ホリデイズ  (上)

 

 

 

 

 

 もう昔の話である。

 世の中は翌年から起こる流行り熱のようなバブルに浮かれる直前で、そして僕はまだ若かった。これはいまでも変わらないが、僕はいつも莫とした不安を抱えて生きていた。いつもなにかをちょっとずつ間違えているのではないかと思っていた。例えば、順番とかそういうものを。

 そんなときに、彼女に出会った。

 

1.

 

 遠くで犬の声がする。

 頭がまだぼうっとしている。僕は殴られでもしたのだろうか。いったいこの状況がなんなのか、ここがどこなのか、僕にはすぐに理解できなかった。それどころか、よく考えてみるとなにも思い出せない。おぼろげな視界に次第に浮かんできたのは見覚えのある薄汚れたモルタルの壁だ。そうだ。思い出した。ここは僕のアパートだ。自分の部屋ではないか。一応1DKという作りの、ろくに日の当たらない二階建て二世帯の一階。高円寺から徒歩二十分。それによく見るとここは自分のベッドの上だ。おまけに素っ裸だ。もぞもぞと足を動かしてみる。と、なにかに当たった。すると、声がした。

「あ、起きた?」

 女の声だった。女?

 まだよく思い出せない。僕は女と住んでるんだっけ?

 えーと、いまはいつだっけ? 

 一九八六年、昭和六一年。よし。上出来だ。

 何月だ?

 えーと、暑いな、そうだ夏だ。僕は今夏休みの最中だ。去年会社をかわって最初の夏休み。たしか僕は二十七になったばかりだ。先週だったかいつだったか。そうすると七月の終わりか、八月の始めか。えーと。うすぼんやりと丸い蛍光灯が灯っているところを見るとまだ夜のようだ。それとももう明け方か。

 いきなり蛍光灯に被って視界に女の顔が飛び込んで来た。

「ごめんね。ミンザイ入れちゃった。だって、一息に全部飲むんだもん、びっくりしちゃった」

 ミンザイ? スイミンザイ? サイミンザイ? どっちにしても似たようなもんだ。誰だ、この女は。一体全体なんで僕が睡眠薬を飲まされるのだ。

 僕の顔を覗き込んで笑いかけている女は、髪が肩よりちょっと長いくらいの若い女だ。よく見ると案外可愛い。彼女は白いシャツを羽織っただけの裸だ。視線を下に移していくと、シャツの間の乳房、濃い目の陰毛が見えた。

 ふふ、と笑いながら彼女は屈み込んで僕の乳首に舌を這わせ始めた。まだ完全にははっきりしない意識の中でも、彼女の舌先が触れた途端にくすぐったいような快感が走る。

 彼女の舌は次第に下へと這って行く。胸から臍へと、そして知らぬ間に勃起していたペニスを咥えてしゃぶり始める。彼女の舌の動きは実に巧みに亀頭に絡みつき、反射的に僕は少し背中をそらせて目を閉じた。

 彼女はひたすらペニスをしゃぶり続けている。僕は再び目を開けて、首を横に向けて隣の部屋の真中に陣取っている丸いテーブルに目をやった。コタツ兼用。去年中野の家具屋で買った。三万六千円。結構高かった。よし、だんだん思い出して来たぞ。

 テーブルの上に空のグラスがひとつ、その傍らにウォッカの瓶。あんなものを飲んだのか。そりゃ死ぬよ。睡眠薬なんか入れなくても。僕はただでさえ全くの下戸なのだ。

 彼女の舌が亀頭の裏側から先へと動き、先端を嬲る。僕は思わずうっと小さく声を上げ、照れ隠しに言った。

「上手いね」

 すると、彼女は顔を上げて言う。

「あなたが教えてくれたんじゃない」

 嬉しそうに言う唇の端から唾液が小さく糸を引き、それがやけに艶かしかった。

 女が僕の睾丸を口に含み、肛門に舌を這わせ、それからまた亀頭に戻ってきたところで僕は射精した。

 

 それから僕はようやく彼女のことを思い出した。駅で拾ったのだった。正確に言えば拾われたのかもしれない。

 

 実際僕はいろんなものを拾ってくる癖がある。

 かつて僕は衝動買いしたモルモットを一匹、飼っていたことがあった。ある日の帰り、駅の公衆トイレに立ち寄って外に出ると、入り口のところにダンボールに入った生まれて間もない子猫が捨てられていた。ほんとに小さいが毛は生え揃っているので生後数日は経っているのだろう。元来僕は動物というものが好きなので、可愛さのあまり、ダンボールごと持ちかえってしまった。それで深く考えずにモルモットのケージに子猫を一緒に入れてしまった。なにしろ、モルモットは耳のないうさぎとたいして変わりないのでちょっとした猫ぐらいの大きさはある。もしかしたら親猫と勘違いでもしないかなどと馬鹿なことを考えたのかもしれない。いずれにしろ、モルモットはとても大人しい動物だし、子猫の四倍ぐらいあるし、大丈夫だろうと思ったのだ。ところが、翌朝起きてみると、驚いたことにモルモットに綺麗な円形脱毛症が出来ていた。考えてみれば齧歯類であるモルモットはねずみの類である。猫とねずみ。まったく、本能というものは厄介なものである。

 

 で、彼女の話に戻ると、昨夜高円寺のホームに降り立ったところで声を掛けられたのだった。

 僕は吉祥寺からの帰りで、もう十一時近かった。客もまばらな電車からホームに降りて出口の方に歩き出すと、後ろからちょんと肩を叩かれた。僕が驚いて振り向くと、そこに白いシャツにジーンズという格好で、肩からトートバッグを下げた、整った顔立ちの女の子が立っていた。彼女は少女っぽさと女っぽさが同居していて、僕よりだいぶ年下にも、同い年ぐらいにも見えた。僕がきょとんとしてると、彼女は眉を八の字にしてなにか思い詰めた表情で、ねえ、あなた彼女いるの、と僕に訊いてきた。あまりに唐突だったのと、思いの他真剣な眼差しに、僕は思わず気圧されたように、いないよ、と答えてしまった。すると、彼女はちょっとほっとしたように表情を緩めると、間髪入れずにあなた一人暮し? と訊いてきた。そうだよ、と僕も同じリズムで答えると、彼女はまるで当たり前のように、じゃこれからあなたのうちに行っていい? と尋ねてきた。考えてみると断る理由がすぐに見つからない。僕が答えに詰まっていると、彼女はまた思い詰めたような表情になっていて、すがるような目をしていた。心なしかその目は潤んでいるようにも見えた。こうなると、僕という人間は断れない性格なのだ。ましてや相手が可愛い女の子となると。

 気がつくと彼女は一緒に僕のアパート目指して歩き始めていたのだった。歩きながら、彼女は先ほど見せた表情がまるで嘘のように楽しそうに、ねえねえ、あとどれぐらい、とか訊くので、そうだなあまだ十五分ぐらい歩くかなあなどと答えながら、僕はなんだかヘンなことになってるな、などとようやく考え始めたのだった。

 アパートに着いて、ふたりで部屋にあがると、彼女はバッグを下に降ろした。僕が汚い部屋だろ、と恐る恐る訊くと、彼女は先ほどホームで見せた、思い詰めたような、どこか泣き顔のような顔をして、ねえ、キスしていい? と訊いてきた。僕はまるで狐につままれたような顔をしていたに違いないだろうけど、そんな彼女をとても可愛いと思った。それに、もし僕が首を横に振ったら、いまにも泣き出すのではないかと思った。僕がうん、と答えると、彼女はちょっと背伸びをして舌を入れてきた。僕はきつくきつく抱き締められた。

 で、結局はなんだかよくわからないうちに僕たちはベッドに入ってセックスしていたのだった。

 終わった後に、彼女は冷蔵庫に入っていた、僕がかつて飲めもしないのにボトルデザインが気に入って、なんとなく買ってそのままになっていたウォッカをグラスに三分の一ほどついで、ハイと差し出した。その晩のあまりの急展開とセックスを終えて我に返り始めた緊張で、僕はなにも考えずに一息に飲み干してしまったのだ。覚えているのはそこまでだ。思い出したのも。

 

 僕が射精したものをごくんと喉を鳴らして彼女は飲んでしまった。それからふふ、と笑うとそのまま舌を入れてキスをしてきた。僕はアタマの片隅でちょっとうげ、と思った。

 

 要するに彼女は僕の好みのタイプだったのだ。ちょっとボーイッシュで、積極的で、クールで、それでいてすごく女っぽくって。なにかいつも背伸びをしているような切実さがあって、そこがとても可愛かった。

 彼女はねえ、感じた? と嬉しそうに尋ねてきた。僕はようやく照れ臭さが現実感とともに戻って、うんと曖昧な返事をした。

 

 現実感が戻ってくると、そうか、ここは僕の部屋なのだ、なにも遠慮することはないのだとようやく気づき始めた。

「ねえ」

 僕が声をかけると、彼女はなに、と身を乗り出した。

「いま何時?」

 彼女は少々落胆の色を浮かべると、立ち上がって隣の部屋に行き、テーブル(正確にはコタツだ)の上に置いてある腕時計を見た。

「四時。ねえ、さっき寝たばかりなのにもう眠いの?」

 そう言われてみればそうだが、だいたい僕は何時間ぐらい眠っていたのだろう?

「きみは眠くないの?」

「わたし夜勤慣れてるからね」

「夜勤て」

「あれ、言わなかったっけ、わたし看護婦だって」

 それでミンザイか。ふーん。

「オレやっぱり寝るわ」

 僕は足元にくしゃくしゃになっていたタオルケットをたくし上げると、それにくるまって言った。

「じゃ、わたしも」

 言うなり、彼女はタオルケットの中に飛び込んで来た。

 何時間寝たのか知らないが、僕のからだはへとへとだ。瞼が自然と降りてくる。

 あ、そうだ、その前に。

「きみ、名前は?」

 

 こうして僕はケイコと出会った。どういう字を書くのかは教えてもらえなかった。

 

2.

 

 自分にとって自分がつまらない人間であることなど滅多にない。

 だが、大学を出て会社に入ってしばらくしてからの僕は、次第に自分がもしかしたらつまらない人間になってしまったのかも、などと時折考えるようになっていた。これはいわゆる五月病の一種なのかもしれないし、もしかしたら一種の鬱病なんてことも考えられる。だいたいにおいて社会に出たばかりのころというのは、そもそもペーペーであるが故にまだ何者でもない。ただただ右往左往するだけだ。ちょうど社会や会社のリズムにすっかり慣れたころというあたりが曲者である。そろそろ自分が何者であるか、少なくともいまはどの程度の人間であるかなどと考えて憂鬱になってしまう。しかしまあ、考えてみれば、そもそもつまらない人間になったと考えること自体、つまらない人間じゃないと思っていたということでもあるわけで、そこのところがいささか厄介ではあるのだが、要するにぼうっと先を見始めて、同じ場所にたたずんでジジイになっている自分を想像してぞっとしたりするのである。それで僕はその年、仕事も会社も変えてみることにした。

 

 そんなわけでケイコと出会ったのは会社を移ったばかりのころである。

 僕が入った会社は音楽プロダクションで、いわゆる芸能プロダクションとは似たようなものだがちょっと違うのはアーティストが社長と副社長で、ミュージシャンしか所属していないところだ。それも社長副社長のほかにはアレンジャーと作詞家がふたりだけと、こじんまりとした個人事務所のようなものだった。

 そこで僕がやることになったのは原盤ディレクターという仕事である。原盤というのはマスターテープ、つまり音源そのもののことで、簡単に言えば、レコードの制作費を出している側のディレクターということだ。レコード会社の方にも担当ディレクターがいるので、レコーディングの現場にはディレクターが二人いることになる。要は、僕の入った会社の社長はそこそこの大物アーティストで、事務所が原盤制作費を全部出しているということだ。そこで僕は社長であるアーティストのディレクターになったというわけだ。というと聞こえがいいが、実際のところは社長本人がプロデューサーでもあるので、ただのマネージャーのようなものだ。

 僕は学生時代までバンドをやっていて、曲りなりにもミュージシャンを目指していたこともあって、譜面にも強いしそれなりに耳もよかった。そこを買われたのだが、分かりやすく言えばレコーディング中の相談相手といったようなものである。

 ま、実際のところはレコーディング中はスタジオにずっと付き合ってはいるものの、特にすることがあるわけじゃなし、ファミコンのゴルフゲームがやたらと上達した。

 とまあ、そんな仕事なので、時間的には普通の会社と比べるとはるかに自由というかルーズで、もともと朝が苦手な僕にはかなり気分的に楽な仕事である。もちろん、タイムカードなんて無粋なものはない。

 この手の仕事の特徴はというと、忙しいときと暇なときが極端だということだ。つまり、アルバムのレコーディングが佳境に入ったりすると、その数ヶ月間はそれこそ鬼のように忙しい(と言っても拘束されているという意味であって、実際にはゴルフゲームをやっている時間がやたらと多いのだが)。逆にアルバムが完成して、しばらく次のレコーディングまで間があるときはやたらと暇になる。

 だから、夏休みというものも特に期間が決まってなくて、個人が仕事の状況で取るのだが、うまくすれば二週間近くは平気で取れるのだった。この辺が小さい会社のいいところでもある。僕は十日間ばかり夏休みを取った。

 ケイコと出会ったのは、その最初の日のことだ。

 

 目が覚めると、ケイコは横でまだ寝息をたてていた。今度は意識ははっきりしていた。

 横を向いた寝顔を見ているとどこかまだあどけなさが残る顔立ちは、誰かに似ている。ような気がするのだけれど、それが誰だか思い出せない。いずれにしろ、午前中の陽射しの中で改めて見るケイコはとても綺麗に見えた。いまさらながら、自分がとんでもなくラッキーな気がしてきた。ラッキー。

 僕は彼女を起こさないようにベッドを抜け出ると、コーヒー用にお湯を沸かすために薬缶を火にかけた。二人分の豆を手動のミルでガリガリと削るとペーパーフィルターに入れて、湯が沸くのを待った。

 うーん、と声を出して彼女が寝返りを打ったので、起きたのかと思ってベッドのそばに行ってみると、布団の上に投げ出された彼女の左手が目に入った。昨夜は気付かなかった。彼女は左手の薬指に指輪をしている。アンラッキー。

