が薄れていることに気づいた。もうそのときは二人とも完全に無言になっていた。それで僕はシューシューという音と部屋中にガスが充満していることに気づいた。慌てて窓を全開して、僕らは心中せずに済んだ。

四年になり、皆が就職活動をしているときに、僕は相変わらずバンドをやっていた。就職活動は一切しなかった。僕はすっかりミュージシャンになるつもりでいた。単位は足りていたので、卒業しようと思えば出来た。しかし、僕は卒論を出さなかった。もうちょっとこのだらだらした生活を続けたかった。ま、単なるモラトリアムである。ちなみに、ドラムのアキヤマはメキシコに留学して、代わりにミヤザワがドラムをやっていた。テクニックはミヤザワの方が上だった。ミヤザワは既に今で言うプログラマーとして稼ぎまくっていて、学生でありながら会社を立ち上げていた。そういえば、どういうわけかミヤザキとはこのころから自然と距離を置くようになり、いつの間にか疎遠になっていた。ヨウタロウは卒業し、大学院に進んだ。ヒマリも卒業して、日本フォノグラムというレコード会社に入った。ミヤザキは教師になった。僕だけがただぼんやりしていた。

留年した五年め、僕は目黒にあるヤマハ音楽振興会でバイトを始めた。出版部で、雑誌の編集をやった。社員と同じようにフルタイムで働いた。学校にはバンドの練習以外すっかり行かなくなり、毎日目黒に通っていた。そのころ、ヒマリは「待つわ」が大ヒットしたあみんの宣伝を担当していて、僕らはすれ違いが多くなっていた。ヒマリの方が忙しくて、会えない時間が多くなった。一足先に社会人になったヒマリがやけに大人に見えて、一体自分は何をしているのだろう、などと考えた。自分の将来がやけにぼんやりと霞がかって、一抹の不安を覚えた。でも結局はま、いいか、ってことになるのであった。なんか、どうにでもなるような気がしていた。さすがにもう一年留年するのは仕送りする親にも悪いと思い、僕は卒論を書いた。テーマは「マルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』について」。元々フランス文学には興味がなかったので、なんでもよかったのである。だから、興味本位で選んだ。文庫本を数冊読んで、例によって書きながら理屈をでっち上げた。フランス語の方はヨウタロウに一万円で書いてもらった。この卒論は思いのほか教授に褒められた。よく出来ている、と。僕の方は、あっそう、っていう感じだったが。この年は一応就職活動をした。もっとも、受けたのはレコード会社だけ。ディレクターになろうと思ったのである。例によってなんとなくだけど。ところが、ことごとく最終面接で落とされる。とにかく、年寄りの役員に受けが悪い。入ったらどうせ言うこと聞かないんだろう、とか言われた。要するに生意気に見えたんだと思う。僕はだんだん焦ってきて、音楽出版社とかテレビの制作会社とかも受けたが、ことごとく落とされた。たぶん、この顔が悪い。それと、勝手に出てくる理屈が悪い。とうとう3月になっても就職先が決まらず、僕は途方に暮れた。それで、バイト先のヤマハの上司が社員にならないか、と誘ってくれたのだが、驚くべきことにここでも落とされた。いやはや。それである日、新聞の求人欄をぼんやりと見ていると、業界誌のオリコンの求人があった。営業の募集だった。ま、いいか、と思って一応受けに行った。すると、どういうわけか受かった。謎である。そんなわけで、ミュージシャンになる筈だった僕は、気がつくと業界誌の営業をやる羽目になったのである。

