ホリデイズ  (下)

 

 

 

 

14.

 

 電話が鳴っていた。

 僕はまた夢でも見ているのかと一瞬思ったが、実際はまったく夢を見ることなしに、時間はきれいにワープしていた。電話はまだ隣の部屋で鳴りつづけている。目を開けてみると、左側の視界が狭い。触ってみると、目の下が腫れ上がっていて激痛が走った。僕は痛て、と声に出しながらからだを起こそうとしたが、全身が鉛のように重かった。おまけにからだのそこら中が痛かった。

 僕が十六トンぐらいのからだと格闘しているあいだに電話は留守電に切り替わり、ピーという発信音の後に女の声が続いた。

――えー、ショウコですけど、黒田さんが至急会社まで連絡してください、とのことです。よろしくお願いしまーす。

 ツー、ツー。

 まだ一応会社には見捨てられてはいないようだ。黒田というのは、僕の会社での上司で、権利関係とか、契約に関することとか、タイアップのような外部との折衝とか、要するに全体的に派生するややこしいことを一手に引き受けている。面接で僕を気に入ってくれたという恩義はあるのだが、せっかちで気が短いのが難点である。

 僕はうめきながら、ようやくのことでからだを起こすと、洗面所までよたよたと歩いて行って顔を洗った。顔のあちこちがひりひりする。鏡を見ると、昨夜電話ボックスに映った顔よりも、そこここが腫れ上がって酷い顔になっていた。

 部屋の中がやけに暗いことに気付いて時計を見ると、六時をまわっていた。六時? 朝の? いや、それなら会社から電話がかかってくるはずがない。もう夕方なのだ。僕はかれこれ二十時間近くも眠っていたことになる。やれやれ。

 部屋の電気を点けて、僕は湯を沸かしてコーヒーを淹れると、それをすすりながら会社に電話を入れた。

「はい、銀音社です」

 ショウコちゃんだった。ギンオンシャというのが、僕の会社の名前だ。

「もしもし、マカベだけど」

「マカベさーん? いたんですかー」

「黒田さんいる?」

「ちょっと待ってください。怒ってますよー」

 電話は保留のメロディーに変わった。

 本来なら、アタマから湯気を出している黒田を想像して胃が痛くなるところだが、今はそれどころではない。昨夜ボコボコに蹴られたので本当に腹が痛いのだ。僕はコーヒーをもうひと口飲んで、それからマイルドセブンに火を点けて待った。深く吸い込むとうまかった。本当にうまかったが、くらくらした。

 「エリーゼのために」がスリーコーラス目に入ろうとしたときに、受話器から黒田の早口で馬鹿でかい声が聞こえてきた。

「お前なにやってんだよ。急に一週間も休み取って」

 もうほとんど怒鳴り声である。僕はうんざりしながら答えた。

「ちょっと怪我しちゃって。かなり」

 言いながら日本語としてはちょっとおかしいかなと思ったが、まんざら間違っているわけでもない。それに、この状況もまんざら嘘でもない。

「怪我? しょうがねえなあ。まあいいや、お前、CMプレゼン用のDAT、どこ置いた?」

「えーと、机の一番下の引き出しに、黄色い封筒があるんで、そん中です」

「月曜からちゃんと出ろよ」

 そう言うなり電話は切れた。僕は煙草の煙と溜息の両方を同時に吐き出した。向こうでは違う現実も同時に進行しているのだ。

 違う現実? いつのまにか、僕にはこっちの方がすっかり本当の現実になっていた。胡散臭い探偵やら、キョンキョンみたいな看護婦やら、禿でデブのやくざやら、金髪で貧相なちんぴらやらがうろうろする方が。その中にケイコがまだ実体としていないことを思い、寂しさがこみ上げてきた。

 そういえば今日から十月だ。十月一日。ケイコと出会ってからちょうど二ヶ月。

 

 煙草を灰皿で揉み消すと、猛烈に腹が減ってきた。当然だ。昨日の昼にファミレスで食べて以来、なにも食べていないのだ。

 冷蔵庫を開けてみると、ケイコの置いていったお粥の缶詰がまだ二つ残っていた。鍋に二つとも開けて火にかけて暖めて食べた。おかずもなにもなしだが、空きっ腹にはおいしかった。これでもうケイコの置いていったものは、薬だけだ。

 僕はその薬の入った箱を引っ張り出すと、傷薬を選び出して傷の目立つところに塗った。腫れ上がってたんこぶになった後頭部とか、打撲で青痣になっている脇腹のあたりとかはどうしたらいいか分からなかった。湿布薬とかかれた大きめの袋も入っていたが、冷やすためのものなのか暖めるためのものなのかもよく分からないので、この場合使っていいものか分からない。しょうがないから他は放っておいた。だいたい、痛むといえばからだじゅうが痛むので切りがない。

 なんとなくテレビを付けると、日本初の女性党首とやらが気炎を発していた。

 僕はニュースをぼんやりと見ながら、昨日のことを考えた。ワタベマチコに会えたところまではツイていた。今のところはそれがどう繋がるかは分からないが、とにかく一発で彼女に会えたのはラッキーだった。彼女はまだなにか隠しているのだろうか? まだ僕の知らないことを。知らないこと? 僕はいったい何を知っているというのだ。結局、高杉の言ったことにしろ、どれが本当でどれが嘘なのかもいまだに区別がつかない。以前より前進したことといえば、彼女が確かにやくざと結婚していたということ、そのやくざが確かに誰かに射殺されたということ、彼女の住んでいたところが分かったこと、彼女の旧姓が分かったこと、ワタベマチコが看護学校からの友達で寮でも一緒だったこと。確実なのはこれぐらいだ。待てよ、ワタベマチコの言ったことは聞いただけで裏付けがあるわけではないので確実とは言えないか。やっぱりワタベマチコに電話してみようか? しかし、この時間は家にいるのかどうかも分からない。どういうシフトで仕事しているのかも知らないし、仕事中だったらやはり迷惑がられるだろう。これはひとまず後回しにしておこう。

 問題はその後だ。あいつら。くそ。結局ワタベマチコのところでツイていた分をお返ししたということか。それにしても自分があれだけの殺意を覚えるとは思わなかった。あの殺意は本物だった。本当にあいつらを殺したいと思った。僕は自分の殺意を思い出してちょっと怖くなった。人間は誰でも人を殺せるのだ。そう思うと身震いをひとつした。

 取られた免許証はどうしよう? 二十万? くそ、いまどきの中学生の恐喝じゃあるまいし。しかし、たった今の僕の所持金は千円にも満たない。明日の朝銀行に行かなければ。だいたい、僕はあそこでどれぐらい気絶していたのだろう? あいつらには十分僕の所持品を探る時間があったはずだ。そう考えているうちにふと気付いて慌てて隣の部屋に脱ぎ捨てたジーンズのポケットに入っている財布を取りに行った。中を見ると、銀行のキャッシュカードも、郵便貯金のキャッシュカードも両方無事だった。僕はほっとすると同時に、そういえば昨夜も確かめたことを思い出し、なにやってんだろうと思った。ともあれ、これで明日からまったく動けなくなるということはなさそうだ。やれやれ。

 僕はほっと安堵の息を洩らすと、煙草を一本喫った。煙が立ち昇るのをぼうっと見ながら、まだなにか引っ掛かっていることに気付いた。昨日のこと。なんだろう? 昨日見つけたもの? 昨日手に入ったもの…

 しまった、と僕は思わず声を出して、鞄の中を探った。

 あった。

 僕は冷や汗を流しそうだった。ケイコの住民票。こいつが見つかっていたら今ごろはまだあの趣味の悪い部屋の中でうなりながら転がっているか、少なくとも顔は今の倍以上に膨れ上がっていただろう。免許証どころか、それこそ殺すか殺されるかというところまでつきまとわれるだろう。あいつらがぼんくらで本当に助かった。僕はもう一度安堵の溜息を洩らした。この際、免許証など別に諦めてもいい。なくしたと言って再発行してもらうこともできる。問題はあいつらがどこまで僕にこだわるかということだ。こだわる、というところで、僕は「今週中」「殺す」というデブのしゃがれ声を思い出し、ぞっとした。ほっとしてる場合じゃないな。一度二十万でも渡したら、いつまでもつきまとわれるかもしれない。なんせやくざのしつこさというのは折り紙付きだ。僕は心底うんざりした。これはなんか対策を考えなければいけないな。いずれにしてもまだ明日明後日と残っている。最悪、高杉にでも相談するしかなさそうだ。それにしても、もし僕が二百万用意したら、高杉は本当にあいつらを殺すのだろうか? 

 もうひとつ引っ掛かっていることがある。こだわるといえば、あいつらはなんでケイコにあれほどこだわるのだろう? いくらやくざがしつこいとは言え、あの部屋に居座るほどこだわるわけはなんだ? 彼らはケイコの亭主の舎弟で、仇を討とうとでもしているのか。そうするとやはりケイコが殺したのだろうか? あのぼんくらどもが、兄貴分のこととなるとそこまで律儀になるのだろうか? やっぱりやくざってものはそういうものなのだろうか?

 まったく、クエスチョンマークだらけだ。僕は本当にうんざりした。

 いくら考えても堂堂巡りだ。やはりなにか行動に移さなければ。しかし、もう今日は夜になってしまったし、明日から動くと言ってもどこをどう動けばいいのだ?