 これはやっぱり結婚してるってことだよな、いや単純に彼氏がいるってことだろうか、あれやこれや。途端に混乱の極みに陥って目まぐるしく想像が駆け巡ったところにピーとけたたましく薬缶が鳴った。やれやれ。まったく笛吹きケトルって奴は。

 ひとまず指輪のことはアタマから追い出して、コーヒーを淹れることにした。火を止めるとようやく薬缶は鳴り止んだ。挽いた豆に湯を垂らして蒸らして二十秒待つ。と、ベッドの方から声が聞こえた。

「おはよう」

 僕は「おはよう」と答えて、いけね、三十秒ぐらい経っちゃったぞと思いながらドリップに湯を注ぎ始めた。

「いい香り」

 いつのまにか彼女は起き出して後ろから覗き込んでいた。例のシャツ一枚のままである。性懲りもなくまたちょっと勃起しかけた。

 淹れたてのコーヒーを二人で座り込んで飲んだ。

 飲みながら、僕は指輪のことを訊くべきか訊かざるべきか悩んでいた。僕の難点はすぐ顔に出ることである。

「なに難しい顔してんの」

 ほらね。

「後悔してる? わたしと寝たこと」

 答えに詰まった。それはもちろん後悔してるからではなくて、いまだに指輪のことを言い出そうかどうしようか考えていたからである。

 ふと顔を上げて彼女を見ると、眉間にちょっと皺を寄せている。それがまた可愛かったりする。いかん、このままだと誤解されると思った僕は、ようやく口を開いた。

「いや、あのさ、その指輪」

 ん、という感じで彼女はきょとんとした顔になった。

「その左手の指輪」

 僕が指差すと、やっと意味が分かったようだ。

「あ、これ、言わなかったっけ、結婚してるって」

 彼女はいとも簡単に言うと、思い切り微笑んだ。後ろめたさもなにもない感じで。

 

「それって不倫ってこと?」

「そうだよ」

 それがどうしたという顔で彼女はコーヒーに口をつけた。

 自慢じゃないが僕は人妻と寝たのはこのときが初めての経験だった。僕はさらに混乱した。ついでに心拍数もちょっと上がった。もっとも、カフェインのせいもあったのだろうが。自分の中でこの状況をどう消化したものか分からなかった。

「後悔してるの? わたしと寝たこと」

 やっぱりまた僕はいつのまにか眉間に皺を寄せていたらしい。また同じ質問が飛んできた。

「いや、全然」

 あわてて僕は無理矢理さわやかな顔を作りなおすと答えた。とりあえず、無理にでも自分が稀代のプレイボーイであると自己暗示をかけることにした。

 しかし、自己暗示は失敗した。

「でもさあ、大丈夫なの? 泊まったりして」

「殺されるかも」

 そう言って彼女は笑った。ここはどう考えても相手の方が上手だ。

 僕はそれ以上自分の女々しさを出すのを止めておこうと、それ以上訊くことは出来なかった。

 コーヒーを飲み終わると、彼女は時計を見て帰んなきゃと言った。ベッドの方に戻ると、あっという間に着替えを済ませると、もう玄関口に立っていた。

 僕も慌てて着替えて、玄関でスニーカーに足を突っ込んでいると彼女が訊いた。

「ねえ、わたしのこと好き?」

「ああ、好きだよ」

 ちょっとどぎまぎしながらも僕は答えた。答えながらまんざら間違ってもいないと思った。それより驚いたのは彼女が真顔になっていたことだ。

「じゃあ、また会える?」

「もちろん」

 これは自信をもって答えることが出来た。

「じゃあここの電話番号教えて。電話するから」

 僕は郵便受けに入っていた出張マッサージのチラシの裏に電話番号を書くと、彼女に手渡した。手渡しながら、もうちょっとマシなものに書けばよかったと後悔した。ふと思い出して、ちょっと待ってと声を掛けてから部屋に上がりなおすと、鞄から名刺を一枚取り出して彼女に渡した。自宅の番号もこれに書けばよかったと思いながら。

「いまは夏休み中だけど、会社にかけても平気だから」

「へえ、ケンジってこう書くんだ。沢田研二とおんなじだね」

 彼女は名刺を見てそう言いながら、名刺と出張マッサージのチラシを財布にしまった。

「ねえ、きみんちに電話は……できないよね」

「んー、そのうち教えるよ」

 駅まで送って行くあいだ、彼女はディレクターってなにやるのと訊いてきたので、僕は一生懸命説明した。でもたぶんあまり理解してもらえなかったと思う。特にゴルフゲームのあたりは。

 駅で別れ際、彼女はもう一度訊いてきた。

「ねえ、わたしのこと好き?」

 そしてちょっと背伸びをすると、僕の唇に軽くキスをした。

 

 改札に立って階段を昇りきるまで彼女を見送ったあと、僕はふと気付いた。いけね、どこに住んでるのか、いくつなのか訊くのを忘れた。

 

3.

 

 彼女から電話があったのは四日後だった。

 

 その間、僕がしていたことといえば、ただひたすら電話を待つことだけだった。せっかく取った夏休みだと言うのに、他に優先させるべきことはなにもないように思えた。

 上の空で部屋を何度も掃除したりした。電話機に留守電は付いていたけれど、極端に外出を控えた。ろくに効かないクーラーを付けっぱなしにして、読みかけの本を読んだりもしたがちっとも頭に入らなかった。結局ほとんどの時間を、付けっぱなしのテレビをぼうっと見て過ごした。外ではひっきりなしに騒々しく蝉が鳴いていた。

 彼女が帰った翌々日の夜に一度電話があった。飛び付くように受話器を取ると、母の声が聞こえてきた。

「今年の夏は帰らないの?」

「うん、もしかしたら仕事で緊急に呼び出される可能性があるんだ」

 僕は嘘を最小限にとどめた。

 結局のところ、僕はとっくに恋してしまっていた。

 狂おしいほどケイコに会いたかった。

 彼女が結婚していることについて、それこそ本一冊分ぐらいの想像をしたが、結局そんなことはどうでもよくなっていた。考え過ぎて、しまいにはこれが果たして本当の恋なのか、それともただの性欲なのかもよく分からなくなった。しかし、仮に半分以上が性欲だとして、それでも残りの半分近くは間違いなく恋だった。

 にも関わらず、不思議なことに一日一日と日が経つに連れて、少しずつ彼女の面影ははっきりしなくなってきた。徐々にディテイルが怪しくなってきて、それに対して僕は極度の焦りと不安を覚えたが、だからといって会いたいと思う気持ちは一向に醒めるどころか、ますます募るばかりだった。彼女の顔をすべて忘れてしまわないうちにもう一度会いたい。

 僕は必死で駅のホームで会った彼女の顔を思い出そうとし、朝コーヒーを飲みながら微笑んだ彼女の顔を思い出そうとした。しかし、あれこれと考えれば考えるほど、それに比例するように記憶は怪しくなっていった。逆に彼女の口の中に射精した快感だけが強くいつまでも感覚として残っている。僕はただのすけべなのだろうかと本気で考えた。つまるところ、僕は考え過ぎるのだ。僕の胸はきゅんきゅんと痛んだ。

 

 そんなふうに身を捩るように考え過ぎて疲れ果てた四日目の夜に電話が鳴った。

「もしもし」

「わたし、ケイコ。覚えてる?」

 その質問は一番胸にぐさっと刺さる質問だった。腰が抜けるほど考え続けていたことと、もう半分ぐらい自分の中ではぼやけている彼女の顔の記憶とのジレンマを見事なまでについていた。

 僕はあれほどケイコのことを考えて恋焦がれていたくせに、いざ電話が来たときの対処を考えていなかったことに気付いた。ここはクールに答えるべきか、それとも熱烈に愛情を表現すべきか。

 とりあえず墓穴を掘らないことを第一に、前者のセンで行くことにした。

「もちろん」

 一応クールに決めたつもりだったが、気持ち早口になってしまった。僕は気付かれないようにちょっと生唾を飲み込んで、はやる気持ちを落ち着けようとした。

「ねえ、会いたかった?」

「うん、すごく」

 結局深く考えるのはやめた。

「わたしも」

 

 ケイコとは翌日に渋谷で待ち合わせた。

 前の日の電話は、待ち合わせの場所と時間を決めると、じゃあねとあっさり切れてしまい、肝心の気になっていたこと、彼女の住んでいるところとか年とかはなにも訊けずじまいだった。それよりも彼女の声に気のせいか元気がなかったのが気になった。

 約束の二時きっかりに彼女は現れた。僕はと言えば、十五分ばかり早く着いて、109のエレベーター前をひっきりなしに煙草を喫っては熊のようにうろうろしながら、もし彼女が来てもすぐに分からなかったらどうしようだの、Tシャツにジーンズてのは安直過ぎたかなだの、果てはホントに彼女は来るのだろうかだの、例によってどうでもいいようなことをあれやこれや考えていた。

 彼女が満面に笑みを浮かべていざ現れると、それまであれこれ心配していたことが嘘のように、初めて会ったときからの彼女の顔をいとも鮮やかに思い出した。人間の記憶ってものは不思議なものだ。

 彼女は黒の長袖のTシャツにジーンズといういでたちだった。僕という人間はつくづく取り越し苦労をする人間なのだなと改めて思った。だいたい、夏の真っ盛りにイヴニングドレスかなんかで現れるわけがないのだ。

「へへ」

 それが彼女の第一声だった。

 不思議なもので、それで僕の考え過ぎからくる妙な緊張もどこかに吹き飛んでしまった。

 僕らはごく自然に手を繋いで道玄坂を登り始めた。

 

 適当に目に入ったホテルに入ると、シャワーも浴びずにセックスをした。

 今回はしっかりとゴムの人工物の中に射精して、僕は冷蔵庫の上に置いてあったコップに水を満たしてベッドに戻った。

 彼女がそれをごくりと喉を鳴らして一口飲むあいだ、僕はマイルドセブンに火を点けて、ひとつ大きく煙を吐き出した。

「ねえ。わたしにも一本ちょうだい」

 僕は、自分で咥えて火を点けてから渡したものかどうか一瞬迷ったけれど、それはなんか、あまりにもこういうシチュエイションに合い過ぎていやらしい感じがして、パッケージをちょっと振って一本が顔を覗かせるようにして彼女へと差し出した。

 彼女はそれを取って咥えると、枕元に置いてあった僕のジッポで火を点け、ふうと煙をひとつ吐き出した。

 一瞬、僕の知らない大人のケイコが垣間見えたような気がして、僕はどきりとした。実際、彼女が煙草を喫うのを見るのはそれが初めてだった。

 僕は天井を向いてもうひとつ煙を吐き出しながら、なにから訊き始めようか考えていた。

「ねえ」

 彼女の声で我に返り、声のする方を向いた。

「なに考えてたの?」

 どうやら僕はまた眉間に皺を寄せていたらしい。

「うーん、訊きたいことがあり過ぎてどれから訊いていいものやら分からないんだ」

「いいよ、なんでも訊いて。答えられるものは答える」

 ということは答えられないものがあるってことじゃないかなどと思いながら、僕は質問を開始した。

「ケイコっていくつ?」

「二十五」

「じゃ、ふたつ下だ」

「へえ、同い年ぐらいかと思った」

「どこに住んでるの?」

「小平」

「それってどのへんだっけ?」

「んー、遠くだよ。国分寺とかから乗り継いで。もしくは西武新宿線とか」

「じゃあなんで渋谷なんかにしたんだよ。お互い新宿の方が近いじゃん」

「出来るだけ遠くにしたかったの」

 声のトーンがちょっと落ちた気がしたのでふと横を向いてケイコを見ると、遠い目をしたような気がした。だがそれもすぐに消えた。

「次の質問は?」

「苗字は?」

「タカハシ。タカハシケイコ」

「それって女優と同じじゃなかったっけ」

「よくある苗字とよくある名前がくっついたってこと」

「そう言われてみればそうだな」

 つまり旦那はタカハシって苗字だってことか。

「いつ結婚したの?」

「えーと、二年前」

「旦那はなにをやってる人?」

「やくざ」

「マジかよ」

「嘘。医者」

「脅かすなよ。じゃ、職場結婚か」

「ねえ、これっていつまで続くの?」

「じゃあ今度はそっちが訊いていいよ」

「わたしのこと好き?」

 僕らはもう一度セックスをした。

 

 渋谷からの帰り道、高円寺で僕が降りるまで、今度は僕が質問攻めにあった。

 僕は山形出身で大学から東京に出てきたこと、中学高校とテニスをやっていたこと、高校・大学とバンドをやっていたこと、子供のころはピアノをやっていたがバンドではギターを弾いていたこと、高校時代はファンクラブまでできたこと、大学時代はやたらともてたこと、大学卒業後に酷い失恋をしてそれ以来誰とも付き合わなかったこと、会社を替わったこと、車が欲しいこと、いまのアパートが仕事に不便なので引っ越したいと思っていること、なんてことを話した。最後の引っ越したいという話にだけ彼女は不安げな顔をして、いつ、ねえいつ、と訊いてきたが、僕はまあ冬のボーナスまでは無理だなと答えた。ちょっともてた話を強調し過ぎたかななどとも思ったが、話しながら、二十七年間も生きてきたわりには案外簡単にこれまでの人生を語り尽くせちゃうものだなと思った。思うに、僕のこれまでの人生には謎がなさ過ぎる。

 かたやケイコはいまだに謎だらけである。僕にとって。

 

 謎その1。

 なぜ彼女は僕に声をかけたのか。

 謎その2。

 なぜ彼女は僕と寝たのか。

 謎その3。

 なぜ彼女は僕に睡眠薬を飲ませたのか。

 謎その4。

 なぜ彼女は連絡先を教えてくれないのか。

 謎その5。

 なぜ彼女は僕の自宅でなく、それも渋谷という彼女の自宅から遠い場所を選んだのか。

 謎その6。

 なぜ彼女は後背位を極端に嫌がるのか。

 

ここまで紙に書いてみて、僕はふと気がついた。これはもしかしたら謎でもなんでもないのではないかと。単に僕が恋しているが故に謎に思えてしまうだけで。たとえば、謎その2とかはなぜ僕は彼女と寝たのかと置き換えることもできる。考えようによっては、すべて「彼女は気まぐれである」というひとことで片付いてしまうではないか。

 僕は馬鹿馬鹿しくなって紙を丸めてゴミ箱に捨てた。

 だが、なにかが僕の頭の中で引っ掛かっている。なんだろう。

 そうか、思い出した。小平。初めて出会ったあの晩、僕は吉祥寺からの帰り道だった。そしてあのときホームにいた電車は僕が乗っていた電車だけだった。つまり、彼女は僕と同じ電車に乗っていたということだ。彼女は自宅と逆方向の電車に乗っていた。

 

 謎その7。

 なぜ彼女はあの晩上り電車に乗っていたか。

 謎その8。

 なぜ彼女は高円寺で降りたのか。

 

 その日はケイコとの二回戦の疲れもあって早々に寝てしまった。そして僕にとっての謎の数々も深い眠りの中で雲散霧消していった。

 

4.