なんだかんだ言って一応社会人になった僕は、ヒマリとようやく対等になれた筈なのだが、会社の給料があまりにも安い(手取りで10万を切っていた)ということと、営業をやっているということで、僕はさらなるコンプレックスを抱くようになった。ある日、ヒマリが「私と結婚する気あるの?」と聞いてきた。僕は、分からない、と答えてしまった。正確には、自分に自信がなかったのである。現在、つまり当時の自分に。それからしばらくして、ヒマリは驚くべき告白をした。宣伝部の先輩とホテルに入ってしまった、というのである。その先輩というのは、以前から熱心にヒマリを口説いていた。僕は唖然とした。呆然とした。自分がどうしたらいいのか、さっぱり分からなかった。それでも僕らの関係はまだ続いた。しかし、唐突にその日がやってきた。ある日、ヒマリが僕のことを嫌いになった、と言った。僕の目が嫌いなのだと。僕は絶対に彼女を許さないだろうと。そうしてヒマリは僕の元を去っていった。僕には到底信じられなかった。最初の電話、あれほど劇的な告白をされたのは初めてだった。その彼女が心変わりをするなんてことは考えも及ばなかった。まったく理解不能だった。だから僕は彼女は嘘を吐いている、と思い込んだ。僕のことを嫌いになる筈がない、と。それから僕は今で言うストーカーのようになった。会社が同じ六本木にあるということもあって、朝の六本木駅で延々と彼女が来るのを待ったりした。四谷の彼女の自宅の前で、深夜の2時まで待ったりもした。挙句の果ては、その先輩と会わせてくれ、と彼女に頼み、喫茶店で会った。その人は、小太りで、背もちょっと低く、正直、ぱっとしない凡庸な男だった。僕は驚いた。しかし、彼の目はとても優しい目をしていた。ああ、俺はこんな目をしていないなあ、と思った。自分が見苦しい真似をしているのは十分承知だった。でも、止められなかった。ある日、僕は四谷見附の橋にもたれながら、現実というのはどうあがいても、どんなに願っても、何をしても変わらないのだな、と思った。それから僕がヒマリのことを吹っ切れるまで、20年を要した。

中編了。実を言うと、ここからが面白いのだが。僕の人生というのは。でも、それには本一冊分では足りない。実際、当時はレミのことだけで本が一冊書けると思っていた。ヒマリのことがあって、僕は決定的なものを失ったと思った。ちょっとやそっとの喪失感ではなかった。ところが、人生とは面白いもので、そこから僕の波乱万丈な人生が始まるのだった。そんなことは夢にも思わなかった。あの四谷見附の橋で、僕は完全に空虚と化したと思った。現実と乖離したと思った。レミは今でも年賀状をくれる。しかし、電話しても出ないし、メールしても返事は来ない。彼女はホントにクールな女なのだ。実際のところ。去年だったか、20年振りにヒマリに電話をした。当然のことながら、俺、すけざ、と言うと、彼女は素っ頓狂な声を上げて驚いた。20年振りに聞くヒマリの声は実にあっけらかんとした声に聞こえた。気がつくと僕は自分の病気のことを延々と説明していて、はて、俺は一体何のために電話したんだっけ、と思った。電話を切っても、一体何の意味があったのか、さっぱり分からなかった。たぶん、僕は長年しこりのようになっているものをすっかり削ぎ落としたかったのだろう。でも、それはただの気のせいだった。もうとうの昔にしこりなんてものは存在しなかったのだ。それはただのセンチメンタリズムに過ぎず、ただの思い込みに過ぎない。僕が知っているのは、20年前のヒマリであり、20年前のレミなのだ。どういうわけか、いまや僕も大人だ。自分の人生を振り返ると、あらゆる局面で間違いを犯し、あらゆる選択を間違い、全てを後悔しているにも関わらず、悪くないな、と思う。僕は好き勝手に生きてきた。それ以上のものなんてあるかい?

最後に、これは自伝という性格のものなので、登場人物はすべて実名です。たぶん、レミやヒマリがこれを読むことはないだろうけど、もし読んだら傷つくだろうな。でも僕は書かざるを得なかった。君たちを抜いたら、僕の青春はなかった。ヨウタロウは今はアレンジャー、キーボーディストとして活躍中。ヤマザキはジャズ・ピアニストとしての生き方を頑固に貫いている。アキヤマは某有名IT企業に勤めている。ミヤザワは会社を11社も立ち上げ、今も世界中を駈けずり回っている。弟は銀行員として堅実な人生を続け、二人の子供を持ち、一戸建ての自分の城を持っている。さて、僕は? それは皆さんがご存知の筈。すべての人に感謝。

written on 30th, nov, 2008

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