 ああ、またクエスチョンマークだ。

 

 僕の中では、ケイコが彼女の亭主を殺したであろうということは既に確信になっていた。それと同時に、彼女が凶器をこの部屋に隠していたであろうことも。かつての謎のその1からその3まで ――なぜ彼女は僕に声をかけたのか、なぜ彼女は僕と寝たのか、なぜ彼女は僕に睡眠薬を飲ませたのか ―― は、そのためと考えればすべて説明がつく。もうひとつ忘れてた、謎その7、なぜ彼女はあの晩上り電車に乗っていたか、ということも。だが、そのことはかえって僕の彼女を焦がれる気持ちを強くしていた。それでも彼女は僕に恋してくれたのだ、ということをなによりも一番強く確信していた。今では。いや、正確にはこう言い換えてもいい、確信したかった。

 

 あれこれ考えているうちに、気がつくと八時を過ぎていた。このままではせっかくの有給三日目もこれで終わってしまう。待てよ、と僕は気付いた。小平までは二時間もあれば往復できる。これからでも会えないことはない。もう一度ワタベマチコに会って話を聞いてみたかった。なにはともあれ、駄目元でもとにかく彼女に電話してみよう。僕は手帳を開いて彼女の自宅の電話番号を確認すると、受話器を取ろうとした。

 そのとき、電話が鳴った。

 

15.

 

 タイミング的に僕は飛び上がるほどびっくりした。

 一瞬、ケイコかとどこかで期待する気持ちが湧き起こったが、考えてみれば先週末からというもの、ロクなことが起こっていない。得てしてこういうことは続くものだ。とすればこれもまたロクな電話じゃないということだ。もしかしてまた黒田だろうか? 一番下の引き出しじゃなくて二番目だったかな。それとも黄色じゃなくて白い封筒だったかな。それともテレパシーが通じてワタベマチコだったりして。まさかね。次にスキンヘッドのデブの暑苦しい顔と声がアタマに浮かんで、胃が酸っぱくなった。いずれにしても僕はうんざりしながら受話器を取った。

「もしもしー、ケンジくん?」

 テレパシーだった。とりあえず、黒田でもデブでもなかったことに感謝した。

「あー、びっくりした」

「なんで?」

「いや、こっちの話。それにちょうど電話してみようかなと思ってたんだ」

「意外と女たらしね」

「いや、そういうことじゃなくて」

「冗談よ。なんかそういうところが可愛いのよね」

 可愛い? うーむ。どうもこのワタベマチコにはかなわない。

「まあいいや、とにかく、これからでもそっち行ってまた話聞けないかなと思ったんだ」

「話なら電話でもいいじゃない、わざわざ来なくても」

「なるほど」

「それともわたしに会いたくなった?」

「え、いや、それは……」

「かーわいいー」

 気がつくと僕はひとりで赤面していた。まったく。

「ねえ、なんか声かすれてない?」

「実は今へろへろなんだ」

「どうしたの?」

「まあ、にわかには信じてもらえないかもしれないけど、あの後ケイコの住んでたマンションまで行ってやくざにボコボコにされた」

「うっそー。だったらなおさら無理しちゃだめよ」

 どうでもいいが、この子はホントに僕より年下なのだろうか? ときおりまるで母親みたいだ。

「それでなにが訊きたかったの?」

「いや、なんか言い忘れたこととか、他に思い出したこととかないかなと思って」

「なんかって、例えば?」

「んー、例えば彼女から電話があったとか」

「ないわよ」

「そうか。そりゃそうだよね……」

「それだけのためにこっちまで来ようなんて、よっぽどケイコのこと好きなのね、ケンジくん」

「……」

 僕はまた赤面していた。

「ね、今赤くなったでしょ」

 やはりテレパシーかもしれない。僕はひとつ空咳をしてごまかすと、訊きなおした。

「それよりそっちこそなんで電話くれたの?」

「あ、そうそう、さっそくで悪いんだけど、来月の武道館のチケット取れる、二枚?」

「大丈夫だと思うけど。来週まで生きてたら」

「なにそれ」

「禿でデブのやくざに免許証取られて、殺すって言われてるんだ」

「やだー。冗談きついよ」

「冗談ならいいんだけど」

「じゃホントなの、ボコボコにされたって」

「ああ、エレファントマンみたいになってる」

「ちゃんと消毒した?」

「あ……忘れた」

「まったく世話が焼けるんだから。病院で診てもらった方がいいわよ。でもホント大丈夫なの? そのやくざの話」

「一応僕の予定では僕が殺すことになってるから」

「なんか緊張感ないわね、その辺」

「実際、こう急にばたばたと起こると、なんか現実感湧かないんだ」

「どっか隠れた方がいいんじゃない? 真面目な話」

「んー、それもなんか悔しいし。ホント言うと、腰が抜けるほどびびってるんだ。だから明日考えるよ、どうするか」

「ねえ」

「なに?」

「死なないでね」

「それってチケットのため?」

 電話を切る前に彼女はもう一度、死なないでね、と言った。半分泣き声になっていた。いい子だな、と僕は思った。

 

 僕はとりあえず今日動くことは諦め、からだを回復させることに専念することにした。さすがにお粥だけでは腹が空いてきたので、コンビニまで出かけて残り少ない所持金で弁当を買った。他の客は僕の方をちろちろと見るし、レジの店員は僕の顔を見て一瞬ぎょっとした表情を見せた。僕はサングラスでもしてくればよかったなと思ったが、同時にサングラスを持っていないことも思い出した。

 弁当を食べ終わると、湯を沸かして風呂に入った。

 湯船に浸かった途端にからだ中が悲鳴を上げる。まったくへろへろだ。情けないことこの上ない。しかし、浸かっているうちに、全身に血の巡りがよくなって少しずつ楽になってきた。本当はこういうときは風呂に入った方がいいのだろうか? それとも入らない方がいいのだろうか? さっきワタベマチコに訊いておくんだった。

 湯船に浸かりながら、ワタベマチコにはああ言ったものの、もう一度デブのことを考えてみた。警察に捕まらないで、あいつらを殺す方法はないものか。こういうときは、中学のときに通信教育で習った空手もあんまり役に立たないな。あの金髪の方だけならなんとかなるかな。でも日本刀ぐらいは持っていそうだ。少なくともドスはあるだろう。包丁でも持って行くか。それでも焼け石に水か、蛙の面にしょんべんか、あのデブの皮下脂肪には通じないだろうな。せめて拳銃でもあれば。拳銃? そうか、ケイコにさえ会えればなんとかなるかもしれない。

 しかし、冷静に考えると、それが一番難しいことなのだった。

 僕は考えるのを諦めて風呂から上がった。湯上りのからだをバスタオルで拭きながら、ひとまずデブと金髪のことは放っておくことにした。びびっていてもしょうがない。なるようになれだ。

 開き直ると、湯上りの気持ちよさと弁当で腹がくちたこともあって、猛烈に眠気が襲ってきた。すべては明日だ。明日考えよう。

 電気を消してベッドにもぐり込むと、僕は昨日に続いて泥のように眠った。

 

 こうして僕の有給三日目はあっという間に終わった。

 

16.

 

 夢を見ていた。

 僕は病院のベッドに横たわっていた。腕や鼻や口やそこらじゅうからチューブが繋がれ、僕の周りには点滴やら輸血用のバッグやらがぶら下がり、その周りを縦横無尽にチューブが走っている。僕は子供のころにあった、チューブの中をボールを走らせるゲームを思い出した。横手には心拍を表示するスコープが波打っていて、ぴっぴっと規則正しいリズムを刻み、まるでメトロノームのようだった。傍らには白衣を着たケイコが、クリップボードを持って何か書き込んでいた。僕はケイコ、と口に出そうとしたが、チューブが邪魔で声にならなかった。チューブをはずそうにも、からだじゅうが包帯やらなにやらで身動きが取れない。僕はもう一度ケイコ、と叫んでみた。やはり声にはならず、息がしゅうしゅうと漏れただけだった。気がつくとケイコの姿は見えず、僕はそれを探そうと目玉だけを必死で右往左往させた。突然目の前にスキンヘッドのデブの顔がぬっと現れて、その醜悪な顔は目を細めて笑っているようだった。デブの口の端がにやっと持ち上がった。僕は目を見開いて、もう一度ケイコ、と叫んだ。やはり妙な息の音が漏れるだけだった。デブはもう一度にやっと笑うと、日本刀の切先を僕の腹に垂直に当てた。デブの半端な刺青の入った腕の筋肉が盛り上がり、日本刀を持つ手に力が入るのが見えた。ゆっくりと日本刀の先が僕の腹にめり込んで行くのが分かった。デブの口が動き、声は聞こえなかったがどうやら「バイバイ」と言っているようだった。僕はこれ以上無理だというところまで目を見開いて、もう一度声にならない声で叫んだ。ケイコ。

 

 自分の声で目が覚めた。本当にケイコと叫んでいた。僕は汗をびっしりとかいていた。夢か、と安堵しながらも、夢の中のチューブを走る輸血用の血液の赤や、点滴の黄色い色が気になった。カラーの夢は正夢だということを昔聞いたような気がする。そんなわけで僕は寝覚めからとてつもなく憂鬱な気分だった。窓を叩く雨の音が聞こえる。雨の日が憂鬱なのか、憂鬱だから雨が降るのか。

 

 冷たい水で顔を洗うといくぶんマシな気分になった。鏡を見ると、気のせいか顔も昨日よりはマシになったような気がする。からだを動かしてみても、まだ痛みはあるが昨日ほどではない。僕は鏡の前で背伸びをしたり、首をごきごきと回したり、果ては昔通信教育で習った正拳突きをやってみたりした。そんなことだけでも少しは元気が出てくるような気がするから不思議なものである。

 例によってコーヒーとトーストだけの朝食を食べながら、今日はどうしようか考えた。彼女の実家をあたってみることも考えたが、そんなものはとっくに高杉があたっているだろう。だいたい、今のこの顔では話を訊こうにも不審がられるだけだろう。無駄足になるのは目に見えている。考えれば考えるほど打つ手がない。お手上げだ。せっかく回復しかけた気分もまた徐々に沈んで行った。いつぞや想像したコンクリートの塊のようにゆっくりと。

 結局、食べ終わるころには起きたときよりも憂鬱になっていた。まるで外の雨が部屋の中でも降っていて、ずぶ濡れになっているような気分だった。

 突然電話が鳴った。時計を見ると、まだ八時だった。こんな時間にいったい誰だろう? 嫌な予感がする。そもそも昨日からやたら電話がかかってくるような気もする。それに嫌な予感というのは、大概の場合当たるものなのだ。鳴り続ける電話のベルは、夢の中を走るチューブのように、憂鬱に僕のアタマの中に響いた。

 

 気が重いまま、僕は受話器を取った。

「もしもし」

 なに?

