イシイさんのところ、あるいは時のないホテル

村上春樹の「騎士団長殺し」を読んでいて思い出したのはイシイさんのところだ。「騎士団長殺し」の主人公は山の上の一軒家に住んでいる。それで思い出した。もっと違う例え方をすると、松任谷由実のアルバムに「時のないホテル」というのがあったが、イシイさんのところはまさにそんな感じだった。

イシイさんについては以前のfragmentsにもちょこっと書いているんだけど、もう一度軽くおさらいしておく。大学を卒業して初めて入った会社(オリコン)に途中入社で僕と同期入社したのがイシイさんだった。彼は僕よりも5つか6つぐらい年上だった。つまり、知り合ったころに既にイシイさんは20代の後半だった。

イシイさんはすらりと背が高く、色白で整った端正な顔立ちをしていて、どちらかというとハンサム、今で言うところのイケメンに属するはずなのだが、あまりにも性格がおっとりしているところがあって、悪く言えば少々とろいところがあり、それが見かけにも何かしらにじみ出ていて、いまひとつイケメンとして分類しかねる人物だった。いい言い方をすればどう見ても人が良くて、誰かを裏切ったりといった悪いことはとても出来そうにない人だった。その辺は名前にも表れていて、下の名前が「真理」と書いて「マサミチ」なのだが(つまり杉真理と同じ)、先輩の女子社員たちには「マリちゃん」と呼ばれていた。まあ簡単に言えばいかにも「マリちゃん」という感じの人だった。

もちろん僕は「マリちゃん」などと呼んだことはなくいつも「イシイさん」と呼んでいたし、イシイさんの方も年下の僕を常に「タカヤマさん」とさんづけで呼んでいた。要するにそういう人だった。

イシイさんは門前仲町のマンションに母親と二人で住んでいた。少なくとも僕と一緒に会社に行っていたころはそうだった。僕らは同期入社ということで、右も左も分からないところからスタート(イシイさんは音楽業界も出版業界も初めてだった)というところもまったく同じだった。僕らは二人とも販売営業のセクションに入ったのだけれど、僕にしてもイシイさんにしても、見るからにいかにも営業には向いていないタイプだった。いまだにどうして人事担当者が僕とイシイさんを選んだのかさっぱり分からない。

僕らが入った営業部門がいかにぬるい場所であったかはやはり古いfragmentsに書いているのでそっちを参照して欲しい。いずれにしろ、僕らでも務まるぐらいに生ぬるいセクションだったことは間違いない。その辺は僕の長編小説「幽霊譚」にも出てくるのだが、そもそも営業部の部長からしてまったくやる気のない人物だった。というか、営業部全体でやる気のある人物など一人もいなかった。僕らの楽しみは月曜の朝イチの会議を喫茶店のモーニングを食べながらだらだらすることであったり、出張先で温泉旅館に泊まることだったりした。

この辺で大きく端折ると、3年後に僕はある日新聞広告で作家マネージャーの仕事を見つけ、松任谷夫妻の会社の面接を受けて転職することになり、最後の数か月を前任者の引き継ぎで昼間の会社の業務が終わってから夜からスタジオに行って深夜までレコーディングするというハードなスケジュールで送ることになった。あまりにも忙しくて、そのころはとても日中の会社の業務や仕事仲間のことを考える余裕などまったくなく、今考えると信じ難いのだがひたすら睡眠時間を削っていた。

ところが実に意外なことに、僕よりも早く会社を辞めたのはイシイさんの方だったのである。イシイさんはある日突然門前仲町のマンションを売り払って長野県の松本の郊外の山の上にある別荘を買って、転職して松本市内のスーパーでデザインを担当することになった(彼はオリコンの前に元々デザインの仕事をしていた)。正直言ってイシイさんがそういうある意味人生に対して思い切ったアクティブな行動を取ったことに少なからず驚いた。冒頭にも書いたようにイシイさんはいかにもおっとりしたタイプで、とてもそういう決断をするような人には見えなかったからだ。だがある意味では東京を離れて田舎暮らしを始めるという選択はいかにもイシイさんらしいと言えなくもなかった。僕はただただ、その大胆な決断に驚いた。そういえばイシイさんのお母さんは一体どうしたんだろう? お母さんは松本には行かなかった。

僕が会社を替わってようやっと新しい仕事に慣れ、中古車を買って少しは生活に余裕が出てきたころ、たぶん夏の終わりに遅い夏休みを取ったときだと思うけれど、一度松本のイシイさんのところに泊まりがけで遊びに行ったことがある。当時はまだグーグルマップなんてものがなかった(それどころかインターネットすらなかった)時代、地図を見て車で山の中の道を通って松本を目指した。地図の上ではその細い一本道を辿れば松本に辿り着くはずだった。ところがその道は途中から舗装もされていない道になり、車が擦れ違えないほどの山道になって、物凄く心細かった。ようやく松本市内の外れの公園のような場所に出たときは本当にほっとした。

