autobiography

「自伝(後編):その1」

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さてと、書くぞ。って、ここまで辿り着くのに一体どれぐらいの時間が経過したのだろう? もちろん病気のせいが一番なのだけれど、大学を卒業してからの僕の人生は、あまりにもいろんなことがありすぎて、それも本田の無回転シュートのようにどういう軌道を描くのか予想もつかないものだったので、頭の中で構想を練ろうとすると一体どれをどこまで書いたものやら収拾がつかなくなり、終いにはどうやって書いていいのか皆目分からなくなり、途轍もなく面倒なことに思えてしまうのだった。いずれにしても、たかだか数日の話なのに大長編なんて作品が文学史上にざらにあるように、フォーカスの当て方次第でいくらでも長く書けてしまうものだけれど、そこはそれ、別に小説を書こうという話でもないので、短くまとめようとすると所詮上っ面を表層的になぞることしか出来ない。でもそれじゃあ読んでる人がつまらないだろうから、なんて考え始めるといつまで経っても書けないのでとりあえずケセラセラ的に見切りスタート。

大学を卒業後に勤めたオリコン時代のことは、大体「1984」に書いてあるのでそちらを参照して欲しい。そこに書いてあるようなだらだらとした3年間をぼんやりと過ごしたに過ぎない。先に会社を辞めたのは僕と同時に入社したイシイさんの方だった。彼はある日突然、門前仲町にあったマンションを売り払い、長野県の松本の郊外に別荘を買って、そこに引っ越すことにしたのだった。松本? と僕は当然最初に聞いてびっくりしたのだけれど、会社を辞めることについてはちっとも驚かなかった。僕らは給料は安いけれどただ楽なだけで何もしていないに等しい日々をだらだらと過ごしていたに過ぎなかったのだから。終身雇用が当たり前だった当時、このままぼんやりと定年まで勤めるのだろうかと想像すると暗澹たる気持ちになったし、正直ぞっとした。まあ確かにテレビに出ているタレントがしょっちゅう挨拶に現れるような会社ではあったけれど、そんなものは何の気休めにもならない。オタクにとってはいい環境なのかも知らないが、くだらない歌を奇妙な格好と振り付けで偽りの愛想を振り撒きながら下手糞な歌を歌ってちやほやされている連中になど何の興味もなかった。

そんなこんなで3年目を迎えたある秋の日、高円寺から徒歩20分のボロアパートで寝転んで新聞を読んでいた僕は、いつもなら目もくれないような2行か3行のちっぽけな求人広告に何故か目が止まった。そこには「作家マネージャー募集」と書いてあって、編曲家のマネージャーとだけ書いてあった。その、「作家」という部分と「編曲家」という部分だけに目が止まったのである。広告を出しているのは雲母社という聞いたこともない会社だった。マネージャーってのは抵抗あるなあとか思いながらも、とりあえず現状を脱却しなければ、と常に考えていた僕はとりあえず電話してみることにした。それで初めて雲母社と書いてキララシャと読むことがわかった。とにかく履歴書を持って面接に来てくれというのでよく分からないけれど行ってみることにした。

当時のキララシャは南青山の骨董通りの1本裏にあるマンションの2部屋にあった。最初に僕を面接したのは後に僕の上司になるアベだった。自分が何を話したのかはまったく覚えていないし、僕は特に何かをアピールできるようなものは何も持っていなかった。子供のころから音楽をやっていて、学生時代までバンドをやっていた、ってことぐらい。まあとにかくそこで初めてキララシャがマツトウヤ夫妻の会社であることを知り、マネージャーを募集しているのはシンカワという当時そこそこ売れていたアレンジャーだということを知った。シンカワの名前は僕も知っていた。ま、業界誌に勤めているのだから当たり前だが。マツトウヤ夫妻の会社と言われてもピンと来なかった。僕が聴いていたのはほとんど洋楽だったし。それは次に社長であるマツトウヤ本人(旦那の方、妻であるマツトウヤユミは副社長)と面接したときもそうだった。目の前にたまにテレビで見かける人間が僕に向かって話しているということ自体になんか現実味があまりなかったし、僕の方も特に相手が有名人であるということで緊張なんてしなかったし緊張する理由もなかった。だから何? って感じ。まあどうせ採用されないだろうということが頭にあったことも確かだ。