「もしもし、忘れちゃった? ケイコ」

 もちろん忘れたわけではなくて、驚きのあまり僕は固まってしまっていたのである。ようやく声が出たのは、もう一度ケイコがもしもし、と言ってからだった。

「ああ、びっくりした。もう電話かかって来ないかと思ってた」

「ごめんね。起こしちゃった?」

 ケイコの声は心なしか僕が覚えているよりも元気がなかった。

「いや、大丈夫。奇跡的に起きてた」

「ごめんね」

「元気? どうしてた?」

 こういうときは矢継ぎ早に質問を浴びせるよりも、相手の話をまず受け止める器量が必要だ、などとアタマの片隅では思うものの、僕は我慢できずに言ってしまった。所詮僕は冷静沈着などとは程遠い凡庸な男なのだ。

「うん。いろいろあって。ごめんね、迷惑かけちゃって」

「そんなことないよ」

 そんなこともなくもないではないかな、などとややこしいことを考えたが、それにしてもなぜ、彼女はそのことを知っているのだろう?

「ほんとにごめんね」

 どうして彼女は謝ってばかりいるのだろう? それに気のせいか、彼女の声は涙ぐんでいるようにも聞こえた。

「ねえ、会いたいんだ」

「わたしも」

「ちょっと酷い顔してるかもしれないけど。いやもしかしたらかなり酷い顔してるかもしれないけど」

「わたしのせいね」

「いや、昔から火に飛び込む癖があるんだ、きっと。僕の先祖は蛾かなんかだったんだ」

 ようやく彼女はくすっと笑った。ホントに、ホントに久しぶりに彼女の笑う声を聞いた。

「マチコから聞いたの。彼女だけには連絡を取ってたの。わたしの方から一方的にだけど」

「どうりで」

「ああ見えても口が固いのよ、彼女」

 こいつはちょっとした驚きだ。さすがの僕も見抜けなかった。いや、僕だからこそ見抜けなかったのか。少なくとも、ケイコの友達を選ぶ目は確かだ。

「いつ会える?」

「これからじゃ駄目?」

「今すぐでもいいくらいだ」

 ホントに、いまケイコがドアをノックしてくれたら、と僕は思った。

「ねえ、プラネタリウムが見たいの」

「いいよ。それからゆっくり話できる?」

 僕は本当のところは「全部話してくれる?」と訊きたかったのだ。そのニュアンスは果たして彼女に伝わるのだろうか。

「うん」

「よかった。どこのプラネタリウム?」

「渋谷の五島プラネタリウム」

「何口だったっけ?」

「東口の東急文化会館の上。分かる?」

「分かるよ」

「じゃあ、十一時に入り口のところで」

「ねえ」

「なに?」

「ホントに会いたかった?」

「ホントに、ホントに会いたかった」

 

 後ろ髪を引かれる思いで電話を切った後、僕は思った。今日はツイてる。これでなにもかもがオーケイだ。

 

 雨のせいで今日は少々肌寒い。フード付きのブルゾンを着てアパートを出た。一度ツイていると思うと足取りも軽いし、起きたときは憂鬱の種でしかなかった雨でさえ、僕を祝福しているように思える。まるで「雨に唄えば」をバックに踊るフレッド・アステアのような気分だ。実際のところ、まだ顔が腫れ上がっている僕には、傘をさすのはかえって好都合だった。

 真っ先に駅前の銀行に寄った。ATMで残高を見てみると、十五万しかなかった。郵便貯金の方は残高がほぼゼロだし、これではそもそも二十万払うどころではない。僕はいくら下ろそうかしばし考えた。デブの暑苦しい顔がアタマに浮かんだが、結局五万だけ下ろした。あいつらのことはとりあえずどうでもいい。この際放っておこう。僕はすっかり強気になっていた。

 さすがに電車の中では、ちらちらと僕の顔をうかがう乗客が目に付いた。ひそひそと声をひそめて話すカップルもいる。しかし、今日の僕にはそんなことも気にならなかった。中野でドアの脇が空くとそこに移動して、腫れの酷い左側がドア側に来るように寄りかかって立った。ドアが閉まり、再び電車が動き出すと、雨粒が伝うドアの窓に負け試合の後のボクサーみたいな顔が映った。やっぱり彼女はこれを見たら驚くだろうな。まさかこの顔で嫌われることはないと思うけど。

 平日の昼前で、しかも雨だということもあり、渋谷の駅はそれほど混み合ってはいなかった。僕は東口のロータリーに掛かっている中央通路を通って、東急文化会館の二階に直接入った。エレベーターで八階まで上がる。いつもの癖で階を示すランプを見上げていると、八階に近付くに連れて自分の心拍数も上がっていくのが分かる。

 八階に着いてドアが開くと、目の前がプラネタリウムだった。見渡すと、まだケイコは着いていないようだ。エレベーターを降りて時計を見ると、まだ十一時五分前である。入り口のところで時間表を見ると、最初の投影は十一時二十分となっていた。先に二人分の入場券を買っておこうかとも思ったが、思いとどまった。僕は灰皿の置いてあるエレベーターの脇の壁にもたれて、煙草を喫いながら彼女を待った。

 一本目の煙草を喫い終わって時計を見ると、十一時を五分過ぎていた。まだ彼女は現れない。一瞬、もしかしたら彼女はこのまま現れないのではないかという不安がアタマをよぎった。今日を逃したらもう二度と会えないのではないかという思いが胸に軽い痛みを呼ぶ。なにを考えてるんだ、まだ五分過ぎただけじゃないか。僕は二本目の煙草に火を点けた。たぶん、心拍数はいつもの一・二五倍ぐらいにはなっていた。

 二本目の煙草を灰皿に捨てていると、エレベーターのドアが開き、数人の人が降りてきた。そして僕は一ヶ月半ぶりにケイコと再会した。十一時十分。

 

17.

 

 実を言うと、すぐにはケイコだと気付かないほど彼女は見違えていた。髪を短く切ってボブにして、濃い目のサングラスをして。彼女はジーンズにタートルネックの黒いセーターを着て、大きなトートバッグを肩から担いでいた。まるでフランス映画にでも出てきそうだった。かっこいい、と僕は思ってしまった。馬鹿みたいだけど。

 そんなわけで僕は彼女が目の前に立ったとき、ぽかんと口を開けてしばらく声が出なかった。彼女は彼女で僕の顔を見て驚いたようだ。無理もない。彼女はサングラスの上に眉毛を覗かせて驚いた表情をしたあと、口元をほころばせ、「待った?」と言った。言いながら眉毛が八の字になって、サングラスの向こうの表情が一瞬泣き顔に見えた。僕は黙って首を振ってから言った。

「酷い顔だろ。もう始まっちゃうから入ろう」

 彼女はプラネタリウムの中に入ってもまだサングラスをはずさなかった。中は平日の午前中とあって、がらがらに空いていた。僕らは真ん中あたりに並んで座ると、お互いに黙ったままだった。正直なところ、僕は胸が一杯で話したいことがあまりにも多過ぎてしゃべることができなかった。なにより、こうして彼女と再び一緒にいることが現実であるということを噛み締めるのに精一杯だった。ふと横を向いたり、なにか口に出したとたんに彼女がふっと消えてしまいそうで怖かった。彼女はちょっと俯き加減でなにかに耐えているようにも見えた。

 場内の照明が暗くなり、アナウンスとともに投影が始まると、彼女は僕の手を握ってきた。僕はその手をきつく握り締めたり、指を辿ったりした。そのとき、気がついた。彼女はもう左手の薬指に指輪をしていなかった。考えてみればもうする必要もないわけで、当たり前と言えば当たり前のことなのだが、僕にはそれで呪縛がひとつ解けたような気がした。ふと横を見ると、彼女はまだサングラスをしたままだった。僕がそれはずさないの、と訊こうと声をひそめて「ねえ」と声をかけると、彼女はこちらを向いて僕の唇に軽くキスをした。

 僕はプラネタリウムを見るのは初めてだった。頭上に映し出される星の数々に、いつのまにか僕は見入っていた。しばしなにもかも忘れて。カシオペア座。白鳥座。オリオン座。射手座。北極星。天の川。彦星と織姫星の物語。

 考えてみれば、田舎にいるころは晴れてさえいれば、夜ともなれば常に頭上には満天の星が輝いていた。そのころはそれが当たり前で、夜空というものはそういうものだった。だから、星座や星のひとつひとつを数えることもなかった。こうして渋谷の喧騒の中に映し出された星々を見上げていると、なんと多くの星があるのだろう。まるで僕たちを包み込むように。例えそれが束の間天井のスクリーンにライトで投影されたものであるとしても。彼女のサングラスを通して、この星たちはどう映っているのだろう? 僕はまるで世界にケイコとふたりだけでいるような錯覚を覚えた。

 投影は一時間あまりで終わった。入れ替え制なので、場内に明かりが灯ると少ない客たちは次々と席を立って行く。僕らは黙ったままで残っていた。とうとう僕らが最後になると、僕は声をかけた。行こうか。すると、彼女はうん、と小さく微笑んだ。

 

 僕はなにか食べながら話そうと言った。近くにいいところを知ってるから。

 外に出ると僕が持っていた傘を開いて、相合傘で寄り添って歩いた。まるでこのひと月半あまりの空白がなくて、ずっと一緒にいたみたいに。246の歩道橋を渋谷署を横目に見ながら、交差点のはす向かいに渡った。ちらっと渋谷署が目に入ったときに、彼女が眉をしかめて緊張するのが伝わってきた。僕はそれを解きほぐそうと、さっきとは打って変わってしゃべった。スパゲッティがうまい店があるんだ。ジャズ喫茶なんだけど話しても大丈夫な店だし。それにがんがんジャズがかかってるから周りに聞かれる心配もないし。

