夢を見る技法

昨日からどうも夢を見ると最終的に堂々巡りになってまったく話が展開しなくなり、煮詰まって結果目が覚めるということが続いている。夢の最後の方ではなんとか夢の話をもうひと展開させたい、夢の続きを見たいと苦労している自分がいて、つまりは半覚醒状態なのだ。夢というのはある程度自分の意図を反映させられるところがあって、ああこれは次にこうなるだろうなと夢を見ながら思ったりするのだけれど、それが上手くいく場合といかない場合とがある。ただし、上手く自分の思うように展開させられた場合であっても、夢そのもののシチュエーション自体は自分では選べない。気がついたときにはもう夢は始まっている。つまり事前には自分がどんな夢を見るかは分からないし選べない。

思うに、夢が煮詰まって堂々巡りをし始めて、ああこの続きが見たいのに、これからどうなるのか知りたいのにと思い始めているときというのは、既に目を覚ましかけているときだ。つまり、目を覚まし始めて極度に眠りが浅くなると夢は展開しなくなる、っぽい。逆に長い夢を見て話がどんどん続くときというのは、結果的に長く寝ている。

いずれにしても、僕らは夢を見るとき、気がつくと唐突に夢の世界、夢のシチュエーションに放り込まれているわけだが、これをなんとか上手くコントロール出来ないものだろうか。ある種の夢を意図的に見ることは出来ないのだろうか。と、2日続けて夢で煮詰まった僕は延々と考えているわけなのだった。

どうせ見るのならいい夢が見たい。いい夢を出来るだけ長く見たい。そうすれば同じ生きているにしても人生を倍楽しめるではないか。極端な話、実生活よりも楽しい夢なのであれば、実生活よりも長い時間夢を見てもいいのだ。つまり、実生活と夢が逆転しても。

こんな風に僕は夢想する。

もちろんそれは実生活が充たされない、辛い、苦しい、思うようにならないという背景があってのことで、だから夢の中でぐらい楽しい思いをしたいという切望をするのだ。もうこうなると完全な妄想だが、夢の中で思うような人生を生きられたらとか考える。

先週、珍しく淫夢を2回見た。淫夢を見ること自体が実に久々で、見ないときは半年ぐらい見ない。なので、一体どういうタイミングでそれが出現するのか謎なのだけれど、たまたま見ることが出来ると実に嬉しく、なんか得した気分になる。出来ることなら毎日見たいくらいである。それで、一体どうやったら淫夢を見ることが出来るのだろうかと真剣に考えた。とはいうものの、このところの集中力のなさ、頭の回らなさなので何もいいアイディアは思いつかない。そもそもそれを意図的にするためには、どうして淫夢を見たのかという要因を究明する必要もあろうかと思うのだが、それが皆目見当がつかない。

一体どうやったら意図的に淫夢を見ることが出来るのだろうか。思春期の少年のように四六時中性的な妄想に耽るとかかな。しかしそれは土台無理、長年ドグマチールという抗うつ薬の一種を飲んでいるので性欲自体が低下している。普段性的な妄想に耽ること自体がない。ではそういう今の僕に、何故不意に淫夢は訪れるのだろうか。

以前何かで読んだのだが、夢というのは記憶をランダムに繋ぎ合わせて再生したものということだ。ランダムなのだからそこにストーリーが生まれるのはただの偶然であって、必定それは不条理なものになりがちである。淫夢というのはその中の性的な行為の記憶が再生されるということか。つまりその場合夢のストーリー性自体はもはやどうでもよくて、そのシーンだけを僕は追い求めていることになる。ということは、記憶の一部だけを意図的に取り上げて再生する必要があるわけで(それも出来たら繰り返し)、考えれば考えるほど無理という気がしてくる。

初夢というものがあって、一富士二鷹三茄子と言われるけど長いこと生きてきて初夢の中に富士も鷹も茄子も登場したことなどただの一度もなく、子供のころからいい夢が見れるようにと折り紙で宝船を折って枕の下に入れるということを大人になってもしばらくしていたものだが、それが効果があった記憶はいまだかつてない。だからこの場合容易に想像がつくのは、枕の下に卑猥な写真を入れたりしても効果はないということである。そういう呪術的というか儀式的なことでは夢をコントロールすることは出来ない。

