autobiography

「自伝(後編):その5」

...

クリス・カレルを使った般若心経のアンビエント・ハウスのレコーディングは、まず京都の大徳寺で読経の録音から始まった。クリスを筆頭にロスからスタッフが来日し、塔頭(たっちゅう)の中にある読経する離れのようなところで、お坊さんの四方を囲むように人の頭の形をしたマイクを立てて、全方向的に録音していく、というものだった。それはなんかの実験をしているような、シュールな風景だった。大徳寺の中はまさに水を打ったように静かで、その中で最先端の機材を使ってレコーディングしていく。

ちょうどそのころ、いまやIT企業の社長として八面六臂の活躍をしているドラムのミヤザワから、IBMが出すCD-ROMの音楽を作ってくれないかと頼まれた。これはもちろん会社には内緒で、個人的に相談を受けた。打ち合わせをしてみると、CD-ROMの企画自体がまだ具体化していなかった。音楽と写真を使ったソフト、というごくごく大まかなコンセプトしかなかった。それで、話を聞いていてふとアイディアを思いつき、ユーザーが自由に曲をアレンジできるもの、つまりいわゆるハウス・ミュージックの発端となったトラックを自由に組み合わせるという手法を誰でもPC上で簡単に行えるものはどうか、と僕が提案し、他にアイディアがなかったせいもあり、すんなりと企画が決まった。僕はニューヨーク在住のフランス人ミュージシャン、フィリップ・セスが適任とみて皆にフィリップのCDを聞かせてそれで行こうということになった。僕はそれまでフィリップとは面識がなかった。フィリップはアリフ・マーディンがプロデュースしていた全盛期のチャカ・カーンのヒットアルバムで作曲家・キーボーディストとしてブレイクして、当時最先端のミュージシャンだった。決めたはいいけどどうやって連絡を取ればいいのか、はてと考えて、フィリップ・セスのソロ・アルバムのクレジットからマネージャーがビビ・グリーンであることを知り、発売元のビクターに電話してビビの連絡先を聞いた。後は例によってシュンちゃんに連絡を頼んだ。すると、フィリップは快諾してくれた。このプロジェクトが動くことになり、ニューヨークでのフィリップとの打ち合わせをLAでのクリスとのレコーディング中にニューヨークまで行ってやっちゃおうということになった。なんていうか、ちょっとした非合法活動をやってるような感じ。会社には内緒の極秘プロジェクトだ。

そんなわけでロスの空港でシュンちゃんと待ち合わせてロス郊外のクリスの自宅スタジオを訪ねた。スタジオに着くと、驚いたことにそこには何故か僕の大学の同級生で同じサークルだったリエちゃんがいた。へ? って感じ。リエちゃんは帰国子女で、卒業後は主にミュージシャン周りの通訳をやっていた。僕はもちろん、なんでリエちゃんがいるの?と聞いたらリエちゃんはへへ、と笑うばかり。クリスのPCのディスプレイを見たら、壁紙にびっしりと小さい字でRie/Chrisと書いてあったのを見て、ようやく僕は事態を理解した。もちろん、2人はその後結婚した。しかし、今思い出してもアンビリバボーな世界だ。たぶん、リエちゃんはマイケル・ジャクソンのツアーの通訳をしてたか、クリスは本田恭章のレコーディングにも参加していたのでその通訳をやっていたか、そのどちらかで知り合ったんだと思う。ま、ともあれ、レコーディングはシンクラヴィアを使って行われ、クリスとケヴィン・マロニーという、当時もっともシンクラヴィアに精通していたタッグで行われた。途中、クリスがプロデュース印税が欲しいと言い出して、もちろんそれはアメリカでは当たり前の話なのだが、日本ではそれは非常に難しいことであり、それを僕はホワイトボードに円グラフを書いたりして説明した。そのときは何故かまた英語が話せる人になっていた。要するに人間は英語を話せるときと話せないときがある。簡単に言えば話そうと思うかどうかの違いでしかない。ミックスも終え、マスタリングはハリウッドにある元々チャーリー・チャップリンのスタジオだったMGMのスタジオで行われた。エンジニアは久しぶりに音が分かる人間が来た、と言って喜んでいた。ま、その辺の事情は日本もアメリカも一緒らしい。で、マスタリングを終えるとシュンちゃんと僕はニューヨークに飛び、ミヤザワと合流してフィリップと打ち合わせをした。ずっと西海岸にいたシュンちゃんはニューヨークは初めてということで、僕らは観光活動にいそしんだ。今はなきワールド・トレード・センターにも行った。その後、9・11同時多発テロの後に廃墟と化したグラウンド・ゼロで僕はアーサー・C・クラークの言葉を読むことになる。ユーミンのレコーディングをずっと一緒にやってきたエンジニアのツヨシの奥さんであるミドリちゃんも何故か合流して(彼女はニューヨークに住んでいた)、なんか楽しい集まりになった。1月のマンハッタンは無茶苦茶寒かった。マネージャーのビビ・グリーンはベースのマーカス・ミラーとかサックスのディヴィッド・サンボーンとかもマネージメントしていて、マーカスの彼女という噂もある白人の女性だった。ビビ、フィリップと僕らはビビが連れて行ってくれた蕎麦屋で蕎麦を食べながら打ち合わせをした。蕎麦を食べている間に雪が30cmも積もり、フィリップがホテルまで車で送ってくれた。基本的に、フィリップがニューヨークで曲を書き、日本の僕の元に送って僕がそれをチェックする、ということでまとまった。