 山手線のガードをくぐって桜ヶ丘町に出ると、眼鏡屋の隣を脇道に入った。途中の雑居ビルの狭い階段を上ると、店内に流れるジャズの音が漏れ聞こえてくる。二階の古ぼけたドアを開けると、そこが昔ながらのジャズ喫茶だ。薄暗い店内は、四人がけぐらいの小さなカウンターの向かいにでんと大きなスピーカーが構えていて、テナーサックスが大音響でブロウしていた。僕が学生のころ、ジャズ喫茶全盛のころは、こういうメインストリームのジャズをかけるところは私語禁止というところがほとんどだったが、いまどきはもうそういう店は吉祥寺辺りまで出かけないと見かけなくなった。僕はジャズが好きだが、だいたい、ジャズというものは辛気臭いしかめつらをして、斜に構えて格好をつけて聴くものじゃないと思っているのでこれはいい傾向だ。それに音が大きいので、隣によほど声のでかいおばさん連中でも来ない限り、隣の話し声に悩まされることもない。そもそもそういうおばさん連中はジャズ喫茶なんかに入らないだろうけど。

 昼食どきにも関わらず、店内は混んでいなかった。まだ昼をまわったばかりというのに、星空の下から薄暗い店内にやって来たので、まるで夜を渡り歩いているみたいだと僕は思った。いくつかあるテーブル席の中で、そこだけちょっと引っ込んだコーナーのテーブルがたまたま空いていたので、そこに並んで座った。そこはテーブルを囲む形でベンチシートになっていた。僕が明太子のスパゲッティとコーヒーを頼むと、ケイコも同じものを頼んだ。そこでようやくケイコはサングラスをはずした。そして力なく微笑んだ。

 僕らはまた言葉が出なくなっていた。黙って料理が出るのを待ち、黙ってスパゲッティを食べた。

 スパゲッティを食べ終わってコーヒーを飲みながら、僕が例によってなにから訊いたものか堂堂巡りをしていると、彼女の方から口を開いた。

「ごめんね」

 彼女の目は潤んで見えた。彼女が案外泣き虫だということを、僕は今日まで知らなかったんだな、と思った。僕の覚えてる彼女は、ちょっとクールで、ちょっとコケティッシュで、ちょっとエッチだった。今日の彼女は謝ってばかりだ。僕は、まるで僕が彼女を苦しめているような錯覚に陥って胸が苦しくなった。いまここで彼女を抱き締めたいと思った。でもそんな勇気は僕にはなかった。こういうときはなんて言えばいいのだろう? そう考えるのと同時に、核心に触れる質問をするのが怖くなった。彼女の答えを聞くのが怖かった。

 僕はまず手近なことから訊くことにした。

「ねえ、あれからどこにいたの?」

「渋谷のウィークリーマンションを借りてた。なんだか人の多いところにいたかったの。その方が安心するような気がして」

 いったい何人の人間が彼女を追い詰めていたのだろう? やくざ、探偵、警察。その中に僕も入るのだろうか。そして、なにが彼女を追い詰めていたのだろう?

「ケンジに最後に会った日があったでしょ。ケンジが熱出してた日。あのままこの街に来て、隠れてた。でも、ちょっと疲れちゃった。マチコにケンジのこと聞いて、会いたくて我慢できなくなっちゃった」

 そう言うと、彼女は弱々しく微笑んだ。

「我慢することなかったのに」

「でも、迷惑かけちゃうから。あ、もうかけちゃったんだね」

 また彼女は微笑んだ。つられて僕も苦笑いした。

「こういうのも男が上がったってことになるのかなあ」

「ねえ」

「ん?」

「ケンジはもう知ってるんだよね? わたしのダンナのこととかすっかり」

「すっかりかどうか分からないけど。先週ヘンな探偵がやってきて、教えてくれた。でも、正直なところ、もうどれがホントでどれがホントじゃないかよく分からなくなってるんだ」

「ごめんね」

 彼女はまた謝った。僕は思いきって訊いてみることにした。もうそろそろ。

「ねえ、話してくれるかな、なにがあったか」

 彼女はしばらく押し黙って前方を見つめていたが、みるみるうちに彼女の目に涙が溢れてきた。そしてぽつりと言った。

「いいよ。でもわたしのこと嫌いになるよ、きっと」

「嫌いになんかならないよ。それに、ひょんなとこからあらすじは聞いてあるから驚かないよ」

「ホントに嫌いにならない?」

 彼女の目から涙がこぼれ落ちた。

「絶対。約束する」

 僕は彼女を追い詰めてるのだろうか? なんだか僕は彼女に酷く残酷なことをしているような気がした。しかし、もう後に引けなかった。僕はもう一度訊いた。

「ねえ。話してくれるかな、ホントのこと」

 僕はそれが知りたいのだった。ホントのこと。ホントの彼女。ホントの僕。そして彼女はゆっくりと話し始めた。

 

18.

 

 そもそもの始まりはわたしがあいつの担当になったことだった。あいつが胃潰瘍で入院してから。笑っちゃうよね、やくざが胃潰瘍だなんて。わたしは最初からあいつが怖かった。だって、刺青入ってるんだもん、見るからにやくざだよ。それにタマに見舞いに来る奴らももろにそうだった。玉井って凄い太ってる奴と金田って若い奴。二人ともあいつの舎弟なんだけど、なにするかわかんないような連中で、わたしは怖くて仕方なかった。

 担当になったときからあいつはしつこく誘ってきた。退院したら付き合えって。それはもうしつこかった。誰かに担当替わって欲しかったんだけど、みんな怖がってるのは同じだし、それになんか弱みを見せるようでくやしかったんだ。退院したときはホントにほっとした。やっと元に戻れるって。ところが、あいつはそれからも毎日やってきた。帰りを待ってたりするんだ。わたしはホントに怖くて、マチコと一緒に走って寮に帰ったりしてた。

 あの日は准夜あけだからもう真夜中だった。マチコは夜勤だったから、たまたまひとりで帰らなきゃならない日だった。車に無理矢理乗せられて連れてかれた。あの趣味の悪い部屋に。ケンジも行ったんだよね? あそこでわたしは無理矢理犯された。玉井と金田もいた。三人でかわるがわる。何度も何度も。それをビデオに撮られた。殺すって言われた。警察にタレこんだら殺すって。お前だけじゃなくて家族も殺すって。ビデオも親だけじゃなくて病院中にばらまくって。だから結婚しろって。無茶苦茶だよ。でもわたしは本当に怖かった。こいつは本当にやると思った。だから言うこときくしかなかった。あいつは市役所までついてきて、無理矢理籍を入れさせられた。わたしは父親がもう随分前に死んじゃって母親しかいないのね。お母さんにも嘘言った。言わなきゃならなかった。

 酷いのはそれから。わたしは毎日のように殴られたし、蹴られた。跡が残らないように顔とかは殴らないのよ。関節とか狙って。帰りが遅いとか、電話に出なかったとか、メシができてないとか、もう理由はなんでもいいのよ。あいつは後ろから犯すのが好きで、わたしは毎晩のようにレイプされてた。だからバックは怖いのよ。玉井と金田は始終出入りしてて、わたしはそれも怖くてしょうがなかった。タマにお前らもやれって二人にわたしを犯させて、それを見てたりするのよ。酒飲みながら。包丁や日本刀持ち出して何度も殺すって言われた。本当に殺されると思った。もう夜勤とかもたなくなって、病院も辞めた。そしたらソープ行けって言うし。それだけは嫌だって言うと、また殴られた。タマにマチコと電話で話してて、話し中だとまた殴られた。わたしはちょっとおかしくなっちゃって、もう外に出るのとか、電話まで怖くなっちゃって。もう殺すか殺されるかのどっちかなんだと思った。ホントに何度も殺そうと思った。でも怖くてできなかった。精神科に行ったら鬱病だって言われた。だからしばらく通って、薬もらってようやくよくなった。それで、小さい内科の個人病院に昼だけ勤めることにした。そこだけがほっとできる場所だった。

 鬱病がよくなって、ようやく冷静に考えられるようになって、それでもこのままだといつか必ず殺されると思った。もう逃げるか殺すかしかないと思った。でも逃げると実家の母親に迷惑がかかる。もう殺すしかないと思った。

 

 彼女はそこまで話すとひと息ついた。一旦話し出すと、覚悟を決めて落ち着きを取り戻したのか、彼女は淡々と話していた。高杉にあらかじめ大筋は聞いていたというものの、彼女の口から直接それを聞くと、あの部屋で覚えたはらわたが煮えくりかえるような怒りと殺意が甦ってきた。僕は煙草に火を点けたが、怒りでライターを持つ手がちょっと震えた。もう仕方がないと思った。彼女が殺してしまったのも仕方がないと。もしまだ生きていたら、僕が殺しに行っただろう。小心者の僕に本当にできるのかどうかは分からないが、それでも行くだろう。それほどの怒りを覚えていた。僕のどこにこれほどの怒りと殺意があったのかと、いつかと同じように思った。ケイコはいつかのホテルと同じように、わたしにも一本ちょうだいと言って煙草に火を点け、ひとつ煙を吐き出しながら気を鎮めるようにしばらく宙を見つめていた。そして続きを話し始めた。

 

 あの日、夜になってあいつは麻雀に行くと言って部屋を出たの。それでドアが閉まるとすぐに、わたしは台所のテーブルにあいつが財布を置き忘れてったのに気付いた。今持っていかないと後でまた殴られたり蹴られたりすると思って、わたしは財布を持ってあわてて駐車場まで降りて行った。

 そこでわたしは見たのよ。あいつが殺されるところを。

 

 僕は、咥えていた煙草を落としそうになった。

 

19.

