freedom

「自由」

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自由とはいったい何か?

かつて、僕は常に狂おしいほど自由を求め続けてきた。しかし、皮肉なことに今の僕は不自由を求めてあがいている。今の僕は自由だ。しかし、それと同時に、同じぐらい不自由だ。見せかけの自由を手に入れた僕は、見せかけの自由とは孤独と表裏一体であることに気づいた。何をしてもよいとなると何をしてよいのか分からない。後に残るのは孤独だ。孤立と言ってもいい。自分が社会という束縛されたものから孤立していることに気づく。いったい、それが自由だというのか。僕は混乱した。そして呆然とした。そして、改めて自由とはなにかということを考えざるを得なくなった。

自由とは素晴らしいものであると思って疑うことはなかった。束縛からの解放。なんと素晴らしいことか。それは一見、なんでも出来る、なんでも可能な、万能を表すようにすら思える。しかし、自由であることと、なんでも出来るということは違うものなのだ。可能は不可能を包含する。自由とは立脚点に過ぎず、そして自然とは常に自由なのだ。いわゆる、何をしてもよい、ということが自由なのであれば、自由は金で買えることになってしまう。何をしてもよいというのは、ただ単に放り出されただけに過ぎない。端的に考えれば、果たしてホームレスは自由なのか、ということである。

しかし、やっぱり僕が欲しいのは自由なのだ。自由=解放。しかしながら、僕の自由は自分ひとりでは作り出せないということに今更ながら気づいたのだ。僕の欲しい自由は社会という名の束縛された組織の中にある。自由を謳歌するには対比するものが必要だ。そうでなければ、僕らはただ単に孤独を味わうことになる。そういう生き方もまたあるだろう。己一人で成立する世界。しかし、それはまったくもって孤独だ。

結局のところ、僕という人間はさびしがりやだったのだ。

written on 15th, mar, 2006

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