 

 気がつくと十日取った夏休みももう土日を入れて三日しか残っていなかった。

 どこへも遊びに行くことなく終わってしまいそうだった。そして事実そうなった。残りの三日間、僕は例によってケイコからの電話をひたすら待つことで過ごし、ぼんやりとイメージした医者の旦那とセックスしているケイコを想像して嫉妬に苦しんだ。

 結局、ケイコからの電話はかかってこなかった。

 

 やっぱり休み明けの出勤というのはいつもながら気が重い。カーペンターズの曲に「雨の日と月曜日は」というのがあったが、まさにそんな気分だ。

 これが普通の会社だったら、朝七時に起きてネクタイを締めてスーツを着て気分を新たに引き締めて、ついでに満員電車に揺られてあきらめもつく、というところなのだが、いまの会社はネクタイを締めたりすると「どうしたの?」と訊かれるような会社なので、格好もジーンズのままだし起きるのも適当なのでなかなか気分転換が難しい。

 それでも一応会社の始業時間となっている十一時をちょっと回ったころに顔を出した。

 会社は表参道の骨董通りを一本入ったところにあるマンションの二階の一室である。

 案の定、まだ女性ふたりしか出勤していなかった。午前中はだいたいこんなものである。デスクのショウコちゃんと経理兼総務の桜田さんのふたり。

 ショウコちゃんは僕よりも会社では先輩だが年は五つほど若い。沖縄出身のちょっとエキゾチックな可愛い子で、実はこの会社に入ったときから僕はひそかにまんざらでもないと思っていた。しかし、噂によるとどこかの会社の部長の愛人であるらしい。最初にこの噂を聞いたときは内心酷くがっかりした。

 桜田さんは僕より逆に五つほど上の既婚者で、サクラダジュンコというのが本名である。女性の場合、結婚するときは相手の姓に気をつけた方がいい。やたら元気がよくてちょっと男勝りなところがあり、自分と同い年かそれ以下の男はすべて「〜くん」になってしまう。要するにちょっと自意識過剰な面があって、わたしは仕事ができるのよ的な突っ張りが多分にある、この業界には典型的な女性である。ちなみに旦那のことは「ダーリン」と呼ぶ。

「おはよう」

 僕が入っていくと、いきなり桜田さんが声をかけてきた。

「マカベくん、全然焼けてないじゃん」

 僕はむっとして答えた。

「どこも行かなかったから」

「じゃあなにやってたのよ?」

 これだからおばさんは嫌なんだな、と思いながらも一応は反撃を試みる。

「セックス」

「えー、うっそー、マカベくん、彼女でもできたの」

「大きなお世話ですよ」

 僕が眉間に皺を寄せていると、ショウコちゃんが僕の机にコーヒーを持ってきてくれて、ついでにうふふと笑った。

 なにがうふふなんだよと思いながらも僕はコーヒーに口をつけ、休み中の伝言帳に目を通した。

 

5.

 

 ケイコから次に連絡があったのは、渋谷で会ってからちょうど一週間後のことだった。

 その日は平日だったが、僕は風邪をひいて会社を休んでいた。前日からたまにくしゃみなどをしてちょっと風邪気味だとは思っていたが、起きたときのあまりのだるさと熱っぽさに体温計で計ってみると八度の熱があった。昼ごろから具合はますます悪くなり、医者に行く気力もなくずっとベッドで横になっていた。

 夕方に無理して食べたカップヌードルも夜になって吐いてしまった。九時をまわるころには熱は四十度まで上がり、僕は吐き気と頭痛でうんうんうなっていた。

 電話が鳴ったのはちょうどそんなときだ。僕は転げ落ちるようにベッドから出ると、這うようにして隣の部屋まで行って受話器を取った。

「もしもし」

「酷い声ね」

「誰?」

「忘れちゃった? わたし、ケイコ」

「実は今熱で死にそうなんだ。もしかしたらもう死んでるのかもしれない」

「なに言ってるの」

「さっき吐いた」

「大丈夫?」

「大丈夫じゃないってさっき言ったつもりなんだけど」

「薬は飲んだの?」

「うちにはオロナイン軟膏しかないんだ」

「いまから薬持ってってあげるから住所教えて」

「マジで?」

「わたし看護婦だって言ったでしょ」

「じゃあ実家の電話も教えるから、もし死んでたら連絡とってくれ」

「その調子じゃ死にそうもないわね」

 

 ケイコは二時間ほど経ってから本当に現れた。薬を山ほど持って。

 その間、僕はケイコと会えることを喜ぶ以前に、ただ熱でのたうちまわっていた。マジで風邪で死ぬことってあるのだろうかと考えた。

 ケイコは部屋に上がるとまず、買ってきたオレンジジュースをコップに注いで飲ませてくれた。水分をたくさん摂るといいのよ、と彼女は言った。高熱のからだには、冷たいオレンジジュースが喉を通り過ぎると、本当にうまかった。僕はオレンジジュースがこれほどうまいと思ったことはなかった。

 彼女はベッドに肘をついて、心配そうに僕を見つめていた。ちょっと目を潤ませて。その姿は本当に可愛かった。ところが僕の方はと言えば、うんうんうなりながら吐き気をこらえるのに精一杯で、その姿を十分味わう余裕などどこにもなかった。

 僕は彼女が持ってきた抗生物質と解熱剤を飲んでしばらくすると眠りに落ちた。ケイコは僕が眠るまで傍についていた。僕はかすかに彼女が「さよなら」と言うのを聞いたような気もしたが、それが果たして現実なのか夢なのか区別がつかなかった。

 

 翌朝起きると熱は下がっていた。どうやら死なずにはすんだらしい。当然のようにケイコの姿はなかった。その代わり、コタツ兼テーブルの上に書き置きがあって、冷蔵庫にお粥を入れておきました、と書いてあった。冷蔵庫を開けてみると、お粥の缶詰が三つ入っていた。

 ケイコが持ってきた元はケーキかなんかの箱らしい薬箱には呆れるほどたくさんの薬が入っていた。確かに、昨夜彼女が持ってこれるだけ持ってきたからと言っていただけのことはある。中には患者名が書いてある、患者に処方したらしい薬袋までいくつか入っていた。こんなのはどうやって手に入れるのだろう。偽の処方箋でも使うのだろうか。とにかく、胃薬から果ては下剤まで、処方してもらわなければ手に入らない薬ばかり十種類以上入っていた。これ全部飲まなきゃなんないようだったら死ぬな、と僕は思った。

 

6.

 

 その翌週から、社長でもあるアーティストのレコーディングがはじまり、忙しくなった。

 レコーディングのある日は会社に寄らず新宿御苑にあるスタジオに直接向かう。スタートが一時と決まっているので朝は非常に楽である。その代わり、帰りは夜中の二時三時になることが多く、車のない僕はタクシーで帰宅する。実際、この会社に入ってからのひと月あまりで、すでにそれまでの僕の人生で乗ったタクシーの距離の倍以上乗ったことになる。まあこの仕事というのは、考えようによっては楽なようでもあり、拘束時間を考えるとハードなようでもある。世間一般に比べると、なべると楽な部類になるのだろう。ただレコーディングのペースに入ると、世間一般とは半日ぐらいの時差ができてしまう。スタジオがひと月も続けば、その間はほとんど一般人と接する機会がなくなってしまう。せいぜいが往きの電車の中と出前の兄ちゃんと帰りのタクシーの運ちゃんぐらいである。

 あれ以来ケイコからの電話はない。もしかしたらあったのかもしれないが、そもそも僕の帰りが遅過ぎるのだ。実のところ、僕はしょっちゅうスタジオから自宅に電話を入れて留守電をチェックしたが、メッセージも入っていなかった。そもそも彼女が留守電を苦手とするタイプかもしれないし、これだけ毎日留守電になっていればいい加減呆れてしまわれても無理はない。

 二週間ほど過ぎて、僕はそろそろあきらめの境地に達しようとしていた。なぜか金輪際もう電話はかかってこないのだという気がした。そして彼女とももう二度と会えないのだと。

 やっぱりあれは彼女にとっての一時の火遊びだったのだと思おうと努力した。この際だからショウコちゃんあたりに乗り換えよう。誰かの愛人であっても構うものか。相手が僕をどう思っているかという問題はあるが。とにかく、ケイコのことはもう忘れるようにしよう。

 しかし、こういうときに限って、ケイコのことをはっきり覚えているのだ。初めて会った高円寺のホームで声をかけられたときの顔、朦朧とした意識の中に浮かび上がった彼女の笑顔、帰り際に束の間見せる寂しそうな顔、あらゆる場面の表情が鮮明にアタマにこびりついて離れない。いつも真剣な眼差しで問いかける彼女の声が繰り返しアタマに響いている。わたしのこと好き?

 

 レコーディングはひと月ほどで一段落ついた。

 この間に夏は確実に過ぎ去っていて、その痕跡を残すものは残暑だけになっていた。いつのまにか蝉の声も聞こえなくなっていた。

 やっぱりケイコからの連絡はなかった。相変わらず彼女の顔や声は鮮明に覚えているものの、次第に現実感は薄らいでいった。世間から隔離されているようなスタジオでの日々もそれに拍車をかけた。彼女が本当に存在したということを証明するものは、置いていった薬の数々だけだった。それと例のお粥云々の書き置きと。

 

 久々に休みを取って、アパートでごろごろしながらテレビを見ていると電話が鳴った。僕は一瞬どきりとしたが、もう以前ほど期待しないようになっていた。予想通り、受話器の向こうから聞こえてきたのは男の声だった。

「もしもし、オレ、秋山」

「久しぶり。どうした」

 秋山は学生時代に組んでいたバンドのドラマーで、いまは一部上場の商社に勤めるエリートサラリーマンになっていた。バンドの残りのふたりはミュージシャンになっていて、いわゆる立派なカタギになったのは彼だけと言ってもよかった。卒業してすぐに同級生と結婚して家庭を設けたあたりも一番まっとうな生き方をする彼らしかった。

「いやね、オレ今度ユーゴに転勤することになっちゃってさ」

「ユーゴってあのヨーロッパのユーゴか」

「そう。それでさ、行くと五年は戻って来れないと思うからさ、行く前にそのなんだ、壮行ライブってのをやろうかなと思って」

「そういうのって普通本人じゃない奴が言い出すことなんじゃないの」

「いいじゃん、この際。ねえ、やろうよ」

「いいけどさ。他のふたりも大丈夫だったら」

「陽太郎と山崎にはもう連絡してオーケーもらってあるから」

「相変わらず要領いいな、お前。で、いつ」

「再来週の土曜。大丈夫?」

「ああ、大丈夫だよ」

「よかった。実はもう新宿のライブハウス押さえてあるんだ」

「お前ホントに要領だけはいいな」

 

 久々の土日の休みを過ごして、月曜の十一時過ぎに出社すると会社にいたのはショウコちゃんだけだった。

「おはよう。今日はまだひとり?」

「桜田さん今日明日有給取ってるんですよ」

「どうせダーリンとどっか旅行でも行ってるんだろ、また」

 僕はショウコちゃんの出してくれたコーヒーに口をつけながら、一応机の上の伝言帳に目を通した。

「ショウコちゃん、このタカスギさんって男? 女?」

「男のひとでしたよ」

 伝言欄は空白になっている。

「で、なんだって?」

「さっきかかってきて、マカベさんいますかって。まだですって言ったらまたかけますって」

「あっそう」

 なんか支払いが遅れてるカードでもあったかなと考えたが思い当たるものはなかった。またそのうちかかってくるだろう。

 僕は伝言帳を閉じて、連絡すべきところに順番に電話をかけ始めた。

 

 結局タカスギ氏からその日電話はかかってこなかった。

 

7.

