うたかたの日々

長いこと不真面目に生きてきた。

自分で言うのもなんだけれど、根は生真面目な方だと思う。だからこそ、その真面目さが表出するようになってからうつ病になったのだと思う。だがそのうつ病を発症してもまだ、めげずに10年ぐらいは不真面目に生きてきた。それが逆転、つまり真面目さが不真面目さを凌駕するようになったのが、悪性リンパ腫という癌が寛解したと告げられてからだ。以来、僕はひどくこれまでの人生を後悔したし、その傾向は父が亡くなって田舎の実家に戻ってから余計に顕著になり、僕は家計簿をつけるようになり、将来のことを考えては悲観して鬱屈するようになった。まったく皮肉なことに、真面目に生きようと思えば思うほど、人生は憂鬱なものになっていった。

根は生真面目でうつ病になるほど鬱屈してしまう僕が、つい数年前までの長い間、いい加減で不真面目な人生を過ごすことができたのは何故だろう。もしかしたらそれは単に若さのなせるわざだったのかもしれず、僕は意図して不真面目に生きようなどと思ったことは実際問題としてはなく、結果的に振り返ると大雑把にいって青年期と呼べる長い間をそんな風に生きてきた。

物凄く現実的に考えると、それは業界に入って延々と借金を抱える生活を始めたのが最初だと思うのだけれど、もっとさかのぼってみれば中学のときにクラシック・ギターを始めたころからその萌芽はあった。中学高校とクラシック・ギターを練習していたころは本気でギタリストになろうとぼんやりと夢見ていたし、東京の私大に入ったのもただ音楽がやりたかったからという理由だった。こういった夢というのはそもそも不健全なものでも発想でもなく、若者、もっといえば子供にありがちな夢であり願望であった。

それがいつの間にか現実の世界とリンクするというか、現実の生活そのままになった辺りからなにやら僕の生き方は妙なものになっていったのだ。気がつくと、僕はミュージシャンになるという夢を諦めた代わりに、毎日明け方までスタジオでレコーディングに明け暮れるという業界人になっていた。そして、その妙な感じは僕という個人だけのものではなく、世の中そのものが妙な熱気を帯びていた。つまり、バブルである。

僕がもっともスタジオのレコーディングで忙しかったころ、世の中はバブルで浮かれまくっていた。まったくもって奇妙な、うたかたの日々だった。僕は松任谷夫妻の事務所で松任谷由実の原盤ディレクターをやっており、経費は使いたい放題だった。食事からタクシーから、とにかく領収書を集めまくった。それも白紙の領収書を。当時のタクシーはまだ手書きの領収書であり、今考えると信じ難いのだが、運ちゃんに頼めば白紙の領収書を一冊ぐらいは平気でくれたのだった。

バブルというのは世の中全体が真面目さとは対極にある熱狂のさなかにあり、何もかもがどこかおかしかった。例えば喫茶店に入ると、当時まだ珍しかった携帯で「6億までなら現金で払う」などということを大声で話す客が何人もいた。大手広告代理店とか商社とか、1万円までならタクシーの領収書はなくても経費で落とせるという、今では考えられない時代だった。まるでお祭りで、どこか世の中は狂っていた。

駒沢公園の周辺の駒沢通りや駒沢公園通りにはトレンディドラマに出てくるようなお洒落なカフェ・バーが乱立した。僕は昼からそういう店に一人でいって、打ち合わせで落とすためにわざわざ高い昼食を食べた。当時の僕にとっては、世の中は領収書で回っているように見えた。夜ともなれば、車で乗りつける若者たちでそういう店は繁盛した。青山通りを走る車は、国産車よりもベンツやBMWやサーブやボルボといった高級外車の方が多かった。友人のミュージシャンたちが乗るポルシェやレンジローバーやプジョーには皆自動車電話のアンテナがついていた。貧困に喘ぐ人の姿はどこにも見えなかった。もちろんそういう人たちも確かにいたのだろうが、そのころの僕には見えなかったし気配もなかった。

僕の睡眠時間も世の中の浮かれ方につられるように短くなっていった。深夜のレコーディングを終えるとそのままテレクラに行き、明け方のファミレスとかで待ち合わせをしては、見知らぬ女の子と寝た。なんだか当時は一晩中車で走り回っていたような気さえする。

要するに、世の中全体がお祭り騒ぎのようだった。皆が皆、ハイだった。あれは一体なんだったんだろうと思う。

実際のところは、そんな生活をしながら気がつくと僕はいつの間にか年収と同じくらいの借金を抱えていて、その後長いこと借金に苦しめられることになる。しかし、熱狂のさなかにいた当時は、そんなことにすら気づかなかった。それはさして問題ではないように思えた。自分の収支勘定がひたすらマイナスになっていることにすら気づかなかったのである。僕には経済観念というものがなく、ただただどんぶり勘定で生活していた。いくら借金があろうが、毎月給料とほぼ同じぐらいの額の経費の仮払いをもらっていたので、世の中はどうにでもなるような気がしていた。

バブル自体は数年ではじけたものの、その余波はしばらく観念として僕らの生活、感覚の中に残り続けた。もちろん、不動産とかでバブルがはじけて一文無しになった人たちも数えきれないほどいる。前述の6億云々というような会話を大声で交わしていた連中だ。僕はそういう人たちのように大盤振る舞いの贅沢三昧をやったわけでも、そのしっぺ返しのような奈落を味わったわけでもないが、なんというかバブルのころの大雑把な金銭感覚というものはなかなかいつまで経っても抜けなかった。というか、抜け出せなかった。今田舎にいて改めて考えると実に奇妙な話ではあるのだが、そのころは東京で業界にいるということはそういう風に生きるものなのだと思っていた。刹那的というよりも人生そのものがどんぶり勘定のような、恐ろしいほどいい加減な生活感覚。

そういう感覚というものはある種の勘違いなのかもしれないが、しかしながら一生そういう勘違いをしたまま生きられるのであれば一概に悪いものとも言えないような気はする。ただ、真面目さや堅実さとは対極にある生き方ではあると思う。

いずれにしても、あのバブルの前後の数年間は実に不思議な時代だった。バブル後に生まれた若い人はもうああいう不思議な感覚を味わうことはないのかもしれない。もちろん金があり余っていて湯水のように使える人というのは常にいるのだろうけど、世の中全体が浮かれるという感覚はあの数年間特有のものだったと思う。結局のところ、あのときの感覚がその後の僕の人生を狂わせたと言えないこともないけれど、あの奇妙なお祭り騒ぎの時間を体験できたのはもしかしたら幸運だったのかもしれない。ただ、それは夢みたいなもので、夢は必ず覚めるものなのだ。

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