随分前の大ベストセラーをいまさら紹介するのも気恥ずかしいのだけれど、自分が知ったのがつい最近なのでしょうがない。というわけで、M.スコット・ペック「平気でうそをつく人たち」を読んだ。実はブックオフで105円で買ったのだけれど、奥付を見ると初版から3ヶ月で12版と書いてあるので、相当に売れたのだろう。なので、もしかしたら既に読んだ人も多いかもしれないが。作者のペックは前著が超大ベストセラーになった心理学者。日記の方でベストセラーが傑作とは限らない、と書いたばかりであるが、傑作がベストセラーになることもある。この本が果たして傑作かどうかという論議はともかく、僕にとっては大変にショッキングな本だった。もしかしたらこれまで読んだ本の中で一番ショックだったかもしれない。
このところ犯罪ノンフィクションとか犯罪心理学に興味があってその手の本ばかり読んでいたので、この本もタイトルからしてサイコパスを扱っているものかと思っていた。ところが、序文では随分とキリスト教的発言が多くて、これはいわゆるシャーリー・マクレーン系のベストセラーなのかな、などとも思ったが、読んでみるとまったく違うタイプの本だった。
この本は人を感化するための本ではなく、自分を見つめなおす、自分に向き合う本である。自分の本質を理解するということほど難しいものはない。そこには必ず強烈な自我というものが存在するし、客観性を妨げる自意識や自己愛という厄介なものも存在する。この本はそういうものを実にわかりやすく薄皮を剥くように言葉にしてくれている。ある意味福音書に近いと言ってもいい。ちょっと誉めすぎかもしれないが、本当に、目から鱗が落ちる思いがした。
作者の言う「邪悪」もしくは邪悪性というもの、僕らが普段生活する中で、いったいこの人に対したときの嫌悪感はなんなのだろう、と考えるものを的確に表現している。ある意味、僕らは第六感というものを本能的に備えているということの証明でもある。つまり、人間には危険を察知する能力があるのだ。そうした邪悪な人間がどうして出来上がるのか、その治療法と同じように明確には断定しきれないが、いくつかのヒントは見出せる。それは通常の犯罪心理学によく出てくるように、親と子の問題である。最終的には愛の問題と言ってもいい。親の邪悪性がその子供になにをもたらすか、具体的な例をもって紹介してくれる。子供は飽くまでも被害者である。邪悪な人間はその性格故に生涯を通じて一方的に加害者となり続ける。なぜなら、それゆえに邪悪であるからだ。
僕は総じて幸せな人生を送ってきたと思うし、愛をもって育てられたと思う。しかし、自分でも不可解なことは山のようにあった。例えば、最終的にはパニック障害に至った異常なまでの死への恐怖、懲罰を恐れるあまりの臆病さ、不条理なものに対する怒り、いつまでもくよくよし、後悔ばかりしている、ときに過剰なまでの正義感、そのくせ嘘もつく(しかしそれを平然とつき通すことはできない)、子供のころ弟の首を絞めたこと、親の財布から金をくすねたこと、意味のない万引き。これらはいったいどこから来たのか。それは自分の中でずっと謎のままだった。ある部分は遺伝(神経質さとか)だと思っていた。しかし、この本を読んで、いくつかの子供のころの体験がよみがえり、いくつかは糸が繋がった。例えば、僕がまだ小学生のころ、父と母が凄い夫婦喧嘩をして、母が泣きじゃくりながら離婚して実家に帰ると言ったことがあった。例えば、父が言ったことが間違いであったにも関わらず、父はその誤りを認めようとも謝ろうともせず、その不条理に随分悩んだ。子供のころは父は怖くて不条理な存在だった。無条件に親に服従するのが当たり前というのが彼の、そして母の持論だった。子供のころの僕には、父はある意味「攻撃する人間」として映った。だから随分大きくなるまで、腹を割ってちゃんと父と話すことができなかった。彼は権威の象徴だった。僕が父の優しさに気づいたのは大人になってからである。父は邪悪な人間ではない。しかし、頑固で、自説を頑として曲げないそのポリシーは邪悪に限りなく近い。しかしそれは邪悪な人間のように恐怖や自我を守るために他者を攻撃するのとはちょっと違って、家長制度の時代に生きた人間の矜持のようなものである。だが、その矜持も邪悪な人間の作り上げられた強固なナルシズムとともすれば近いところにある。だが、父が違うところは、それが自分のためというより、相手のために言っている、というところである。父の頑固さは本当に厄介で今でも手を焼くが、これは本質的に邪悪な人間と決定的に違うところである。ただその父のせいで、僕が極端に懲罰を恐れる臆病者になってしまったことは否めない。
本題からそれるけれど、僕の死への恐怖は、恐らく小学生のころに始まった未知への恐怖から来ていると思われる。小学生のころ、宇宙という概念を理解できなくて、物凄い恐怖を覚えた。つまり、膨張する宇宙の外側が理解できないのである。無、つまりなにもないということを感覚的に理解・把握できない。わからないものは恐ろしいものである。僕は早熟で、嫌な言い方だけれど子供の癖に頭がよすぎたのだ、たぶん。幸か不幸か、そこから僕の脳の成熟は停まってしまったけれど、恐怖だけはそれがプリミティブであるがゆえにいつまでも僕の頭の片隅に座り込んでしまった。
話を本に戻すと、この本はすべての親と子に読んで欲しい。といってしまうと、すべての人になってしまうけれど。親としての自分、子としての自分と対峙することを要求する本である。そして、本当に邪悪な人間は、この本を読んでもなんとも思わないはずだ。彼、もしくは彼女の自意識はそんなことではびくともしないはずである。そして、自分を絶対に否定しないところが彼らの特徴でもある。
もうひとつ、この本を読んで、キリストが真に天才であったことを理解した。これはキリストに帰依するとか、彼の言葉を盲目的に支持するという意味ではない。ただひたすら驚くべきは、2000年も前に「そこまで」考えが及んだ人間がいたということである。
正直、この本を読んで、途方に暮れている。身近にいる「邪悪」と思われる人間にいかに対処すべきか、そこまではわからないからだ。ただわかるのは、彼らがうそつきで、自分のことしか考えていない、ということだけだ。しかしそれを知ることがいかに重要か、そしてその「邪悪」さに巻き込まれないためにも、この本を読むことをお薦めする。なによりも重要なのは、もう一度自分の本質に立ち返ってみることである。案外、僕らは自分のことを理解しているつもりになっているだけかもしれないのだ。
written on 25th, oct, 2004