クリスと作った般若心経のアンビエント・ハウスは「Heart Sutra」という、要するに般若心経の英語の呼び方をタイトルとして無事リリースされた。ところが、僕が驚いたのはアルバムのクレジットにプロデューサーとして自分の名前を出してはいけない、と会社に言われたことだ。光栄では社員の名前を出してはいけないことになっており、すべてシブサワ・コウという架空の人物の名前を使うことになっていた。というのも、他の会社に人材を引き抜かれないためで、この会社の若い社員は皆新卒で入って社員寮に住み、外の世界をまったく知らない純粋培養だった。だから僕は他の会社行けば年俸5000万ぐらいだぞ、とよくゲームを作った社員とかに言ったものだ。とにかく僕にはまったく許せないことだった。ロイヤリティがもらえない日本のスタッフは、自分の名前が出るという矜持だけで安い給料に甘んじているわけだから、それすら許されないというのはまったく納得がいかなかった。そんなわけでこのアルバムのクレジットにはプロデューサーとしてSUKEZAの名前でクレジットされた。僕のささやかな抵抗だ。そんなわけでこの会社にはすっかりシラけてしまい、まだフィリップとのプロジェクトが完成していないこともあり、とっとと会社を辞めることにした。光栄を辞めて晴れて堂々とニューヨークに行き、ソーホーにあるフィリップのスタジオと、ナイル・ロジャースのスタジオでレコーディングをした。隣のブースではマライア・キャリーがレコーディングしていたが、僕はまったく興味がなかったので彼女と遭遇したかどうかも定かではない。フィリップが書き下ろした3曲は素晴らしい出来だった。アメリカ人ミュージシャンには真似出来ない、いかにもヨーロッパ出身らしい繊細さと大胆さがあった。エンジニアのエリック・カルヴィとフィリップがフランス語で会話してたので聞いたら、エリックもフランス人だった(これでも一応仏文出身なので多少のフランス語は話せる)。このプロジェクトで苦労したのはむしろその後日本に帰ってきてから。楽曲をプログラム化してちゃんと動作するかどうか、締め切り当日まですったもんだして、最終日はIBMの研究所で徹夜で作業した。

そんなことをしている間にソニーのヨシダカクから電話があって、ソニーに来ないかと誘われたので僕は契約社員としてソニーでディレクターをやることになった。契約とは言え、レコード会社に勤めるのは初めてだ。僕は第三制作部という、もっとも芸能界に近いセクションに入ることになった。そこからしてそもそも間違いだった。松田聖子、郷ひろみ、チューブとかがいるセクションなんかに僕が入ってどうするというのだ。まるで水と油だ。ソニーという会社はセクションごとに独立した会社の集合体のような仕組みになっており、そのセクションの色は部長次第だった。例えば、尾崎豊とかハイファイセットとかをやっているスドーさんのセクションはまったく自由に音楽を作れるセクション。そもそもスドーさん自体が会社に来ないので好きにやっていいよ、的なノリ。ところが、僕の入ったセクションのヘッドは当時一世を風靡していたビーイングの長戸大幸のかばん持ちから始めたハシヅメで、彼は長戸大幸のタイアップを使った手法に傾倒していた。だからディレクターはスタジオなんかに行かなくていいからタイアップ取って来い、と言われた。唖然。基本的にスタジオに篭って作るタイプの僕はハシヅメからハナからまったく評価されなかった。そのくせ担当しろと言われたのはゴーヒロミとか、シバタという女性シンガーソングライターとか、イカ天出身のバンドとかまったく才能がないイイダという女性シンガーとか、てんでバラバラで、まあハナから音楽的ポリシーなどどこにもなかった。そんなわけなので僕は会社に行くのが嫌で嫌で仕方なかった。自分がタイプとしてまったく浮いているのは明らかで、会社に行くのが本当に苦痛だった。それでも行っていたのは宣伝にいたミズサキという女の子に一目惚れしてしまったから。ミズサキは僕の好みのパーツをすべて組み合わせて出来たような女の子だった。僕はただミズサキに会いたいがために会社に行った。

