阿部和重「□(しかく)」

阿部和重は前作「クエーサーと13番目の柱」辺りから急に改行がやたらと多くなった。デビュー時から比べて、これだけ急激に文体が変わる作家も珍しい。今回も、デビュー時のように改行の少ない文体であればもっとずっと薄い本になって、価格も安かったのではないかと思う。

それはともかく、この「□ しかく」、最初から無茶な話だなあと思って読んでいたが、どんどんエスカレートしていく。現実から乖離していく。これは意図的にリアリティを放棄しているのだった。オフビートと言えば聞こえがいいが、要するに論理とか整合性を無視して意図的に無茶苦茶をやっている。はて、ここまでストーリーを暴走させて、どうするつもりなのだろうと逆に興味深く読んだ。

こういった論理や整合性の無視は、舞城王太郎を意図的にパクっているのではないかと思った。こういった手法は舞城の得意とするところであるからである。カニバリズムを登場させるのも既に舞城が「山ん中の獅見朋成雄」で使っている。ある意味最終手段である。カニバリズムまで行ってしまうともはやキワモノであり、やり過ぎだ。ここまで行くと読者の共感を得ることはもう無理、そこを意図的に破壊する行為だ。実際、途中からカニバリズムに対してはうんざりするし飽きてくる。こうした明らかな舞城の影響は意図的なものなのか、つまりパスティーシュ、エピゴーネン(模倣)なのかと思った。阿部のデビュー時の文体が蓮見重彦のエピゴーネンであるというのは有名な話である。それが阿部の意図なのであれば、舞城の二番煎じの誹りを免れないなあと。

で、エンディングまで読んで、なんとなく阿部の意図が分かった。最後の訳の分からなさがキューブリックの「2001年宇宙の旅」に似ていたからである。最後まで読み終わると、全体の構造が映画っぽいことが分かる。こういった、ポップで暴走する映画を阿部は作りたかったのであって、それをテクスト化したのではないか。その意味ではこのなんだかよく分からない暴力的なスピード感と訳の分からないエンディングによる読者を突き放し、中空に放り投げるような読後感、ハリウッドのB級映画の無茶苦茶感を作り出すことには成功している。が、しかしながら文学としてのカタルシスは得られない。

キューブリックの「2001年宇宙の旅」のエンディングは確かに訳が分からないが、アーサー・C・クラークの原作を読むと分かり過ぎるほどに分かりやすく、逆にシラけてしまうほどである。だから原作の読後感と映画を見終わったときの感覚はまるで異なる。その意味ではキューブリックは見終っても興趣を削がないことに成功したとも言える。

そういった観点から行くと、この小説のエンディングの訳の分からなさの意図も見えてくる。訳が分かってはならなかったのだ。それではキューブリックにならない。阿部は映画のノヴェライズのようなことをしたかったのではなく、映画そのものを小説として具現化したかったのだと思う。

それをどう評価するのかは難しい。何故なら、僕は映画を見たかったのではなく、小説を読みたかったからだ。

パンクロックや、フリージャズや、調性を無視した現代音楽のように、こういった手法は評価や好き嫌いが真っ二つに分かれると思う。意図的に陳腐なものを連発するのはパンクに近いとも言えるが、とにかくやり過ぎな感は否めない。ちょっと極端過ぎたかなと思う。こうなると実験的な手法というよりも、実験で終わってしまった感は否めない。

もう笑っちゃうぐらい過度な暴力表現。ホラーという売り込みだったが、だとしたらそれはハリウッドの荒唐無稽なB級ホラーであり、内容としてはむしろSFに近い。さっきアマゾンで舞城王太郎を検索したらその中にこの「□ しかく」が一緒に出てきたのにはさすがに笑った。

冒頭に書いたように、突如として文体が平易になり、極端にエンターテインメントよりの手法になり、最近の阿部和重は迷走しているというか、作品の質が落ちている感がしていたのだが、これを読んで、確かに無茶苦茶だし読後感も訳分からないのだけれど、何故か次の作品を読んでみたいと思う。その意味では、阿部のB級キューブリック映画をテクスト化する意図(もちろん僕の想像だが)はある程度功を奏していると言えなくもない。


阿部和重「□ しかく」

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