 

 わたしはあいつのからだに弾が二発打ち込まれるのを見て、怖かったけど、次の瞬間にはほっとしてた。ああ、これでわたしは自由だって。もうあいつは死んだんだって。笑い出したいくらいだった。

 わたしは駐車場の入り口のところで見てた。拳銃って、もっと大きな音がすると思ってたんだけど、ブスッって鈍い音だった。たぶん映画とかで見る、サイレンサーってのを付けてたんだと思う。

 あいつに弾を打ち込んだ男が、車のドアを閉めるとこちらを向いた。わたしは、あ、殺されると思った。でも、その男はわたしに向かって人差し指を口の前に立てただけだった。わたしは黙ってろってことなんだと思った。しゃべれば殺すってことなんだと。男はそのままわたしの脇を通って外に出て行った。わたしは言っちゃったわよ、そのとき、ありがとうって。思わず。

 わたしは我に返ると、あわてて部屋に戻った。そして、このままだとわたしが疑われると思った。わたしは部屋にあいつが拳銃を隠してることを知ってた。いつか大事そうに冷蔵庫の野菜室に入れてるのを見たの。あいつはわたしがそれを使うわけがないとたかをくくってたのよ。それにここ開けたら殺すぞって言われてた。このままだと警察が来て調べたら、わたしが捕まっちゃうと思った。少なくとも銃刀法とかで。よほど気が動転してたのね。あいつは死んでからもわたしを追いかけてくる、なんて思った。とにかく、拳銃はどこかに捨てるか隠そうと思った。車の中にある限り、死体はそう簡単には見つからないだろうから、隠す時間はあるって。それでわたしは野菜室を開けた。そしたら、油紙に包まれた拳銃と、砂糖の一キロ入りの袋みたいなのが一緒にフリーザーバッグに入れてあった。わたしはそれをバッグに押し込んで、部屋を出た。あのマンションは三階の住人は夜、一階でスナックをやってるおじさんだけだから、スナックの客に鉢合わせでもしない限り出るところは見られない。人通りがないことを確かめて、とにかくそこを離れたかった。途中で捨てることも考えたけど、それを人に見られたらと思うとできなかった。とにかくあの部屋から、あの死体から離れたかった。出来るだけ遠くに。気がつくと青梅街道まで出てて、わたしはタクシーを拾って国分寺の駅まで出た。それで新宿までの切符を買って中央線の上りに乗ったの。そしてあなたに会っちゃったのよ。

 

 僕は唖然として話を聞きながら、「あなた」と呼ばれてちょっと気恥ずかしさを覚えた。ようやく僕はケイコが殺していなかったことにほっとしていた。アタマの四分の一ぐらいは、もしケイコが嘘をついていたらと言っていたが、その声は無視することにした。それを考慮するには、この数日あまり、あまりにもいろんなことを考え過ぎたし、疑い過ぎたし、いろんなことが起こり過ぎた。それに疲れてもいた。僕はとにかくケイコを信じることにした。

 

 上りの電車は空いてたので座ることができた。わたしは拳銃の入ったバッグを膝の上に置いて、ようやく落ち着いてくると、なんでこんなもの持ってきちゃったんだろうと思った。そう考えると、ただでさえ重い膝の上のバッグが、物凄く重く感じられた。なんとかしなきゃって思った。でも、一方でわたしは心底ほっとしてた。もうあいつは死んだんだ、わたしは自由なんだって、また自分に言い聞かせた。これでもう殴られたり蹴られたり、無理矢理犯されることもないんだって。少なくとももう暴力に怯えることはないんだって。ところがそのとき、それは違うって声がアタマの片隅から聞こえた。まだ玉井と金田がいる。このバッグに入ってるロクでもないものは捨てちゃ駄目なんだ。いつかこれが必要になるかも知れないって。だから、どこかに隠さなきゃって思った。最初はコインロッカーにでも預けようかって思ったのよ。でもそれだとそんな長い間置いとけないし。どうしようって考えた。そんなときにあなたが吉祥寺から乗ってきたのよ。

 

 そこで僕は口をはさんだ。

「でも、なんでオレだったわけ?」

「わたしのタイプだったのよ」

 そう言うと、彼女はまだ涙の跡が残っている顔でにっこりと笑った。さっきまでの半分泣きべそをかいたような笑いじゃなくて、にっこりと。僕は思った。ああ、そうだ、彼女はこんな風に笑うんだっけ。

「ケンジは席が空いてるのにドアのところに立ってて、なんか寂しそうに見えた。わたしは、ああこの人も寂しいんだって思った。ケンジと寝てみたいって突然凄く思った。こんなこと言うとまるで淫乱みたいだけど。抱かれたいって思った。わたしはハイになってたのよ。で、気がつくとケンジに声をかけてた」

 スピーカーから流れるアルバムが変わって、ピアノトリオになった。僕らの横にある巨大なウーファーは、ウッドベースの低音で床やテーブルを細かく振動させながら僕らを包んだ。その上をピアノの倍音が飛び交っていた。

 僕はようやく落ち着いて考えることができるようになってきていた。いつのまにか、たぶんさっきの彼女の笑顔で、先ほど感じていた怒りや殺意も収まっていた。それどころか、「タイプ」とか「抱かれたい」という言葉に心が浮き立つような気さえしてきた。我ながらなんて単純なんだろうと思いながら。

 僕は疑問をひとつずつ解いていこうと思った。

「ねえ、やっぱりうちに隠したの?」

「ごめんね。そうするしかなかったのよ。ケンジとセックスしてるときはなにもかも忘れていられた。本当に物凄く久しぶりに自分が解放されたような気がしてた。でも、終わった後にちょっと冷静になっちゃったのよ。このままいなくなったらわたしが疑われる。やっぱり朝には帰らなきゃって。だからどうしてもここに隠していかなきゃって。それで、前に鬱病で精神科に通ってたときにもらった睡眠薬がバッグにあったのを思い出して、飲ませちゃったのよ。ケンジには気付かれたくなかったの。なにも気付かれないで、ただのひとりの女として見て欲しかったの。ごめんね」

「で、どこに隠したの?」

「トイレのタンクの中」

「やっぱり」

「なんだ、分かってたの。散々考えて、いいとこに隠したと思ったんだけどな」

 僕は天袋のエロ本なんかを思い出し、赤面しそうになった。彼女があれを見つけたかどうか訊こうかとも思ったが、止めておいた。世の中には知らないに越したことはないこともあるのだ。

「それからどうしたの?」

 僕が訊くと、彼女は水をひと口飲むと、なにか嫌なことを思い出したように顔をちょっとしかめて、それから続きを話し始めた。

 

 ケンジのアパートを出てから、そのまま小平に戻ったの。電車の中で、またあの部屋に戻ると思うと憂鬱になったわ。それよりなにより、あいつの死体を見なきゃなんないと思うとますます憂鬱になった。もう動かないんだけどね、あいつは。とにかく警察に電話して、後はなにを訊かれても知らないって言おうと決めた。殺したやつはどうせ同じやくざか似たようなものだろうし、もうとにかくこれ以上関わり合いになるのはごめんだと思ったの。あいつの車はスモークガラスだからたぶん死体はまだ発見されてないとは思ったけど、もし万が一パトカーが停まってるようだったら逃げるしかないと思った。アリバイないし。ケンジを巻き込むことになるし。

 幸いまだ誰も気付いてなかった。隣の車は三階のスナックのマスターのもので、彼は朝まで仕事してるわけだから当然なんだけど。部屋に戻ってから下の駐車場まで降りて、車のドアを開けた。ホント言うと、死体を見るのも嫌だったんだけど、もし万が一死んでなかったらどうしようなんて考えた。そしたらどうやってトドメを刺そうかなんて。そっちの方がむしろ怖かった。あいつが白目剥いて息をしてないのを見て、気持ち悪かったけど本当に安心した。額の真ん中と胸を撃たれていて、シートの下に血溜まりがどす黒く固まってた。凄い嫌な匂いがした。わたしはしばらくそれを見てた。ざまあみろって思ったわ。それから部屋に戻って警察に電話して、後はもう大騒ぎよ。警察は部屋を見せてもらえますかって言うし。結局、日本刀なんかも見つかって、一瞬わたしは青くなったけど、警察は別にわたしにそのことを問い詰めたりはしなかった。考えてみれば当たり前よね。やくざの部屋なんだから。わたしはなんでわざわざ拳銃とか隠そうなんて思ったんだろうとそのときようやく気がついたけど、前の晩はよっぽど気が動転してたんだと思う、いま考えると。警察で長々と事情聴取ってのを受けたわ。わたしは殺されるところを見たこと以外はみんな正直にしゃべった。あいつにどんな目に合わされたかも。話してるうちにぼろぼろ泣いた。涙が止まらなかった。正直言ってあいつが死んでほっとしてるとも言った。わたしはむしろ同情されたわ。もっと早く警察に相談してくれればって。

 あいつは身寄りがいなかったみたいで、組の人間ってのが来てかたちだけの簡単な葬式やって。わたしはいっさい泣かなかった。ホントは出たくないくらいだったから。不思議なことに玉井と金田は葬式に顔を見せなかった。あれほどくっついてまわってたのに。葬式からの帰りに、送るからと言って組の人間に車に乗せられた。ひとり物腰だけは柔らかい、三十を越えたぐらいの若いやくざがいて、そいつが一番立場が上みたいだった。部屋に着くと、すみませんが中調べさせてもらいますって。敬語でしゃべってるんだけど、どこか有無を言わせないところがあるのよ。わたしは彼らが部屋中を引っかきまわすのを黙って見てた。結局、見つからなかったらしくて、わたしにあいつなんか隠してませんでしたかって訊くのよ。わたしはすぐピンときた。あの砂糖みたいなやつだって。でも知ってるなんて言えるわけないわよ。知らないで押し通して、早く帰ってくれることだけを祈った。なにか思い出したら教えて下さいって名刺渡して帰ったわ。確か梨田とかって書いてあったけど、あいつらが帰った途端に丸めてゴミ箱に捨てちゃったからよく覚えてない。とにかく、気持ち悪いぐらいに丁寧な奴だった。帰り際に、しばらくここにいて下さいって言われた。ああ、逃げるなってことなんだなって。目がそう言ってた。それからこれは預かっておきますって、あいつの貯金通帳と実印を持って行った。死亡届はこちらで出しますからって。