それにしてもレコード会社のディレクターってのはまったくメリハリがなく、土日も付き合いでライブハウスで行われる新人のプレゼンライブを見に行かなきゃならなかったり、窮屈なことこの上ない。やれと言われて担当したシンガーソングライターは僕から見てまったく売れる可能性はなく、一体どこがよくて契約したのかそもそも理解できなかった。担当だからというので仕方なくゴーヒロミのコンサートを中野サンプラザとかに見に行って、一体俺は何をやっておるのだ、という違和感がずっと抜けなかった。タイアップを取って来いと言われてもどうしたらいいのか分からず、まるで飛び込み営業をやれと言われているようなもの。それも自分がちっともよくないと思っているものなのだから嫌になる。ソニーにはSDという新人育成のセクションがあって、そこからよくデビュー前の新人のデモが回ってきて、その中の誰も手を上げないナカムラエイノスケというとんがったシンガーソングライターをやりたいと僕は手を上げた。エイノスケは素晴らしい才能を持っていたがその世界はコマーシャルな音楽シーンにはクール過ぎた。でも、僕はそこが気に入った。たまたまMイカの生徒であったゴトウミズホという女の子をヨシダカクがデモだけ作って放り投げていたので、歌はまったく下手だが作曲の才能が光るゴトウとエイノスケにユニットを組ませてSDのスタジオで二人の共同作業で曲を作らせたりした。エイノスケにはミズサキも興味を持って、僕らはよく一緒にメシを食いながら話し合った。しかし相変わらず僕は日本でも有数なシャイな人間であり、最後までミズサキに告白することは出来なかった。シュンちゃんがマイケル・フランクスの息子であるショーン・フランクスのデモを送ってきて、ショーンは父親とは違うハイトーンのいい声をしていて、まあセクション的に場違いかな、と思いながらハシヅメにショーンをやりたいんだけど、と言った。ハシヅメは別にやるなとは言わなかった。ただ、順番を間違えるな、とだけ言った。ショーンのデモと一緒にアメリカ在住の日本人のR&B女性シンガーのデモも届き、その子をやりたいという事務所が現れたので僕は打ち合わせに行った。ところが、そこの社長は一体いくら欲しいんだ、といきなり僕に切り出して、しかも制作は全部自分のところでやりたいと言うので僕はすっかりシラけてしまい、このプロジェクトからは手を引いた。その女の子自身が僕が参加しないのなら嫌だ、と言って結局その事務所には断りを入れた。「超能力者」というまったくつまらないことこの上ない映画のサントラとかも作った。中国ロケのラッシュを見に行ってあまりの退屈さに唖然とした。当時の大手映画会社は音楽業界よりも遥かに時代遅れで、アナクロの極致の世界に僕は呆れ果てた。シバタとイイダのシングルもレコーディングしたけれど、正直、こんなの売れるわけないよなあと思いながらやっているものだから常に自己矛盾を抱えている。僕としては売れなくてもいいからいいものを作りたかったのだが、それが適う環境でもなかった。事務所との関係とか。まったく、身動きの取れない窮屈な環境だった。果てはユイという大手事務所所属のバンドのシングルのジャケットに、特色である銀色を使ったということで怒られたりした。もうこのバンド契約切るんだから余計な銭は使うな、と。だったらなんで出すんだよ、って話。とにかくソニーにいた一年間は果てしなくストレスが溜まる一年間だった。救いはミズサキとか、エイノスケとか、ジャケットのデザインを担当したイズミサワとか、昔ハイファイセットを一緒にやった同い年のスギモトとか、松田聖子をやっていて競馬友だちだったサトウヨウブンとか、そういった個人的な友人たちだけだった。会社に対しては僕はもう、ホントにうんざりしていた。やってられんよ、って感じ。結局、僕は1年でハシヅメから契約を切られた。やっとストレスから解放されたわけだが、僕にとっては屈辱的だった。上司であるヨシダカクはちっとも僕を守ってはくれなかった。レコード会社なんてくだらないな、と僕は心底思った。ただミズサキと会えなくなることだけが残念だった。

今日はこの辺にしとこ。その6に続く。

written on 11th, dec, 2010

back