 

 翌週の土曜日、僕はギターのソフトケースを担いで新宿へと向かった。

 南口を十分ほど歩いたところにあるライブハウスに着くと、ちょうどベースの荒木陽太郎が車から機材を下ろしているところだった。彼はいまはツアーミュージシャンで、某ベテラン歌手のバックミュージシャンをやっている。親父さんは東大の教授で、彼も同じ道を行かせたかったらしく大学院まで行かせたのだが、いまごろはさぞ嘆いていることだろう。当の本人はと言えば、実に呑気なものである。

 先に僕が声をかけた。

「よう、山崎は」

「もう来てるよ。秋山も」

 地下に続く暗い階段を降りて行くと、先に来ていた秋山と山崎が煙草を喫っていた。

 キーボードの山崎は都内のジャズのライブハウスで演奏している。彼だけが一年年下だ。僕ら他のメンバーがだいたいがロックから始めたクチなのに対して、山崎は最初からジャズをやっていた。ちょっと内向的で大人しいように見えるが、案外酒豪である。学生時代、一度サークルの合宿で浴びるほどチャンポンで酒を飲んで急性アルコール中毒に陥り、ひと晩で髪が真っ白になったことがある。おかげで、いまだに童顔なのに白髪がちらほらと混じっている。

 

 僕らは先週一度リハーサルスタジオを借りてひととおりのリハーサルはしておいた。陽太郎と山崎はともかく、秋山と僕は楽器を触るのも久しぶりだった。ただ、レパートリーはほとんどが学生時代からやり慣れた僕の曲だったので、さほど苦労することもない。学生時代の僕は、半ば本気でミュージシャンを目指していたこともあり、とかく自分が出来る以上の演奏をしようと躍起になっていた。それが故にミスタッチも多かったし、演奏に出来不出来のムラがあった。いまとなってはそういう肩の力も抜けて、とりあえず自分ができる範囲のことで表現しようと思えるようになったので、不思議なことに昔よりは指は動かないもののかえっていい演奏ができるような気さえする。

 

 メンバーが揃ったところで、音合わせに一曲だけリハーサルしておくことにした。いちおう送別ライブという名目なので特別に付け加えた、一曲だけオリジナルのレパートリーではない、チャーリー・ミンガスの「グッドバイ・ポーク・パイ・ハット」をやることにした。

 照明のチェックも兼ねて、本番同様照明も落として演奏した。久々のライブハウスでの演奏はなかなか気持ちよかった。いろんなことを忘れて無心で演奏するのはとても気持ちがいい。こういうときはインスピレーションも湧くし、指も案外スムーズに動いてくれる。

 本番までは後二時間ほどもあるので、それまで茶でも飲むかと僕らは楽器を置いて出口へと向かった。

 メンバーの最後に僕が出ようとすると、ちょうど出口のドアの脇に立っていた背の高い男が声をかけてきた。

「よかった。とってもよかったです」

 満面に笑みを浮かべてそう言うと男はいきなり握手を求めてきた。

 僕はてっきりライブハウスの人間だと思った。男は三十代後半と言ったところか、それでいてジーンズの上下にウェーブのかかった長髪という、いかにも全共闘世代という感じだった。身長があって体格もいいわりに頬がこけているあたりは、松田優作と似ていると言えなくもない。

 僕は照れ笑いを浮かべながらどうも、と言って階段を上ろうとすると、男はさらに声をかけてきた。

「マカベくんだよね。ちょっと話できないかな、ケイコのことで」

 僕は思わず足を止めて振り返った。男は相変わらず人懐っこい笑みを浮かべたままだった。

 

 僕はバンドの連中に本番までには戻るからと言って、男と近くの喫茶店に入った。

 歩きながらもしかしたらこいつがケイコの旦那なのかもしれないと思い、僕はちょっと緊張した。

 窓側の奥のテーブル席に座ってコーヒーを頼むと、男は名刺を一枚差し出した。

「驚かせちゃったかな。こういう者なんだけど」

 名刺には、高杉探偵事務所、高杉次郎とあった。タカスギ。こいつがそうか。事務所の住所は東久留米市となっていた。

「探偵、ですか」

「まあ、事務所って言ってもオレしかいないし、セコい興信所ってとこなんだけどね」

「はあ」

 僕はもしかしたらとんでもないトラブルに巻き込まれつつあるのかもしれないと頭の片隅で思いながらも、高杉の人懐っこい笑顔と呑気な雰囲気になぜかちょっと親しみすら覚えた。

「ちょっと恩義のある弁護士に頼まれちゃってさ。オレ昔いろいろあったから。それで、その弁護士がある組の顧問弁護士なわけよ」

 僕はきょとんとして見つめるだけだった。

「あれ、また驚かしちゃった? まあ、実際、きみはちょっと厄介な立場にあるってわけなんだけど」

 そう言って高杉は出されたコーヒーをうまそうにひと口飲んだ。

 なにやら僕にとって剣呑な話らしいが、どうにも相手ののんびりとしたペースにその実感が湧かない。

「それで」

言いながら高杉はショートホープを咥えて火を点けた。

「ケイコの居場所知らないかな。タカハシケイコ。それともアオキケイコかな?」

 ふーっと一息煙をうまそうに吐き出しながら、相変わらず人懐っこい笑みを浮かべた。アオキケイコ? たぶんそれはケイコの旧姓なのだろう。どこかで聞いたことがあるような気がする。考えてみれば、それもケイコの言うように、よくある名前とよくある苗字がくっついたものだった。

「知らないですけど」

 こいつはもしかしたらとんでもない食わせ者なのかもしれないと思いながら答えてはみたものの、どうしてもそうは思えない雰囲気があるのが不思議だった。

「ケイコがどうかしたんですか?」

「うん、いや、だいたいきみはケイコが何者なのか知ってるの?」

「えーと、看護婦だってことは聞きましたけど」

「結婚してるってことは?」

「それも」

「オレもそうだけど、きみも案外呑気だなあ」

 そう言うと高杉はくく、と笑った。

 どうも相手のペースに乗せられてしまいそうである。僕はコーヒーをぐいと飲むと、思い出したようにポケットからマイルドセブンを出して喫った。煙をひとつ吐き出すとひとつ質問をぶつけてみた。

「あの、これって浮気調査なんですか?」

 高杉はまたくく、と笑うと、

「まあ、そんなようなもんだけどね。組って言ったでしょ、組って。普通もうちょっとびびんないかなあ」

「いや、なんか高杉さんいい人みたいなんで、なんか」

「あのさあ、人を見かけで判断したりすぐ信用しちゃダメよ」

「そうですか」

「でもきみはなんかいいなあ」

「はあ」

「いいよ、ギターも上手いし」

「どうも」

「ケイコが惚れるのも分かるような気がするなあ」

 そう言ってまたコーヒーをひと口飲むと、高杉は身を乗り出して急に真顔になった。

「オレさ、こう見えても人殺したこと結構あるんだよね」

 僕は一瞬凍りついて思わず煙草を取り落としそうになった。すると高杉はすぐまた元の顔に戻って、またくく、と笑った。

「あ、びびった。ごめん、ごめん」

「脅かさないでくださいよ」

 僕はなんとか引きつった笑いを浮かべた。しかし、先ほどの一瞬真顔になったときの眼光の鋭さは脳裏に焼き付いていた。

「それで、話は元に戻るけどさ、ホントに知らないの、ケイコの居場所」

「あの」

「なに?」

「ケイコってどういう字を書くんですか?」

 今度は高杉が呆気にとられたような顔できょとんとして、次に破顔一笑した。

「なんだ、そんなことも知らないのか。土ふたつの圭子だよ、藤圭子と同じ」

 僕は例えが古いなと思いながら頭の中で書いてみた。高橋圭子。ホントだ。ケイコの言う通り、よくある名前によくある苗字がくっついたという感じだ。

「あの」

「いちおうオレが訊いてるんだけどな、順番としては。ま、いいか。なに?」

「どうやって僕のことが分かったんですか?」

「これでもプロだからね。プロ」

 そう言ってまたくく、と笑った。

「リダイアルボタンてついてるだろ、電話に。あれだよ、あれ」

「ああ」

 ってことはケイコはやはり留守中に何度か僕のところに電話は入れていたのだ。

「悪いけどつけさせてもらってさ、あとはあのマンションにある事務所に片っ端から電話して」

「なるほど」

「こっちの質問に戻ってもいいかな?」

「ホントに知らないんです。マジで。もうひと月以上も連絡ないし。半分以上あきらめかけてたところで」

「どれぐらい付き合ってたの? 実際」

 これは誘導尋問かもしれないと思いながらも、いまさら隠し立てしてもどうにもならないような気もしてきていた。

「三回会っただけです。本当のところ」

「なあ」

「はい?」

「きみ、新聞取ってる?」

「いちおう。ただここんところ忙しかったんでろくに読んでませんけど。まあ、普段からスポーツ欄と番組欄ぐらいしか読まないけど」

「テレビぐらいは見るだろ?」

 僕はスタジオでの自分を思い出した。確かにテレビはあることはあるが、ほとんどの時間はファミコンの画面になっていた。

「信じられないかもしれないけど、このところはほとんど見てなかったですね」

「呆れたもんだなあ。それじゃあしょうがないか」

 そう言って高杉はショートホープをもう一本くわえた。

「殺されたんだよ」

「え?」

「ケイコの旦那」

 僕が心底驚いた顔をしているのを見て高杉は付け加えた。

「つまり、ケイコはもう未亡人だってこと」

 

8.

 

 僕はコーヒーが空になっていることに気付き、手元のコップの水をぐいと飲んだ。喉がからからに乾いていた。

 例によってアタマの中は混乱できるだけ混乱していた。カオス。さまざまな想像が駆け巡る。もしかしてケイコが殺したのだろうか? だとしたらなぜ? もし違うとしても高杉が登場してきているということはケイコが厄介事に巻き込まれていることは確実だ。それもかなりの。考えてみると高杉が最初に言ったように、それは僕自身がそれに巻き込まれつつあるということでもあるのだが、なぜかそれはどこかに行ってしまって、アタマの片隅ではこれで大手を振ってケイコと付き合えるかもしれない、などという能天気な考えも浮かんでいたことも確かだ。

 僕はまた眉間に皺を寄せて考え込んでいたらしい。押し黙ってしまった僕に、高杉はまた呆れたような表情で話しかけてきた。

「どうやらホントになにも知らないみたいだな」

 僕は確かにほとんどなにも知らないのかもしれない。僕の知っているケイコ。彼女の舌。彼女のかたちのいい乳房。彼女のうなじ。陰毛の下の性器。細くてしなやかな指。笑った顔。切なそうな顔。困った顔。僕より十センチほど背が低くて恐らく体重は十五キロは少ないであろうこと。二十五歳であること。小平に住んでいること。医者と結婚した看護婦であること。他にはなにを知っているだろう? 結局、僕が知っているケイコで確実なことは、僕がこの目で見て触ったものだけなのだ。

「あの」

 僕が口を開くと、二本目のショートホープを灰皿に押し付けていた高杉は目を上げた。

「教えてもらえませんか。ホントのこと」

「ホントのこと?」

「僕が知らないこと」

 

 高杉は眉をひそめて困ったような顔をして一瞬考え込んだが、ま、いいか、いいギター聞かせてもらったしなと話し始めた。

 高橋圭子の夫、武史は広域暴力団傘下の組の幹部だった。二年前、圭子が勤める病院に入院した際に圭子と知り合い、半年後に結婚した。とは言っても、どうやら噂ではさんざんつけまわした挙句無理矢理犯して殺すだなんだと脅して入籍させたらしい。ま、やくざなんてそんなもんよ、と高杉は付け加えた。組とは言っても構成員が十人いるかいないかの小さい組だし、武史もそれなりに見栄は張っているものの金回りはそんなによくなかったようだ。圭子には金を渡さず、ソープで働けだなんだと言っていたらしい。圭子はそれまでの総合病院から日勤だけの個人病院に移って看護婦は続けていたようだ。これはたぶん、夜武史が帰ってきたときにいないと暴力を振るわれるからじゃないかな、と高杉は説明した。ま、殴る蹴るは当たり前だからね、あいつら。圭子も何度か逃げ出そうとはしたらしいが、埼玉の実家を知られている手前、つねづね逃げたら親までただじゃ済まさんとか脅されていたらしい。去年は一度鬱病で精神科にもかかっていたようだ。ま、体のいい軟禁だよな。

 

 高杉はそこまで話すと、ウェイトレスを呼んでコーヒーのおかわりを二つ頼んだ。僕はひたすら煙草を灰にして聞いていた。半ば茫然としながら。あのホテルで、一度彼女は真実を語っていたのだ。旦那がやくざだと。しかし、淡々と高杉が話す凄惨な話と、僕が知っている明るくてクールなケイコと同じ人物の話だとは思えなかった。そもそも彼が真実を話しているという保証はどこにもないのだ。ただ僕は、真実というものはいつもそんな風に存在しているのだ、と思った。

 高杉はもうひとつショートホープに火を点け、話を再開した。僕は僕で、新たなマイルドセブンに火を点けた。そんなわけで僕らのテーブルは紫煙に包まれていたわけだ。

 

 それで、八月のアタマに、武史が自宅マンションの地下の駐車場で射殺された。まあ、チンケなやくざがひとり殺されたぐらい、ありふれた話だ。新聞の扱いもほんの数行。テレビのニュースでも似たようなものだ。気付かなくても無理はない。世間から見ればそんなものだ。警察にしてもハナから真剣に調べやしない。どうせつまらないメンツがらみの喧嘩沙汰か、いいとこ金銭トラブルってとこだろうってことで。よしんば抗争だとしてもそのうち向こうから犯人が名乗り出てくるわけだから。ところが奴らの世界では違うんだな。メンツぐらいしかないから。それはともかく、そんなわけで警察はハナから圭子は疑ってなかったようだ。第一発見者は圭子だよ。そもそもいつ帰ってくるか分からない、外泊も日常茶飯事の極道がたまたまひと晩帰ってこなかったとしても不思議でもなんでもないし、たまたま翌日の昼過ぎに下に降りた女房が死体を発見してもなんの不思議もないってわけだ。

 

「なあ」そこまで話して高杉はいきなり問いかけてきた。「オレってやっぱりしゃべり過ぎかなあ」

「そんなことはないと思うけど。って言うか、この場合はその方が助かるんですけど」

「ま、いいか。ここまでしゃべっちゃったら。きみがどうなるかはこの際置いといて」

 僕は一瞬ぎょっとしたが、相変わらずの調子で話は再開された。

 

 まあそんなわけで葬式やらなにやらも無事済んで、警察も金銭トラブルの線で捜査を続けた。なにしろ、この武史って奴は根っからの見栄っ張りで乱暴者と来てるから、だからそんな誘拐同然の結婚までしてるんだが、あちこちでトラブルの種は掃いて捨てるほどあったし、例えば麻雀ひとつとっても相当負けが込んでたらしい。ま、組にとってもある種厄介者だったわけで、犯人が捕まるのも時間の問題だろうと。ところが、だ。そうこうしてるうちに圭子が突然消えちまったってわけだ。えーと、あれはひと月ほど前か。どうもおかしい、こいつはなんか裏がある、警察が嗅ぎ付ける前に見つけろってんでオレにお鉢が回ってきたわけだ。

 ふうっと高杉は煙をひとつ大きく吐き出して、僕はコップの水を一息で飲み干した。

 それでオレがマンションの部屋に入ってみたんだが、家具やらなにやらはほとんどそのまま残ってた。圭子の着るものやなんかはあらかた残っていて、必要最低限だけ持ち出したって感じだ。ただ、通帳の類はもちろん、写真やらなにやら圭子に関するものは一切残ってなかった。メモひとつ。おまけによく見るとそこら中物色した跡があった。なにか探し物をしてたことは確かだな。そこで試しに電話のリダイアルボタンを押してみたら、きみんちに繋がったってわけだ。

 きみんち、というところで僕は思いきり眉間に皺を寄せていたらしい、慌てて高杉はフォローした。

「あ、番号メモったあと天気予報聞いといたから大丈夫、警察とかにはバレないよ、たぶん」

 あんた経由でやくざにバレる方がよほど始末が悪いだろうが、と思いながら僕は訊いた。

「それで、僕のことはその、組には知らせたんですか?」

 高杉はにやっと笑みを浮かべて答えた。

「まだだよ。オレが頼まれたのは圭子を見つけてくれってことだけだから」煙草を灰皿に押し付けながら付け加えた。「いまのところ」

 僕は内心ほっとしながらも、この高杉という男をつかみかねていた。果たしてどこまで信用していいものやら。彼の言を借りれば、「いまのところ」僕とケイコの行く末は彼に委ねられているってことは間違いなさそうだ。いずれにしてもごく常識的な一般人だとはとても思えないが、人がいい、という印象は拭えない。不思議なことに。おまけに厄介なことでもあるが。だいたい、人がよくて信用のできる悪人、なんてものは存在するのだろうか? 

