guitar

「宇宙の始まりと終わり、そしてギターについて」

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私が近頃頭を悩ませているのは、始まりと終わりのどちらがより重要なのか、ということについてだ。大概の場合、終わりの方が重要な気がするのは、恐らくそれが例外なく始まりよりも最近のできごとであるからだと思う。しかし、始まりがなければ終わりもない。とどのつまり、どちらも同じように重要なのだ、と言ってしまうことは簡単だ。でも、ものごとはそうそういつもいつも都合よくバランスが取れているわけではない。ときには、始まりの方が終わりよりも遥かに重要であったり、終わりの方が遥かに意味を持ったりもする。いずれにしても、始まりがなければなにごとも始まらないし、つまりは存在しないということになるし、もちろん終わりなんかないし、終わりというものがなければものごとはいつまで経っても完結しない。ものごとには始まりと終わりがあって、初めてものごと足り得るのだ。

 宇宙を考えてみる。いまのところ、宇宙には始まりしかない。まだ終わっていないからだ。しかし、始まりがあったということは終わりがあるということでもある。じゃあ宇宙の始まる前はなにが存在していたのか、あるいは存在していなかったのか、宇宙の外側にはなにがあるのか、それが無というものであれば、無というものは存在するのか。そんなことを私はこしゃくにも小学校のときに考えて憂鬱になった。トラウマの始まりである。幸いなことに、神は存在するのか、なんていうことに頭を悩ませることはなかった。そんなものはいるわけないじゃん、と思っていたからである。

 宇宙の外側、あるいは始まる前に関する疑問はあっという間に恐怖へと早変わりし――なんでかって言うとわからないものは怖いから――それは自分の死というものに置き換えられる、ということが私の恐怖の発端だった。宇宙が終わってしまった後のことがわからないように、宇宙の外側や始まる前がわからないように、死後のことはわからない。それが私の死に対する根源的な恐怖を植えつける元となった。糞生意気なことに小学生の分際でエーテルとかユニヴァースってなものに興味を抱いてしまったことで、死は私にとって永遠不滅の恐怖となってしまった。自業自得である。

 いや実は、そんな大袈裟な話をしたいわけではなくて、私がなぜギターを始めて、なぜやめてしまったのか、ということについて語りたいのである。

 そこで早速ギターの話をするかといえば、また宇宙の話に戻るのであるが、なんでかっていうと、さっきも言ったように宇宙はまだ終わっていない。つまり途中なのである。で、我々人間というものはその途中のものの中でしか完結しない。要するに、人間というものはそもそもの大前提からして中途半端なものなのだ。

 ふう。

 ギターに話を戻そう。

 もちろん私は最初からギターを弾いていたわけではない。最初は何も弾いていなかった。ただの赤ん坊であり、乳児であった。よだれを垂らしながらその辺を這いずり回り、ときおり脱糞したりもするのであった。しかし人間は成長する。老いる、という言い方もできるがこの場合は適切ではない。不思議なことに人間は乳児や幼児や子供のうちは老いることはなく、成長する。なんか納得がいかないが、これはさておき、私は普通の子供より一年早く幼稚園に行った。なぜならば両親が共稼ぎであって、私の生まれ育った東北の片田舎には保育園とか保育施設というような気の利いた施設が当時まだなかったからである。ともあれ、二歳から幼稚園に通うことになった私は、当然のように園内で脱糞などして罰としてスカートを着せられるというような屈辱を受け、三歳になった。それからヤマハ音楽教室なるものに通うようになった。これは一種の音楽の英才教育というべきものだが、実のところは楽器メーカーがエレクトーンを買わせたいばっかりにやっているれっきとした営利事業である。ともかく、今で言う塾に通っているようなものと考えてもらえればいい。私の母は当時中学で音楽の教鞭をとっており、実家にはアップライトのピアノがあった。両親には私にそのピアノを華麗に弾いて欲しいという願望があったのだろう。で、うまくすれば日本を代表するようなピアニストに、などという風には思っていなかったと思うが、ともかく、そんな風にして私はまず鍵盤を弾くことから始めた。

