このところずっと調子が悪く、何もする気になれないし何をしたらいいかも分からない。しかし、何もしないのも辛い。そんなわけで続きでも書くことに。ところで、どこまで書いたんだっけ?業界最大のコーディネイターであるMランドの社長、キムラさんにそのころ競馬を教わった。新聞の見方とか。で、早速渋谷のウインズ(要するに場外馬券売り場だ)に行った。そこでごった返す人々、そこここに座り込んで競馬新聞とにらめっこしてレースの結果が出るたびに一喜一憂している連中を見て、これはオレが負けるわけがないな、などと思った。そのころ既にパソコンをいじり始めていた僕は、まだウィンドウズなんかが出てくる遥か前、MS-DOSのPCで競馬のデータベースソフトを作り始めた。使ったデータベースソフトは「桐」という日本語データベースのアプリケーション。いわゆるリレーショナル・データベースだがプログラムは全部日本語で書く。JRAが毎週アップするデータをダウンロードしてデータベース化して競馬新聞と同様のインターフェイスを作り、プリントアウト出来るようにした。そのころ遭遇したスピードインデックスという概念、つまり競走馬の成績を数値化するという発想を取り入れてそれぞれのレースをレイティングして比較できるようにした。レイティングのために物凄く複雑な計算式を作った。このプログラムが完成したとき、面白いように当たった。レイティングして比較すると明らかに力が抜けているのにオッズが低い、というような馬が出るレースを狙う。俺は天才かも、なんて思った。しかし、スピードインデックス自体はアメリカでは普通に新聞に載ってあり、日本でも同じような発想のフリーソフトが次々と出るようになって、オッズが見合わなくなっていった。レイティングが優位な馬はやたらと人気を集めてオッズが下がり、そもそもの競馬の期待値(75%)とかを考えるとまったく投資に見合わなくなった。まあ当たり前だが世の中そうそう都合よくは行かないということだ。
それはともかく、僕は原盤ディレクターと平行してキララシャ所属の作詞家のマネージャーも片手間程度ではあるがやっていた。アユカワさんはその一人。彼女は大竹しのぶと同級生で大の親友であり、先日も大竹がゲストの番組に出ていたのを見かけた。ある日、例によって青山のスパイラルカフェで打ち合わせをしていて、アユカワさんが「私、キララシャをやめようと思うの」と言った。それを聞いて、条件反射的に「オレもやめようかな」と言っていた。僕には彼女の言葉がまさに天啓のように聞こえたのだった。前回も書いたように、このまま続けていれば僕の中にはどんどんどんどんストレスが溜まっていくだろうと思っていた。それでその日のうちか翌日かは忘れたけれど、早速会社に辞めると告げた。あまりにも突然だったので会社は大騒ぎになった。僕の上司であるアベとユーミンのマネージャーのオオタケがどうしたらいいのか話し合っているのが耳に入った。マツトウヤさんは彼がいないとレコーディングが出来ないと言ってるし、だけどどうしても辞めるって言ってるしなあ、などと。そんなことで衝動的に言っちゃったなあなどと思っていたが、もう後には引けないな、と僕は思った。当然のことながらマツトウヤと話をした。マツトウヤはむしろ僕は会社に勤めているよりもフリーの方が向いている、と言った。しかし、いないと困るのでフリーのディレクターとして今までどおりやって欲しいと言われた。僕はいいですよ、と言ったが、それから条件の交渉が難航した。フリーで引き受ける場合、一体ギャランティーをどれぐらい請求したらいいのか、既にフリーのプロデューサーとしてやっていた親友のシグマに相談した。シグマが言うには、スタジオミュージシャンと同じで時間いくら、っていう考え方でいいんだよ、と言った。しかし、何しろ半年以上もかかるアルバムのレコーディングである。時給で出したら拘束時間からいって膨大な金額になる。まあそんなこんなで生活しなきゃいけないし、その辺も考えて中間地点ぐらいのギャラを僕の方からアベに提示した。しかし、それは会社が考えているギャラとは相当な開きがあり、まったく折り合いがつかなかった。こういう点に関してはマツトウヤはケチと言ってよかった。それは給料にも表れていたが。そんなわけで僕がフリーでディレクターを継続するという話は破談になり、僕は年末をもって辞めることになった。なんだか知らないが結構な退職金が出た。考えてみるとキララシャは僕が一番長く勤めた会社だった。えーと、7年くらいかなあ。とにかく、僕はそれから3ヶ月は休もうと思った。何もしないぞ、と。
