電話病

昔から長電話である。

いつごろからそれが始まったのか、いまひとつ定かではない。最初に電話というものを強く意識したのは、学生時代のころだ。もちろんまだ携帯電話などというものはなく、それどころか留守番電話さえまだ珍しかった。二十歳のころ、僕は高円寺の駅から徒歩5分の日の当たらない家賃1万5000円の4畳半一間のボロアパート(風呂なし、トイレ共用)に住んでいて、部屋には電話はなくアパートの入り口近くに共用の電話がおいてあった。それが鳴ると、一番電話に近い部屋の住人が出て呼び出すのである。

そのころ、僕はレミと初体験を済ませて付き合っていた。レミは藤沢の方に住んでいた。僕は毎晩毎晩、レミから電話がかかってくるのを待つようになった。電話がかかってくると、薄暗いアパートの廊下に腰を沈めて長いこと話し込んだ。あまり電話が長くなると、他の住人から苦情が出た。つまり、その間に誰かに電話がかかってきたらというわけである。そのころから僕は電話を切ることが苦手だった。できることならいつまでも話していたいと思ったし、電話を切ってしまうのが不安だった。

僕はあまりにも毎日毎晩レミからの電話を待ち続け、それにすっかり疲れ果てるとだんだん電話というものが苦手に思えてきた。要するに電話というものはかかってくるのを待つものであり、それは待てば待つほどなかなかかかってこないもののように思えた。

これが僕が最初に電話というものを強く意識した発端だが、今にして思えばなぜこちらから電話をするという発想にならなかったのだろうかと不思議に思える。レミは実家に住んでいたので、彼女の父親とか母親とかが出たら嫌だなという気遅れがあったのだと思う。それと、自分からかけるとしつこいと思われるのではないかという意識も働いていたと思う。考えてみればこれはちょっとずるい。相手のせいにしている。ひたすら相手がかけてくるのを待つというのは、消極的というよりも受動的でかつ保守的、自己弁護的である。何事も相手任せであり、結局は自分からアクションを起こすのが怖い、失敗を恐れているのである。結果的に、相手(この場合はレミだ)に電話をかけてきて欲しいという過剰な期待を抱くことになる。高ずるとそれは幻想や妄想に近くなる。そして、電話というものがその象徴のように見えてくるのだ。

それから社会人になり、業界人になり、スタジオの現場で不規則な生活をするようになってから数年に渡ってテレクラにはまった。今の人はテレクラなんて言葉さえ知らないのかもしれない。説明するのは面倒だ。とにかく、僕は電話というツールを介在しないと女の子と付き合えなくなってしまった。女性との付き合いはまず電話で話すところから始まる、というのが当時の僕の中では定説となってしまい、それ以外の方法は(ナンパとかができれば別だが)存在しないように思い込んでいた。

当時はまだナンバーディスプレイというものはなかった。テレクラでのコツは、いかにたまたま繋がった女の子との会話を引き延ばせるかにかかっていた。待ち合わせなり、あわよくば相手の電話番号を聞き出すなりというところまでいかに持って行くかというゲームだった。僕は20代後半から30代前半まで、テレクラで知り合った女性としか関係を持たなかった。電話を通じて知り合った女性は簡単に口説くことができた。なにしろ、電話で最初に話し始めているときから口説いているようなものだから。だから簡単に押し倒すこともできた。ところが、プライベートで仕事なりを通じて付き合いかけた女性たちに対しては打って変わって慎重になり、押し倒すどころかある種の明確さを持って口説く勇気さえ持てなかった。テレクラを通じて知り合う女性に対しては大胆になれるのに、真っ当に知り合った女性に対してはひたすら奥手だった。このころの僕は少なくとも女性に対してはまるで2つの別の人格を持ち合わせているようだった。

そんなわけだから、30代のころの僕はテレクラで知り合った子としか寝たことがなかったし、付き合ったことはなかったが、それはこの小文の主旨ではない。

電話でしか女性を口説くことができなかったという意味では、コミュニケーションツールとしての電話というものには確かにある意味依存していたかもしれないが、電話そのものに依存していたわけではなく、したがってこのころはまだ電話病と呼べるものではなかった。