 それでも僕は訊かざるを得なかった。

「ケイコを見つけたら、彼女はいったいどうなるんですか」

「さあな。言ったろ、オレの仕事は彼女を見つけるだけだって。ま、圭子が殺したと組が思ってることは確かだな。あいつらの考えることなんて分からんよ。たぶんコンクリートに詰めて東京湾に沈めるとかじゃないか」

 言ってから、僕が今度は本気で眉をひそめていることに気づいたらしい。実際、僕のはらわたは煮えくり返っていた。

「おいおい、そんな怖い顔しないでくれよ。例え話だよ、例え話」そう言ったあと高杉はちょっと目を泳がせて一瞬考えて続けた。「ただ、なんかそれだけじゃないもんが絡んでる気はするな」

「それだけって?」

「組のもんがかみさんに殺されたって、痴話喧嘩みたいなもんだろ? そいつは警察の領分だってことさ。組にはなんの得もない。わざわざオレなんかが出張る必要もないってことさ」

「どうしても見つけたら報告するんですか?」

 僕は知らぬ間ににらみつけていた。

「まあ、仕事だからな。プロだって言ったろ」

 そう言うと高杉は肩を大袈裟にすくめてみせた。

 会話は一瞬そこで途切れた。知らぬ間に僕は抜き出したマイルドセブンのフィルターでテーブルをこつこつと叩き続けていた。

 沈黙を先に破ったのは僕の方だった。

「高杉さん」

「ん?」

「いくらで雇われてるんですか?」

 高杉はびっくりした表情を見せた。

「オレは安くないぞ」

「いくらですか?」

「二百万」

「じゃあ三百万出します」

「なあ、言ったろ、オレはプロだって」

「そのわりには守秘義務とか守ってないような気もするけどな」

「お前、ヤなとこ突いてくるね」

 いつのまにか「きみ」が「お前」になっていたが、顔は笑っていた。

「五百万。でもあるのか、そんな金」

「作ります」

「どうやって」

 僕は必死で考えた。カードの類はもう限度額いっぱいに借りてしまってるし、銀行じゃ貸してくんないだろうな。田舎の両親にもそんな余裕があるとは思えないし、第一頼む理由が思い浮かばない。しかし、ケイコがみすみす殺されるのを我慢できるはずもない。

「とにかく作ります」

「無理すんなよ。それにオレも手ぶらってわけにはいかない」

「海外に逃げたって言うか、死んだことにすればいいじゃないですか」

「それでも証拠は必要だろ、この場合」

「それも作ります」

「無茶言うなよ」

 そう言って苦笑すると、高杉はまた新たなショートホープに火を点けた。

「とにかく」僕は食い下がった。「先に高杉さんが見つけたら、報告する前に僕に教えてもらえませんか」

「知らない方が寝覚めがいいんじゃねえか。言ったろ、人を簡単に信用するなって」

 高杉はひとつ大きく煙を吐き出すと、真顔になってしばらく考えてから口を開いた。

「分かった。その代わり、お前が先だったらオレに知らせてくれ。その後のことはそれからだ」

「分かりました」

 ここはこう答えるしかなかった。時計を見ると本番まであと二十分しかなかった。

 高杉は僕がもう行かなきゃと言うと、レシートを取ってレジへと向かった。僕がその後を憂鬱な顔でついていくと、振り返って言った。

「なあ」

「え?」

「お前、ちっともあきらめてないじゃん、ケイコのこと」

 そう言ってまた人懐っこい笑みを浮かべた。

 勘定は高杉が払った。店を出て僕がライブハウスに戻ろうとすると、背中越しに高杉の声が聞こえた。

「頑張れよ、ライブ」

 

9.

 

 翌日の日曜は雨だった。

 

 ライブはまずまずだった。直前に降ってわいたトラブルが、元々あがり症の僕の演奏にどれだけ影響をもたらすものやらと思ったが、やけくそ半分でかえって無心になれた。僕はアタマの周りを渦巻く高杉の意味深な笑いやら、ケイコの唇の端を伝わる唾液やら、地下の駐車場に横たわる死体やらを振り払うようにギターを弾いた。ただ周りから聞こえるバンドの音だけに身を委ねて。アタマの中を真っ白にして。最後の方の二曲は、たぶんそれまでの僕の演奏の中でも最高のものだったろう。素晴らしきかな、音楽。しかし、いくら上手く弾けたからといって、所詮僕はもうミュージシャンを目指していたころの僕ではないのだ。それに、音楽がこの厄介な状況をなんとかしてくれるとも思えなかった。

 

 昼過ぎに目を覚まし、肌寒さにもう秋なんだなと改めて思った。窓の外にしとしと降る雨がもたらす湿気は、僕の憂鬱にさらに重さを加えた。僕はひとつ身震いして起き上がると、コーヒーを淹れ、トーストが焼き上がるのを待った。

 遅い朝食とも昼食ともつかないトーストを食べ終え、コーヒーの入ったマグカップを手にベッドに腰を下ろすと、今後の対策を考えた。

 今後の対策?

 実際のところ、妙に現実味がなかった。コーヒーを飲みながら、昨日高杉が話したことを繰り返し考えた。しかし結局は振り出しに戻ってしまう。高杉の話は真実なのか? ケイコは本当にやくざに追われているのか? ケイコは本当に亭主を殺したのか? そしていずれは僕も組事務所に連れ込まれ、半殺しの目に会ったりするのだろうか?

 僕はいったいなにをすべきなのか?

 もう少し現実的に考える必要がある。五百万。もしくはケイコの出国した証拠か死亡証明書。

 いくら考えても、いまの僕にはそれだけの金を作ることは不可能だった。出国証明も死亡証明もどうしたら作れるか皆目見当がつかなかった。お手上げだ。

 少し冷静に考えてみよう。

 仮に五百万が作れたとして、それはどれだけ有効なのか。考えてみると、ただの人捜しに二百万というギャランティはいくらなんでも法外な気もする。それともやくざ周りでは当たり前の相場なのだろうか。いずれにしても高杉は大なり小なりふっかけていることは間違いないだろう。

 高杉?

 いったい彼はどの程度信用できるのだろう。仮に僕が彼に五百万払ったとしても、それでケイコが安全になったとどうして言い切れる? 僕の知らないところでひっそりと東京湾に沈められたとしてもなんの不思議もない。僕はコンクリートの四角い塊がゆっくりと暗い海の中を沈んでいくさまを想像して、それから大きく頭を左右に振ってその映像をアタマから追い払った。

 それに、高杉という男は、手詰まりになったら案外簡単に僕を組に差し出すかもしれない。東京湾にゆらゆらと沈むのがこの僕であってもなんの不思議でもない。

 結局は僕がケイコと会えない限り、なんの解決にもならないのだった。

 ケイコ。高橋圭子。三度会っただけの女。

 実際高杉の言った通り、僕はちっともあきらめていないのだった。一度は薄れかけたはずの現実感とはお構いなしに、彼女の存在は僕の中で大きくなる一方だった。ちょっと切ない目をして問いかける彼女の声が、繰り返しその表情とともに甦ってくる。

 わたしのこと好き? わたしのこと好き? ……

 いつのまにか彼女は僕のこれからのすべてだ、と思い始めていた。彼女が僕のこれからをすべて決めるのだ。

 現実にはもし高杉が信用できて、このままケイコからの連絡が途絶えて会うこともなければ、恐らく僕は平穏に、東京の片田舎のやくざとも胡散臭い探偵とも関わらずに、これまでどおりに過ごして行けたりもするのだろう。のんびりと朝起きて、それから会社に向かって、ショウコちゃんあたりと冗談を交わして、スタジオに入ればぼうっとゲームをしたり、時には集中してボーカルチャンネルを選んだり、そんなふうに日々を重ねて僕は年を取っていくのだろう。何事もなかったように。そんなことはまっぴらだ、と僕は思った。

 僕はケイコと出会ってしまったのだ。

 もう一度ケイコから連絡があって、そして彼女に会えたなら、僕は恐らくとんでもなく厄介で危険なものに巻き込まれてしまうのだろう。だが、知ったことか、と僕は思った。僕は彼女が好きなのだ。僕には、そして僕の人生には彼女が必要なのだ。彼女が僕に助けを求めるなら、僕が彼女を救うべきなのだ。そして、僕はそれを切に願った。

 もしかしたらこんな気持ちは、サザンの桑田が言うように、ただの一時の思い過ごしなのかもしれない。しかし、恋ってそんなもんだろ? 世の中の恋の九十五パーセントは思い過ごしだ、と僕は勝手に決めつけた。

 僕はたまらなくケイコに会いたかった。

 

10.

 

 僕は現実的なアクションを起こすことにした。

 

 翌日の月曜日、十一時に会社に電話すると有給休暇を五日取った。「どうしたんですか?」と受話器の向こうからショウコちゃんの驚いた声が聞こえたが、僕は構わずそういうことだからと言って電話を切った。これで動ける時間が一週間はできた。なにから取りかかるべきかは昨夜ひとしきり考えた。こうしている間にも高杉は僕より先にケイコを見つけてしまうかもしれない。なにしろ彼はプロなのだから。

 

 最初に図書館に向かった。外は昨日と打って変わって抜けるような青空だった。僕はそれを見上げながら、いまごろ秋山はユーゴに向かって飛んでいるころだろうかと思った。

 電車と地下鉄を乗り継いで図書館に着くと、僕は過去の新聞を閲覧した。高杉は八月のアタマと言っていたので、八月一日の新聞から順に社会面を見ていくことにした。

 三日の朝刊にそれはあった。社会面のほんの隅っこに。小平市で暴力団員射殺。写真もなにもない、ほんとに小さな記事だった。確かに高杉の言う通りだ。駐車場の車の中から射殺死体で発見。高橋武史(37)。僕は名前の上の住所だけをメモした。

 次は地図だ。まずは先ほどメモした住所周辺の地図をコピーして、住所のところに鉛筆で丸く印を付けた。それから僕はポケットから薬袋を取り出した。ケイコが持ってきた薬が入っていた袋のひとつだ。袋に書いてある病院の住所周辺の地図をコピーして、病院のある場所にやはり鉛筆で目印を付けた。

 

 僕は図書館を後にすると、まっすぐ小平に向かうつもりだった。新宿駅のホームで中央線を待っているあいだ、アタマの片隅になにかが引っ掛かっていることに気付いた。なんだろう? 「電車がきます」とプレートの文字がオレンジ色に点灯した。ほどなく、オレンジ色の車体がホームに滑り込んできた。目の前のドアが開く。なんだろう? 降りる客を待って中に入ると、ドアの脇にもたれて立った。発車のベルが鳴り、ドアが閉まる。なんだろう? 順を追って考えろ。今日見つけたこと。二日、駐車場の車の中から射殺死体で発見。そうか。電車がゆっくりと動き出す。八月一日だ。窓の景色に僕の顔が映る。八月一日。

 

 僕は中野で降りた。

 それから各停を待って高円寺で降りた。改札を抜けると、早足でアパートへと向かった。高円寺銀座のアーケードを抜けて、早稲田通りを渡って。こういうときは駅から徒歩二十分という距離が途方もなくもどかしい。歩きながらようやく思い至ったことを反芻する。

 あれは八月一日だった。ケイコと出会ったのは。

 早稲田通りを渡ってからが長い。まだ十分以上歩く。平日の昼下がりで人通りの少ない道を急いでいると、額にうっすらと汗が浮かぶ。僕はいつか丸めて捨てた紙を思い出していた。

 謎その3。

 なぜ彼女は僕に睡眠薬を飲ませたのか。

 恐らく彼女はなにかを隠したのだ。僕の部屋に。人に見つかっては困るものを。彼女を追い詰めるものを。

 いつのまにか僕は小走りになっていた。アパートに辿り着いたときは肩で息をしていた。僕はひとつ息を整えると、鍵を開けて中に入った。

 僕はコップに水道の水を満たして一息で飲み干すと、改めて自分の部屋を見渡した。

 半畳ばかりの玄関口を入ると六畳ほどのキッチン付きの部屋。その奥に四畳半の部屋とトイレと風呂場がある。縦に長い、いわゆる振り分けではない1DKだ。使いにくい作りでおまけにこれだけ駅から遠いので家賃も安いのだ。ついでを言えば窓は北側に当たる右側だけで日当たりもよくない。玄関のすぐ右隣に流し。部屋の左側には壁つきに横に長いオーディオラックを置いて、その上にスピーカーとレコードプレイヤー、それに十四インチのテレビが乗っている。部屋の真ん中に例の丸いコタツ兼用のテーブル。少しでも広く見せようと奥の四畳半との間を仕切るふすまははずしてある。奥の四畳半は左側が一間分の押し入れと天袋、窓側にはベッド。この部屋には壁際に背の高い本棚がひとつ。空いたスペースにはギターやキーボードなどの楽器類が立てかけてある。四畳半のさらに突き当たりにトイレと風呂場。

 さて。どこから見ていくべきか。ひとまず僕はコタツ兼用のテーブルに腰を下ろして、煙草に火を点けた。

 自分ならどこに隠すか。まずはそう簡単に見つからないところ。つまりは住人であるこの僕が滅多に見ないし、使わないところ。

 僕はこれまで読んだ推理小説をできるだけ思い出そうと努力した。しかし、それはあまりにも数が多くてとてもひとつのイメージは浮かび上がってこなかった。イメージ。僕は推理小説というヒントを早々にあきらめ、映画を思い浮かべることにした。彼女が隠したと思われるもの。油紙に包まれたずっしり重いもの。そうか。

