my favorite things vol.22

「マインド・ゲームス」

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どうしたものかパソコンでCDを聴けると云うことをいつも失念している。今日はたまたま思い出して机上にあったティアーズ・フォー・フィアーズの名作「the seeds of love」を聴いているわけだ。

実のところ、僕はことミックス(いわゆるトラック・ダウン、最終的に曲のバランスや音を整える作業)に関しては密かにかなりの自信を持っていて、以前某音楽出版社で会議をしていて自分の録った曲がかかったときにあまりにいい音なのでびっくりした覚えがある。まあ、自分の好みの音にしているわけだから当たり前と云えば当たり前なのだが。それにしてもこのティアーズ・フォー・フィアーズのアルバムもそうなのだが、ことミックスに於けるエンジニアリングの感覚に関しては、イギリス人にはかなわない。それは先年ロンドンで現地のエンジニアでミックスしたときにも感じたことである。それまではアメリカでミックスすることは随分多かったし、彼らには彼らのよさがある。どちらかと云うとトータルバランスで世界を作るのが上手い。日本のエンジニアも当然いい人もたくさん居るが、どちらかと云うと国民性からなのかそれとも職務上の歴史のせいなのか、職人的な人がやたらと多い。僕のような自分のアイディアで作りたがる人間には却ってその方が都合がよかったりもするのだが、いずれにしろ、日本人にしてもアメリカ人にしても、ことアーティスティックな感覚と云う点ではイギリスのエンジニアに譲らざるを得ない。

何故かロンドンのエンジニアの感覚には鋭敏で研ぎ澄まされたものを感じる。特にアンビエンス(残響)の処理に関してはアイディアの豊富さといい、舌を巻く。前述のレコーディングではドラムのアンビエンスだけ定位をクロスさせる(つまり左右逆に振る)と云う感覚に驚いた。こういう感覚と云うのはどこから来るのだろうか。ロンドンに於けるエンジニアと云うのは全くアーティストと云うポジションにあると云うのももちろんだが、国民性と云うか、歴史と云うか、つまりは音楽との向き合い方の違いのようなものを感じる。そう考えると、ビートルズのような革新的なミュージシャンがイギリスから現れたのもうなづけると云うものだ。

そんなわけでもうすぐジョン・レノンの命日である。僕がビートルズを聴き始めたころには彼らは既に解散してしまっていて、どちらかと云うといわゆるビートル・マニアと云うような熱狂的なファンは僕より少し上の世代に多い。たまたま知り合いを通してそのひとりと話をする機会が前にあったのだが、そのマニアックさは驚くべきものである。しかもそういう人はやたらと多い。彼らにとってはそれこそジョン・レノンやポール・マッカートニーは神であり、特に唐突に射殺されてしまったジョンは既に神格化された存在だ。

彼らに比べれば僕などは全然ビートルズ・ファンなどと云うものには当たらないし、ましてやマニアの範疇に入ろう筈も無い。しかしながら、ビートルズは僕がクラシックの後で最初に聴きまくったアーティストである。実際、二十代半ばぐらいまで、毎年大晦日には彼らのベスト盤(赤いやつと青いやつ)二枚組2セットを最初から最後まで一緒に唄っていたこともある。高校のころは名画座でやっていたビートルズ映画の3本立てに足繁く通って、一日にふた回り、都合6回見たこともある。

最初の頃はポールの方が好きだった。いわゆる音楽的なアイディアとか才能にかけては彼の方が上だ。彼の書くメロディーは圧倒的に親しみやすく、ポップだ。最近気付いたが、ベースプレイヤーとしても、当時としては驚くほどアイディアに富んだ素晴らしいラインを弾いている。最初に買ったシングルも彼のソロになってからの「死ぬのは奴らだ(Live and let die)」だった。しかし、大方の例に漏れず、聴き込むに連れて惹かれていったのはジョンの方である。

ジョンは音楽的な方法論としてはシンプルな引出ししか持ち合わせていなかったが、ポールと比べるとより内面的な感覚とか、メッセージとか、ひいては鬱屈したものとか、要するに前述のロンドンのエンジニアに感じるような研ぎ澄まされたものがあって、それが奥行きの深さみたいに感じたのだと思う。つまり、彼はいつも悩んでいたり、憤っていたり、空虚さを覚えたり、まるで常に思春期のような、こう書くと陳腐だが青春と云う言葉が当てはまりそうな、当時の悩める若者を代表するような存在に思えた。彼は常に満ち足りることがないような気がした。

初めて彼のシングル、「マザー」を買って聴いたとき、エンディングの絶叫を聴いて僕は困惑した。むしろ戦慄したと云ってもいい。それは確かにショッキングで、こんな表現方法もあるのかと云う驚きもあった。ただ彼をここまで絶叫させるものはなんなのだろうと思った。B面でただ不快なだけのヨーコの声は僕をさらに混乱させた。ただ、いま考えてもB面はただの蛇足に過ぎないと思う。

ジョンがどこかのつまらん奴に呆気なく射殺されたときに、早くからファンクラブに入っていた当時の僕の彼女はおいおい泣いたと云う。しかし、正直なところ僕は特に感傷的なものは感じなかった。彼と同時にカリスマになってしまったヨーコを得て、満ち足りた立場で平和を唄ったり、スタンド・バイ・ミーのカバーをノスタルジックに唄ったりする彼は、僕にとってはもうビートルズのジョンではなくなっていた。もう彼は大人になってしまったのだと思った。世界中のそこここで人が無闇に殺されてしまうような、どこか不確かで迷走するあの時代だからジョン・レノン足り得たのだと云うような、身勝手な思い。彼は神なんぞでは無い。人間だったからカッコよかったのだ。だから大人になってしまうし、満ち足りてもしまうのだ。それは詮無いことだ。

彼は歴史になってしまった。ちょっとノスタルジックな。もうあの時代では無い。ソ連もベルリンの壁ももう無い。僕はちょっとカム・トゥゲザーを口ずさんでみるのだった。どうしてこうも心地よいのだろう。

<あっと云う間の追記>昨日なんとなく上記の文章を書いて、どうも違和感を感じてしまった。よほど削除しようかと思った。一夜明けてふと考えてみると、恐らく繊細さと大らかさのようなものかなと思った。ポールはやけに大らかで、ジョンはどこか傷付きやすいナイーヴな人間に思えた。とすれば、彼が大人になろうが満ち足りようが関係無い。たぶん僕は功成り名を遂げてニューヨークの摩天楼に引き篭もり、悠悠自適なプライヴェートな世界に入ってしまった(それも僕の好きになれないヨーコと)彼が、自分とはかけ離れた遠いところに行ってしまったような気がしただけなのだ。ハナから彼は僕とは遠い世界に居たわけで、お笑い種である。どうやら僕はいつまでも彼に自分同様もがいて欲しかったらしい。イギリスとアメリカのエンジニアの感覚の違いも、上記の繊細さと大らかさのようなものなのだろう。つまりは島国と大陸の違いのようなものだ。

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