タナトフォビア

今日ググって、現在の僕の状態がタナトフォビア(死恐怖症)であることが分かった。僕とまったく同じ症状(と言っていいのか分からないが。同じ思考というほうが正しいかもしれない)の人が何人かいた。タナトフォビアとは病的に死を恐怖すること。タナトフォビアは自分の死を怖がることで、他人の死を怖がるのはネクロフォビアと言う。要するにこのところの僕に刺さっている棘とは死の棘、死を恐怖する心である。これまで誰にも言えなかった。もしかしてここまで怖がっているのは自分一人ではないかと思う(だから話すのは恥ずかしいと思う)一方で、誰かに話すと僕の極度の恐怖心が相手にうつってしまうと思って誰にも言えなかった。相矛盾した考え方だけど。

僕が怖がっているのは死そのものというよりもむしろその後に控える(というか同時に訪れる)「無」である。僕とまったく同じことを書いている人がいて、ああやっぱり同じように考える人はいるのだと思った。しかしながら、どうやらタナトフォビアというのは厳密な意味での精神疾患、つまり病気というわけではなさそうだ。これといった解決策はなく、タナトフォビアに悩む人に対しては観念的な答えや宗教的な説話をもって答える人がいるのみ。考えてみればこれ自体が観念的な恐怖・心理状態なので当たり前なのかもしれないが。病気ではないのでこれといった治療体系もない。思うに神経症とか不安神経症とか強迫性障害とかパニック障害に非常に近いものだと思うのだけれど、これらはすべて精神疾患であるのに関わらずタナトフォビアは精神疾患として定義されていない。実際のところ、僕はこれまでずっとパニック障害だと思っていた。最初に診察を受けた心療内科でもそう診断されたし、実際に過呼吸その他のパニック障害の発作がかつてはあった。

結局のところはタナトフォビアという名前がついただけで何も解決はしていない。僕に刺さった死の棘は抜けない。しかしながら、どうやらこんな風に怖がっているのは世界で僕一人だけではないということが分かり、ようやく人に相談してみる気になった。それで昼間、こころの健康相談というところに電話して、生まれて初めてこの僕を苦しめる恐怖に関してありのままを喋った。だが案の定というか、ただ喋っただけだった。恐らくボランティアと思われるカウンセラー(だと思う)の女性は、今かかっている精神科の主治医にありのままを話して相談してみたらどうかという答えだった。それで認知行動療法(いわゆるカウンセリング)なりをしてもらうのがいいと。想定内の答えだった。初めて人に喋っていくらか楽になったかというとそうでもなく、かえって今日は一日中死や無の恐怖が頭から離れずそのうち手が強張ってきて痺れ、身体が委縮硬直してきて異様に肩が凝った。相場も考えられないし何も出来ない。食欲もない(腹だけは減るが)。そのまま寝込んでしまいそうな状態。つまり、死を恐れるあまり死んでしまいそうな感じ。これでは身も蓋もないと分かってはいるのだけれど。

こころの健康相談の人から、24時間無料で話が出来るよりそいホットラインというところの電話番号を教えてもらった(0120-279-338)。試しにかけてみたのだが案の定、無料ということで何度かけても繋がらなかった。

ネットでググった人も書いていたが、突き詰めて考え始めると恐怖が制御できなくなりパニック状態になる。それで大声を張り上げると何故か治まる。僕とまったく同じだ。寝床で本を読んでいる最中とか、そういう風になりそうになるとついいのちの電話とか、誰でもいいから電話しようと一瞬思うのだがいつも思い留まる。それはそういうときに即座に繋がらないことがほとんどであるからというのもひとつの理由であるが(だから昔はパニクるといつも母親に電話していた)、よしんば誰かに繋がって話が出来たとしてもいたずらに恐怖を長引かせるだけだからだ。

どうせ一人に話をしてしまったので、夜になってHとも長電話して同じことを話した。だがやっぱり答えも解決策もない。これは考え疲れると始終思うのだけれど、結局は考えるだけ無駄なのである。怖がっても怖がらなくても結局は同じ。だから怖がることに意味はない。いつまで覗き込んでも答えは出て来ないのだ。だから覗き込むこと自体に意味がない。僕が考えるべきなのは生きることであって死ぬことではない。つまり、死ぬことを突き詰めること自体に本質的な意味はない。どう転んでもいい方には転がらない。頭の一方ではそれが分かっていながらなかなか棘が抜けないからほとほと困り果てている。このままだとストレスで違う病気になってしまいそうだ。本末転倒である。