ところが、どういうわけか僕は採用された。会社が募集をかけたのは、シンカワのマネージャーが年末一杯で退社するためだった。そんなわけでそのヌマタという僕より2つばかり年下のマネージャーが退社するまでの2ヶ月間、僕は引き継ぎをすることになった。朝は普通にオリコンに出社して、夕方退社してからスタジオに行き、レコーディングが終了する午前2時ごろに帰宅するという日々が続いた。まるで夜娼婦をやっているOLみたいだ。とにかくハードな2ヶ月間だった。そのときは新富町の音響ハウスというスタジオで新人の女性シンガーソングライターのアルバムのレコーディングをやっていた。ヌマタは一見して曲者と分かる人物だった。いかにも業界人然としているが、小心者が虚勢を張っているのがすぐに分かった。まあ小心者という点では僕の方がワールドクラスだ。どっちにしても少なからず虚勢を張らないと足元をすくわれる業界だというのはおいおい分かった。シンカワはプルートそっくりの、髭面の巨漢だった。僕よりも4つばかり年上で、チャーとかと同級生。この年代のミュージシャンはやたらと多い。まあとにかく無我夢中だった。人一倍シャイで人見知りする僕が、毎晩右も左も分からないところでひたすらレコーディングが終わるのを待つ。だが、確かに僕はまだ若かったし、体力もあった。もしかしたら東北人の我慢強さ、ってやつだったのかも知れない。とにかくようやく年末が来てオリコンを退社したときは心底ほっとした。

新人のアルバムのレコーディングが終わったのは年を明けてからだった。僕一人でマネージメントをして初めてレコーディングをしたのは、ミナミノヨウコのシングルだった。彼女は当時ドラマ「スケバン刑事」に主演していて、その主題歌だった。リズム録りをしたのは今でも覚えているが、1月15日、成人の日だった。担当のディレクターはソニーのヨシダカクで、後に僕は彼にソニーに引っ張られることになる。当時のレコーディングは、まだシンセサイザーが目新しかった時代で、生のリズムセクションによるリズム録りに半日、シンセサイザーのダビングややサックスのようにリズム楽器ではないもののソロ、ブラスセクションや弦といったものに半日から1日というスケジュール。基本的にはボーカル録りが終わった後にコーラスを録るのだが、アイドルとかの場合は仮歌の時点でコーラスをレコーディングすることもしばしば。レコーディングは早い方が13時スタート、遅い方は18時スタート。基本的には13時からリズム録りをして18時以降はダビングもしくは違うプログラムのリズム録り、という感じで終わるのは大体午前2時か3時、それを毎日繰り返す。当時のシンカワはかなり売れっ子のアレンジャーで、レコーディングが途切れるということはなく、ことマネージメントということに関しては営業するよりもむしろ断ることがメインだった。いかに上手く断るか、断っても次にまた依頼されるようにするか、よりメジャーなアーティストの依頼が入ったときに既に入っているスケジュールをいかに上手にキャンセルするか、もしくは無理やりでも詰め込むか。僕の仕事はそんな仕事だった。スケジュール帳には先までびっしりとスケジュールが埋まっていて、そこに違うプログラムを入れるのは一見不可能に見える。それをいかに可能にするかということ。無理と思ったらアイディアは浮かばない。ありとあらゆる方法、手練手管を考える。ナポレオンの言う、「我輩の辞書に不可能はない」って奴だ。結局のところはそう思うか思わないかという違いしかない。

僕は基本的にはレコーディングが終了するまでスタジオのロビーでひたすら待つ。今はそんなマネージャーはいないが、当時はレコーディングが終わった時点でシンセのダビングが何トラック、とかを数えてコーディネイターにギャラを伝えるという、まだ原始的なスタイルだった。シンセサイザーがまだ珍しく馬鹿高い時代だったので、楽器使用料というのもあり、これが結構馬鹿にならない。今では考えられないが、1番安い20万ぐらいのヤマハのDX7の楽器使用料が1万5000円。あっという間に元が取れてしまう。ある種ミュージシャン連中にとってはバブルな時代だった。スタジオの中にいるのはアレンジャーとミュージシャン、レコーディングエンジニア、アシスタントエンジニア、それにマニュピレーターとも言われるシンセサイザーのプログラマー。シンガーソングライターだったらアーティスト本人。ディレクターはスタジオの中にいたりロビーにいたり。ロビーにいるのはアレンジャーのマネジャー、つまり僕と、インペグと呼ばれるコーディネイター、レコード会社のディレクター、ボウヤと呼ばれるローディー(楽器をセッティングしたり片付けたり運んだりするミュージシャンの付き人的な若者)、あとはアーティストの事務所のマネージャーがいたり、作家(作曲家とか作詞家)がいたり。連日違うプログラムなのでほとんど毎日初めましての世界である。僕はすぐに、地の自分ではとてもやっていけないということに気づき、仕事をするときの違うキャラクターを作ってそれを演じていた。つまり、ずうずうしくてなれなれしく、ずけずけと物を言うキャラクターである。何しろ初めて会った人とその日のうちに仲良くなって次の仕事をもらえたり依頼出来るようにしなければならない。結局のところ、僕もヌマタと同じ、一見いかにも業界人というスタイルを取らざるを得なかった。すぐに僕はスタジオに到着すると自動的にその人格になるようになり、演ずる必要はなくなった。

