先日Eとこんな話をした。
...でもね、ホントのおしまいなんて滅多に来ないものなんだ。
今年って云うか、去年からやることなすこと上手く行かなくて、まったくいいことがなくてホントに一体どうしたんだろうと云う感じだった。だから一見もうこれでオレはおしまいだなんて思うことはそれこそ次から次へと山ほどやって来る。それは例えば映画で云えばエンドマークみたいなもので、本の最後に「終」と書いてあるようなものだとすると、そう云うときと云うのは、それこそ次のページをめくるともうそこに「おわり」と書いてあるような気がするものだ。でもね、ホントにおしまいになることなんてそれこそ滅多に無い、もしかすると無いかも知れないんだ。だからね、お母さんのこととか心配かも知れないけど、おしまいなんてものはそうそう来るもんじゃない。
しかし、親御さんが深刻な病気に掛かっていてそれが気掛かりなEは、眉をひそめて親の死と云うものについてこう云った。
でも、それは確実に来ますよね。
そこで僕はこんな話をした。僕は身内の死に立ち会ったのは祖母だけなんだけど、僕は両親が共働きのせいで子供の頃からホントにおばあちゃんッ子だった。祖母は僕が高校の頃に亡くなったんだけど、当時は知らなくて最近知らされたんだけど実は胃癌だった。もう手の施し様が無いと云う頃になって、祖母は病院から実家に戻ってきた。ある晩、僕はもうほとんど意識も無くやせ衰えた祖母の寝ているベッドの脇でひとり祖母の顔を見ているうちに突然泣き出した。何故か自分でもよく訳の分からないまま、とめどなく涙が出てきてその晩は果てしなく泣いた。翌日、祖母は亡くなった。僕が云いたいのは虫の知らせとかそう云うことじゃなくて、祖母が亡くなった日も葬式の日も僕はあの晩以来いっさい泣かなかった。そりゃ少しは悲しかったが、どちらかと云うともう既に祖母の死と云うものを受け入れてしまっていたんだ。だから泣いている親戚とかを横目に平然としていた。もちろん空虚さはどこかにあったけどね。葬式の日に弟がぽつりと僕におばあちゃん死んじゃったんだねと呟いたけど、彼も凛としてたよ。悲しいと云うより寂しいと云う感じだ。
だからね、何が云いたいかと云うと、もしそれが来てもそのときはたぶんもうきみはそれを受け入れているから大丈夫なんだ。だからそれは終わりではない。
考えてみれば「終わり」などと云うものは存在しないのかも知れない。少なくとも自分自身の。だって、僕らはエンドマークを見ることが出来ないじゃないか。