 ヤマハ音楽教室において、私は決して優秀な生徒ではなかった。むしろ皆についていくのが精一杯の、どんくさい生徒であった。などと話しても、今の私を知る者にとって、なかなかにわかに信じがたい話であろう。なぜならば、私は典型的な器用貧乏だからである。

 それはともかく、そんな風にして私は家でもピアノを弾くようになった。定石どおり、バイエルから始めた。家には一通り教則本が揃っていた。なので、順番どおり弾いていくことにしたのである。途中までは実に順調であった。ブルグミュラーなんかを楽々とこなし、ソナチネ・アルバムを華麗に(たぶん)弾き。しかし。私はバッハのインヴェンションでつまずいた。対位法の要である左手が思うように動かぬのである。私は焦った。なんで? と日々思索にふけったが、考えてどうなるものでもなかった。で、面倒くさいからインヴェンションは飛ばして、ソナタ・アルバムに移った。

この辺から私の挫折が始まる。ソナタ・アルバムには楽に弾きこなせるものと、そうでないものが混じっていた。同じレベルの楽曲を集めているはずなのに、なぜ? と私は悩んだ。なぜこうもつまずいたかというと、幼稚園時代の音楽教室以来、小学校に入ってからはまったくの独学でピアノをやっていたので、譜面に書いてある指番号というものをまるっきり無視して弾いていたからである。これではバッハでつまずくのも当然である。しかしながら、いまさらながら律儀に譜面の指番号どおりに弾くのも癪にさわる。ってんで、むきになって我流で弾こうとしていたのだ。思うように弾けなくなると、楽器というものは途端につまらない、面倒なものになってしまう。

私がギターという楽器に出会ったのはそんなころである。

きっかけはギターではなくリュートだった。リュートというのは、ギターの元祖ともいうべき中世の弦楽器で、琵琶のような形をしていて弦の数がギターよりも多い。たまたまNHKでこのリュートの演奏を見たのが私がギターに目覚めるきっかけとなった。リュートによるバロック音楽の演奏は、正しくバロックしているように思えた。それに、非常に個人的な印象がした。個人的な楽器による個人的な演奏。そんな印象を受けた。これはこぢんまりとしているというよりむしろその逆で、その中で世界が完結しているように見えた。いささかアコースティック・ピアノの音に飽きていた私にとって、これは新鮮な経験だった。ピアノという楽器も最終的には鍵盤を介して弦を弾くことで発音する。しかし、リュートやギターという弦楽器は、指でじかに弦を爪弾くことによって、微妙な感触やニュアンスといったものを表現できる。これはまさに自分という個人を表現するのにうってつけの、実に個人的な楽器だ、と思ったのだ。しかしながら、リュートなんて楽器はそのとき初めて見た楽器でそれまでは見たこともなかったし、ましてや街の楽器屋にぶら下がっているような楽器ではなく、手に入れることすら難しそうだ。そんな風に思っていたときに、クラシック・ギターによる、リュートのためのバロック音楽の演奏を目にした。おお、これだ。ギターだったら大通りの雑貨屋の店先にもぶら下がっている。あんな楽器でこんな世界が作り出せるものならば、ひとつやってみようではないか、と思ったのである。

