何が悔しいといって、今日うっかりしてNHKスペシャルの再放送を見逃した。中身は遺伝子について。先週前の回を見て、無茶苦茶面白かったのだ。
前回見て驚いたのが、デザインチャイルド(だっけ?)という奴。遺伝子操作で人間をデザインしてしまうというのだ。これはもう神の領域だ。というか、子供の頃に読んだSFの世界、つまりミュータントやサイボーグと変わらないではないか。人間に意図されて作り出された人間というのは、当人が知ったらどういう気がするのだろうか?仏の手のひらの上の孫悟空ではないが、弄ばれている気になってしまうのではないだろうか?例の映画「ブレードランナー」のルトガー・ハウアー演ずるところのレプリンカントの気持ちと大差ないではないか。意図したものを産ませるという意味では「ローズマリーの赤ちゃん」と同じだ。違いは悪魔か人間かという違いだけである。奇しくも、同じアイラ・レヴィンの「ブラジルから来た少年」がクローンを扱ったサスペンスであるというのも面白い繋がりである。
遺伝子操作というのは、ある種突然変異を意図的に作ろうとするものである。何より気になるのは、そもそもDNAの記憶というのは脈々と続いてきたものである。その中に記憶に無いものを記憶として組み込むというのはどこか無理がある。別に僕はイエズス会でも何でもないが、歴史の無いもの、自然に反するものには何やら危険を感じてしまう。例えが極端だが、ドラッグの類で一番危険で害があるのは、自然界にないヘロインの類である。そもそも突然変異の類は環境に順応するために起こるか、淘汰されるために起こるかのいずれかのような気がする。同じような意味にとられるかも知れないが、後者はマイナスの意味、つまり増え過ぎたものを減らす意図の意味だ。例えばガン細胞とか。いずれにしても危険な賭けである。ただ、どちらの場合でも大きな意味では自然の掌の中とも言えるが。
いずれにしろ、近い将来デザイン・チャイルドが生まれたとして、その子の誕生日は意図した者にとっては製造年月日のようなものだろう。なんか遣る瀬無い気がする。ただ、人間と言うのは、それが可能だと思うとやらずには居られないのだろう。考えてみれば、人間の手による災厄というのは、全てそこから端を発しているような気がしてならないのだけれど。
この番組を見てて文系の僕にとって驚きだったのは、DNAがただの蛋白質の集まりであること。その組み合わせだけで膨大な記憶を伝えているということだ。
いま、文庫になったので遅れ馳せながら読んでいるのが「ホット・ゾーン」。例のエボラ・ウィルスに関するノンフィクションである。これがまた、滅茶苦茶面白い、というか物凄い話である。事実は小説よりも奇なりと言うが、まさに事実よりも説得力のあるものは無い。それにしてもエボラとかマールブルグといったウィルスというのは、これを読むと凄まじいものである。とにかく、病室の壁が血だらけになるほどの「炸裂」してしまう人間。体中の組織という組織を融解させてしまうほど体内で爆発するウィルス。これが現実であるというのだから、僕らはまさに不思議な世界という中で生きている。
この信じられないような凶悪なウィルスが、ただの数種の蛋白質の組み合わせだというのだから驚く。つきつめれば、地球上の生物というもの、すべてこの単純な蛋白質の組み合わせの上に成り立っていると思うと、ファジーという言葉があるように知性や感情や道徳観を持つもっともアナログな生物と思える人間でさえ、蛋白質の組み合わせというデジタルな要素で出来ているということ。まことにもって不思議である。そう考えると、0と1の組み合わせで出来ているコンピュータが意識を持つまでに進化するという寓話もまんざら絵空事では無さそうである。あな恐ろしや。