欠落

人生とは、実はひとつの記憶のことではないかと思った。自分ひとり分の記憶。

最近時間が経つのが速い。光陰矢の如し。例えば先週の金曜日、バングラデシュのテロから一週間経ったと聞いて愕然とした。つい3日ぐらい前のような気がしていたから。つまりこれは逆に言えば僕の中に記憶がその一週間分ないということでもある。要するに何かが欠落している。何かとは記憶だ。

同じように最近気づくのが、指の爪が伸びるのがやたらと早くなった気がするのだった。左手の指の爪が伸びるとギターの指板を押さえにくくなるので気づく。まあ確かにマメに毎日弾いているわけではないし、一週間ぐらい弾かないこともある。ただ、自分の中では気がつくといつも爪が伸びていて切らなければならないという印象なのだった。これまた、前回爪を切った日からの記憶の分量の問題なのではないかと思う。

50代も半ばになってからそういう傾向が顕著になったように思う。だからもしかするとそれは老化現象であり、記憶能力の劣化なのではないかという気もしていた。確かに子供から大人になるに連れて時間の経つスピードは相対的に速くなるような気はする。それが「老い」という段階に至るともっと加速するのではないかと思った。

がしかし、絶対的な時間の経過スピードは変わらない。1秒という時間が常に同じタイミングで刻まれるように。いくつになっても一時間という長さは変わらないし、一日の長さも一週間の長さも一年の長さも変わらない。はずである。それでは何故最近時間が経つのが速く感じるのか。

ここで冒頭に書いた「人生とはひとかたまりの記憶のことではないか」という仮説に戻る。言い換えれば人生は記憶の蓄積として進んでいく。問題はこの蓄積量である。ここで一つの仮説を立てる。人間の記憶できるキャパシティには限界があると仮定してみる。つまり、50年生きたからといってちょうど50年分の記憶がみっしりあるとは言えない。キャパシティを超えた分に関しては重要度に応じて淘汰され抜け落ちて、密度が薄くなる。

この仮説が正しいかどうかはともかく、50歳で人生を50年分記憶していて語ることの出来る人などいないだろう。何しろ、語るのに50年かかるのだ。それはつまり、思い出すのにも50年ぐらいかかるということになる。

もちろん、年を取れば取るほど経験値は増えていく。前述のように抜け落ちる分で常にプラマイゼロにはならない。だがたぶんそれは要点だけが増えていくのだと思う。ディテイルはふるい落とされて抜け落ちるか、もしくは記憶の奥底に閉じ込められて容易には出て来なくなる。そういう記憶は何かのきっかけで再浮上する。この考え方は前述の仮説の逆だ。つまり、人間は年を経るだけ記憶は蓄積されて増えていく。ただ思い出せないだけ。

物凄く大雑把に言えば、記憶の総量は増えるが思い出せる分量は減る。

年を取れば取るほど残りの人生は短くなるのだけれど、それはどちら方向に短くなるのか、というようなことがふと頭に浮かんだ。つまりこの先という前方が短くなるのではなくて(それは不定でありまだ起こっていないから)、後方、つまりこれまでの記憶が短くなるのではないかというアイディア。それが年を取るに連れて次第に今(現在)に近い頻度で起こる気がする。つまり、短いスパンで記憶の欠落が起こりやすくなるのではないか。それが前述の近ごろやけに時間の経過が早い気がするということに繋がっているのではないか。

まあ一言で言ってしまえば最近忘れっぽくなってるのではないか、とも言える。そう言ってしまうと身も蓋もないが。

まあそれが老化ってもんかなという、至極当たり前なところに落ち着くわけで。

ただここで重要なのは、忘却と欠落は異なるということである。欠落した記憶は元に戻らない。それは欠損であるから。しかし、忘却したものは引き摺り出せないだけで記憶の深淵にまだ存在している。つまり失ったわけではない。だが思い出せなければそれは失ったことと変わりないのではないか? その意味では日々僕らは人生というものを失っているのではないか? それはレトリックであり間違いだ。記憶を失ったからといって過去の時間が客観的にその分欠落するわけではない。要するに欠落というのは常に主観的な出来事である。大丈夫、僕らは生きてきた分だけ、確かに生きてきたのだ。

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