 僕は煙草を灰皿で揉み消すと、まっすぐトイレに向かい、ドアを開けた。半畳ほどの狭いスペース。僕は間違いなくこの中にあると確信した。心拍数が上がる。腹を決めると、奥のタンクの蓋を開けた。

 だが、それは空っぽだった。白い陶器でできたタンクの中は、水が四分の三ほど溜まっている中に、水位を感知するプラスチックの丸い玉が浮かんでいるだけだった。

 振り出しだ。そもそも彼女が好んでスリラーやサスペンス映画を見ていたという保証はない。逆に考えれば、僕が一発で探し当てるほど単純な隠し場所とも言える。もし僕が警察だとしても、まず最初にここを探すだろう。

 彼女はそれを隠すのにどれだけの時間があったのだろう。第一、僕はあの日どれぐらい眠ってしまったのだろう。寝入りばなの記憶があまりにも曖昧だ。というよりほとんど記憶にない。彼女とホームで出会ったのが十一時近く。アパートに辿り着いたのは十一時過ぎだ。着くなり彼女は僕にキスをして、そのままベッドに入って。目が覚めたのは四時ちょっと前だ。とすると、少なくとも二時間、いや三時間はあったはずだ。それだけあればかなり余裕をもって隠す場所を探すことができたはずだ。

 しかし、いくら考えてもトイレのタンクの中以上の効果的な隠し場所は思いつかなかった。しょうがないので、ひとつずつ当たって行くしかなさそうだ。僕はとにかく自分が普段できるだけ近寄らない場所から探してみることにした。まずはありふれているが天袋。ここは滅多に使わないものを入れておく。いや、実は違うのだ。僕の場合、ここはわりとよく開ける場所なのだ。実は右側の天袋にはマスターベーション用の裏本やらエロ雑誌やら裏ビデオの類を入れてあるのだ。だから、三日にいっぺんぐらいはここは開けたりしていたのである。ひとり暮しなのにわざわざこんなところに隠しておくこともないような気もするが、田舎の両親がたまに泊まりに来たときに見つかったらとか、とにかく人間の心理なんてものはそんなものである。僕は隣の部屋から椅子を持ってきて乗ると、天袋を開けて調べた。ケイコは僕より十センチほど背が低いし、もしここを見たなら同じようにしたはずである。見たなら? ケイコが僕の秘蔵の品々を見つけて眉をしかめる図を想像して、僕は椅子の上でひとりで赤面した。とにかく、天袋にはなにも変わったものはなかった。

 次は押し入れだ。それにしても、僕という人間はどうしてこうも貧乏性なのだろう。捨てることが下手なのだ。天袋にしても押し入れにしても、引っ越して来てから一度も使ったことがなくて、これからも使わないであろうと思われるものが山のようにある。漫画の単行本をまとめて入れてあるダンボール箱などを引っくり返して調べていくうちに僕はもううんざりし始めていた。

 しかし、一度始めたものを投げ出してもしょうがない。次はベッドの下(ほこりだらけだった)、本棚、楽器のケースの中、隣の部屋に移ってオーディオラック、食器棚、流しの上下の棚の中、玄関口の下駄箱の中とその上に乗っている新聞ラックの中と、とにかく調べられるところは全部調べてみたが、それらしきものはなにも見つからなかった。

 僕は汗をびっしりとかいていた。アパートに着いたときのようにテーブルに腰掛けてマイルドセブンに火を点け、ふうっと大きく煙をひとつ吐き出した。

 おっともうひとつ忘れていた。風呂場のドアを開けて、洗濯機の周りやら、果ては風呂場のすのこまで持ち上げてみたが、結果は同じだった。ゼロ。

 元のテーブルに戻って、僕は茫然と煙草を喫った。ない。なにも。

 辺りを見渡すと、まるで空き巣にでも入られたように部屋中がとっちらかっていた。もうそろそろ暗くなり始めていた。僕は頭上に垂れ下がっている蛍光灯のひもを引いて明かりを点けた。そして溜息をひとつ吐いた。

 これをまた片付けたら夜だな。ほっといてこれから小平に行ってもロクに調べる時間がない。一日目がつぶれてしまった。気がつくと煙草をフィルター近くまで喫っていたので灰皿で消した。僕はいったいなにをやっているのだろう? そもそも探しているもの、油紙に包まれた拳銃が見つかったとして、それがなんになるのだろう? それでケイコが見つかるとでもいうのか? それでケイコが救われるとでもいうのだろうか?

 途方もない虚脱感が僕を襲った。同時にどっと疲れがでてきた。

 僕はようやく思い腰を上げて流しに向かうと、薬缶に水を入れて火にかけた。足元に転がっているミルを拾い上げ、コーヒーの豆を入れるとガリガリと挽いた。ガリガリ。そこで僕はようやく思い当たった。彼女はもう一度ここに来たではないか。薬を持って。なんでこんなことにいまごろ気がつくのだろう。あの日、僕は熱でそのまま朝まで寝てしまった。彼女は持ち帰ることが出来たのだ。もしそれがあったとしても。

 ふうと僕はまた溜息をひとつ吐いて、湯が沸くのを待った。

 

11.

 

 目覚ましの音で目が覚めた。時計を見ると八時だ。こんな時間に起きるのはホントに久しぶりだ、と思いながら目覚ましを止めると、ふっと一瞬意識が遠のいた。次に時計を見ると、なぜか九時半をまわっていた。やれやれ。なんてこった。

 結局昨日は一日無駄にしてしまった。いや、なにもないことを確認できただけでもよしとしなければならないのだろう。昨日徒労に終わった分は今日取り戻せばいい。無理矢理自分に言い聞かせると、僕は眠い目をこすりながら起きた。

 トーストとコーヒーだけの朝食を食べると、ジーンズとダンガリーのシャツをあわただしく着てそのまま出掛けようとしたが、ふと思い直してその上にスタッフジャンパーを羽織った。今日で九月も終わりだ。もう秋なのだ。

 下りの中央線は通勤と逆方向なので空いていた。国分寺で多摩湖線に乗りかえると、二つ目の青梅街道の駅で降りた。

 同じ東京でもどうしてこうのどかなのだろう。それはなにも平日の午前中だからというだけではなくて、小平というところはどこか地方都市然とした、都心のあわただしさとはかけ離れたところだった。第一、ここにはなにもない。青梅街道が一本通っているだけで、駅前には申し訳程度の店がいくつかあるだけである。ファミレスが一軒あるだけで喫茶店らしきものは見当たらず、ここに立って見渡す限り、街道沿いにぽつりぽつりと車のディーラーの看板が目につく程度である。歩道を歩く人影もほとんどない。まさに絵に描いたような郊外都市だ。

 

 市役所はすぐに見つかった。

 街道と交差する市役所入口と書いてある道も、緑ばかりが目につき、その中にぽつんとモダンな市役所がそびえている。道の両側には古い農家らしき大きな家と、最近建てられたらしいこじんまりとした建売の住宅とアパート、その合間にビニールハウスのある畑。それがどこまでも続いている感じだ。

 自動ドアを入り、僕はどこかやましさを覚えながら、それでも警察に突き出されるわけではないのだと自分に言い聞かせた。緊張して心臓の鼓動が少し早くなる。僕はまず入り口近くにある公衆電話に備え付けの電話帳を開いてみた。あった。高橋武史。図書館でメモした大まかな住所と照らし合わせる。同じことを確かめると、住所と電話番号を手帳に書き写した。それからテーブルに移動して、いくつかある申請書のなかのひとつを取ると、住民票の写しの申請書を書き始めた。手帳を取り出して、メモした住所をそのまま書く。書きながら、これでは足りないことに気付いた。僕が知っているのは番地までで、マンション名と部屋番号までは分からない。これで大丈夫だろうか。やっぱり高杉に電話して訊こうか。しかし、それもなぜか妙に気が重い。こちらの動きを知られるのも嫌だし。そう考えながらふと思った。もしかしたら高杉は昨日今日の僕の行動などすべて知っているのかもしれない。なにしろ僕はずっとつけられていたのだ。しかし、先週姿を現したのもいい加減尾行しても埒があかないからではないか。今になってもまだ僕をつけるしかネタがないとも思えないし、そこまで暇だとも思えないが、なにしろ相手は得体の知れない探偵だ。分かったもんじゃない。

 そこまで考えて、もうどうでもよくなった。当たって砕けろだ。もし駄目ならそのときは高杉に電話して訊けばいい。名前の欄に高橋圭子と書いて、代理人のところに自分の住所と名前を書いた。どうせ身分証を呈示しなければならないので、これはしょうがない。請求者との関係は友人と書いた。電話番号の欄には先ほど電話帳で調べた番号を書いて、自分の電話番号はそのまま書いた。申込書の余白に「プライバシーの侵害等につながる不当な請求には応じられません」と書いてある。それでもこれが全くの不当な請求であるとは言えないだろう。それに別になにかを偽っているわけでもない。いや、ほとんど偽ってない。とまあ、そんな感じに僕は自分を納得させた。自分だけ納得してもしょうがないのだが、この場合。

 名前を呼ばれるのを待っているあいだ、灰皿のそばの椅子に座ってひたすらマイルドセブンを喫ったが、心臓は早鐘のように打っていた。どうして僕はこう小心者なのだろう。これは遺伝なのだろうか。だとしたらどっちの遺伝なんだろう。

 なんてことを考えていると、「マカベさん」と呼ぶ声が聞こえて、僕は慌てて煙草を灰皿に放り込むと、窓口に向かった。

 「免許証かなんかありますか」

 僕は免許証を財布から取り出すと、窓口の女性に渡した。眼鏡をかけた女性はそれをあっという間に見比べると、いとも簡単に住民票の写しを差し出した。僕はまだどきどきしながら二百円ばかりを払うと、わざとゆっくりと窓口を離れた。そのまま出口から外に出ると、大きくひとつ息を吐き出した。ふーっ。なんか拍子抜けするほど簡単に手に入った。これでようやくマンション名と部屋番号が手に入った。くるみハイツ201号。くるみハイツ? どうもこれが極道の住むマンションの名前だとはぴんと来ない。

 まだ誰かから呼び止められるような錯覚を覚えて足早に市役所を後にして、とりあえずファミリーレストランに入った。

 一番奥の席についてコーヒーを頼むと、ようやく人心地ついた。やれやれ。この調子でいったい僕はケイコを救うことなど果たしてできるのだろうか。いやそれ以前に、ケイコを見つけることができるのだろうか。

 出された水をぐいっとひと口飲んで、煙草を喫いながら考えた。僕の手元に残されたケイコを手繰り寄せるものは、彼女の置いていった薬ぐらいしかない。情けないことに。ひとまずはそこから当たってみるしかない。こんなことでなにが分かるかなんてまったくアテにならないが、それでもなにもしないでじっと電話を待っているよりはマシだ。少なくとも親しかった友人ぐらいは見つけられるかもしれない。薬袋の病院は、名前からすると恐らくケイコがかつて勤めていた総合病院の方だろう。それだと高橋圭子ではたぶん通じない。途中で結婚して姓が変わったとしても、事情が事情だけに少なくともその病院ではケイコは旧姓で通しただろう。高杉が口にしたアオキケイコ。まずはそれで当たってみるべきだろう。駄目だったらタカハシで訊いてみればいい。やれやれ。こんなことでうまく行くのだろうか?

 

 ついでに昼食を食べてからファミリーレストランを出ると、線路沿いの道を歩いて病院へと向かった。

 相変わらず緑ばかりでなにもないように思える道沿いを十分ほど歩くと、左手に大きな病院の建物が目に飛び込んで来た。

 武蔵野西病院。

 僕は名前を確かめると、ひとつ深呼吸して中に入った。

 すでに外来の時間は終わったのか、中は閑散としていた。入り口を入ったところにある受付はとりあえず無視して進むと、待合室があった。三列ほどならんだベンチには、見舞い客らしい人たちが何組かと、パジャマを着た患者が数人、それぞれ談笑したり煙草を喫ったりしていた。カルテを持った看護婦がときおり病棟の方へと通り過ぎる。

 僕はとりあえず誰もいない一番後ろのベンチの隅っこに座った。大きな病院というのは子供のころの盲腸以来なのでどうにも落ち着かない。作戦を練ろうと思ったが、なにもいい考えが思いつかず、結局行き当たりばったり作戦で行くことにした。

 意を決して病棟の方に進むと、最初に目に付いたのは内科の受付だった。行き当たりばったり作戦決行である。ちょうど若い看護婦が受付にいたので思いきって声をかけた。

「あの」

「面会ですか?」

 ケイコと同い年ぐらいの、小泉今日子をちょっと呑気にした感じの看護婦は、ちょっと事務的な笑みを浮かべた。

「ええ、いやその、こちらに以前勤めていた青木圭子さんのことで」

 途端に看護婦の眉間に皺が寄って、不信をあらわにした。

「警察の方ですか?」

「いえ、なんと言ったらいいか、その、友人です」

 彼女の眉間の皺はますます数を増した。僕は慌てて付け加えた。

「探しているんです。その、連絡が取れなくなったので。なにかこちらで分からないものかと」

 自分で話しながら、どうしてこう馬鹿正直な言い方しか思いつかないのだろうと自分を呪った。こういう場合、高杉ならどう訊くのだろう? 高杉? そういえば、あんな新聞記事程度で殺されたのがケイコの亭主だとすぐ分かるはずがない。それともこんななにもない街では噂はあっという間に広がるのだろうか。試しにカマを掛けてみた。

「もしかして僕の前にも訊きに来ました? 誰か」

 看護婦は相変わらず気難しいキョンキョンみたいな顔で答えた。

「ええ、警察が。あなたもしかして探偵?」

「いえ、ホントにそんなんじゃなくて、怪しいものでもなくて。こう言ってもすぐには信じられないだろうけど」

 僕はどうしたらいいものか分からず、財布から名刺を一枚取り出して彼女に渡した。

「ディレクター」

 彼女は名刺の肩書きを声に出して読んだ。それからおもむろに名刺を裏返した。裏側には会社所属のアーティスト、つまり社長と副社長の名前が書いてある。途端に眉間の皺が消えて目が輝いた。