ちょうど中学に入るか入らないかという頃だ。早速私は親にねだってクラシック・ギターを買ってもらい――とは言うものの、これにはかなり苦労した。なにしろ、当時の大概の大人の例に漏れず、うちの両親もギターなんて楽器は不良が弾く、安っぽい楽器だと思っていた――練習を始めた。定番のカルカッシといいう教則本あたりからこつこつと独学でやり始め、成長期であった私はぐんぐんと腕を上げた。ような気がする。ともかく、一年後には念願のバッハとかも弾けるようになっていたし、そのうち名曲とされている「アルハンブラの思い出」という、トレモロという奏法を駆使する楽曲も弾けるようになっていた。中学を卒業する頃には大概の楽曲は譜面を見ただけで演奏できるようになり、私はクラシック・ギタリストになることを夢見た。プロのギタリストになるために、私は両親を仮の観客に見立てて、その前で演奏を披露したりする練習もした。その頃である。私は自分の演奏家としての致命的な欠点に気づいた。つまり、上がり症なのである。普段練習しているときは難なく弾けるような楽曲でも、いざ両親を前にすると上がってしまい、指が緊張して巧く弾くことができない。私は悩んだ。しかし、本当の技術、腕前というものを身に付ければ、これは克服することができると信じていた。私はよっぽどギターなんつう楽器を弾くだけで生きていけるという世界に憧れていた。

そんな頃、私はビートルズに出会った。それまでクラシック音楽となぜかマカロニ・ウェスタンのテーマ曲しか聴かなかった私が、初めてポップ・ミュージック、ロックというものに出会ったのである。ビートルズはごきげんだった。実に新鮮だった。私はビートルズを聴きまくり、歌いこき倒した。ここで私は葛藤を強いられることになる。つまり、普段聴いているのはビートルズであるのに、ギターで練習しているのはバッハの楽曲を編曲したものであったり、スペインやブラジルの作曲家の楽曲であったりした。クラシック、それもギターのためのレパートリーというと、非常に狭いカテゴリーになる。限られた楽曲を繰り返し弾くことになる。クラシックの中でギターの占める位置はまだまだ非常に低く、レパートリーの少なさで言えばオカリナとたいして変わらないぐらいである。まあ、オカリナよりは広いかもしれないが三味線とはどっこいどっこいである。

そのことに気づくと、私は実に狭い世界で音楽をやっていることにうすうす感づき始めた。元々非常に個人的な世界を表現するというところに惹かれて始めたものではあるのだが、個人的というのと世界自体が狭いということは同義ではない。

そんな風になんとなく自分のやっていることに疑問をうっすらと持ち始めていたころ、ちょうど高校の二年のときにバンドに誘われた。誘ったのは同じギター・クラブに所属していた隣町の仏壇屋の息子だ。彼は自分がボーカルをやるのでギターを弾かないか、と誘った。なぜなら、私は彼の持ってきたディープ・パープルのソロの譜面を、クラシック・ギターで初見で楽々と弾くことができたからだった。

仏壇屋の息子はバンドができそうだとなると異常に精力的に動き、ついにベース、ドラム、キーボードと一通りのメンバーをかき集めた。もちろん、全員バンドをやることは初めてのど素人である。私たちはディープ・パープルとレッド・ツェッペリンのコピーをやることに決め(というよりも仏壇屋の息子が決めたのだが)、各々練習をしてある日市内の楽器屋のスタジオで初めて音合わせというものをした。すると、案外といけるではないか。少なくとも私たちはそう思った。俺らは案外いけている。この、ドラムとベースの作るリズムに合わせたワイルドな演奏は、アバウトなんだけどいけている。そう、わりとワイルドだ。ごきげんと言ってもいい。少なくとも私たちはご機嫌になった。

私たちは練習を重ね、レパートリーも増えていった。バッド・カンパニーやグランド・ファンク・レイルロードなんかもレパートリーだった。ある程度レパートリーが整うと、いよいよデビューである。私たちは高三の学園祭で華々しいデビューを飾った。初めてのスポットライトを浴びての演奏はまさに麻薬のような快感があった。ライトがストロボのように点滅すると、熱狂している観客(つまり生徒連中である)が、まるでコマ送りのようにストップ・モーションで見えた。夢のような経験だった。それまでに味わったことのないような、ドーパミンがどんどこと出る経験だった。

