M

また夢の話だ。先日の夢について書こうと思う。

正確には夢に登場してきたマユのことである。マユは学生時代の仏文の同級生で、同じサークルでもあった。ここで現実のマユについて書くことはやぶさかではない。マユの来歴をほんの触り程度にざっくりと書いただけでも十分に興味深いかもしれない。しかしながらこの文章はマユという女性のプライベートについて暴くためのものではない。彼女について興味本位に書くことならいくらでも出来る。だが、僕の夢に登場したマユは現実のマユではない。だからここではMと名付けることにする。確かにMは象徴として僕の夢に出てきたに過ぎないから。

Mについてここに書くに当たって、結局現実のMの姿をいささかでも紹介せざるを得ない。何故なら、何故僕が夢に登場した女性をMと判別・認識出来たか、ということがあるからだ。

Mは学生時代、典型的な美少女だった。きゃぴきゃぴした今風の可愛い感じのギャルではなく、清楚で知的な感じの、オーソドックスな美少女だった。清楚に見えるが実は活発で頭がよく、一言で言えば才気活発。フランス語と英語に堪能で、少々頭がよすぎる嫌いがある。つまりときとしてMは能弁にすぎるし、近ごろに至ってはほとんど闇雲と言っていいぐらいポジティブである。

彼女は今僕と同い年だからもう55歳で、かつての美少女の面影を残しているとしても微々たるものだろう。ただ、かつて美少女であったことは確実に想像できる程度の初老の女性になっているはずだ。それはフェイスブック上の彼女の写真から推察することしかできない。

夢の中での年齢は常に判然としない。それは自分自身とて同様だ。自分が果たして若いのか、そうだとしたらどの程度若いのか、それとも今と同じくらいの歳なのか、それとも今よりも歳を取っているのか。それはまったくもって判然とせず、同時にまったく気にならない。夢の中での年齢は意味を持たない。

僕は木造で複雑な構造を持つ大きな建物の中の一室にいた。個室としての居住空間としてはかなりの広さで、ある面ではアメリカの住居を想起させられたし、またある側面では大正とか昭和の時代の古い木造の病院のようにも思えた。

僕はときどき木造でいろんな部屋が多層的に複雑に組み合わさった巨大な迷路のような下宿にいる夢を見ることがあるが、今回はそれの変形のように思えた。

僕は最初精神病院に入院していると認識した。だがそこには白衣の医師も看護師も見当たらず、病院らしいベッドや備品も見当たらず、どちらかというときちんと整理された居住空間、住居といった雰囲気だった。だから、どうしてそれを最初精神病院だと認識したのかはよくわからない。去年母親が精神病院に入院した記憶からだろうか。

もしかしたら僕の認識では本や映画に出てくる、サナトリウム、療養所といったものに近いのかもしれない。いずれにせよ僕はそこで何をしているというわけでもなく、僕はここで療養しているのだという認識に近いものがあった。

夢は2回に分けて見た。途中で一度目が覚めたからだ。2度目にMが出てきた。僕は先ほどの夢と同じ建物の中にいた。今度は病院という感覚は薄くなっていた。逆にそこがどこなのか、どういうところなのかはますます曖昧になった。Mが向こうから現れた。どうやらMもここで生活しているようだ。Mはかつての美少女の面影をはっきりと残していた。しかし55歳で2人の子供がいる感じにはとても見えず、実際子供の影はどこにもなかった。夢に現れたMはかつての美少女と今の初老の女性の中間的存在に見えた。だが確かにMだった。

僕らは言葉を交わさなかった。もしかしたら一言二言何かを話したのかもしれないが、言葉を交わした記憶がないのだ。僕はただ、ああMと僕は同じところで生活しているんだなと思った。

ただそれだけの夢なのである。

よく分からないのは、何故そこにMが出てきたのかということだ。確かにMは僕と同じクラス、同じ音楽サークルであり、入学当初、僕は微かな憧れや恋心といったものを彼女に抱いていた。しかしそれも彼女がサークルの先輩の彼氏を作るまでであり、それ以降彼女に対して恋愛感情を抱いたことはない。たぶん。あまり確信を持てないのは、まるで見込みがないと分かってからも、面と向かって話すとちょっとどきどきするぐらい、彼女は美少女だったからだ。でもそれは現実的な恋愛というよりは美しいものに対する憧憬に近かった。僕はいつも、彼女はとても手の届かない存在として認識していた。実際手が届いたかどうかはまったくなんのアクションも起こしていないので可能性としてはゼロではないにしろよく分からないが。ただ僕は彼女に対する憧憬をなかなか捨てられなかったのも確かで、同じ東北出身ということで田舎に帰省したおり、同じく帰省していた彼女の実家を車で訪ねたこともある。

前回も書いたが、夢というものは記憶をランダムに再生させたものらしい。したがって、夢に出てきたMが昔と今の中間ぐらいの曖昧な存在として登場したのもそういうわけだろう。現実のMが今どういう生活を送っていてどういうキャラクターなのかはフェイスブックで大まかには把握している。だから、夢に登場したMは今現在のMでは明らかになかった。かといって、かつての学生時代のMでもなかった。そのどちらでもなかった。まるで憲法に於ける天皇みたいだが、彼女はまさに象徴でしかなかった。それは全女性の象徴としてではなく、僕の中のMの記憶の象徴としてだったように思う。

つまり、夢に出てきたMは僕がかつて微かな憧憬と恋心を抱いた、まだよく知らなかったころのMの象徴として存在していたように思える。あるいは、いろんなことを具体的に理解して把握している今の彼女とブレンドした存在のように思えた。いずれにしても夢の中の彼女と僕の間には何のストーリーも生まれる気配はなかった。僕はただMもいるんだなと認識したにすぎない。そういう意味では夢の中のMは、木の床や壁、天井、古びた家具、そういったものと同じような舞台装置のひとつだったのかもしれない。ひいては複雑な構造を持つその建物の構造物のひとつの要素としていたのかもしれない。

別にフロイトのように夢を分析しようというつもりはない。ただ、なんでMだったのかなあと思ったのだ。なんかそれは、今の僕がいかに恋心や憧憬と程遠いところにいるのかを象徴しているような気すらした。

去年父を亡くして田舎の実家に戻って来て、20年振りにMと電話で話をした。Mの声も話し方も昔とほとんど変わっておらず、相変わらずその声はある種の確信に満ちていた。そして、これはいつも思うのだが、Mと僕の間にはどうにも越えがたい分厚い壁のようなものがあるような気がした。

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