autobiography

「自伝(後編):その3」

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僕がジュンコと出会ったのはこのころのことだ。きっかけはもちろんテレクラ(笑)。馬事公苑脇のファミレスで待ち合わせた。彼女は24歳のOLと言っていたが、会ってみると実際は僕よりひとつ年上で小さな男の子がいる人妻だった。だがそんなことは慣れっこだし、見た目も年上には見えないし、僕にとってはほぼどうでもいいことだった。少なくとも最初はそう思っていた。ジュンコはストレートのロングヘアで、美人と可愛いの中間ぐらい。素晴らしいバランスだ。一度会ってから頻繁に電話で話すようになり、ある日彼女は僕のアパートに泊まり、僕らは初めて寝た。そして、明け方電話の音で起こされた。

「ジュンコを出せ」。それが男の第一声だった。なにしろ僕はまだ寝ぼけた状態、一瞬美人局か、と思った。男は今そっちに向かっているところだから、と言った。電話の音で目が覚めたジュンコを見ると、明らかに怯えた顔をしていた。僕は送話口を手で押さえ、ジュンコに事情を簡単に言うと、彼女は殺される、と怯えた声で言った。何やってる奴なの、と僕が聞くと不動産関係、とジュンコは答えた。どうして僕の自宅の電話番号が分かったのか、僕にはすぐに思いつかなかった。なにしろ、僕は最初から明らかに動揺して舞い上がっていた。「1000万ぐらい出せるんだろうな」と男は言った。それを聞いて、僕は逆にどこかでほっとした。0が2つぐらい多い。逆さに振っても僕にはそんな金額はとても払えない。お笑い種だ。これは美人局ではなくてただのハッタリだなと気づいた。僕のアパートに向かっているというのは嘘だ。それに、バレちゃったものはしょうがないみたいなある種の開き直りみたいなところもあった。相手に聞かれるままに僕は自分の名前も住所も教えた。本当のことを正直に。なんか、その方がいいような気がしたから。実際、その後男が僕のアパートにやってくることも、電話がかかってくることもなかった。僕は彼女が独身だと聞いたので、と言い訳して、どうやら男はそれを信用したみたいだった。後から、男がリダイアルボタンを使ったことが分かった。なんですぐに気づかなかったのだろう。やっぱりいきなり電話で起こされてジュンコの名前を出されて、かなり混乱していたんだと思う。その日、彼女は子供を大森のいとこのところに預けていた。家に帰れない、という彼女を僕は車で大森まで送り届けた。彼女の話によると旦那は3つ年下(つまり僕よりも2つ年下)で、バブルの真っ最中だった当時、不動産屋で大もうけしているらしかった。昔使い込みかなんかで前科があるらしいが、やくざと付き合いはあるもののやくざではない、ということだった。ただ、免許を持っていないのに高級車を2・3台乗り回している、というタイプの男だった。

その後の経過が僕にははっきりと思いだせない。ジュンコが田舎である岡山の妹のところに身を寄せたのはそのときだったろうか。岡山まで迎えに行ったことは「往き、そして帰り」に詳しく書いてある。彼女は結局旦那がいる経堂の高級マンションに戻り、僕らは何事もなかったかのようにそれからも付き合った。僕が夜の経堂に迎えに行ったり、彼女が愛車のミニで僕のところに来たり、そんな風に普通の恋人同士として付き合った。ジュンコが旦那の乾燥大麻を100g持ち出して僕に預かってくれ、なんてこともあった。彼女が旦那に殴られたとき、医者の診断書を取らせた。僕は六法全書と「離婚と裁判」という本を買って読んだりもした。要するに僕は本気で彼女のことが好きだった。僕はジュンコと結婚するつもりだった。しかし、そのことに触れるとジュンコはいつも言葉を濁した。後になって振り返ってみると、ジュンコにとって僕はただの浮気相手だったのかもしれない、とも考えたが、本当のところはいまだに分からない。そのうちバブルがはじけてジュンコの旦那は一文無しになり、おまけに外に愛人がいて子供までいたことが判明し、ジュンコは正式に離婚した。どういうわけか僕らの関係もそれと同時に終わってしまった。離婚して彼女は岡山の実家に帰ってしまったから。今考えてもホントに謎が多いのだけれど、僕が無我夢中だったことは確かだ。