僕が「電話病」と呼ぶべき電話依存に陥ったのは、うつ病になって薬漬けになったことが原因だった。最後に勤めた会社を退社後、しばらくフリーで会社の仕事を請け負っていたので、会社から仕事用の携帯を与えられていた。それをどういうつもりか私用で使いたい放題に使ってしまったのがきっかけだった。まったくもって単なる甘えである。退社後、僕のうつ病は次第に悪化し、それとともに薬は尋常じゃない量に増えていった。それで僕はブレた。躁転していたのだと思う。僕はもう40歳をとうに越していた。一年ほど就職活動はしたもののどうやら年齢的にもまともな就職はできそうにないと諦め、あろうことかパチプロとして生きていこうとした。酷くなる一方のうつ病という病気を抱え、一日中薬でふらふらの状態ではそれぐらいしか生きる道はないように思えたのだった。

気がつくと業界時代の年上の友人であるI泉さんと毎日長電話するようになっていた。I泉さんは9歳年上の元作曲家である。彼は以前、前の晩に電話で話したうつ病の友人に翌日自殺されたという経験があり、それで僕の電話に治るまで付き合うと言ってくれた。僕はそれにすっかり甘えてしまった。あのころの僕はなにしろ大量の薬でずうっとぼうっとしていたので、まともな判断ができる状態ではなかったのかもしれない。僕はI泉さんにパチンコの釘の読み方を教えた。それ以来、I泉さんは僕のパチンコの弟子のような存在になり、そのことが僕の毎日の長電話の免罪符であるかのようにどこかで勘違いしてしまった。

I泉さんとの長電話はうつ病に苦しむ僕にとって、ある種のカウンセリング効果があった。I泉さんは物凄く聞き上手でもあった。I泉さんと電話で話していると本当に気が楽になった。もはや、彼と長電話するのはすっかり毎日の習慣になってしまっていた。当時はそれを何も不思議だとは思っていなかった。やはり僕はすっかりI泉さんに甘えていたのだと思う。

僕がどれぐらい毎日長電話していたかというと、まだ会社の携帯を使っていたころ、ある日会社の元上司から「ひと月の電話代が30万になっている。これは仕事の電話じゃないでしょう」という連絡を受けたことからもどれだけ尋常じゃなかったかがわかる。当然会社はその携帯を解約したが、上手い具合になのかそれとも間の悪いことになるのか、たまたま僕もI泉さんも携帯が同じauであったので、指定通話無料という手があった。毎月300円ちょっとの定額を払えば3件までの番号(au同士)が話したい放題、実質無料になったのである。この手段を見つけて、すっかりタガが外れたというか自制する理由がなくなったように思えた。そんなわけで、僕はI泉さんとの長電話にひたすら依存してしまうことになった。今考えてみればI泉さんにしてみると傍迷惑なことこの上ない話である。

I泉さんとの長電話はどれぐらい続いただろう。3年ぐらいだろうか。僕はその間に結婚して、あっという間に離婚した。その短い結婚生活の間もI泉さんとの長電話は毎晩続いた。結婚している間は夜散歩に出て、その間に話していたので若干通話時間は短くなっていたかもしれない。短い結婚生活の中でもうつ病はますます酷くなり、薬はますます増えて、もはや病気の症状なのか薬の副作用なのか区別がつかなくなっていた。

世の中がパチンコで食っていくのがだんだんと難しくなってくるのと並行してI泉さんとの電話が次第に減っていくようになった。やがてI泉さんはパチンコを諦めて仕事をするようになり、僕らはかつてのように電話をしあうことはほとんどなくなった。だが、僕の電話に対する依存はまったく変わらなかった。I泉さんの代わりに、今度は母の携帯に電話するようになった。これまた、家族通話無料というシステムがあったからだ。

別居、離婚というプロセスを経て僕の母への電話の頻度は増していった。僕は抗うつ薬の過剰投与で完全に躁転しており、夜中に母を叩き起こして怒鳴りまくるというような異常な言動を取るようになっていた。それまでも、パチンコで煮詰まって誰彼かまわずに金を貸してくれという電話をしまくって友人を失ったりしていた。

離婚後、僕は6畳ぐらいの狭いワンルームマンションに引っ越した。相変わらず身にならないパチンコに毎日通い、うつ病は一向によくならなかった。部屋はあまりにも狭くて煮詰まった。閉所恐怖症になりそうだった。夜中になると誰かに電話したくてたまらなかった。いのちの電話に電話したりしてみたが、滅多に繋がらなかった。どうしても誰かと話したくて、夜中の2時ごろに駅前の交番に電話して当直の警察官と1時間ばかり話したこともあった。僕はとにかく常軌を逸していた。

