time is money vol.3

「文系のパチンコ」

かくも危ういバランス...

僕は文系である。

大学は仏文だった。理由は英文よりも易しそうで、女の子が多そうだったから。要は音楽やるために東京の大学に入りたかっただけなのだ。ちなみに卒論はマルキ・ド・サド。理由はどうせ読むなら興味を持って楽しく読みたかったから。という感じに素晴らしく論理的かつアカデミックな経緯で文系のひととなってしまった僕だが、子供のころは動物学者(現在そういうジャンルがあるのかどうかわからないが)になりたかったし、大人になってからも白衣を着て郊外の研究所に勤めている人がうらやましくてしょうがない。理系へのあこがれは結構強い。自分にないものには結構あこがれてしまうのだ。なんせ「...ちゃん、これ結構いいじゃん」なんて会話をいいトシした大人がするような業界に長いこといるので、「ん、この数値が示すものは...」なんて毎日を過ごしている人達がうらやましくてしょうがない。

という訳で(?)、パチンコ打ちにも文系と理系がいる。文系の代表格は田山さん、理系の代表格は石橋達也さん(理論の先駆者として)と安田一彦さん(なんせ計算が得意)といったところだろう。池上連さんは...分からん。両方か。期待値至上主義という打ち方は理系だな...。僕の大好きなホームページを持つTatsuさんは、その文章力から勝手に文系にしてしまおう。同じくテレクラ通いという典型的な文系的行動の和泉さんも打ち方とは関係なく文系としとこうかな。

田山さんを文系の代表格としたのは、当然その文才もさることながら、よくオカルト呼ばわりされる理論や立ち回りである。ネット上でも賛否両論渦巻いているようで、自分もちょろっと批判めいたことも書いたが、同じ文系の人間として実はヒジョーに共感するものは多い。

田山さんの理論でいちばん矢面に立たされる「パターン認識」だが、自分もこれに近い発想をどうしてもしてしまう。もちろん、完全確率方式という抽選方法も理解しているし、毎回の抽選は独立事象ということもわかっているつもりだ。ボーダーと回転率、期待値を常に意識しているし、どちらかというと回転率至上主義に近い。それでもハマったあとはどうしても早い当りを期待してしまうし、また当って当然(と思いたい)などとも考えてしまう...たとえば3倍ハマったからあと2回は確率以内で当りやすくなって当然などということを平気で考えてしまう。理論上はこれってオカルトだなとは分かっているものの、実際それに近いことは頻繁に起こるんだもの...逆にハマったあとにまた確率オーバー(田山さんのいうハマリ中の冷やかしというやつ)に会うと、やけに理不尽な目にあった気がしてしまうし、ワリに合わんと思ってしまう。そのくせ、ホームページで日記を公開しているパチプロの方々が書いているようなツキ指数というものは、実践上意味がないと思っていたりする(結果論でしかないから)。こういう一貫性のなさがやっぱり文系の発想なんだろうなと自分で最近思うのだ。所詮どこか頭がアナログなんだろう。流れ・波(パターン)にストーリー性をつくってしまったりするし...

田山さんも確か言っていたが、こういったパターンの読みは一種の危険回避の現実的な方法論のひとつだ。確たる現実として勝ち続けなければいけない状況で、最低限の危険を回避するには必要な立ち回りという気がする。池上氏のように盲目的に期待値を信じるのもひとつのデジタルな発想だと思うのだが、僕の経験から顧みても、確率、ひいては現実というものは想像以上に理不尽だったりもするのだ。僕が肝に命じていることのひとつは、「確率信ずべし、信ずべからず」ということ。これは菊池寛の競馬論の「情報信ずべし、信ずべからず」の応用だが、往々にして大負けするときというのは期待値に過大な期待を抱いて確率の収束を狙ったときだったりする...

言い訳しておくと、僕はけして池上さんを批判するつもりはない。ただ僕はそこまでタネ銭を突っ込めないし、現実を信用できないだけだ。要は小心者なのだ...ちょっとだけ自己弁護すると、理論よりも実践的なパチンコを打ちたいとは思っている。

ものすごく簡単に言うと、やっぱり僕って文系なのね...論理に一貫性ないところも...

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