 わたしはまだここにいなきゃならないと思うとくらくらした。あいつは死んでもわたしをここに縛りつけるんだって。

 ケンジに渋谷で会ったのはその次の日よ。電車に乗るときも誰か後をつけてきてないかとびくびくしてた。つけられないように、途中でデパートに入って裏口から出て確かめたり。だから会えたときはホントにほっとした。

 帰ると部屋の前に梨田がいた。彼は葬式代引いときましたからって、通帳と印鑑をわたしに返した。通帳からは一千万近くが引き出されていて、残っているのは百万ほどだった。わたしにソープに行けとか言ってた奴がこんなに金持ってたなんてわたしはびっくりした。とにかく、この一千万でたぶんわたしは自由になったんだと思ったけど、すぐには信用できなかった。だからしばらくは部屋でじっとして様子を見ようと思った。ケンジに会いたくてしょうがなかった。でも、ホントに安心できるまでは我慢しようと思った。

 そしたら今度はあいつらがやってきたのよ。玉井と金田が。あいつらは合鍵を持ってたけど、わたしはドアにチェーンをかけてドアを開けなかった。あいつらはドアをどんどん蹴って、開けないとこいつをバラまくぞって叫んだ。玉井が八ミリビデオのテープを持ってるのが見えた。もうわたしは目の前が真っ暗になった。ああ、やっぱりあいつは死んでからもどこまでもついてくる。わたしはまた無理矢理犯された。そしてブツはどこにあるか知ってんだろ、って何回も問い詰められた。言わないと殺すって。でも、わたしは知らないって必死で言い張った。知ってるって言ったらわたしもケンジも殺されるって思った。

あいつらはまた来るから逃げるなよ、って帰り際に言った。わたしはもうどうしたらいいかわからなくなった。次の日もあいつらはやってきた。思い出したかって。思い出すまでは何回でも来るぞって。犯されながらわたしは思った。もう逃げるしかないって。ビデオなんかもうどうでもいい、逃げようって。それであいつらが帰ってからケンジに電話した。逃げてもあいつらは追ってくるかも知れない。組の連中も追いかけてくるかも知れない。そうしたらもうケンジには会えなくなる。だから最後にケンジに会っておこうって思った。

 

 彼女はぼろぼろ泣いていた。僕はどうしたらいいのか考えていた。僕にいったいなにができるのだろう? 僕はいったいどうしたらいいのだろう?

 

 そのときだった。耳慣れた声が頭上から聞こえてきた。

「盛り上がってる?」

 見上げると、そこに高杉が立っていた。例の人懐っこい笑みを浮かべて。

 

20.

 

 僕は開いた口が塞がらなかった。

 高杉は僕らの向かい側によいしょっと、と言いながら座った。注文を取りに来たウェイトレスにコーヒーを頼むと、例によってショートホープをポケットから取り出して火を点けた。そしてまたにやっと笑った。

「邪魔して悪いね」

 どうもこれは毎度のことなのだが、僕はこの男をいまひとつ怖いと思ったことがなくて、それは多分に彼のキャラクターのせいなんだろうけど、それは今回も同じだった。ただびっくりして、半ば呆れただけである。うまい具合に水を差すタイプがいるとすれば、たぶん彼のような人間のことを言うのだろう。妙に場をなごませるというか、ほっとさせるところがあるから不思議である。僕はせっかく会えたケイコとのツーショットを邪魔されたというよりも、重苦しい時間が続いていたので、むしろちょっとほっとしている自分に驚いた。考えてみれば高杉はケイコを探しているわけで、これは僕とケイコにとっては危機的状況のはずなのだが、思うに、僕は嫌な話を長々と聞き過ぎたのだ、たぶん。

 ところがケイコの方はそうではなかったらしく、これはまあ当然と言えば当然だが、顔をこわばらせて僕にぴったり寄り添って、僕の袖をぎゅっと指で掴んだ。そして僕に耳打ちした。

「この人」

「ん?」

「この人よ、あいつを殺したの」

 僕はたぶん、これ以上開かないほど目を見開いて、間抜けな表情をしていたと思う。それほどびっくりしていた。

 

 高杉はと言えば、その間にコーヒーを運んできたウェイトレスにありがと、と言いながらうまそうにひと口すすった。そして僕らに目を上げて言った。

「ん? やっぱ邪魔? いや、これも職業的使命感ってやつで」

 彼はそこまで言ってまたコーヒーをひと口飲んでから続けた。

「ようやっと会えたね、ケイコさん」

 そう言うと、ケイコに向かってにやっと笑った。僕にはどうにもこれが緊張感に欠けるものに感じられるのだが、ケイコは相変わらず顔をこわばらせ、恐らく恐怖に目を見開いていた。

 ケイコの言っていることは本当なのだろうか? 本当に高杉はケイコの亭主を殺したのか? 恐らくそれは本当なのだろう。しかし、なぜか恐怖は感じなかった。怖い男だと思うことと、怖いと思うことは別だ。それに、僕にはどうしても高杉がケイコをやくざに簡単に売り渡すような人間には思えなかった。それは先日助けてもらったせいもあるが、もしかしたら僕は彼を買い被っているのだろうか? だとしたらこれは相当焦らなければならない状況なのだが、僕にはどうしてもそうは思えなかった。とにかく、僕は口を開いた。

「脅かさないでくださいよ。こういうのって反則じゃないかなあ」

 高杉は相変わらず呑気な様子で答える。

「反則? だから職業的使命感ってやつなんだって」

「いつからいたんですか?」

「まあ、それも職業上の秘密ってやつだ」

 僕は仏頂面をしながらジーンズのポケットから財布を取り出すと、千円札を一枚出してテーブルに置いた。

「はいこれ」

「意外と律儀だね」

「これで貸し借りなしですよ」

「五百万貸してたんじゃなかったっけ?」

「ああ、あれはもういいです。どうせ作れないから」

「じゃあ、この子どうするの?」

「それはこっちが訊きたいですよ。なんなら僕が身代わりってのはどうです?」

 高杉はへ、と言うと眉毛を上げて呆れた顔をした。

「相変わらずポップだなあ、言うことが」

「それはお互いさまだと思うけど」

 ケイコは握り締めた僕の袖を引っ張ると、眉をしかめながら耳元で言った。

「ねえ、この人知り合いなの?」

「んー、ちょっとね」

 僕は説明に困った。ケイコはいったいどっちの味方なの、とでも言いたそうに僕を睨んでいる。そこに高杉が口を挟んだ。

「おいおい、ちゃんと紹介してくれよ」

「あ、この人探偵の高杉さん」

 言いながら、なんでやくざに雇われてケイコを探している奴を本人に紹介しなきゃなんないんだ、というクエスチョンマークが僕の頭上に点灯していた。

 ケイコが耳元で、マチコが言ってた探偵ってこの人だったんだ、と囁いた。

 僕はようやくシリアスな表情を作ると、高杉に言った。

「説明してくださいよ」

「なにを?」

「彼女はあなたが殺したって言ってるんです」

「ああ」高杉はそれがどうしたという顔で、ショートホープをひとつ大きく吸って煙を吐き出すと、言葉を続けた。「そのこと?」

 僕はとにかく、相手のペースに乗せられてはいかん、と思って眉間に皺を寄せて睨んでいた。だが、高杉は徹底してマイペースである。

「で、どう思うのよ、きみは?」

「どう思うって……」

 僕は口篭もって困った表情になった。いかん、これは高杉のペースだ。

「か、彼女を信じます」

 高杉はまた呆れた表情を見せて、煙をまたひとつ吐き出した。

「だったらどうなのよ?」

「どうって……」

「彼女から話聞いたんだろ?」

「そりゃ聞いたけど」

 ケイコがまた袖を引っ張って、僕を睨みつけた。

「ねえ、ケンジ、この人と友達なわけ?」

「友達? まさか」

 高杉が口を挟んだ。

「なんだ、オレは友達だと思ってたけどな」

 高杉の言葉に僕はなぜかちょっぴりうれしさを覚えたりする。反面、アタマの半分はこいつのペースに乗せられちゃ駄目だ、と言っていた。だいたい、人を簡単に信用するなとは高杉が言っていた言葉だ。

 だいたい、なんでケイコと会うことがバレて…… そうか。僕は一昨日高杉が僕の部屋で電話を使っていたことを思い出し、なぜ高杉がここに現れたのか思い当たった。

「友達が盗聴なんてするかな」

「友情と仕事は別だろ」

「誰が言ったんですか、そんなこと」

「えーと、少なくともオレだ」

 やはり高杉のペースのような気がする。僕は話を元に戻した。

「で、どうなんですか?」

「肝心なのは」言いながら高杉はコーヒーの残りを飲み干した。

「人を簡単に信用しちゃいかんということだ」

 

「実際きみはよくやったよ、マカベくん。こうして彼女を見つけたし」

 高杉は言った。

「ちょっと薬が効きすぎたみたいだけどな」

「薬?」

 僕は一瞬なんのことかわからなかった。

「考えてみろよ、オレがそんなに簡単に依頼人のこととかべらべらしゃべる人間に見えるか?」

 見えるものはしょうがない。僕が黙っていると、高杉は相変わらずの調子で続けた。

「ちょいと脅かして揺さぶってみたのさ。ま、きみはボクの助手みたいなものだったわけだ」

 僕はいいように利用されたということか。僕はむっとして反撃した。

「ボクって言葉似合わないですよ、高杉さん」

「悪かったな。いずれにしても、簡単に言えば、オレが殺したとしても、彼女が殺したとしても、そんなことはどうでもいいってことだ。あんな奴は死んで当然だ」

 僕の袖を掴んでいたケイコの指が緩んだ。僕が首を向けると、ケイコはどこか放心したような顔をしていた。

「安心しろ、オレは彼女を殺したりしないから」高杉はもう一本、ショートホープに火を点けながら言った。「そもそも、オレが探していたのは彼女じゃなくて、そのバッグの中身の方だ」

 高杉はそう言うと、ケイコのトートバッグを指差した。

 

21.

