autobiography

「自伝(後編):その2」

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まずは前回の修正から。前回(その1)夜のスタートを18時と書いたけれど19時スタートの間違いでした。って、元を直せよ、って話なのかもしれないけど。

えーと、原盤ディレクターになったところまで書いたんだったな。何から書けばいいのだろう。とりあえず「原盤ディレクター」から説明すると、原盤というのは本来マスターテープ、つまり音源そのもののことで、いわゆるレコーディングにかかる制作費を原盤制作費と言う。転じて、原盤制作費のことを原盤と呼んだりもする。制作費は必ずしもレコード会社が100%出すとは限らなくて、音楽出版社やプロダクション、事務所サイドがある程度出すこともある、というかその方が多い(原盤制作費を出すと売り上げに応じて印税が入るので)。その割合はケースバイケースだが、ユーミンの場合は事務所サイド、つまりキララシャが100%出している。だから僕が原盤ディレクターになったというのは制作費を出している側のディレクターになったということで、メーカーの担当ディレクターもいるのでディレクターが2人いることになる。こういった場合はメーカーの担当ディレクターはコーディネイター的な役割に徹するので、中身にはほとんど口を挟まない。スタジオで実際にディレクションするのはプロデューサーであるマツトウヤか僕、ということになる。

ユーミンのアルバム制作のスケジュールは普通のアルバム制作に比べるとやたらと長い。まず、苗場のライブが終わった後、3月から4月にかけてユーミンが曲を作る。自宅に篭ったりスタジオを借りたり会社の別荘で書いたりする。この作業はたぶんみなさんが考えているよりもあっさりと終わる。大体、ツアーが始まる前にすべての曲を書き上げる。曲に関してはマツトウヤはあまり口を挟まない。マツトウヤが拘るのはむしろ詞のほう。じゃあ歌詞はいつ書くのかというと、オケが完成して歌入れをする直前に書く。これに関しては「あれ?」と思う人もいるかもしれない。これじゃあまるで夏休みの宿題みたいじゃないか、と。この点に関しては僕は後年ちょっとバランスが悪いと口を挟んだ。レコーディングに半年以上もかけるのにもっとも肝心な詞曲を作る時間があまりにも短い。まあその原因の最たるものは毎年必ず行うツアーのせい。なので、僕はツアーはともかく、少なくとも逗子マリーナのライブに関しては1年おきにするべきだという意見だった。それはともかく、レコーディング自体は曲が上がってくる4月から始めるのだが終わるのはいつも12月の発売にぎりぎり間に合う11月。なんでこんなに時間がかかるのかというと、まずは日本でベーシックなオケを録るのだが、一旦ボーカルを除くオケが形になった時点で大体夏にロスに渡って現地のミュージシャンに差し替える。つまり、ひとつの楽曲を2度レコーディングしているようなもので、当然ながら少なくとも普通の倍の時間はかかる。それで完成したオケを持ち帰ってボーカルを録る。で、日本のエンジニアで仮ミックスする。それを持って再び渡米してロスのエンジニア(当時はマット・フォージャー)でミックスをして同じくロスにあるバーニー・グランドマンがマスタリングを行う。このころには日本ではすっかり紅葉しているころだ。で、そのマスタリング済みのテープを持ち帰って即東芝のスタジオでPOSコードを入れる(めんどくさいから説明は省略)。それをメーカーのディレクターが即工場に持っていく、って具合。まあそんなわけでなんだかんだ言って半年ちょっとかかるのだった。もちろん制作費は膨大な額になる。僕が担当した最初のアルバムが発売された後で、マツトウヤになんでこんなに制作費がかかってるんだ、と訊かれた。なにしろ普通のアルバム制作費の4倍の制作費だから。あんたがそれだけスタジオ使ったからだろ、ともちろん僕は心の中だけで言った。まあこれだけスタジオ使って二度手間、三度手間かけたらこうなりますよ、と僕は言った。

これは誰にでも訊かれることなんだけど、ディレクターって一体何やるの、ってことだが、このころはスタジオ内のディレクションはほとんどプロデューサーであるマツトウヤが行い、僕はロビーで延々とゲームボーイのゴルフゲームをやっていた。お陰でゴルフゲームがやたらと上手くなった。まあもちろんゴルフゲームだけじゃなくて一応レコーディングのスケジューリングや制作費の管理なんかもやっていたことにはなるのだが、とにかくユーミンの制作に関してはマツトウヤが絶対的な存在なので僕もメーカーのディレクターも彼の気分で右往左往するだけだった。で、とっとと先に帰ってしまうマツトウヤに、その日の仮ミックスをしたテープを帰りがけ(大体深夜2時とか3時とか)に用賀のマツトウヤ宅に届け、それから帰宅、って毎日。下手をするとパジャマを着たユーミンに捕まってしまい、ねえねえジャネット・ジャクソンの新譜凄くいいのよ、ちょっと聴いてってよ、などということになり、明け方まで特に聴きたくもないアルバムをマツトウヤ宅で一緒に聴く羽目になったりする。オレはとにかく疲れてて帰って眠りたいんだ、などと言う元気はない。疲れ果てて。