「ねえ、コンサートのチケットとか手に入るの?」

 気がつくとタメ口だ。まあ、最初からこちらが劣勢なわけだから。

「そりゃ入るけど」

「でも、本物だってどうして分かるの? 免許証とかある?」

「あるけど、名刺の番号に電話した方が早いんじゃないかな」

 そう言いながらも僕は免許証を彼女に見せた。彼女はそれを見ると、写真より実物の方がいいわね、と言いながら僕に返した。

「タダの招待券とかも手に入る?」

「そりゃ入るけど」

「ねえ、ディレクターってなにやるの?」

 その質問が一番困る。一番説明の難しいことなのだ。まさかスタジオでゴルフゲームをやること、とは言えないし。僕が考え込んでいると、向こうから助け船が来た。

「それで、なにを知りたいわけ?」

「ケイ……青木さんと一番仲がよかった人を教えて欲しいんだけど」

 小泉今日子はにこりと笑うと、自分を指差した。

「わたし」

 

 彼女はあと十五分で休憩だから、外のベンチで待っててと言った。

 僕は玄関を出て、芝生が広がっている庭のベンチに腰を下ろして、マイルドセブンを二本喫った。

 三本目の煙草に火を点けようとすると、玄関から彼女が走って出てきた。手にはサンドウィッチと缶コーヒーを持っていた。どうやら昼食らしい。彼女は隣に腰を下ろしながら言った。

「電話してみたわよ。今週一杯休んでますだって」

 一瞬、ケイコに電話したのかと思ったが、すぐに僕のことだと分かった。

「ごめんね、食べながらでいい?」

「いいよ」

 小泉今日子はよく見ると胸にネームプレートを付けていて、そこには「渡部」とあった。僕はそれを見ながら訊いてみた。

「ワタナベさん、って言うの?」

「ワタベ。よく間違えられるんだ。ワタベマチコ。ねえ、ケンジくんっていくつ?」

 いつのまにか僕はケンジくんになっていた。

「二十七。ねえ、人をそんなに簡単に信用しない方がいいと思うけど」

 これはちょっと高杉の受け売りだ。

「だって悪い人に見えないもの」

「それって誉められてるのかな」

「そのつもりだけど。ねえ、若く見えるわね。ケンジくんってもてるでしょ」

「自分ではわかんないよ」

「なんか母性本能くすぐるところがあるのよね」

 これも彼女いわく誉めているのだろうが、複雑な気持ちだ。なんか手玉に取られているような気もする。

「あ」

 サンドウィッチを食べ終えて缶コーヒーを飲んでいた彼女が突然僕のスタッフジャンパーを指差した。

「これちょうだい」

 僕は一瞬呆気に取られたが、しぶしぶ答えた。

「いいよ」

「やったー」

 やっぱり手玉に取られてる。ジャンパーを脱いで渡しながら、どうしてこういうことを断れない性格なのだろうと考えた。やっぱり遺伝なのだろうか。

「さっきの質問なんだけど」

「え?」

「誰か訊きに来なかったかって」

「ああ」

「来たわよ。警察のほかに。松田優作みたいなのが」

 少しはジャンパーの効果があったようだ。

「なにも知らないって言ったけどね、警察にもだけど」

 やはり高杉は来ていたのだ。所詮僕は彼の後をのろのろと追いかけているようなものなのだろうか。だとすると僕はまるで道化だ。

「わたしね、ケイコとは看護学校から一緒だったのよ」

 ワタベマチコはそういうと缶コーヒーをひと口飲んで、ちょっと遠い目をした。

「この病院でも一緒の寮だったんだ」

「そうなんだ」

「だからあのこともよく知ってる」

「あのこと?」

「ケイコから聞いたでしょ。災難よね、あんな奴の担当になったのが」

 ワタベマチコはいつのまにか真顔になっていた。

「ケイコのこと好きなんでしょ、ケンジくん」

 僕はちょっとうつむいて「うん」と答えた。ああ、これじゃまるで子供だ。

「たぶんケイコも好きだと思うよ、ケンジくんのこと」

「そうかな。じゃなんで連絡が来ないのかな」

「たぶん迷惑が掛かると思ってるのよ」

「そうかなあ」

「ねえ」

「ん?」

「きっと来るわよ、電話。そんな気がする」

 

12.

 

 僕は病院を後にすると、萩山の駅を右に折れて小平霊園の前を通り抜け、西武新宿線の小平駅の前に出た。どうやらこの界隈だけは駅前らしさを保っている。とは言っても西友があるぐらいで、駅前としては寂しい。それでも歩いている人は各段に増えた。ほとんどが見るからに主婦である。こういうところをベッドタウンと言うんだろうな、と僕は思った。

 地図を頼りにケイコの住んでいる、いや住んでいたマンションを目指した。歩きながら僕はなぜか確信した。この街にケイコはもういない。この街は静か過ぎる。

 

 通りの交差する角にその建物はあった。

 マンションとは言ってもこじんまりとした三階建てで、一階はスナックになっている。表通りに面した隣は雑居ビル、交差する道沿いの隣はこの街ではよく見かける昔ながらの農家らしい庭先の広い家である。スナックの右手に外階段があり、どうやらエレベーターはないようだ。その階段の下が土地の余っているこの界隈では珍しい、地下の駐車場の入り口になっている。

 一階のスナックは開くのは夜かららしく、今はまだ閉まっていた。「スナック くるみ」と書かれたガラスのドアを呆けたように五秒ほど見ていた僕は、それからおもむろに上を見上げてみた。ケイコの住んでいた部屋。半ば軟禁されていた部屋。彼女はここでどういう時間を過ごしていたのだろう。そして、ようやく悪夢から解放されたというのに、なぜいなくなってしまったのだろう。それともより深い悪夢に落ちただけなのか。そして彼女にとって僕はいったいなんなのだろう。

 右手の入り口を入ってみた。オートロックや管理人室なんてものはなく、ただ郵便受けが三つ並んでいるだけだった。201号なんて言うわりには、外見通り、各フロアに一世帯になっているようだ。ちなみに301号室は「久留見」となっていた。なるほど。不思議なことに201号の郵便受けは外から見る限り、新聞や郵便の類がはみ出していることもなく、空のように見えた。

 それから僕は地下の駐車場に降りてみた。駐車スペースは四台分あり、たぶん半分はスナックの客用のものなのだろう。薄暗い駐車場にはアコードと、その奥にクラウンが停めてあった。片方は三階の住人のものと思われる。問題の車は車種からいってクラウンの方だろうが、たぶん警察での鑑識を終えて綺麗に洗って戻されたものなのだろう、見たところは特に変わったところは見られなかった。コンクリートの壁にスイッチがあったので入れてみると、天井の蛍光灯がちかちかしながらついた。そこで僕ははじめてクラウンがフロントガラス以外の窓に全部スモークが張ってあることに気付いた。なるほど。頭から入れて駐車するようになっているので、これではドアさえ閉まっていればボンネット側から覗き込みでもしない限り中に死体があることなど気付かないだろう。僕は敢えてそれ以上近付かなかった。別に怖いからではない。ケイコを無理矢理犯して、脅し続けていた男。僕はそんな奴の残り香すら嗅ぎたくなかった。床に唾を吐きたくなるような嫌悪感だけを覚えた。僕は蛍光灯のスイッチを切ると、駐車場に背を向けた。

 僕は彼女が消えた理由が分かるような気がした。彼女はこんなところに一日たりともいたくなかったのだ。彼女が殺したにしろ、そうでなかったにしろ。そう考えると、亭主が死んでからまだしばらくここにとどまっていたことの方が不思議だ。厄介事はむしろそっちの方なのかもしれない、と僕は思った。

 

 僕は外階段を上って二階へと向かった。

 踊り場を過ぎて二階のフロアに出た正面にドアがあった。表札もなにもなかった。僕はドアの前の壁にもたれて、大きく溜息をひとつ吐いた。僕はいったいなにをしているのだろう? なんのためにここにいるのだろう? こんなところまで来て、なにがどうなるというのだろう? 

 そのとき、僕の耳になにかが届いた。人の話し声のような、音楽のような。僕は壁に耳をつけてみた。テレビの音のようだ。それは確かに聞こえる。ドアの向こうから。

 誰かいる。

 まさかケイコか。彼女はここに戻ってきたのか? それとも高杉の例の話はすべて嘘っぱちで、ケイコはずっと変わらずここにいたのだろうか。僕は彼のほら話に振りまわされて、こんな生まれて初めて訪れる街まで辿り着き、まるで蛾が街灯に誘い込まれるようにこのドアまで辿り着いてしまったのか。だったら高杉はなんでわざわざそんなことをする。ワタベマチコの話は? あの新聞記事は? 地下にあったスモークガラスのクラウンは?僕は現実感を見失いそうになった。どれが本当でどれが嘘なのか、なにもかも区別がつかないような感じに襲われて、眩暈を起こしそうだった。僕は頭を振ってそれを追い払おうとした。

 アドレナリンが全身を駆け巡るのを感じる。高杉の話を信じれば、中にいるのはケイコではなく、僕にとって厄介事以外のなにものでもない。もし中にいるのがケイコであるとしたら、そして彼女にとって僕はただの通り過ぎた男に過ぎないとしたら。僕の覚えているケイコがすべて僕の思い過ごしが作り上げたものだとしたら。いずれにしてもこのドアの向こうにあるのは僕にとって災厄だ。やめておけ。僕のアタマのどこかから声が聞こえる。わたしのこと好き? 僕は軽い眩暈を覚える。やめておけ。まるでスピルバーグの「ポルターガイスト」のドアを開けるようなものだ。もしくはパンドラの函だ。やめておけ。

 だが僕は万が一にもケイコがいるのかもしれないという誘惑に勝てなかった。僕は気がつくとドアの脇のチャイムを押していた。チャイムを押す自分の指先が、僕にはスローモーションでも見ているようにとてつもなくゆっくりと見えた。そして次に響いたチャイムのピンポーンという呑気な音は、僕の中に薄ら寒さを覚えるほど大きく聞こえた。その瞬間、僕は酷く後悔した。しかし、もう遅かった。

 誰かがドアに近付く気配がして、がちゃりとドアノブが回った。その間、僕はドアの前に凍りついたように立ち尽くしていた。ドアが開いた。

 

 半分開いたドアから顔を覗かせたのは、二十歳そこそこの若い男だった。金髪に染めたパンチパーマ、もはや季節はずれの派手なアロハシャツ。やせぎすでこけた顔。ドアノブを持つ左手の小指のあたりに包帯。男はひとことも発せずにどんよりとした三白眼で口を半分開けて僕を見つめるだけだった。僕は思わず「あ」と小さく声をあげ、そのままのかたちで固まってしまった。部屋の奥からはドラマの再放送らしいテレビの音が聞こえてくる。数秒の奇妙な沈黙が続き、僕にはそれがやけに長く感じられた。

 ようやく男は声を発した。妙に甲高い声だった。

「おたく、誰?」

 僕は目の前の貧弱な男を、これで下がニッカボッカでも穿いてたらまるで田舎の暴走族だな、などとぼうっと考えながら、なんと答えたものかわからず黙っていた。特に恐怖は感じなかった。それよりも困ったな、という感じだ。

 と、部屋の奥からやけにかすれたダミ声が聞こえた。

「女か? テル」

 テルと呼ばれた若い男は、振り向いて例の甲高い声で奥に向かって答えた。

「違います。男っす」

 ことここに至って、ようやく僕はマズいなと気付き、じわっと得体のしれない恐怖が湧きあがってきた。それでも僕はまるでエアポケットに入ったように身動きができないでいた。

「せっかくだから上がってもらえや」

 先ほどのだみ声がまた聞こえた。金髪の肩越しに玄関の奥に目をやると、いつのまにか突き当たりにやけに太ったスキンヘッドの男が立っていた。男の上半身は半袖の下着一枚で、下はやはりステテコ一枚だった。袖から出た二の腕にはまだ色を入れていない刺青が見えた。

 これはホントにマズいぞ。逃げるか。

 しかし、足は動かなかった。僕はなにかうまいこと言ってこの場を切り抜けなければ、と必死でアタマを絞ろうとした。だが、うまいことを考えつく前に金髪がドアを全開にして言った。

「入れ」

 ようやく僕は声を出したが、それは酷く間抜けなものとなった。

「あ、なんか間違えちゃったみたいで。結構です」

「いいから入れ」

 金髪の甲高い声は気味は悪いがそれほど威圧感があるわけでもない。それよりも奥にぬぼうっと突っ立っているデブが、秋の夕下がりに下着一枚でうっすらと汗をかいている方がよほど威圧感があった。

 逃げろ。とにかく走って逃げろ。

 アタマの片方は大声で叫んでいるのだが、意に反して、僕は「お邪魔します」と言っていた。まったく、僕という男は、どうしてこう小心者なのだろう?