当時のアレンジャーというのは、今のミュージシャン・プロデューサーと違って印税のようなロイヤリティーは曲でも書かないと一切なかったので、曲ごとの編曲料を除けば日雇い仕事と同じで働いた日数、時間分しかギャラがもらえない。だから1年で稼げる額は限界があった。だいたい3000万ぐらいが上限だったと思う。だから休みも2週間に1回程度、それも急な仕事が入ると入れざるを得なかったりもしたので印象としてはマネージャー時代は一年中毎日スタジオにいた気がする。会社にはほとんど行かず、11時ぐらいに起きて13時にスタジオに入る。会社に行くのは経費を仮払いしてもらうときぐらい。これが結構馬鹿にならなくて、スタジオの食事代は全部僕が払っていたので、後は帰りのタクシー代とかもあり、月に20万の仮払いをもらっていた。だから給料は安くてもほとんど経費で生活しているようなものだった。まあちょうどバブルのころだったし。タクシーの白紙の領収書を一冊もらったり、出前の領収書も白紙でもらったり、そんなことに精を出していた。なにしろ広告代理店や大手の商社は1万円までは領収書はいらない、なんて時代だった。

前述のように給料は安かったが、冬のボーナスは少なくとも半年分はもらえた。そんなわけで、最初の冬のボーナスで僕は高円寺から徒歩20分のボロアパートから世田谷区用賀の瀬田の交差点近くの2DKのアパートに引っ越した。なんでかっていうと、シンカワもマツトウヤ夫妻もみんな瀬田の交差点辺りに住んでいたから。そのころの用賀の東名の入り口付近はアメリカ村と呼ばれて垢抜けた高級ファミレスが立ち並んでいた。僕のアパートのすぐそばにも大きなドライブスルーのマクドナルドがあった。駒沢通りや駒沢公園通りにはトレンディドラマの撮影にも使われるいわゆるカフェバー(アメリカっぽく吹き抜けになってるみたいな)がやたらとあった。中古車を買った僕はしょっちゅうそういう店に行って馬鹿高い食事をして、当然ながら領収書をもらって経費で落とした。打ち合わせ名目なので1人分の値段ではかえってまずいので高いものを食べたほうがいいのである。今考えるとホントにバブリーな時代だったなあと思う。車を買う前は平日の昼間から平気でタクシーを使っていたし。一度など池袋の名画座でベルナルド・ベルトルッチの「暗殺の森」という映画を見るために用賀からタクシーで行ったことがある。ま、アホである。ミュージシャン連中の間では自動車電話が流行っていて、一種のステイタスになっていた。だからみんな車には電話のアンテナがついていた。それを思い出すと、どうして今運転中に携帯を使うと罰金を取られるのか解せないところはある。

