ここ二三日、思い出したようにボズ・スキャッグスの「ダウン・トゥー・ゼン・レフト」を聴いている。これは掛け値なしの名作だ。1977年、僕が高校三年のときのアルバムだ。
僕はそのころやっぱりバンドをやっていて、聴いていたのはディープ・パープルやレッド・ツェッペリン、それにバッド・カンパニーやグランド・ファンク・レイルロードといった、バンドでコピーしていたハードロックばかりだった。僕はこのアルバムを聴いて、洗練とはなにか、大人であることとはなにかというものを初めておぼろげに感じ取ったような気がする。抑制のかっこよさ、とでも云ったらいいのだろうか。簡単に云えば、今でいうクールなものに出会ったわけだ。
このアルバムの本当のよさが分かってきたのはその後一二年経ってからで、最初に聴いたときは普段どかーんというロックばかり聴いていたので、細部にまで耳が届いていなかった。今聴いても、殺虫剤で死んだことになっている(トトの連中がヤクでヘロヘロだったのは、スティーヴ・ルカサーの自宅を訪ねた僕の友人の情報からも明らかだ)ジェフ・ポーカロのドラム、レイ・パーカー・ジュニアの絶妙なリズムカッティング、デヴィッド・ハンゲイトの抑制が効きながらもここぞというポイントをくすぐるベース、聴きどころは数え上げたら切りがない。このころはまだ今みたいになんの音でも出るシンセサイザーやサンプラーなんてものはまだなかった時代なのだが、それでも限られた音しか出ないアープやムーグといった初期のシンセがツボを押さえ、マイケル・オマーシャンのブラス・アレンジが絶妙なタイミングで間を埋めている。テンコ盛りに埋まりに埋まった音が氾濫している今の音楽と比べると、いかにスカスカに間が開いているかが分かるが、それを感じさせないリズムアレンジ、バランスの良さと、むしろその間を楽しむことでミュージシャンの呼吸まで伝わってくるようだ。スティーヴ・ルカサーの名を一躍知らしめることになったギター・ソロになると、僕は今でもそらで指使いを全部頭でなぞることができる。
僕にこのアルバムをいいと薦めてくれたのは、テニス部の同級生のNだ。彼は以前違うところにもちょろっと書いたことがあるが、僕にパチンコというものを教えた、ひいては学校をさぼるということを教えた、いわゆる一種の不良である。それでいて、みかけは子供っぽく、テニスの方はといえば、僕より遥かに巧かった。肝っ玉が据わっているので、本番に弱いあがり性の僕とは大違いだった。彼とは特に仲がよかったというわけではないのだが、とにかく、なにか悪いことをしようというときは彼は僕を誘うのだった。体育の時間といえばさぼってお茶を飲みに行こうとか、パチンコに行こうと誘うのだった。合宿の最中に生まれて初めて煙草を買いに行ったときも、もちろん彼が一緒だった。一度彼に誘われて、授業をさぼって駅前の映画館に当時封切りの「砂の器」(野村芳太郎監督)を見に行ったことがある。松本清張原作のこのセンチメンタルなミステリー映画を見て、ふたりで映画館で目を腫らして泣いたことが懐かしい。卒業以来一度も会っていないが、彼はどうしているのだろう? 実のところ、このアルバムを何年か振りで聴くまでは、彼のことなどすっかり忘れてしまっていたのだ。
考えてみれば、彼は不真面目なだけの中途半端な不良だったわけだが、少なくともクールなものに関しては僕よりも敏感だった。いずれにしても懐かしい思い出ではあるが、では今彼と再会を果たしたいかというと、そうでもないのだ。なんにつけても自信満々な彼とは、実はあまりウマが合わなかった。もし今会ったとしても、全然話が噛み合わないことだろう。僕はあのころとちっとも変わらず、未だにシャイなまんまだ。
それにしても、傑作というのはどうしてこう色褪せないのだろう。だからこそ傑作なのだろうが、それはホントに不思議なことだ。それはいつも僕をあのころに引き戻すし、あのころ吸っていた空気や、匂いや、迷いや、絶望や、センチメンタリズムというものをいとも鮮やかに甦らせる。それにやっぱりクールなのだ。今でも。
written on 17th, sep, 2001