ホントに何もしなかった。週末に競馬をやるぐらいで後は毎日行きつけの喫茶店に行ってコーヒーを一杯飲む、ということしかしなかった。ただひたすら何もしないで3ヶ月が過ぎた。もちろん、いろんな人から電話がかかってきた。ホリプロのナカオさんは熱心に誘ってくれた。何でも好きなことやっていいから、と。しかしそのころの僕はなんとなく違う業界で仕事がしたいと思っていて、そのままを伝えた。ちょっと音楽業界に対して僕は醒めていた。業界の中で仕事をする熱意というものがなかった。っていうか、なんにもしたくなかった。しかしながら3ヶ月も何もしていないとさすがに飽きてくる。そろそろ就職でもするか、と就職情報誌を買っていつもの喫茶店でパラパラと見ていた。すると、「信長の野望」とかで有名なゲームソフトの光栄(現コーエー)が何故か音楽プロデューサーを募集していた。そのころのゲーム業界はまさに上り坂でもっとも自由な業界に見えた。そんなわけでこりゃいいや、ということで応募してあっさりと受かった。ま、ユーミンのディレクターをしていたということで超優秀な人材、と向こうが勘違いしてくれた。おまけに音楽担当の部署の部長のハヤシさんは僕が学生時代にバイトしていたヤマハにいて、当時よくフロアで見かけた人物だった。半分知り合いのようなもの。それにアルファレコードにいた、えーとなんて言ったっけ、とにかくなんとかさんという人がいて、セクションは違うものの同じ業界出身ということで僕に目をかけてくれた。そんなわけで僕は4月から光栄のサウンドウェア部というところに勤めることになった。確か32歳とかそれぐらいだったと思う。
いやー、それがなんていうか、世の中うまくいかないもので、光栄という会社は僕が想像していたいわゆるゲームソフト会社とはまったく異なる会社だった。もちろん、ファイナルファンタジーとかを作っていたスクウェアとかはいち早くフレックスタイムどころか出勤も自由、なんてことを導入して、ゲーム業界自体は僕の想像通りだったのだが、唯一光栄という会社が異色だったのだ。っていうか、普通の会社だった。スーツにネクタイを締めて、9時半に出勤しなければならなかった。フツーにタイムカードがあった。とほほほほ。おまけに毎朝朝礼というものがあった。なんてこった。なにしろそれまで会社に勤めていたころでも11時に起きて1時ごろになんとなく仕事に出ていた人間である。笑っちゃうぐらいに無理がある。その後は推して知るべし、僕は怒涛のように遅刻の日本記録を更新しまくることになる。
とにかく、普通の会社って退屈だなあと思った。毎日何もすることがない。僕はある種、特別待遇だった。当時光栄はゲームの音楽をCD化してゲームソフトと抱き合わせで売ったり、いわゆる映画のサウンドトラックのように単独のCDとして売っていた。つまり、CDを作って売る、というルート、方法論はあった。それを生かして何かCDを出せないか、というのが僕の仕事だった。だからそもそも何を作るか、という企画自体を練るところからがスタートで、その内容に関してはまったくなんのサジェスチョンもなく、すべて僕に委ねられていた。簡単に言えばなんでもいいからなんかCDを作って、というような仕事。部長のハヤシさんからもああしろこうしろという指示はなく、なんていうか、会社の中で僕は治外法権的な無法者として存在していた。周りはみんな若い社員ばかりで一日中黙々とパソコンに向かってゲームで使用する音楽をプログラムしている。ヒマである。僕じゃなくても、朝から晩まで何を作ろうかと毎日企画を練り続けるなんてことは普通に出来ないだろう。人間というのはそこまで集中力が持続するようには出来ていないし、湯水のようにアイディアが湧いてくるわけでもない。案の定、僕は制作中の競馬ゲームに朝から退社時刻まで延々と興じていた。僕のような怠け者にそんな仕事、立場を与えるほうが悪い。ヒマだなあ。終いにはとうとう電車で通うのも面倒になり、車で行って会社の裏山に路上駐車していた。ちなみに会社は神奈川県の日吉にあった。僕は毎月遅刻の始末書を書かされていた。当然である。普通の社員の10倍以上の遅刻率だから。若い社員が多いし、ましてや音楽制作のセクションなので皆僕のキャリアにリスペクトを抱いているので完全に浮いている。普通の会社で普通の仕事をやるってなんて退屈なんだ、と毎日そればかりを思った。室内は禁煙なのでしょっちゅう廊下に出ては煙草を吸っていた。午後眠くなると会社の裏手の高台にある公園のベンチで昼寝をした。プライベートでは相変わらずテレクラで知り合ったなんとかさんとセックスをしたりしていた。こんなことでいいのだろうか。いいかも。