 

 僕らは一斉にバッグの方を見た。

 それは黒のナイロン生地で、一杯に膨らんだ状態でベンチシートの角に置いてあった。僕とケイコは、少なくとも僕は、虚を突かれた感じできょとんとしていた。それから僕はおもむろに先ほどの彼女の陰鬱な告白をフルスピードで反芻して、ひとつの結論を導いた。しかしそれはなにか酷く陳腐なものに思われた。実際、口に出してみると、もっと陳腐だった。

「シャブ?」

 高杉はわざとらしく目を見開くと、斜めに顔を傾いで見せた。それはそうだと言うことらしかった。

「じゃあ、そんなもののために、僕はボコボコにされたわけですか?」

 たかだかシャブごときのために。ケイコの方を見ると、彼女は肩をすくめて見せた。

「まあ、そう言うな。それでも末端では億って金になるんだ」

 高杉は、オレだってうんざりしてるんだ、と言わんばかりに言った。

「まあ、こうして彼女にも会えたんだし。だいたい、シャブ探してくれって言ったって探してくんないだろ、お前?」

 いつのまにか僕はお前になっていた。僕は本当にうんざりしていた。それとともにさっきとは違うところで腹が立ってきた。それは僕の中でむくむくと膨らんでいった。

「ケイコはどうなの?」僕が尋ねると、彼女はなんのことかわからずにきょとんとしていた。「渡しちゃっていいわけ、シャブ?」

「わたしはそんなもの一グラムもいらないけど」

 困惑を浮かべながら彼女は答えた。僕はやりどころのない怒りを覚えながら、ケイコのバッグに手を伸ばして引き寄せると、肩を怒らせて力説した。

「オレだっていらない。けど、これは渡さない」

 今度は高杉とケイコが唖然とする番だった。ケイコが僕の袖を引っ張る。

「ねえねえ、なに言ってるの」

「とにかく、渡さない」

 僕は飽くまでも言い張った。

 高杉は困り果てた表情で、まるで子供をさとすように少し身を乗り出した。

「なあ、無茶言うなよ。今度はお前が追われる番になるだけだぞ。それに、そんなもの持ってたってどうにもならんだろうが」

「そういう問題じゃなくて」僕はもう意地になっていた。「とにかくそういうことじゃなくて。上手く言えないけど」

 高杉はかつて僕に一度見せたように、真顔になって目をすがめると声を落として言った。

「オレにお前を殺させろって言うのか」

 ケイコはまた僕の袖をぎゅっと握り締めると、僕の後ろに身を隠すように摺り寄ると、ねえ、やめて、お願い、と涙声で言った。それは一瞬高杉に言ったのかと思ったが、僕に言ってるのだと気付いた。

 僕は自分でも不思議なくらいに怯むことなく、高杉を睨み続けた。誰にともなく、腹を立てていた。それはかっとするとかそういうものではなく、腹の底からむらむらと湧き上がってくる不愉快なものだった。

 僕は高杉を睨みつけたまま、口を開いた。

「とにかく、こんなもののためにケイコがあんな目にあったり、こうして逃げ続けなきゃならないなんて許せない」

 高杉はまた元の呆れた顔に戻って言った。

「だからそいつを渡しちまえば、って言ってるのに。終わったことに拘ってもしょうがないだろ」

「渡せば無事で済むって保証はどこにもないでしょう?」

「オレが保証するって言ったら?」

「どうやって?」

「どうやってって……」高杉は困り果てた表情でケイコに助けを求めた。「なあ、言ってやってくれよ、こいつに。あんたのために言ってるんだって」

 だが、ケイコは先ほどの高杉のはったりにすっかり怯えてしまい、口をぎゅっとかみ締めて僕にしがみついているだけだった。

「やれやれ」高杉はベンチシートの背に背中を投げ出すと、天を仰いで煙草の煙を溜息と一緒に長々と吐き出してひとりごちた。「まったく、なんでこうなっちまうのかなあ」

 ピアノトリオが終わって、マイルスの「TUTU」に替わった。僕の好きなアルバムだ。おかげで相変わらずケイコとバッグを引き寄せながら必死の形相をしてはいたものの、少しはアタマが冷静さを取り戻してきた。しかし、怒りが収まったわけではないし、第一、もう引っ込みがつかない。もしこれがキース・ジャレットの「ケルン・コンサート」かなんかだったら、僕はすっかり反省しておとなしくシャブを高杉に渡してしまっていたかもしれないが、そうはならなかった。

「高杉さん」

「なに?」

「説明してもらえるかな、このシャブがいったいどういうものなのか」

 高杉は困り果てた表情を見せた後、頭をぼりぼり掻きながら、しょうがねえなあとつぶやいた。

 

 ホントはこんなこと知らない方が身のためだとは思うんだが、と前置きして、高杉は話し始めた。

 彼女の亭主は組のシャブを受け持ってたんだ。ところが、どこでどう欲をかいたのか、こいつでひともうけしようと絵を描いた。元々連中は中国ルートでシャブを仕入れてたんだが、奴は組に内緒で薄めてくれと頼んだんだ。つまり、混ぜものをして量を倍にしろと。それで奴は増えた分まるごと懐に入れようと企んだ。手下ふたりも巻き込んで。そのうちシマ内で、シャブの質が落ちたという噂が広まった。まあ、それが組の耳に入ったってわけだ。まあ、シマ内でさばくにしろ、どこか他の組に持ちかけるにしろ、なんかしら足がつく可能性が高いわけで、最初っから大雑把な話だよ。やつも結局さばききれないで手元に残っちまったわけだ。元々、なんつーか、この、プロジェクトを束ねることが出来るようなタマじゃないからな、所詮無理があったってわけだ。だから組にはとうにバレバレよ。知らぬは当人ばかりなりってやつで。

 セコい組だが、この組には大卒でのしてきた桃田って若い切れる奴がいて、実質こいつが組を仕切っているようなもんだが、そいつには筒抜けだったわけだ。

 

 そこで僕は思わず口をはさんだ。

「モモダ? ナシダじゃなくて?」

「ん? 桃だ。梨じゃない」

 僕はケイコをちらっと見ると、ケイコは俯いてぼそっと言った。

「似たようなものじゃない」

 

 その桃田にしてみれば、武史は年が上ってだけで一応シャブとか任せてはいたものの、やることが無茶苦茶なので元々目の上のたんこぶだったわけだ。桃田はこれからはシャブなんかよりも土地だって言ってる方だからな。まあ、これ幸いってところだが、小さい組で幹部クラスを破門にして身内の恥を宣伝することもない、と。桃田にしてみてもその辺の事情は管理責任みたいなところもあるし、まあそれでフリーのオレんとこに話が来たわけだ。武史の始末。話としては中国側の売人と揉めたことにでもすればいいってんで。要するにとかげの尻尾切りみたいなもんだ。武史の手下ふたり、玉井と金田はエンコ詰めさせて破門よ。桃田はそのときに玉井を締め上げて武史がシャブを隠してたことを聞き出した。それで後はあいつが欲こいた分を回収すればめでたしめでたし、ってとこだったんだ。

 

「それがその」そこで高杉はケイコの方を向いた。「お嬢さんが話をややこしくしちまったってわけだ」

 高杉はそこで一息つくと、ウェイトレスを大声で呼んで、コーヒーのお代わりを頼んだ。ついでに僕らの方を向いて、おたくらも飲む? と訊いた。僕は思わず、お願いします、と言ってしまった。この辺が高杉と話していると陥ってしまう妙な緊張感の無さである。実際、僕は喉がからからに乾いていた。ケイコはと言えば、相変わらず僕の袖をぎゅっと掴んだまま、下を向いてなにか思い詰めたように唇を噛み締めていた。

 コーヒーが届くと、三人とも同時にごくりとひと口飲んで、高杉はショートホープを、僕とケイコはマイルドセブンを喫った。僕はうまい、と思ったが、同時にいかん、これは高杉のペースなのだと、改めて自分を無理に引き締めた。高杉はふうとうまそうに煙をひとつ吐き出すと、しかめつらに戻って僕に言った。

「それで、今はお前がさらにややこしくしているってわけだ」

 僕は相変わらず仏頂面をしながら考えていた。とにかく納得できないものは納得できない。かと言って、この先もケイコが逃げ隠れして奴らの影に怯え続けなければならないのも困る。僕はジレンマに陥っていた。だんだん、これがケイコのための怒りなのか、自分のための怒りなのか分からなくなってきた。マイルスは例によって時折思い出したようにトランペットをクールに吹いている。

 僕は考えながら膝の上に重いバッグを引き寄せ、高杉から目を離さないまま、テーブルの下で中を探った。衣類やなんかの下の方に、油紙に包まれた固いものが手に触れた。僕は冷や汗をかくほどどきりとしたが、同時にこれで少しは安心だ、とも思った。僕は油紙を開いて、冷たい感触の銃身を握った。

 

22.