 

 趣味の悪い部屋だった。

 玄関を入ってすぐの十畳ほどの部屋はリヴィングのようだ。部屋の真ん中にガラスのテーブルを囲むように革の応接セットがあった。もっとも本物の革かどうかは分からないが。ソファの上には、なんだかよくわからない動物の毛皮がかけてあった。

「まあ座れよ」

 デブが上座の方にどっかと座りながら言った。僕はこういうのを飛んで火に入る夏の虫って言うんだろうなと思いながら、向かい側のソファに腰を埋めた。デブはその体格と不精髭から老けて見えたが、近くでよく見るとどうやら僕とたいして変わらない年か、もしかしたら若いぐらいだと分かった。それにしても太ってるな、こいつは。僕は改めて太ってる奴は結構怖い、と思った。いまさらではあるが。ただでさえ暑苦しい顔のあちこちに傷がある。それにこいつも左手の小指に包帯をしている。どうせその先っちょはついていないのだろう。いずれにしてもやくざをこれだけ間近に見るのは初めてだ。

 金髪は玄関側の戸口にもたれて立っている。もしかして簡単に逃げられないようにか。やれやれ。

 デブはそれっきり口を閉ざしたので、僕には余計なことを考える時間と、観察する時間ができた。

 部屋の片側にはサイドボードがあって、金ぴかに光る扇子やら、熊の彫り物やら、七福神の乗った宝船とかの趣味の悪い置物が、ブランデーやらの酒類と居場所を争っていた。おまけに壁には鹿の首と、般若の面まで飾ってある。ついでに部屋の片隅にはゴルフセットと金属バットまで立てかけてあった。どうやらこの部屋の元住人は特別に趣味が悪かったらしい。こんなところにケイコがいたと考えると、僕は胸糞が悪くなった。恐怖と同じぐらいのスピードで、むくむくと腹の底から怒りが湧いてきた。

 デブはテーブルの真ん中にあるクリスタルガラスの灰皿にてんこ盛りになった吸殻の中から長そうなやつを選ぶと、同じく卓上にあった据え置き型のライターで火を点けた。いまどきこんなダサいものを使ってる奴がいるとは。

 デブはふーっと煙を吐き出すと、ただでさえ細い目を余計に細くして、僕をにらみつけながら言った。

「それで?」

 それで。僕はデブのほとんど毛のない眉毛のあたりをぼうっとみながら、なんと答えるのが正解か考えた。とにかく、考え過ぎるのが僕の欠点だ。そんなわけで沈黙の妙な間がしばらく続いた。部屋の隅にある馬鹿でかいテレビだけが、別れ話をセンチメンタルな音楽をバックに語っていた。

 なにか答えなければ。

 僕のもうひとつの欠点は、こういう場合でも余計なことを考えることだ。僕はなんでこんなところにいるんだろう? なんでわざわざチャイムなんか鳴らしてしまったのだろう? 

 気がつくと僕はダンガリーの胸ポケットから煙草を取り出して、ジッポで火を点けて喫っていた。デブが顔をしかめた。

 そうか、それで、だっけ。

「だから間違えちゃったんですよ」

 とりあえず玄関口と同じ言い訳をしてみたが、それがリアリティを持つには、自分で考えても間が長過ぎたようだ。

「そんなこと訊いてんじゃねえよ。お前、あの女のなんなんだ?」

 デブはフィルターまで喫った煙草をてんこ盛りの灰皿にぐいと押し付けると言った。禿頭の脇をつーっと汗が一筋流れるのが見えた。いつのまにか僕も脇の下に汗をじっとりとかいていた。

「女?」

 ここはとにかく、徹底的にとぼけることにした。

「だから間違い…」

 いきなり後頭部に衝撃が来た。僕はその勢いでテーブルに顔を打ちつけ、てんこ盛りのクリスタルガラスの灰皿が飛び散った。一瞬、目の前が真っ暗になった。

 う、と声を上げながらようやく顔を上げると、自分の鼻からつーっと血が流れるのが分かった。いつのまにか金髪が僕のうしろにまわって、なにかで殴りつけたらしい。

「なんのことだか」

 僕はもう一度言い訳を試みたが、全部言い終わらないうちに今度はデブが足の裏で額を思いきり蹴り飛ばした。

 今度は座っていたソファごと僕はうしろにひっくり返った。そこを金髪が脇腹に蹴りを入れてきた。二度、三度、四度。僕は途中で数えるのを止めた。ごほっごほっという自分の声がアタマに響く。

 僕は息ができなくなって身を丸くした。テレビでは中井貴一がなにか叫んでいた。

「あ、ここいいとこなんすよね」

 苦痛に身を捩る僕の耳に金髪の例の甲高い声が聞こえてきた。

「こいつ振られちゃうのか?」

 デブのしゃがれ声まで聞こえてくる。僕は耳鳴りで頭ががんがんしていた。鼻血は相変わらず止まらず、目尻のふちから涙が伝わるのが分かる。くそ、いつか殺してやるぞ、こいつら。ぼんやりとアタマの片隅で毒づいた。

「なんだよ、これで続くかよ」

 サザンのテーマソングにデブの声が被ってきたところで、僕は意識を失った。

 

13.

 

 夢を見ていた。

 ケイコがケイト・ブッシュの声で唄っていた。僕はギターではなく、上手く弾けない方のピアノを弾いていた。弾きながらあたりを見渡すと、そこは夜の高円寺のホームだった。快速列車が僕らの脇を凄まじいスピードで通り抜けて行く。しかし、列車の轟音は聞こえず、僕の下手糞なピアノに乗せて唄うケイコの声だけが美しく響いた。僕はとても幸せな気持ちになってケイコに向かって微笑んだ。ケイコも唄いながら僕に微笑み返した。唄が終わると拍手が聞こえたので振り返ると、ワタベマチコと高杉がにこやかに笑いながら拍手をしていた。僕は照れながらケイコの方を見ると、彼女は涙を流していた。とても悲しそうな顔をしていた。なんだか僕も凄く悲しくなった。いつのまにか僕も一緒になって泣いていた。拍手はいつまでも鳴り止まなかった。

 

「おい」

 どこかから声が聞こえて僕は目を覚ました。アタマががんがんする。前にもこんなことがあった。あのときは目を開けるとそこにケイコが微笑んでいたのだった。

 目を開けると目の前一杯にデブの顔があった。気がつくと僕は髪をつかまれて頭を持ち上げられていた。

「お前、ホントにケイコのこと知らないのか?」

 ああ、ホントに耳障りな声だ。おまけにこいつの口は臭い。吐きそうだ。

「知らない」

 僕はなんとか答えた。その瞬間、デブは僕の後頭部を床に叩きつけた。僕はうっと声を上げてのけぞった。デブの吐いた唾が顔のすぐ脇に飛んできた。

「けっ、しょうがねえな。嘘だったら殺すぞ」

 オレは必ずお前を殺す、と僕は心の中で叫んだ。ケイト・ブッシュの声はいつのまにかかき消され、どす黒い怒りだけが僕の中を渦巻いていた。もはや恐怖はどこかに行ってしまっていた。頭と腹のあたりがずきずきと痛む。

「おい、目開けろ」

 またしゃがれ声が唾とともに飛んできて、僕は目を開けざるを得なかった。見ると、デブが頭上で僕の免許証を左手にもってぶらぶらと振っていた。

「こいつ預かっておくからよ。警察に垂れ込んだりしたら必ず殺す」

 そう言うと、デブは僕の襟首を掴んで玄関の方に引きずって行った。そしてそのまま僕は玄関の外に放り出された。金髪がへへへと気色の悪い笑い声を上げながら僕の鞄を放り出した。目の前にかがみ込んだデブがまた臭い息を吐きかけた。

「今週中に二十万持って来い。テーブル代。そしたら免許証返してやる」

 そう言うとぺっと唾を吐いた。今度は顔の真ん中に命中した。僕は痛みと屈辱で思わず目を閉じた。バタンというドアの閉まる音が聞こえて、ようやく静けさが戻ってきた。

 

 僕は顔をぬぐうと、階段の手すりにつかまりながらなんとか身を起こした。無造作に転がっている鞄を拾い上げてジーンズに叩きつけてほこりを落とすと、手すりを頼りによたよたと這うように階段を降りた。途中の踊り場で尻餅をついて、そのまま座り込んでしまいたいところをなんとかこらえて再び起き上がると、何度も転びそうになりながら一階まで辿り着いた。

 いつのまにかあたりはすっかり暗くなっていた。今は何時ごろなんだろう? 腕時計を見ると、もう九時をまわっていた。時計のガラスにはひびが入っていた。くそ、お気に入りだったのに。

 僕は壁伝いに郵便受けのところまで辿り着くと、そこで腰を下ろして一休みすることにした。壁にもたれた頭を通りに向けると、ときおり車が通り過ぎる程度で、人通りはなかった。誰にも見つかりたくなかった。こんなところを警察に通報されても、事態がよくなるとは思えなかった。むしろ悪くなるだけだ。厄介事が長引くだけだ。ずきずきするアタマでそう考える一方で、一刻も早くここを立ち去りたいという恐怖から来る思いもあった。恐怖。いまはそれどころじゃないな、と僕は苦笑して煙草を喫おうと胸ポケットに手を入れたが、当然のように煙草もジッポもそこにはなかった。はっと気付いてジーンズの尻ポケットを探ると、不思議なことに財布はそのままだった。しかし、中を見ると、当然のように金は全部抜き取られていた。やれやれ。どうやって帰ればいいんだ。壁越しにもう営業しているらしいスナックのカラオケの音が聞こえる。誰かが下手糞な「北国の春」を唄っている。くそ、ふるさとになど帰ってたまるものか、このままで。

 

 鞄を開けてみると、幸い手帳はそのままだった。あいつらがぼんくらでよかった。どうせ見られたところでケイコの連絡先などどこにもないのだ。表紙の裏に確かテレフォンカードがあったはずだ。あった。菊地桃子のテレフォンカード。度数もまだ残っている。僕は誰にかけようか考えた。ここから一番近いのはワタベマチコだ。帰り際に訊いた電話番号はメモしてある。それに今は寮を出てひとりでアパート暮らしだと言っていた。看護婦だから手当てもしてくれるだろう。驚くだろうな。ふとそこで僕は気付いた。ワタベをワタナベと読んだら、ワタナベマチコになってしまうではないか。僕はひとりでくくっと声を上げて笑った。笑うと頭の奥と脇腹が痛んだ。

 ひとしきり笑い終わると、僕は少しだけ冷静になった。これ以上このごたごたに人を巻き込んでは駄目だ。それはことを複雑にするだけだ。そう考えると、電話できるところは一ヶ所しかなかった。

 

 通りをワンブロックも歩かないうちに電話ボックスを見つけた。

 中に入ると、ボックスの壁に映る自分の顔を眺めた。あれだけ痛めつけられたにも関わらず、外見からは目の下と唇の端がちょっと切れていて、あとは前髪を上げると額が少し切れてたんこぶができているだけだった。苦々しさと同時に、うまいことやるもんだなと妙に感心を覚えた。

 手帳のポケットに入れてあった高杉の名刺を見ると、事務所の電話番号のほかに自動車電話の番号も書いてあった。どちらか迷ったが、ひとまず事務所の方からかけてみることにした。菊地桃子を電話に差しこむと、25という赤い数字が点いた。

 呼び出し音が三度鳴ったところで受話器が上がり、聞き覚えのある声が聞こえた。

「はいー、高杉探偵事務所ですぅ」

 やれやれ。これでなんとか帰れそうだ。

 

 高杉は二十分ほどで現れた。

 その間、僕は電話ボックスの真後ろにある駐車場の壁に寄りかかるように座って待った。無性に煙草が喫いたかった。僕は夜気の寒さにひとつ身震いして、ワタベマチコにスタッフジャンパーをあげてしまったことを思い出した。まったく、今日みたいな行動をする日はロゴ入りのスタッフジャンパーなんて目立つものを着てくるのが間違いだ。素人にしても基本がなってない。

 などと反省していると、ちょうど電話ボックスの前に白いブルーバードが停まった。助手席側のウィンドウが開くと、サングラスをした高杉が運転席で片手を上げていた。僕はよたよたと立ちあがると、ガードレールをまたいで助手席に乗り込んだ。

「意外と地味な車に乗ってますね」

「あのな、探偵がフェラーリとか乗ってちゃ目立って仕事になんないだろ」

 もっともである。高杉は車をスタートさせると、正面を見ながらつぶやいた。

「しかし、呆れたもんだ」

「すみません」

「無茶しちゃ駄目よ、素人は」

「あの」

「なに?」

「煙草一本もらえますか?」

 高杉がくれたショートホープに火を点けて吸い込むと、くらくらと眩暈がした。高杉には電話で今日起こったことを粗方話していた。一応念のためにワタベマチコのくだりはぼかしてあった。青梅街道に入ると、高杉が訊いてきた。

「それでなんか分かったのか?」

「なにも。免許証取られただけです」

「セコいカツアゲやるなあ、ちんぴらが。それでどうすんだ、二十万払うのか?」

「殺します」

 高杉は一瞬こちらを向いて、サングラスの上から覗く眉毛が上がった。

「マジか?」

「マジです」

「言うことが大袈裟っていうか、ポップだね、きみも」

 どうやら今日は「きみ」らしい。

「オレが殺してやろうか。二百万でどうだ」

「ずいぶん安いですね、前と比べると」

「ゴミは安いんだよ」

 

 途中で高杉がラジオのスイッチを入れると、ジミー・クリフの「メニー・リバーズ・トゥ・クロス」が流れてきた。高杉はオレこれ聴くと泣けるんだよね、と言った。僕も大好きなんです、と言って二人でラジオに合わせて唄った。なぜだか知らないが、僕は途中から不覚にもちょっと涙が出てしまった。

 

 早稲田通りを左折して、高杉は迷わず僕のアパートの前までつけた。高杉はアパートの中までついてきた。部屋の電気を点けると、散らかりっぱなしの中を見て、高杉が訊いた。

「自分でやったのか?」

「そう」

「それでなんか見つかったか?」

「なにも」

「ホントか?」

「一応助けてもらったから嘘はつかないですよ」

「ま、いいか。トイレのタンクの中は見たか?」

「真っ先に」

「意外といいセンいってるじゃないの」

「コーヒーでも飲みますか?」

「いや、それより電話貸してくれ」

 高杉が電話をかけているあいだ、僕はコップに水を満たしてひと息に飲み干した。実際、死ぬほど喉が乾いていた。高杉はなにもしゃべらないで電話を切った。どうやら留守電でも聞いていたらしい。高杉は腰を上げると、じゃ、オレ帰るわと言った。僕は忘れないうちに声をかけた。

「あの」

「なんだ?」

「千円貸してもらえませんか?」

 

 高杉はとにかくなにか分かったら教えろよ、と言い残して帰った。僕は一度外に出て、高杉に借りた千円でマイルドセブンをひと箱買った。がたんと自動販売機から煙草が落ちてくる音を聞きながら、やっぱり案外いい人なのかなあなどとぼんやり考えた。

 部屋に戻って気が抜けると、また頭やら脇腹やらがずきずきと痛みだした。それと同時に怒りやら屈辱やら恐怖やらがふつふつと甦ってきた。僕はところどころに血のついた着ていたものを全部脱ぎ捨て、風呂場に入って風呂釜に点火すると、熱いシャワーを頭から浴びた。ひとまず嫌なことは流してしまおうと。

 ようやくからだが温まると、僕はベッドに倒れ込んだ。そして泥のように眠った。

 

 こうして僕の長い有給休暇二日目はようやく終わった。九月とともに。