なにしろ四六時中頭を離れないものだからありとあらゆる角度・方向から考える。例えば世界の在り方について。世界は僕の自意識の中にしか存在していないのではないかとか。つまりすべては僕の自意識が作り出したものではないかと。しかしそれならば何故すべてが翌日もそのまた翌日も同じように客観的に存在し続けているのかという疑問が生じる。次第に僕の主観と客観はこんがらがり、混乱する。

自分が死ぬことによってすべてが終わるということが把握出来ないということが恐怖心の原因なのだが、結局のところ把握することは不可能だし、把握しようとすること自体が恐らく無意味なのだと思う。無意味という表現が適切でないのであれば、無益と言ってもいい。少なくとも、生きていく上で不可欠ではない。そんなこと知りようがないし知らなくていいのだ。何故なら、僕らが生きている間は絶対死なないし、世界は終わらないから。つまり、死や終わりは中間地点には存在しない。だから認識も体験もしようがない。知らなくてもいいし考える必要もない。

そういうことを理屈では分かっていながら恐怖を克服出来ないのが今の状態。根源的な恐怖からなかなか頭が離れない。意識がそこに貼りついてしまって。これでは何も出来なくなって当たり前。身体が強張ってきて手が痺れて肩が凝るのも当たり前である。

ずっとパニック障害だと思っていたように、僕のこの恐怖心はかれこれ二十歳のころからで、もう30年以上になる。かといって、実際に恐怖に捉えられている時間は実はほんのわずかな時間で、大半は(例えば10年とかそういうスパンで)考えずに済んでいた。なので、タナトフォビアというのは間欠的に訪れる一時的な状態なのかもしれない。だが、今回は1ケ月以上にも渡っていて、こんなに長く続くのはあまり記憶にない。

一昨年癌を宣告されたとき、僕は半々の割合ぐらいで死ぬのかなと思った。2年後のW杯まで生きていられるだろうかとまず考えた。だが、癌を宣告されて抗がん剤治療を受けている間、僕は今のような恐怖を感じなかった。つまりタナトフォビアには陥らなかった。こんな風に、自己防衛本能が働くのかまるで他人事のように感じる。だからたぶん、自分の経験上からして本当は人間というのはいざというときには怖くなったりしないのかもしれない。そういう風に出来ているのかなと思う。今の恐怖心というのは観念的かつ想像上のものなのだ、たぶん。

こんなことを告白する、書くことは一生ないだろうとずっと思っていた。とうとう書いてしまったというのが今の気持ち。ずっと抱え込んでいた膿を吐き出してすっきりしたかと言えばそうでもない。知りようのないことは知りようがない。そして、知らなくていいことは知らなくていい。いずれにしてもこれも経験上、時間とともにこの状態から脱することも知っている。肝要なのはその前にへばってしまわないことだ。正直考え過ぎて疲れ果てている。身も心も。

この文章を読んだあなたがああ私も同じだと思われても、僕には救いようがない。ただ観念的に捉えようとしないこと、危ういと思ったらそこで踏みとどまることとしか言いようがない。もう一度書いておけば、あなたが生きてものを考えている間はあなたは死なないし世界は終わらない、とだけ言っておこう。

幸いにして、人間は同時に2つ以上のことを考えられない。だから違うことを考える。何か違うことに集中する。危うくなりかけたら一度ドアを開けて外に出て違う目で世界を見てみる。恐怖は永続しない。こんなところだろうか。

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タナトフォビア への7件のフィードバック

  1. 匿名 のコメント:

    私も昔は怖かった。私の出した結論は、無は無によってしか作られない。そして、この世に今現在、無というものは存在しないのだから何ものもが無になることなどありえない、なぜなら今現在が有の世界だから、無を無とたらしめるためには、今、現在が、全くの無でなくてはならないから。ただし、ここから先の答えが出ない。私は有に支配された世界を信じるが、それ故に無を否定できない。なぜならこの世は「有る」でできている。つまり、無は無でありえない。無が「有る」可能性が無でないのだ。無は決して死と結びついてやってくるものではない。無は確信を持って無い、といえるものであり、同時に死によってもたらされるだけのものではない、死、もしくは死後の全てをすら通り越した究極の恐怖形態だ。この有の世界で矛盾とも思われる無を無とする根拠を、どう見つけ、証明すればよいのか、あなたにも考えてみてほしい。