ネットがなかった時代、どうやってイシイさんのところに辿り着いたのか、今考えると本当に謎だ。イシイさんのところは本当に山のてっぺん近くにあり、番地もへったくれもない別荘地だったからだ。たぶん事前に電話でおおまかな行き方を聞いて適当に行ったら辿り着いた、ということなのだろう。とにかくイシイさんのところは松本市の外れといってもとても松本市内とは思えない山の中だった。まあ逆に言えば道といっても山頂に向かう一本道しかなかったので間違えなかったのかもしれない。その道は山の頂上で行き止まりになる道で、途中は人間はまったく歩いておらずサルだのイノシシだのといった動物に遭遇する確率の方が高い。なんとかイシイさんのところが分かったのは、向かいにちょうど電気の変電所があったからだ。

とにかくイシイさんのところはとんでもない山の上の閑散とした別荘地だった。周りにぽつぽつと立っている別荘にはオフシーズンだからなのか人の気配はまったくなく、そういった別荘のひとつにイシイさんは住んでいた。山の傾斜を利用したこぢんまりとした二階建ての家だった。つまり、入り口が二階になっていて傾斜に沿って降りたところに一階があるというそういう造りになっていた。

イシイさんのところに辿り着いたのはもう夕方近かったと思う。元々が別荘であるそのこぢんまりとした家にはテレビというものがなく、それどころか時計というものもなかった。つまり、ある意味イシイさんのところには時間というものがなかった。

二人で夕飯を食べ終わったころには外は日が落ちてすっかり暗くなっていた。テレビも時計もないので何時だか分からないしとにかく物凄く静かだ。世界にこれ以上静かな場所はないのではないかと思えるくらいに静かだった。外は本当の漆黒の闇、街灯なんてものはないから真の暗闇が広がっていた。すっかり夜が更けた気がして、二人でもう寝ようかなどと話していて、ふと自分の腕時計を見るとまだ7時でひどくびっくりした。それぐらい時間の感覚が分からなくなっていたし、本当にイシイさんのところは時間というものから取り残された場所みたいだった。あまりにも静かであまりにも外が真っ暗なので、本能的に動物として日が沈んだら夜で眠る、日が上ったら朝で起きるという原始的な感覚が知らぬ間に呼び覚まされたのだった。笑っちゃうことに僕だけじゃなく、そこに住んでいる当のイシイさん本人もすっかり夜だと勘違いしていた。それぐらいすっかり外は本物の夜の闇だったし、恐ろしいぐらいに静かだった。

イシイさんのところがどれぐらい静かかというと、閑静なんてものじゃなく静寂そのものだった。いわゆる無音室の真の無音が一杯に詰まっている圧迫感はない。つまり、真の静寂というものは矛盾するようだが何かしらの音や倍音が存在するものなのだ。そしてそれを取り囲む真の暗闇に、僕らはどこかしら原初的な恐怖すら感じてしまうのだった。一体この人は普段どんな生活を送っているんだろうと思った。寂しいといったらこれほど寂しい場所もない。なにしろ7時に本能的に眠くなってしまうようなところなのだから。

夜、驚いたことに行き止まりの山頂への道を上る車の音がした。驚いてイシイさんに訊ねると、アベックがよからぬことをするためにときおり上ってくるのだという。まあ動物以外に動くものというとそういう不届きなアベックを乗せた車ぐらいしかない。それも恐らく何日かに一台ぐらいの割合だろう。たぶんというか間違いなく新聞すら届けてもらえない場所だ。周りにぽつぽつと立っている別荘がいかにも無人なのがかえって寂しい感じがする。つまりイシイさんのところは一度寂しいと思ったら途轍もなく寂しいところなのだった。

僕はイシイさんのところに一泊しただけで十分にその静寂を満喫して帰った。それからしばらくしてイシイさんが結婚したという話が伝わってきた。あんな不便で寂しい場所によく奥さんが来る気になったなあと感心していたら、その後イシイさんと電話で話したところ、案の定松本市内にアパートを借りて住んでいるということだった。彼の話によると、冬に酔っ払って車で帰る途中に道を外れて田んぼに突っ込んだりしたらしい。それにシカだかなんかの動物を跳ねたとか。ともあれ、さすがのイシイさんでもあの本当の静寂と暗闇に包まれた時間のない家で普段の生活をするのはしんどかったらしい。さもありなん。

実を言うとそれ以来一度もイシイさんと連絡を取っていない。あれからもう20年以上経つ。イシイさんはまだ松本にいるのだろうか。そして、まだあの山の上の家を持っているのだろうか。そして、ときどきあの真の静寂に包まれた夜を過ごしているのだろうか。

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