大江健三郎「個人的な体験」

僕は大江健三郎とか安部公房とかこの時代の作家がとても好きで、安部公房はほとんど読んでいるし、大江に関しては初期の作品を愛読してはいたのだけれど、彼の長男(光)が生まれて以降の作品に関してはずっと二の足を踏んできた。ありふれた話ではあるけれど、知的障害を持つ子供に関する話というのはどうにも重く、気が滅入る印象があった。だから意識していままで読むのをためらっていた。中でも、この「個人的な体験」はその先陣を切る作品であるから、余計に敷居が高く感じたのだった。

それこそ何十年という逡巡の挙句、ようやく読み終わってみて、もっと早く読んでいればといまさらながら思った。素晴らしい作品だった。障害を持つ子供を持つということの重さ、それをきっと肯定しているに違いないという予想はある意味ではほぼ大半でいい意味で裏切られ、そして小説の最後に予想は的中したのだが、その肯定に至る過程、いかに子供を受け入れるかというプロセスが実に何の力みもなく、有体に想像されるような過剰なヒューマニズムもなく、読む者に過大に重いものを突き付けるものでもなかった。作者の投影である主人公は最後の最後まで障害を持つ子供から逃げ回る。これはまったくもって僕らと同じ、等身大の感覚である。そして、最後の最後で受け入れる。いわゆる主人公の再生の物語とも言えるが、このストーリーが実にポップなのである。これが書かれたのはもう50年近く前、もちろんネットもスマホもメールもない。文体が軽いわけでもない。むしろ文体は非常に濃密だ。初期の大江は悪文の典型という文章をどこかで読んだ記憶があるが(僕の勘違いかも知れない)、ここでの文章は悪文どころか実にモダンで洗練されたものである。その文章の持つ質量は村上春樹などと比べると非常に重いのだけれど、それが紡ぐ物語は実にポップなのだ。古臭さが何処にもない。

この、障害を持って生まれた子供を持つという宿痾(しゅくあ)のようなテーマを、これだけ力まずにポップな小説として成立させているのは驚異的だ。しかもその「ポップ」さというのはただの軽さではない。ごくごく簡単に言えば、この小説は実に面白いのである。登場人物も非常に魅力的だ。このモダンであるということ、現代的であるということは、必ずしも「今」というリアルタイムの時代性、あるいはその時代のディテイルを描くことで具現化するのではなく、もっと普遍的な表現で可能であることをこの作品は示している。

何度もいうけど、ホントに濃度の高く洗練された文体、たったひとつのテーマでこれだけ起伏に富んだ常に興趣をそそるストーリーテリング、見事としかいいようがない。これでようやく、大江のこの作品以降の小説を読む気になれた。

個人的な体験 (新潮文庫 お 9-10)

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