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「退屈」

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近頃の僕は早寝早起きだ。毎晩12時過ぎに寝て(12時前に寝ることだってある)、7時には目を覚ます。もちろん、これは僕という人間の尺度であって、普通の人々にとっては普通の生活なのかもしれない。実際、弟に電話で訊いてみたら、彼は毎日6時過ぎには起きているということだった。しかし、以前は3時まで、早くても2時までは起きているという生活を続けていた僕にとっては、今のサイクルは十分早寝早起きといっていい。以前、会社の出勤時間が1時間早い10時となって、8時には起きなければならないことになったとき、起きられるかずいぶん心配したものだ。実際、たびたび遅刻した。本来の僕のサイクルは、2時か3時に寝て、9時ごろに起きるというものだ。

そんなわけで7時には目を覚ましているのだが、おかげで朝は随分と余裕がある。ありすぎるぐらいだ。朝食を摂り、カメに餌をやり、パソコンを立ち上げてスポーツニュースを一通りチェックし、排便をするともうすることがない。10時開店のパチンコ屋に行くとしてもまだ1時間半ほどの時間が余る。テレビは点けっぱなしだが、NHKの衛星放送がデフォルトなので、世界各地のニュースを繰り返しているだけだ。世界情勢を逐一チェックするという趣味はないので、テレビを見ることもない。読みかけの本を読んでみたりもするけれど、どうも落ち着かなくて長続きしない。要するに、何をしたらいいのかわからないのだ。

試しに、運動不足解消のために散歩をしてみたりもする。しかし、これとてせいぜい30分ほど。雨が降っているときは代わりにダンベルなどしてみるが、10分もやれば疲れて終了。後は呆然と部屋を行ったり来たりして、2杯目のコーヒーを淹れて、それを飲みながらひっきりなしに煙草を吸ったりしている。要は、退屈しているのだ。

こんなとき、僕は人生という時間をただ消費しているような気がする。ただ時間が通り過ぎるのを待つだけのような気がしてしまう。近頃の僕にとってのキーワードは人生だ。人生をいかに過ごすか。だが、こんなとき、人生は途轍もなく退屈なものに思われる。人生というものが無限な退屈とさえ思える。人生に退屈する男。それがそんなときの僕だ。

僕は何かを見失っているのだろうか? たとえば、人生というものを。少なくとも、人生をいかに過ごすべきかというものを。もしくはいかに時間を使うか。だとしたら、見失ったものをどうやってまた見つければいいのだろう。

世の中の人たちはどうやって退屈を紛らわせているのだろうと考える。どうやって人生を充実させているのだろう。しかし、結局は個人の問題だ。たとえ他の人が満足のいく過ごし方であっても、自分にとって退屈なのであれば意味がない。例えば、弟は花いじりをしているとあっという間に何時間も過ぎると言うけれど、花などに興味がない僕にとっては、10分と続かないだろう。そもそも、退屈しているのは僕だけかもしれないのだ。

恐らく、今の状態に問題があるのだと思う。今の僕はまったくもって宙ぶらりんの状態だ。以前、パチンコで食っていたときは毎日朝から晩までパチンコを打つのが当たり前だった。今は違う。できることならパチンコなど打ちたくないのだが、他にすることがないから打っているだけだ。単なる暇つぶしと言ってもいい。今の、仕事に就きたいのだがその仕事がなかなか見つからないという状態、その焦燥感がすべての原因ではないかと思う。いつも、どこかしらに焦っている自分がいるのだ。こんなことをしている場合じゃないと思っている自分がいる。とすると、仕事が決まらない限り、この退屈は続くものと思われる。

たぶん、これも鬱病の一種なんだろう。いまだに僕は病気を引き摺っているというわけだ。憂鬱のタネ、ストレスがなくならない限り、この病気はなかなか僕を解放してくれない。恐らく今の僕にはなにか夢中になるものが必要なのだ。しかし、なかなかそれが見つからないということは、いつも心の隅に引っ掛かっているものがあるからだ。端的に言えば、将来に対する漠然とした不安。それがいつのまにか人生そのものに対する漠然とした不安になっているのだと思う。その不安を象徴しているものが今の退屈というものなのだろう。先ほどは余裕があり過ぎると書いたけれど、結局、今の僕には余裕というものが決定的に欠けているのだと思う。こうしてみると、僕はいろんなものを見失っていると言える。それらをひとつずつ見つけていくことが今の僕には必要だ。だが、こうして一度見失ってしまうと、人生とはなんと茫漠としたものなのだろう。

written on 4th, jul, 2005

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