しかしやっぱりヒマなのにも限度はある。あまりにもヒマだと仕事をしようかな、なんて思う。そんなわけである日ふと思いついたアイディアは、ミシェル・ポルナレフのカバーだった。道を歩いていてふと、ミシェル・ポルナレフって知っている人間はイントロからフルコーラス歌えるのに、知らない人はまったく知らない、ということに気づいた。彼の楽曲が日本でヒットするということは既に証明されている。つまり、知っている人にとっては懐かしいし、知らない世代にとってはまったくの新曲ということになる。一石二鳥。で、なんとなく調べてみると、ポルナレフ自身、10年に一枚のペースでしかアルバムを作っておらず、地元フランスでも伝説的な存在になっていた。昔勤めていたオリコンの後輩に調べてもらうと、かつては日本で50万枚以上売れていた。うむむむむ、いいかも。どうせだから遊びがてらアメリカでレコーディングすることにしよう。というわけで、LAでのレコーディングでコーディネイターを頼んでいた大親友のシュンちゃん(もちろん日本人)に相談すると、エアサプライの大ブレイクしたアルバムをプロデュースしたイギリス人プロデューサーのバリー・ファスマンがやりたいと言ってきた。バリーはロス郊外のバレーに住んでいた。バリーに女性シンガーを一人紹介してもらい、その子は曲も書けるので、半分はミシェル・ポルナレフのカバー、半分は彼女のオリジナル、というアルバムを企画した。I泉さんにも企画の話をすると、とある事務所を紹介してもらい、そこがプロモーションで協力したいと言ってきた。プロジェクトが具体性を持った時点で日本のJASRACにあたるフランスのセサムという著作権管理をしているところに電話をして、スイスに住んでいるポルナレフ本人と連絡が取れ、本人のOKをもらった。おまけにその時点で日本におけるサブパブリッシャー、つまりポルナレフの著作権を持っているところがないことも判明。まさに完璧な企画。オレもやるときはやるなあと思いながら企画書を書き、社長と副社長の夫婦にプレゼンした。ところがびっくり、この企画はOKが出なかった。唖然。ホントかよ。自分でポルナレフのサブパブリッシャーになろうかな、なんて考えた。ま、例によって面倒なのでやらなかったけど。この数年後、いろんなアーティストがポルナレフをカバーし始め、CMでもポルナレフの楽曲が流れたりして、そのたびにこのときのことを思い出すのだった。
僕はまた競馬ゲームに戻った。しかし、一度思いついたロスでレコーディングして遊ぶ、というアイディアがいかにも捨てるには惜しいと思い、また結構いい加減な企画を思いついた。般若心経を使ったアンビエントハウスである。当時、エニグマというバンドがグレゴリオ聖歌をアンビエントハウスにしてヨーロッパでヒットしていた。要するに猿真似である。我ながら安直だなあなんて思ったが、またロスのシュンちゃんに相談してみると、ユーミンのアルバムにシンクラヴィアで参加したクリストファー・カレルがやりたいと言って来た。クリスはマイケル・ジャクソンのアルバム「BAD」の全曲にシンクラヴィアで参加し、日本のツアーにも同行していた。都合のいいことにクリスはそのころヴァーチャル・オーディオという3Dサウンドを開発していて、簡単に言うと全方向的にマイクを立てて録音してその波形をシミュレーションすることによって普通のステレオで聴いても前後左右上下、立体的に再生できるというものだった。これは一応売りになるかも、などと思って少々安直な企画だけどま、いいか、ということで3Dサウンドによる般若心経を使ったアンビエントハウスという企画書を一気に書いて嘘くさいプレゼンをすると不思議なことにこれが通ってしまった。何を考えているんだ、この社長。売れるわけないのに。とにかく通っちゃったものはしょうがない、作るか、ということでクリスが京都に知り合いの坊さんがいるというので読経はその人に頼むことにして、たまたまヴァーチャル・オーディオのプレゼンで来日して名古屋に滞在しているクリスと打ち合わせすることにした。まず京都に行って坊さんと打ち合わせをして、帰り道に名古屋に寄ってクリスと打ち合わせするという、なんていうか、一日で火星人と金星人と打ち合わせをするようなことになってしまった。シュンちゃんが来日できないというので通訳なしで。そんなわけで京都の大徳寺の中にある塔頭(たっちゅう)のひとつを訪ね、坊さんに頼むと快く引き受けてくれ、ついでにベルギーから送ってもらったというコーヒーまで馳走になった。帰りに名古屋によって、イベント会場で準備をしているクリスを訪ねる。イベントを仕切っている電通の社員からなんだこいつ、という扱いを受けたがすっかりテンパっている僕は意に介さず、勝手に準備を中断させて打ち合わせをした。もう夜になってるしへとへとである。しかし、自分でやるしかないのでアドレナリンが出まくって、悪魔が乗り移った「エクソシスト」のリンダ・ブレアーみたいに英語をぺらぺらと喋ってアルバムのコンセプトを説明した。その晩はクリスと同じ名古屋市内のホテルに泊まった。翌朝、クリスが朝食を一緒に食べようというのでレストランで一緒に食べたのだが、僕はいつもの英語を喋れない人間に戻っていてクリスが何を喋っているのかよく分からなかった。あはは。
ちょっと書くのが面倒くさくなってきたのでその5に続く。
written on 4th, dec, 2010