こんなこと書いていいのかどうか分からないけど、マツトウヤ夫婦というのは誰にでも分かるようにユーミンの方が圧倒的に稼いでいるのだけれど実際は物凄い亭主関白でユーミンがマツトウヤに絶対服従する、という構図で成り立っていた。ちょっと見ていて可哀想になるくらい。やっぱりまずいかな、こんなこと書くの。あの、読まなかったことにしてください。

それはともかく、ユーミンの原盤ディレクターをやるようになって初めて僕は歌詞の重要性ということを意識するようになった。マツトウヤはそれだけ歌詞には拘りがあった。僕が得たもので一番大きかったのはこのことかもしれない。僕とマツトウヤはある意味とてもよく似ていた。感覚とか好みとかそんな部分で。大物アーティストの宿命なのか、ユーミンがスタジオに連れてくる女友達というのはいわゆる取り巻きの、金持ちの道楽娘(と言ってもオールドミスだ)ばかりで、ゲスト面してロビーのソファの真ん中にでんと座ったりするので僕はそれが気に入らなかった。その点ではマツトウヤと僕はまったく同じ意見で、マツトウヤもユーミンの友だちと称する連中を嫌っていた。で、電話がかかってきたのを切ってやったなどと僕に得意げに報告するのだった。歳こそ違うもののそんな感じで共通点が多く、なんだか知らないけど僕はいつの間にかすっかりマツトウヤに信頼されるようになり、2枚目のアルバムからはボーカル録りやボーカルチャンネルのセレクトを任されるようになり、上司のアベに言わせるとそれはキララシャ始まって以来のことらしく、そんなの見たことがない、と言われた。アルバムの曲順やシングルをどれにするかなどということもマツトウヤは僕に相談した。そんなわけで皇室の誰かさんがお気に入りだという「アニバーサリー」がシングルのA面になったのは僕の意見だった(東芝のシモコウベさんは逆の意見だった)。

そんなわけで僕は一年に2度、トータル2ヶ月ぐらいはロスで過ごした。現地で使うミュージシャンはドラムのジョン・ロビンソン(JR)とかベースのエブラハム・ラボリエルとか、ホーンアレンジのジェリー・ヘイとか、当時世界で一番売れっ子のミュージシャンたちだった。僕は学生のころ、彼らの演奏するレコードを聴き漁っていたんだけれど、不思議なことに仕事となると何の違和感もなかった。ドラムのJRが僕がその2ヶ月ぐらい前にアルバムを買ったシンガーのフレディ・ワシントンを連れてきたりしたし、僕がもっとも好きなアルバム、ジノ・ヴァネリの「Brother to brother」でパーカッションを叩いていたマイケル・フィッシャーとジノについてスタジオの廊下で世間話をしたりした。サンセット・スタジオの隣ではマイケル・ジャクソンが「BAD」のレコーディングをしていた。僕の駐車場所はマイケルの隣だった。なんていうか、一流の仕事をしていると一流の人間と仕事をするのが当たり前になる。それが普通になる。そういう意味では僕はミーハーではなかった。

LAでのレコーディングは主にウエスト・ハリウッドのスタジオを使った。ウエストレイクとかサンセットとか。最初のアルバムだけシンクラヴィアというサンプラーの頂点みたいなものを使うためにバーバンクのスタジオを使った。いずれにしても僕らはビバリーヒルズかウエスト・ハリウッドのホテルに長期滞在してスタジオに通い、楽しみは食事と買い物ぐらいだった。僕はそれほど買い物に興味がなかったが(そんなに金を持っていないし)、マツトウヤは当時まだ日本になかったGAPのTシャツをダンボール2つ分買うとか毎日どこかしらのショッピングセンターに入り浸っていた。まあロスではいろんな思い出があるけれどそれはfragmentsに小出しに書いてあるのでここではいちいち書くのを止めよう。

僕が最初に担当したアルバム、「LOVE WARS」は前作の倍売れてミリオンセラーになった。それで僕はオリコンのチャートの一番上に名前が載った。いろんな人にユーミン育ての親とか茶化された。しかし、実際は冬のボーナスがひと月分多かっただけだった。いやはやまったく。たかが数人の会社なのに。日本の音楽業界なんてそんなもんだ。スタッフは儲からないように出来てる。

うーん、たかだか3年ぐらいの間の話だがこの調子だと書き切れないな。まだまだ書くことはある。そんなわけでその3に続く。

written on 13th, nov, 2010

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