岡山からの帰りの車中でジュンコが撮った写真。

そろそろ仕事の話に戻ろう。ちょうど僕が原盤ディレクターになったころ、マツトウヤは音楽学校を作った。Mイカというその学校は当初、瀬田の交差点近くにあった。マツトウヤが最初の授業をやるというので、マネージャーでもないのに僕は教室の一番後ろでそれを見学した。それはアレンジのクラスだった。授業も終盤になり、生徒がマツトウヤに何か質問をした。するとマツトウヤは逆に「ヴェロシティってなに?」と生徒に聞き返した。僕はまるで自分のことのように恥ずかしかった。それ以来、マツトウヤの授業を見に行かないことにした。ちなみにヴェロシティというのはこの場合、鍵盤を打鍵したときの強さのことである。そのころのアレンジクラスの第一期卒業生には「踊る大捜査線」の音楽をやったホンマとか、僕が後にアレンジャー・作家として重宝して使ったベースのムモンとかがいた。シンガーソングライターのクラスからは何人かがデビューした。最初にデビューしたのはショウジだ。彼女は確かに才能はあったけれど、当時羽田のキヨスクでバイトしていて、非常に強いコンプレックスを持った、屈折した人間だった。もちろんショウジはマツトウヤがプロデュースして、当然僕もディレクターをやった。ショウジがデビューしたのはビクターからで、ビクターの担当はスズキくんだった。Mイカでシンガーソングライターの講師をやっていたホリグチ(僕の親しい友人でもある)もプロデューサーとしてレコーディングに参加した。ショウジはデビューしてもなかなか芽が出ず、ある日、二子玉川にある織田哲郎のスタジオでシングルのレコーディングをしていたとき、ホリグチとショウジが喧嘩を始めてしまい、スズキくんもふて腐れて寝てしまい、僕が一人で朝までレコーディングした、なんて感じだった。とうとうショウジはマツトウヤのプロデュースじゃ嫌だ、と言いはじめ、僕とスズキくんの2人で青山のスパイラルカフェで説得したこともある。ショウジは当時サザンのアレンジを手がけていた小林武史とやりたがっていた。奇しくも小林は僕と同じ山形の出身でしかも僕と同い年だった。結局ショウジの2枚目のアルバムはユーミンと同時進行でLAでレコーディングした。アレンジとプロデュースはジェリー・ヘイに任せた。もちろんアルバム全体のプロデュースはマツトウヤである。元々シーウィンドというハワイ出身のバンドでデビューしたジェリーは、元シーウィンドのメンバーでレコーディングした。その中にはアース・ウィンド・アンド・ファイヤーのキーボードとしても有名なラリー・ウィリアムズもいた。ジェリーは銀髪のユダヤ人で、いつもポロシャツの襟を立てていた。僕はいまだにジェリー直筆のスコアを持っている。いつかオークションで売ろうかなと思ってる。ショウジはその後TBSのドラマの主題歌でようやく15万枚のスマッシュヒットを出したが、結局ヒット曲と呼べるのはそれだけだった。


ジェリー・ヘイ直筆のスコア。鉛筆で書いてある。これはユーミンの曲。

ショウジの次にデビューしたのはクマガイだった。僕は彼女の作曲の才能は認めてはいたものの、アーティストとしては懐疑的だった。クマガイは詞が書けなかったし、声も素直すぎて特徴がなかった。作曲の才能はいいものがあったが、難しいことをやっているわりには単調に聴こえる、という難点があった。クマガイに関してはマツトウヤが頑迷にデビューさせるべきだ、と言い張って、東芝からデビューすることになった。またマツトウヤプロデュース、僕がディレクターというプロジェクト。クマガイのファーストアルバムを作るに当たって、マツトウヤはひとつの冒険を試みた。クマガイは歌詞が書けないのでMイカの作詞コースの比較的優秀な生徒を集め、講師であったタグチ(当時もっとも売れっ子の作詞家だった)をアドバイザーとして数人のプロジェクトとして歌詞を書く、という試みだった。僕はこの試みに非常に強い違和感を覚えた。生徒がひとつの楽曲に対して歌詞を持ち寄り、その中で誰かのいいパラフレーズを見つけるとそれを土台にまたみんなで書く、ということの繰り返しで歌詞を作っていった。最終的にOKを出すのはもちろんマツトウヤである。こうして出来上がったデビューアルバムは僕の想像通りだった。それぞれの歌詞は完璧である。しかし、アルバム全体を通して一人のアーティストが見えてこない。完璧な歌詞なのに聴いているものの心に届かない。これは作詞の過程を考えれば当然の結果だ。これは誰かの言葉ではない。技術的に作られた歌詞だ。それに、クマガイの歌い方は歌詞を歌うものではなかった。もちろん売れなかった。僕はこの、Mイカプロジェクトと名前がついた歌詞を作るミーティングに参加するのが苦痛だった。そのころのMイカは用賀の駅近くにビルを建てて移っていた。そこでミーティングに付き合うたびに僕のストレスは募っていた。こんな作り方はつまらない、と僕は思った。従って僕は一切口を出さなかった。その後、クマガイはやっぱりなんかのタイアップで1曲だけちょっと売れて、数年後に東芝の担当ディレクターと結婚した。

ユーミンの原盤ディレクターとしての僕は相変わらずのスケジュールでアルバムを作っていた。1枚アルバムが出来るとちょうど1年が終わる、という具合に。その仕事自体は楽しかった。キララシャという会社は恐らく日本でも有数の楽な会社だったし。世界トップレベルのミュージシャンと仕事をしていたし。アルバムを作るごとにマツトウヤの僕に対する信頼度は増していった。しかし、クマガイの作詞の件とはまた別に、僕は自分の中に少しずつストレスが溜まりつつあるのを感じた。こうやって毎年1枚のアルバムを作って、同じことの繰り返しで僕の一生は終わるのだろうか、とぼんやりと思った。それはつまり、僕がマツトウヤの優秀な右腕として生涯を費やす、ということでもある。確かに、日経エンターテインメントの記事でも取り上げられたようにキララシャという会社は少数精鋭のエリート集団だった。そして、僕はその一員だった。だが、と僕は思った。これでは執事と変わらないではないか。ここにいるうちは僕は自分の音楽、自分のアーティストというものを手がけることは出来ない。僕はスタッフとして参加するライブは苦手だった。特に終演後の楽屋とか。一応ディレクターなのでツアーがあると一度は顔を出した。満員の代々木体育館の一番後ろの壁にもたれて、立ち上がって熱狂する客たちを見つめ、ここは一体どこだろう、僕はここで一体何をしているのだろう、と思った。

その4に続く。

written on 21st, nov, 2010

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