my favorite things vol.28

「阿部和重」

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何度も書いているけれど、阿部和重の出身地であり、小説の舞台となっている神町(じんまち)は、僕の田舎の隣町である。うちの田舎は駅がないので、もし駅を使うのなら神町駅ということになる。したがって、彼の小説に出てくる駅名は、僕が高校のときに通学時に通った駅ばかりで、知っている土地を舞台にしている、ということだけで読みたくなるところがある。そんな贔屓目もあって、小説に関しては全部読んでいる。

最初に読み始めたきっかけは、Kが阿部の処女作、「アメリカの夜」を読もうとしているのを見て、気になったからである。結局、僕の知る限りKはいまだに読み終わっていない。何度もトライしたらしいが。何故かというと、彼の文体の特徴は生硬で、しかも理屈っぽい。なので、女性にはいささかとっつきにくいのだろう。僕の印象では阿部は理屈っぽい論客である。しかしながら、題材として取り上げるのは俗っぽいもの、オタクっぽいものが多い。いわゆる宮台真司あたりの、いまどきの女子高生なんかを理屈っぽく語るのに似ている。そこらへんに地元の土地が絡むものだから、僕などはそれだけでも面白く読めるわけである。

僕のように地元の人間は、その舞台になっている町を具体的に想像できるのだが、一般の人々にはどう見えているのだろうか。恐らく、神町とかはいささか神秘的な土地の様相を呈しているのではないだろうか。しかしながら、実際の神町は、恐ろしいほど退屈な田舎町である。自衛隊が駐屯しているのと、空港があることを除けばなにもないと言っていいほどの。きな臭い事件が起こったことなど聞いたことがない。その点、同じぐらい平和な隣町である僕の田舎の方が、老婆がナタを持って家族を追い回して殺したなんていう、ちょっと横溝正史っぽい事件が起こっている。まあしかし、ホントに何も起こりそうもない町だからこそ、小説の舞台にしやすいのではないか。何も起こらない、ということは、「まだ」何も起こっていない、と考えることもできるわけで、逆に何が起こっても不思議ではない。これが歌舞伎町とかになると、何が起こっても当たり前のことになってしまい、出来事の神秘性は途端に色褪せてしまう。その点では、神町を舞台にするというのは効果的である。

彼の理屈っぽさは、照れ隠しなのだろうか、とも思う。扱っている事象の多くは猥雑で、俗っぽく、興味本位なものが多い。それを理論武装することで正当化しているような風もある。その理屈も多くは観念的なもので、理論のための理論という印象がある。いずれにしろ、特に地元では進学校とも言えない高校を中退(だったと思う)して、大学ではなく映画学校を出た彼が、いったいどのようにして今の難解な語彙や理屈を身につけたのかは、興味深いところである。そういった点では、僕自身は遥かに劣る。僕自身の語彙は非常に貧弱であるし、実際、僕が読むと阿部の文章は難解に思える。展開する理屈も同様。映画青年だった彼と、バンド野郎だった僕とのあいだに、どれだけの差異があるというのだろう。恐らく、音楽よりは映画の方がロジックを必要とし、武器とする傾向にあるからなのか。恐らくそういうことなのだとは思うが、小学生のころから本の虫であった僕が、音楽をやることによって語彙を失ったということは考えがたい。ということは、文系と理系のような、頭の思考構造体系が違うのだろうか。僕はあらゆることをシンプルに平易にしようと躍起になり(でもないか)、阿部は複雑化して理論化する、といった図式。それが音楽と映画の図式にそのまま当てはまるのか? 感覚に訴えるという点では同じだと思うが、どちらが頭と理屈を使うかといったら、やはり映画に軍配が上がるだろう。音楽の場合は、譜面が読めずにコードさえ知らなくてもできるのである。逆に、理屈で考え始めると必ず煮詰まってしまう。クラシックの現代音楽のように。そこに視覚という一点が加わっただけで(もちろんそれだけではないが)、かくも複雑なものになってしまうのである。これは二次元と三次元の違いのような、軸が一本増えただけで遥かに複雑なものになるのと似ている。

この辺の違いは、純文学とエンターテインメントの違いにも、いささか大雑把ながら当て嵌まるかもしれない。ただ面白ければ、興味をひければよい、というだけでは純文学足りえない。阿部は「インディヴィジュアル・プロジェクション」によってJ文学の旗手と言われたが、その意味ではJ文学の「J」は純文学のJだったわけだ。いささか脇道にそれれば、前述の「インディヴィジュアル・プロジェクション」によって、阿部を「渋谷系」とか「渋谷派」と呼ぶ時期があったが、これは勘違いもはなはだしい。「インディヴィジュアル〜」は読んだ人ならわかるが、現在まで続く神町ものの一環である。たまたま主人公が渋谷に住んでいたというだけで。いずれにしろ、同じ地元の人間として、彼が芥川賞を取って、多くの人々に読まれることになったのは非常に喜ばしいことである。ただ、ちょっと悔しいのはなぜかなあ。

written on 7th, mar, 2005

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