  2. Sukeza のコメント:

    >匿名さん

    すみません、気づくのが遅れました。コメントありがとうございます。いまだに毎日考え続けており、ある意味では考えるのを諦めています。結論は出ないというか、既に出ているというか。「すべて」という視点では確かにすべてが矛盾しており、しかしそれが故に答えは見つからないのです。

  3. nao のコメント:

    私も子供の頃から、同じような発作で、苦しんでいました。ほんの数秒の時もあれば、20代の頃、何週間も続いたことがあります。地獄のようでした。しかし、10年ぐらい前から、他の精神疾患の治療をするようになり、タナトフォビアの症状が出なくなりました。今は毎日、忙しくして、なるべく思いふけることのないよう、でも、しっかり睡眠をとれるよう心がけています。

    • Sukeza のコメント:

      >naoさん

      コメントありがとうございます。実のところ、僕自身はまったく克服できていないのです。相変わらず怖いままだし、一日たりとて考えない日はありません。ただ底が抜けてしまうようなパニックに陥る機会は減りました。とどのつまり、深く掘り下げて考えないようにするしかないのかもしれませんね。それに、ときおり凄く客観的になれるときもあります。つまるところ、世界を主観的に捉えずに客観的に捉えることしかないのかもしれません。

  4. 名無し のコメント:

    私も小学校低学年の頃から死について深く考えすぎてしまい、夜眠れなくなったりしてました。
    その頃から、私にとっての死とは何も無いものであると認識されるようになりました。
    それまでの私は部活もやっておらずあまり喋ったりしない子供でしたが、死について考えるようになってからは、がむしゃらにいろいろなことをやりました。
    何かを残そうと必死にやりました。
    不老不死に憧れて理科の勉強もいっぱいやりました。
    今でも自分の夢を聞かれた時に職業ではなく不老不死という言葉が出てきます。
    本もたくさん読み、自分がこんな考えに至るのは言葉があるからではないかと思い言語についても調べました。
    しかし、どんなに調べても死に対する恐怖がなくなることはなく、心がすり減り折れ曲り、自分が自分で無くなる気がしました。違う人格が出てくることもありました。幻聴も聞こえたりします。
    自殺しようともしました。しかし怖くなり、そして生きたいと思ってしまい、自殺できませんでした。
    他にもいろいろなことに矛盾を感じるようになり、そんな矛盾を気にする自分を嫌いになったりと、どんどん心を消耗しました。
    そして、うつ病などのいろいろな精神病にかかりました。
    私はまだ、20年も生きてませんが、人生の半分以上を死について考えています。
    何を言っているのかわかりづらくてすみません。
    自分の中では死についての考えに対しての答えは出ているつもりです。
    それでも毎日考えてしまい、そのせいで気持ち悪くなり動悸が止まらず、上手く生活できない日もあります。
    去年はじめて心療内科に行き、自分の考えや思いを話せました。
    話してすごく楽になりました、もっと早く行けばよかったと思いました。
    同じように悩まれてる方がいるなら今すぐ行くことをオススメします。学生で親に言いづらいなら、保健室で話を聞いてもらうのもいいと思います。
    とにかく誰かに話すと楽になれます。
    趣味も見つけてください。なんでもいいので熱中できることを探してください。ゲームとかでもいいんです。
    長々とすみませんでした。

  5. 匿名 のコメント:

    あまりに同じなので書き込んでしまいました。
    夜怖くてずっと考えて寝られなくなります。
    不思議と朝になると結構(昨夜の夜ふかしでかなり眠いのも手伝って)、まあいっか、って一瞬、楽天的に考えられる事が多いんですけど。朝は忙しい日常が戻って来てゆっくり考える時間がなくなるだけで、根本的な問題というか恐怖が解決したわけじゃないんですけどね。
    ふとした瞬間、特に夜は考え始めるととことん考えてドツボにハマります。ある意味、考える時間があるからこその恐怖なんでしょうか。
    毎日食うか食わずの、とりあえず今なんとか生きるだけで必死の生活を送っていたとしたら、そんなことを考える時間も余裕もなくて怖くならないのかななんて思ったりもします。それこそサバンナで獣に追いかけられたり狩をしてやっと喰いつなげる程の食料を自分でとってなんとか生きていたら。夜も疲れすぎていて横になっただけで泥のように眠れたら死後に訪れる無について考える暇もないだろうな、って。
    こういう事について調べていると、「実際に無が訪れる時にはもう死んでいて、その時に怖いなんて感情はすでに無くなっているんだから〜」って言ってる人がいるんですけど、そうなんですが、そういう事じゃないんですよね。今怖いんだから。
    ある意味死は解放で、生きてる間ずっと怖かった死や、無になる恐怖や色んなことから解き放たれるっていう意見もあってちょっとなるほどって思ったりもしました。だからと言って解放されるから今すぐ死のうっていうのはやっぱり怖くて絶対無理なんですけどね。とりあえず今は生きていて、生きてる間は無じゃない。とりあえず今じゃない。まだ先のことって考え(自分を納得させ)ながらなんとかやってますね。
    どうしても怖くてどうもならない時は、もう亡くなってしまった人で会いたい人、(とても可愛がってくれた祖母等)もし会えたら〜というような事を空想したりしています。信じてないんですけどね死後の世界。だから無になって怖いんですけど。だから宗教が流行るんですかね。みんな怖いから。本気で宗教を信じている人達、または大半が信じて生きていただろう時代がちょっと羨ましいです。木に雷が落ちたのは神の怒りで〜とか牧師さんに説明されてみんな納得して生きていた時代。100%天国に行くつもりでいたら死もあんまり怖くなかっただろうな。無という概念が全くなかったら。でもそういう時代でもやっぱりあんまり宗教を信じられずに怖い思いをしていた人達も一定の人数いたんでしょうかね。
    自分としては今から救いを求めて宗教に入っても全然信じきれない気がするし。
    あとはジジババばっかりの世界になってしまったら若者に申し訳ない気がするんで、若い世代に時代を譲るために自分はいつか消えるんだって思うようにしたりしてます。入れ替わりというか、自分がいつまでも死なないでここに居座っていたら、赤ちゃんのすわる席が無いからって。やっぱりそういうことでもないかもしれないし、無になる恐怖が消えたわけでも無いんですけど、それがとりあえず自分では一番納得できて、赤ちゃんの為だったら仕方ない譲ろうってちょっと思えます。
    でも無についてや怖いって思ってる時間を有効活用できたら(睡眠時間削らずただぐっすり寝るってだけでも)もっと充実するのにって自分でも思います。結局限られた時間なら楽しく生きられた方が得だから。
    ではあまりにも長くダラダラ書いてしまったので消えます。今夜みなさんが布団の中で暖かく、ぐっすり眠れますように。

    • Sukeza のコメント:

      >匿名さん

      コメントありがとうございます。気づくの遅くなりました。結局のところ、怖くなくなる方法というのはないですね。ただ、自分が生まれる前の記憶はないわけで、そのことが怖いかというと怖くないんですね。もしかしたらその辺にヒントがあるのかもしれません。僕が長いこと生きていて、一番死が怖くなかったのは不思議なことに悪性リンパ腫で抗がん剤治療をしている間でした。つまり、一番死に近いところにいたときが一番怖くなかった、まるで他人事のようだったのです。実際のところ、僕らが生きている間は死は常に自分以外の人にしか訪れません。自分自身の死は自覚も知覚も認識もできないから。だから死というのは常に自分とは異なる場所に存在するわけです。ただそれと死の恐怖というのはまた別の問題だとは思いますが。いずれにせよ、考え過ぎないこととしか言いようがないと思います。考えてどうにかなるものではないですから。違うことに頭を使う。

      例えば、歳を取ることを死にだんだん近づいている、人生を消費していると考えるのではなくて、一日一日と生き延びている、日々人生を構築していると考える方がポジティブではありますね。結局のところ、生きていようが死んでいようが次に何が起こるかなんてわからない、ということです。みなさんがより上手に生きられるように祈っています。

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