そして震災が起こり、それから一年後に僕は悪性リンパ腫という癌になった。入院中にI泉さんと話せるようにiPhoneを買った(そのころI泉さんは携帯をソフトバンクに替えていたので)りしたので、このころはまだI泉さんと連絡は取れていた。だが以前のように長電話はできなくなっていた。退院して抗がん剤治療で通院治療している最中はもっぱら母に電話していた。今ではすっかり口数が少なくなってしまった母だが、そのころはやたらと長電話していて、それは今考えてみると母よりも自分が延々としゃべり続けていたのだと思う。僕の電話依存はあくまでも自己中心的なもので、相手のことを考える余裕すらなかったのだ。電話が長引くと母はよく、年寄りなのだからもう勘弁してくれと言った。

そして僕の抗がん剤治療が終わって寛解し、田舎に帰ることを決意した年末に父が倒れ、年明けに母が統合失調症を発症した。僕は山形の実家に戻り、気がつくと一人になっていた。そして、I泉さんを含めていろんな友人に連絡が取れなくなっていった。こうして僕は毎晩誰かに長電話することもなくなった。フェイドアウトなのか強制終了なのか、気がつけばもう長電話をする相手がいなくなっていた。

正確にいえば、長電話をできる相手はまだいる。必ずしも誰も僕の電話に出なくなったわけではない。以前と何が変わったかというと、自分がやたらと長電話だということに僕自身が気づいたのである。ようやく。ことここに至って。

それに気づくきっかけになったのは、I泉さんやキーボードのヤマザキといった友人たちと連絡が取れなくなったこと。彼らはいつ電話しても留守電になってしまった。そして、ベースのヨウタロウやドラムのアキヤマもたまに電話に出ることはあるが、僕から着信があっても決してかけ直しては来ないのだった。かつての僕のバンドのメンバーは、ボーカルだったHを除いて誰もかけ直して来なくなっていた。これがある種の拒絶反応なのか、それとも当世それが一般的な反応であるのか、僕にはよく理解できなかった。というのも、僕自身の感覚でいえばもし知り合いから着信があったことに気づけばかけ直すのが当たり前と思っていて、実際自分だったら必ずかけ直すからなのだが。もはやそれは当たり前ではなくなったのだろうかと散々悩んだ。

結局のところ、どう考えてもこれは拒絶反応なのではないか、少なくとも嫌がられているのではないかと思えて仕方がないのである。簡単にいえばかけ直したくないからかけ直さないというただそれだけのことなのではないかと。つまり、彼らにとって僕は電話で話す相手としては面倒な人間なのではないか。要するに長電話になるから。

そういうことに気がつき、意識するようになってから、今度は電話をかけられなくなってしまった。これはまた違う意味での電話病であるとも言える。電話というものは単に用件を伝えるだけの代物であって、ただなんとなく話したいからなどという用途で使うツールとしてはもうメディアとして古くなってしまったのではないかと思った。要するにいまどきの時代、よほど緊急の用件でもない限り、メールであったりLINE等のSNSのメッセージで伝えればいい的な世の中に変貌してしまったのではないかと。もはや電話というもの自体が時代遅れなのではないかと。一旦そういう風に電話というメディア(あるいはツール)に懐疑的になってしまうと、電話をかけるということが気軽にできなくなる。煎じ詰めれば、電話で話したいという自分の気持ち、欲求そのものが相手と根本的にマインドの部分でずれがあるのではないかと思うようになってしまった。まあそれは考えてみれば当たり前のことで、自分が話したいからといって相手も話したいとは限らない。電話というのは、用件があるのは常にかける方なのだ。そして、僕にはその用件というものがない。

かくして、あれだけ依存していた電話というものをなかなかかけられなくなってしまったのである。

同級生のジョンのようにいつでも電話に出てくれて少々長電話になっても嫌がらない友人はもちろんいる。しかしながら、さしたる用向きもないのに電話してしまうと、次にかけるときに今度は躊躇してしまう。一体どれぐらいの頻度なら普通なのか、それがわからない。数年前の僕のようにしょっちゅう電話するのは明らかに変だということがわかったから。

こんな風に、僕は電話というものを恐らく過度に意識し過ぎている。まるで電話が関係性そのものであるかのように。学生のころ、あまりにもレミの電話を待ち過ぎて電話というものにうんざりしてしまったように。その意味で、今でも僕は電話病なのである。

そして今日も僕の携帯は鳴らない。友人からの電話なんて、真面目な話、滅多にかかってくるものではないのだ。

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