手帳依存あるいはメメント

手帳というものに自分が依存していることに気づいた。いまどきの人であればたぶんスマホなのだろう。手帳というものはアナログだ。とにかく四六時中手帳というものが手放せない。

まず、煙草を吸った時刻を書き留めなければならない。そうしないと自分が一日何本吸ったのか分からなくなる。禁煙は断念したものの、こうやって何時何分に煙草を吸ったのか、どれぐらいの間隔で吸ったのか記録することで際限なく煙草を吸わないように、出来るだけ本数を減らそうというわけである。

朝起きるとまずiPhoneで時刻を確かめ、階下の台所に降りると手帳に起床の時間をメモする。これは最近になってからの習慣だけれど、あまり深い意味はない。強いて言えば日記にその日何時に起きたのか書くためとも言えるけれど、僕のように決まった時間に起きなくてもいいという不規則な生活をしていると、現在自分がどういうリズムで生活しているのか確かめたくなる。ただそれだけ。

もちろん予定を書き込むのがメインの手帳の役割だ。予定を書くときには必ずチェックボックスをつける。予定を無事にこなしたらチェックボックスにチェックを入れる。この手帳の予定にチェックボックスを書くやり方は、僕の後釜に(ユーミンの)ディレクターになった女の子の習慣を真似たものだ。

何か思いついたらとにかく手帳に書く。もちろんチェックボックスつきで。例えば、朝食用の食パンが残り一枚になったとしたら翌日の欄に「□ パン」と書く。何か買うものを思いついたらとにかくこの要領で手帳に書く。

自分のこういった習慣というのは、神経質とか几帳面とかマメであるというよりも、どちらかというと強迫観念に駆られた強迫神経症のレベルに近いような気が自分でもする。

それぐらい僕は自分の記憶力が信用ならないのだ。

こういう行為、習慣はどこかクリストファー・ノーラン監督の出世作、「メメント」を想起させる。「メメント」の主人公は前方性健忘という記憶障害で記憶が10分しかもたない。10分経つと忘れてしまうため、片っ端からメモする。それはポラロイド写真であったり、自分の肉体であったりする。

僕は別に10分経つとすべてを忘れてしまうわけではない。ただ手帳に書いておかないとすぐ忘れて思い出すのに三日かかったり一週間かかったりすることはある。ような気がする。この「気がする」というところが強迫観念なのだろうと思う。

そんなわけだから、出かけるときは必ず手帳をウエストバッグに入れ、肌身離さず持ち歩く。一度、母のところに行くときに手帳を台所に忘れて出てしまったことがあり、物凄く不安になった。別に母のところで煙草を吸うわけではないのだが、もう本当にいても立ってもいられない気持ちになってしまう。この辺は、スマホ依存の女子中高生がスマホを取り上げられるとパニクって半狂乱になったりするのに似ている。

確かに年齢のせいか、記憶力が落ちた。度忘れや物忘れが格段に増えた。だがしかし、本当に今の僕は手帳がないと何も覚えていられないのだろうか?

僕が最初に手帳をぎっしりと埋めるようになったのは、まだ二十代だったころ、作家マネージャーだったころである。スケジューリングが仕事であるために、手帳は不可欠だった。だがその後、レコーディングの現場を離れるようになってからは手帳が何か月も真っ白ということもあった。その後は、パチプロ時代にその日の結果をメモする程度だった。僕はまだ自分の記憶に自信があった。

三年前、悪性リンパ腫という癌になったときも、これほど手帳に依存してはいなかった。入院中はもちろん手帳に書くことなど何もなかったし、手帳を開きさえしなかった。抗がん剤治療の通院治療中、僕はひたすら狭いワンルームマンションに引き籠って曲を作っていたが、手帳に書くことなどほとんど何もなかった。

結局、思い返してみると僕が手帳に依存するようになったのは、父が倒れて田舎の実家に戻ってからである。まず、実家に戻って早々に禁煙をした(4ヶ月で終わってしまったが)。母が統合失調症を発症して入院してしまい、思いもよらぬ実家での一人暮らしが始まって生まれて初めて家計簿というものをつけるようになった。

家計簿と僕の手帳の使い方はどこか似ている気がしてしまうのだった。つまり、家計簿というものは漏らさず記入しないと意味をなさない。禁煙を断念してストレスから再び煙草を吸い始め、本数を記録するために吸った時刻を手帳に記入するようになってから、手帳の家計簿化が始まったのだった。

しかしながら手帳は家計簿ではない。手帳に書き忘れたからといってすべてを忘れ、すべてを失うわけではない。だが手帳でもスマホでもPCでもいいのだが、やはりメモや記録は必要だ。逆に言えば以前何か月も手帳が空白の人生を過ごしていたことが今となっては実に不思議に思える。

現実には手帳などなくても、カレンダーに予定を書いたり、ちょっとしたメモを書いておく程度で済む人はいくらでもいる。うちの両親もそうだった。まあ日記のような記録はまた別にして。

記録とは一体何だろうか? ときどき、僕は自分が手帳のチェックボックスにチェックを入れるために生きているような気がする。こういった傾向というのは、人間はなんらかの義務や責務を果たさねばらないというような、それこそ強迫観念であるように思える。

すべてを記憶することは出来ない。すべてを覚えておく必要はない。忘れた方がいいこともあるし、忘れてしまったものは思い出さなくてもいいのかもしれない。だが今日も僕は手帳にチェックボックスを書く。まるでそれが生きる目的であるかのように。起床時間を書き、煙草を吸った時刻を書き、翌日の朝に前日の煙草の本数を書く。

正直これが「正しい」生き方なのかよく分からないけれど、手帳が真っ白になるよりは少しはマシなような気がするのだった。先日も書いたけれど、僕は長いことあまりにもどんぶり勘定で生きてきた。たぶん今はその反動が来ているのだろう。

しかし、これじゃあホントに「メメント」と大差ないなあと思う。ときどき、もし手帳を使わないようにしたら今よりも解放感があるかもしれないとか思う。だが実際のところ、チェックボックスにチェックを入れたところで、ある程度の安堵感はある。今のところ、僕の人生にチェックボックスはある。何かを確認し、何かを記録しながら僕は生きている。

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