話を元に戻すと、そんな仕事だったので名刺がどんどん溜まっていく。1ヶ月に100枚ぐらいもらう。それを全部覚えなければいけない。知り合いはそれこそアホのように増えていく。アイドルなんかの歌謡曲、ニューミュージックがほとんどだったので、あらゆる大手のレコード会社、大手のプロダクション、すべてのコーディネイターと仕事をした。今の僕からは考えられないことに、当時の僕は都内のすべてのスタジオとコーディネイターの電話番号を暗記していた。僕にもそれぐらいの記憶力があった時代もあったのだ。売れっ子のスタジオミュージシャン連中はほとんどみんな知り合いだった。最初に友だちと言える存在になったのは、いつも一緒に仕事をするオペレーター(さっきはプログラマーって書いたな)のアンバイだった。彼は同い年で秋田の出身だった。彼は同じプログラマー(どっちなんだ)仲間のハカセというあだ名のキタシロとよくつるんで仕事帰りに渋谷にナンパしに行ったりしていて、僕も盛んに誘われた。要は当時の僕はハンサムだったので(←自分で言うな)当て馬として連れて行きたかったのである。結局僕は一度もナンパには行かなかった。その代わり仕事帰りにアンバイと行き始めたのは、知らぬ間に流行っていたテレクラである。元々シャイな僕は面と向かってナンパは出来ないが、電話なら口説くことは出来た。まだ風営法が施行される前で、テレクラは24時間やっていた。男も女もまだテレクラというものをよく分かっておらず、後にサクラや援助交際目的の電話ばかりになったが当時は本当に素人の出会いたい女性から電話がかかってきた。それも夜中の2時3時という時間に。僕は酒を飲めないし、生活も普通の人と半日ぐらいの時差があったので、出会いというのはホントになかった。学生時代の大失恋の影響で何年も女の子の手も握ったこともなかったのが、その反動なのかテレクラに行くようになってやたらめったら女の子と付き合うようになった。最初に付き合ったのはオオウチさんという人妻だった。彼女は旦那が市場に勤めている関係で、昼夜がほぼ逆転している人だった。僕は生まれて初めてラブホテルというものにオオウチさんと入った。オオウチさんの腕には10代のころのリストカットの跡が無数にあり、今考えると情緒不安定な人だった。大体、深夜にテレクラに電話してくる女性は情緒不安定な人がやたらと多かった。結局、彼女とは僕が用賀に引っ越したことで自然消滅したが、その後は堰を切ったように怒涛のようにいろんな女の子と寝た。まるで村上春樹の小説の主人公みたいに。その半数以上はその場限りの関係で、残りの女の子とは普通に付き合っていた。同時に3人と付き合っていたときもあったが、性格上無理があって全員と一斉に別れたりもした。実際の話、僕は本当に真面目に付き合いたかったのだ。つまり、彼女というものが欲しかったのだ。その手段が当時はテレクラぐらいしか思いつかなかった。僕の小説、「ホリデイズ」の導入部分はオオウチさんの次に付き合ったやっぱり人妻の看護婦との経験を引用している。ホントに会ったその日に睡眠薬を盛られた。いまだに何の意味があったのか不明だ(だから小説を書いた、という部分もある)。まあなんつーか、真面目に彼女を探していたというわりには、3年間に5・60人と寝た。よくエイズにならなかったものである。かなり奇矯な体験を数多くしたけれど、それを逐一書いていると本一冊分ぐらいになってしまう。まあでも面識のない女性と明け方の4時に駒沢通りのデニーズで待ち合わせ、なんてことをしていたのだから、およそ無茶苦茶な世界である。でも正直言って楽しかった。六本木のファッションヘルスで一番の売れっ子という女の子(そのわりには地味なルックスだった)と一度だけ寝たんだけど、1ヶ月ぐらいしてから会社に彼女の静岡の実家で取れたというお茶が届いたり、まあ奇妙な経験は枚挙に暇がない。とにかく、僕は30代の半ばぐらいまで、テレクラで知り合った女の子とばかり付き合っていた。中には5年付き合ったという女の子もいる。だから一応言い訳をしておくと、まんざら不真面目に遊んでばかりいたわけでもない。

そろそろまた仕事の方に話を戻したほうがよさそうだ。I泉さんと知り合ったのは1年目だ。「君は1000%」という1986オメガトライブのシングルのレコーディングが最初だった。それ以来、オメガトライブや杉山清貴、菊池桃子の所属していたトライアングルプロの仕事がやたらと多くなる。シンカワの同級生であるシグマともそのころからの付き合いだ。彼はフリーのアレンジャー・プロデューサーだったが、本当に仲のいい友人で会うたびに仕事ちょうだいと言われ続けてきたのだけれど、結局20年以上付き合って1度も仕事をしたことがない。まあ後に僕が同業者になってしまったので無理もないのだが。僕は性格的にもマネージャーなんて全然向いていない人間だったのだが、いつの間にかどういうわけか有能なマネージャーと思われるようになり、シンカワの友人のアレンジャー、シイナカズオにマネージャーになってくれないかと頼まれたりしたのだけれど、一生マネージャーをやる気はさらさらなかったし、ここだけの話だがシイナのアレンジャーとしての力量もかんがみて、やんわりと断った。まるでサークルみたいに狭い業界だしどこのスタジオやレコード会社に行っても誰かしら知ってる奴ばっかりだったし、気がつくとどこもかしこも知り合いばかり、人脈が広がったのか自分の名前が売れているのかよく分からなかったし、そんなことはどうでもよかった。あまりにもいろんなプログラムを毎日レコーディングしていたので、レコーディングしたアーティスト全員を思い出すことは不可能だ。ある日裏ビデオを見ていたら、ラブホテルで撮影した奴だったのだが、どうやら後ろの方で有線を流しているらしく、自分がレコーディングした曲が立て続けに3曲かかったときはさすがにげっそりした。それはともかく、3年目にシンカワがキララシャを辞めて独立することになった。僕は一緒に来てくれと熱心に誘われた。ちょうど同じ時期に会社を辞めた、最大のコーディネイターであるミュージックランドで一番のやり手だったオオタさんも独立して作家事務所を開くというのでこちらからも一緒にやろうよと熱心に頼まれた。先にも書いたようにどうやら世間からは有能な作家マネージャーと思われていたっぽい。結局僕はどちらの誘いも断ってキララシャに残ることにした。マツトウヤ(旦那のほう。以下同じ。かみさんの方はユミさんと呼んでいたがユーミンと書くことにする)と話をしてどうする、と訊かれたので原盤ディレクターをやってみたいんだけど、みたいなことを僕が言ったらそうしようか、ということになった。もうホントになんちゃっての世界である。そんなわけで僕はユーミンの原盤ディレクターをやることになった。

written on 1st, sep, 2010

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