かつて一時期道に迷う夢ばかりを見ていたころがあった。駅に向かってどこまで歩いても、いつまで経っても辿り着けないとか、どこかから帰ろうとして帰れなくなるとか、そういう迷う夢ばかり見ていた。これはそのころの実生活の悩みを反映していたのではないだろうかと思う。つまり、恐らく僕は実生活でも日々迷っていたのだと。それがイメージとして夢の中に具現化されたのではないかと思った。

と書いてはたと気づいた。それで今は煮詰まる夢ばかり見るのだろうか。毎日煮詰まってばかりいるので。

ううむ、困った。ということは楽しい夢を見る確率を上げるには楽しく日々を過ごす必要があるのではないか。淫夢を数多く見るためには酒池肉林を繰り返す必要があるのではないか。つまりそれなりに素材となる記憶の材料を増やすというわけだ。しかし、そんなんだったら別に夢を見なくてもいいではないか。十分実生活が楽しいわけなのだから。

ジレンマである。ここは一旦切り離そう。実生活の充実度と夢の充実度は異なる、という仮説を立てるしかない。なにしろランダムに記憶が再生されるわけなのだから、今現在でなくてもかつてそういった楽しくて淫靡な記憶があれば理屈としては素材はあるはずなのだ。要はいかにそれを恣意的に引っ張り出すかということなのだが。

恣意的? 恣意的とランダムって矛盾してないか? つまり、ランダムである限り意図的に操作するのはどう考えても無理ということになる。僕がやろうとしているのは選択的に夢を見るという行為なのだ。だが意図的、選択的に記憶をフィード出来るのであればそれはランダムではないということになる。どうしてもランダムじゃなければダメなのだろうか。

ランダムということを肯定してなおかついい夢を見るためには、ひとつ方法があるような気がする。つまり、記憶をすべていいものにしてしまう、素材自体をすべていいものにしてしまうという考え方だ。逆の見方をすれば、嫌な記憶、思い出したくない記憶はすべて消去してしまう。うむむ、しかしもしそういうことが出来たとしてだよ、そうすると僕のこれまでの人生の記憶自体が半減どころか大幅になくなってしまうのではないか。これは物凄いジレンマだ。ある意味本末転倒だ。しかし前述のように夢がすべて楽しい夢なのであれば虚実が逆転しても構わないのだが。夢が人生の大半を占めることになっても。

結局のところ、僕は夢見ることを夢見ているだけなのか。

夢というものは見てからでないとどんな夢かは分からない。事前には分からない。つまり、常に結果でしか判断出来ない。なんのカードが出てくるかはめくってみなければ分からないのだ。

という具合に夢について思索すればするほど、現実が疎かになっていくような気がする。現実が頭の中で夢想する夢によって蝕まれていくような気がする。夢の浸食だ。

結局のところ、それは記憶であり、それによって生じる気分にしか過ぎない。しかもほとんどの夢は数時間も経つと跡形もなく忘れてしまう。後にはなんとなく気分だけが残る。ところが、これはあくまでも僕の場合だが、淫夢の場合は鮮明に覚えているのである。それこそ選択的に、そのイメージは鮮烈に残る。だが考えてみればそれも元を辿れば自分自身の記憶なのだな。

考えてみれば僕らの人生というものは記憶そのものだったりするのだった。記憶というのは過去のものであり、したがってこれから見る夢を恣意的に操作するというのは未来を恣意的に変えようとするようなもので、ある意味タイムマシンを作ろうとするのに似ている。これでは錬金術となんら変わりない。

だが待てよ、未来を意図的に変えることはある程度可能なのではないか。つまり目標を持って計画を立てる、それを実行するといった具合に。もちろん自分が出来る範囲のことではあるが。そう考えてみると、まんざら意図的に夢を選択的、計画的に見るということは不可能ではないようにも思えてくる。やはり一番の問題は夢とは結果でしかないということだ。計画を立てて実行することは出来ても、結果を先に持ってくることは出来ない。物事には順番というものがあるのである。

ああまたすっかり訳が分からなくなった。こうして僕は今日も夢見ることを夢見るのだ。

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