感想を求められたのでベルンハルト・シュリンクの「朗読者」を読んだ。以下、内容に触れざるを得ないので未読の人は読まないで下さい。
それにしても古臭くて読みにくいフォントだ。それはさておき、僕にはこれが恋の話だとは思えない。確かに第一章は恋の話である。しかし、全体を通すと、これはひとりの男の呆れるほどの執着心と未成熟とセンチメンタリズムの話である。
記憶に強く残るのは、往々にしてものごとの最もいい部分と最も悪い部分である。従って、恋愛の記憶であれば、それが自分が追い求めている間、執着している間に相手に去られた場合、相手のいいところばかりを覚えていて、逃がした魚は大きいものとしてインプットされる。逆に相手の嫌なところが見えて、自らの気持ちが離れて別れた、或いは相手を捨てた場合と云うのは、むしろ嫌な思い出として記憶の隅に追いやられていく。これはそのときの自分が精神的に未成熟であればあるほど顕著だ。
二十代の大半を失恋の痛手と執着心から脱するために費やした僕にとって、この話は一種のアンチテーゼだ。
仮にそれが、この手の未成熟な初恋の話に多い、二十一歳も年上の女性との話であっても、結局主人公は最初の女性であるハンナをとうとう客観的に認識、あるいは把握できなかった。飽くまでも最初に付き合っていた頃の恋の相手として主観的に捉えることしか。だから、出所直前のハンナを訪れて彼女が老人となっていることに慄然とするのだ。それでも出所当日に彼女が死んでしまうということで起こる一種の昇華によって、依然として彼はセンチメンタリズムに埋没したままになるのだが、ある意味彼は少年時代の記憶にあるハンナを理解するために大半の人生を費やしたに過ぎない。
ハンナがナチスの看守であったという経緯は僕をうんざりさせた。それはこの物語のひとつの核でもあるが、否定することの出来ないシチュエーションを持ち出したことで作者は一種の禁じ手を使ったのだ。彼女がナチスに関係していたことと、実は文盲であったことも、それは瑣末であり、彼女の一部にしか過ぎない。少なくとも彼女の全てでは無い。主人公はとうとうそれを理解出来なかった。彼女がただ自らが文盲であることを隠し通すためにぷいと消えてしまうような人間であり、自分も彼女にとってその程度の存在であったことすらも。
彼は結婚した相手を愛し通せなかったことすらも、ハンナの幻影のせいにしているではないか。これはひとりの愚かな男の話である。僕にはこれで泣けると云うのが分からないよ。ここにあるのは、相手も、自分すら見失うほどの過剰なセンチメンタリズムだ。ただ、もしかしたらそれが恋と云うものなのかも知れない。ここまで酷評するのも、かつては僕も同じような男だったのだ。あとがきでも二読を薦めているし、この本を紹介してくれた人は三読を薦めてくれた。すまん、正直な話、こういう人生は一度でたくさんなんだ。後戻りしてちょっとずつ埋める人生なんて。とっくの昔に終わった恋が人生最高の恋だなんて。
長くなりそうなので、初恋、もしくは恋がその後の人生に与える影響については別の機会に。