私たちは隣の女子高の学園祭でもデビューした。すると、たちまち私のファンクラブというものができてしまった。凄い。私はモテている。思う壺ではないか。ああ、私はいけてるんだなあ、と日々幸せを噛み締めていた。

この快感を一度味わってしまったら、なかなか抜け出すことは難しい。大学に入学したら、もちろんサークルに入ってバンドを作った。これがまた、なかなかいかすバンドだった。なにしろ私たちはルックスがいけている。ベースは地元の湘南でも有名な美少年だった。ちなみに彼は今ではただのおっさんである。大学ではそのころ流行りだったジャズ・フュージョン(当時はクロスオーバーと呼んでいた)のインストゥルメンタルをやった。私は生まれて初めて曲というものを作った。作曲である。これが案外と評判がよい。おお、私は案外といけている。私は調子こいて数曲作曲し、それを演奏した。このバンドはなかなかナイスなバンドだったのだが、私の上がり症だけは相変わらずだった。演奏にムラがあるのだ。緊張の度合いによって、演奏の出来不出来がかなりある。演奏している楽曲がテーマ一発あとはアドリブという楽曲だからなおさらだ。私たちは一応プロ志向ということになっていたが、私は内心、この上がり症を克服しなければ難しいだろうなと感じていた。

ちなみに、このバンドのベーシストとキーボーディストは現在もプロ・ミュージシャンである。

三年になって、ボーカルが入った。サークルでもっとも美人の彼女が入り、私たちバンドのレパートリーは、それまでのジャズ・フュージョンからポップ・チューンをメインに演奏するようになった。

信じがたいことに、このサークル一の美女であったボーカルの子は私の彼女になった。いやあ、ギター弾いててよかったと神様に感謝した。それぐらいいい女だった。

ある日、どこかの駅のホームで――たぶんそのころ住んでいた高円寺のホームだったと思う――どういう経緯だったかは忘れたけれど、彼女が私に尋ねた。
「あなた、ギター止められる?」

 恐らく、私が留年して就職するかギターを弾き続けるか悩んでいたころだったと思う。それに対する彼女の意見が恐らくそういう発言として現れたのだ。私は口ごもり、すぐに返事ができなかった。うーん、とひとしきりうなってから、「止められない」と答えた。
「でしょ?」と彼女は言った。

 ところがそれから一年後に私は彼女に振られ、それから十年も経つころにはほとんどギターを弾かなくなっていた。

 私は音楽ディレクターになった。楽器を弾く方ではなく、弾かせる方になったのである。たまに興が乗ると、自分でギターを弾くこともあるにはあったが、それはデモ・テープの段階で、本番のレコーディングで自分で弾くことはなかった。もうそのころには私はプロの音楽ディレクターであり、自分が弾くべきではないことを知っていた。誰が弾くべきかを知っていた。

 考えてみれば、あの、高円寺のホームで彼女に問い詰められた私であったなら、いささか寂しい話ではある。しかし、私は音楽のプロフェッショナルになることができた。プロフェッショナルとなることで、ギターを弾けなくなってしまった。実に皮肉なことだ。

 厳密に言えば、私はまだギターを止めていない。もはや年に数時間という程度ではあるが、たまに思い出したように触ることがある。それはごくごく個人的な演奏である。私が最初に目にしたような、とても個人的な演奏。それで私は十分だ。私のギター弾きとしての実力はその程度でしかない。それでもよいのだろう。今の私はそのことに関して焦燥を覚えることもない。

 だが、なぜだろう、思い出したように二十年前のバンドのビデオを引っ張り出して見たりするとき、私は無性にバンドがやりたくなるのである。ギターが弾きたくなるのである。私にとって、ギターは宇宙のように終わりがない。そこには始まりというものがあるだけだ。私がギターを弾けなくなるとき、それは私という宇宙が終わるときではないのか。

written on 9th, may, 2005

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