 

「高杉さん」

 先に僕が口を開いた。

「取り引きしませんか?」

「取り引き?」

 高杉は相変わらず半分はリラックスして、半分は困ったような口調で訊き返した。

「とりあえず半分だけ渡します」

「残りの半分の条件ってなんだ?」

「僕を桃田に会わせてもらえませんか?」

「会ってどうしようっていうんだ? 下手するとわざわざ殺されに行くようなもんだぞ」

「会って直接渡して交渉します。ケイコと僕に二度とつきまとわないように」

「お前なあ、チャカ突きつけられて渡せって言われたら、はいそれまでだぞ」

「僕もこれ持ってますから」

 僕はテーブルの下で拳銃の銃杷を握り締めた。高杉は身をかがめて僕の手元に目をやりながら眉をひそめた。

「素人がそんなもん持つと危ないぞ。それに相手はひとりじゃないんだ」

 僕は今朝見た夢を思い出した。からだ中から血を流して、ベッドの上でチューブだらけになる自分を想像して一瞬身震いした。

「桃田って人は話がそんなに分からない人間なんですか?」

「そんなことはないが、うーん……」

 高杉は本当に困り果てた顔をした。僕は僕で自分がもしかしたらとてつもなく無謀なことをしているのかもしれないとアタマの片隅で思っていた。ホントに火に向かって飛び込むようなものかもしれないと。しかし、もう僕は坂道を転がっているようなものだった。一番の原因はとにかく信じられないものだらけだということだ。果てはケイコのことまで信じられなくなりそうだった。とにかく確かなものが必要だった。僕は必死だった。

「オレに任せておけば問題ないのになあ。オレってそんなに信用ないかなあ」

 高杉はぼやいた。

「信用するなって言ったのはあんただ」

「やれやれ」

 僕はケイコに向き直って言った。

「悪いけど、出たところを右に突き当たるとディスカウントショップがあるから、そこでフリーザーバッグ買ってきてくれないか?」

 ケイコは不安そうな表情を浮かべながら、ねえ、ホントにこんなことやめて、と言ったが、僕の必死な表情を見て諦めの色を浮かべると、分かった、と言って店を出た。

 僕とふたりだけになると、高杉はもう一度テーブルの下を覗いて言った。

「おいおい、それトカレフだから安全装置付いてないからな、気をつけろよ」

 それからお代わりのコーヒーに口をつけると、まったく、素人が一番危ないんだよな、とぼやいた。それからおもむろに僕を真顔で見て言った。

「お前、ホントに彼女が戻ってくると思ってるのか?」

 その言葉は僕を動揺させるのに十分な効果があった。言われてみればそうだ。彼女が戻ってくるという保証はない。もし彼女が僕を愛しているわけではなくて、ただ僕を逃げるために利用しただけだったら、このまま戻ってこなくてもなんの不思議もない。僕はじっとりと脇の下に汗をかいた。だが、僕はもう引き返せなかった。もううんざりだった。早いとここの厄介な状態にけりをつけたかった。それには行くところまで行くしかないと思った。

「戻ってきます」

「いったいどこから来るんだ、その自信」

「自信なんかないですよ。それどころかなにも信じられない」

 高杉は新しい煙草に火を点けると、元ののんびりした口調で言った。

「なあ、これカタがついたらオレの弟子にならないか? マジで」

「探偵になれってことですか? それとも人殺しの方?」

「案外向いてるかも知れんぞ」

 どちらとも言わず、そう言って高杉はにやにやと笑った。

「高杉さん」

「ん?」

「最初に人を殺したのはいつですか?」

「なんだよ急に」

「訊いてみたくなって」

 高杉は気のせいかしんみりした顔になると煙をひとつ吐いて目を細めながら答えた。

「十八のときだ」

「どんな感じでした?」

「最初は怖かったな。でもひと晩だけだ。後は案外平気だったよ。なんでそんなこと訊くんだ?」

「オレもそうなるかもしれないから」

 僕が答えると、高杉は本当に心配そうな表情になって言った。

「なあ、あんまり無茶するなよ」

 

 ケイコは戻ってきた。僕は内心安堵の息を吐いた。本当は高杉の言ったように気が気ではなかった。僕はケイコすら信じられない自分と、そんな風に自分を追い詰める状況に苛立ちを覚えた。

 僕はケイコにシャブを半分に分けてフリーザーバッグに入れるように頼んだ。ケイコは店内に背を向けるようにして、トートバッグからシャブの袋を取り出すと、ベンチシートの上でフリーザーバッグに詰め始めた。途中で僕の方を振り向いて、量りようがないから適当でいい? と訊いてきたので、僕はうん、と答えた。僕は相変わらずテーブルの下で銃口を高杉に向けたままだった。できたよ、と彼女が振り向くと、高杉に片方渡すように言った。高杉はそれを受け取ると、悪いけどこれ裸で持って歩くのもなんだからその袋くれないかと、ケイコが買ってきたフリーザーバッグが入っていたディスカウントショップのポリ袋を指して言った。ケイコがそれを渡すと、高杉はシャブを袋に入れて傍らに置くと、僕に向き直って言った。

「なあ、考え直すのなら今のうちだぞ」

「ねえ高杉さん、二百万ってのも嘘でしょ、あんたの取り分」

「まあ手付金がそれぐらいってことだから、まんざら嘘って訳でもないけどな」

「だったらいいじゃないですか。どっちにしてもみんな丸く収まれば。あんたも成功報酬入るんでしょ」

 高杉は目を丸くして呆れた顔で言った。

「お前が四角くしてんじゃねえか」

 僕はそれもそうか、と思いそうになったが、いまさら後には引けない。

「とにかく、桃田と会えるように話をつけてもらえますか。できたら組の事務所じゃないところで。そうだな、できたらここ辺りがいいな。向こうはひとりで来ること。高杉さんも立ち会うこと」

「お前やっぱり商売間違えてんじゃないか。ひとりったってどうせ外に待たせとくぞ、何人かは」

「だから高杉さんにいて欲しいんですよ。助けて欲しいんです」

「やれやれ。そういうことそんなもん向けながら頼むかね、普通」

「ホントは信用したいんです」

 本心だった。とにかく誰かを信用したい。いまの僕に必要なのは、本当に信用できる誰かなのだった。

「まったく、しょうがねえなあ。分かった。明日までに話をつけとくよ」

「お願いします」

「お前んちに電話すればいいのか?」

「はい」

「じゃあ今日はふたり水入らずってわけだ」

 高杉はそう言うと僕にウインクした。僕は思わずちょっと赤面した。

「それともうひとつお願いがあるんですけど」

「なんだ?」

「ここの伝票、お願いします」

 高杉はいよいよもって呆れた顔をした。

 

 高杉がレジで支払いをしている間、僕は拳銃をジーンズに差してその上からブルゾンのジッパーを閉めて、外から見えないようにした。

 僕がケイコを連れて外に出ようとすると、高杉がケイコを呼び止めた。僕は思わずブルゾンのポケット越しに拳銃の銃杷に手をかけた。

「こいつが無茶するようだったら連絡してくれ」

 そう言って高杉はケイコに名刺を渡した。ケイコは黙ってこっくりとうなずいた。

 

 階段を降りて外の通りに出ると、雨はもう上がっていた。

 後から降りてきた高杉が僕らに声をかけてきた。

「オレ車だから送ってこうか? 高円寺まで」

「いいです、そのまま事務所まで連れてかれたらかないませんから」

 高杉は苦笑すると、それもそうだな、と言った。

 

 僕らは手を繋いで駅へと渡る歩道橋を上った。歩道橋の上でケイコは突然立ち止まって言った。

「ねえ」

「ん?」

「もしかしてわたしのことも信用できない?」

「そんなことないよ」

 そう言って僕はケイコに笑いかけた。そして、ああ、本当に彼女を信じられたら、と心の中で思った。

 

23.

 

「ヘンな人ね」

 山手線の中で、吊革につかまりながら彼女はぼそりと言った。そしてくすりと笑った。

「ああ、高杉だろ」

「あの人も、あなたも」

 ん、と眉を寄せて僕はケイコを見た。ケイコはもう一度くすっと笑うと言った。

「なんか似たもの同士って感じ」

「そうかなあ」

 僕はぶすっとして窓に向き直ると、流れて行く景色に目をやった。

 

 高円寺の駅に着いたころにはもう日が落ちかかっていた。

 駅を出て歩きながら、僕はケイコに晩飯どうしようか、と声をかけた。ケイコは目を輝かせてわたし作る、と答えた。大丈夫なの? と僕が訊くと、これでも元主婦なんだから、と彼女は笑って答えた。

 僕らは高円寺銀座のアーケードを抜けて、早稲田通りに抜ける途中にあるスーパーに立ち寄った。

 僕が彼女のトートバッグを替わりに持って、彼女は買い物カゴを手に売り場を楽しそうに見渡した。

「ねえ、なんか嫌いなものはある?」

 ケイコがそう尋ねたので、僕はちょっと考えて答えた。

「そうだなあ、肉の脂身、光り物、あとは内臓系」

 僕がそう答えると、ケイコはくすっと笑った。

「まるで子供みたい」

 ケイコは野菜売り場や肉売り場で目についたものを選んでカゴの中に入れていった。僕はその後をバッグと傘を二人分持ちながらついていき、なんかこういうのって新婚みたいだなあなどとぼんやり思った。束の間、それまでのゴタゴタを忘れて、なんか幸せだな、と思った。そんな中で、ジーンズに差したままのトカレフの固い感触が時折僕を現実に引き戻して水を差した。

 彼女はハンバーグを作った。それはお世辞抜きでおいしかった。僕がおいしいよ、マジで、と言うと、彼女は嬉しそうにホント? と答えた。僕は本当に幸せだった。彼女の嬉しそうな笑顔を見るだけで。これがずっと続いてくれればと思った。もしかしたらセックスのときよりも幸せかもしれないと思った。

 

 そんなことはなかった。彼女と何度も何度もキスをして、裸で抱き合っていると、なにもかも忘れられた。僕らは何度も交わって、そしてまたキスをした。

 僕は思わず彼女の中に射精してしまった。射精しながら、あ、いけね、と思ったが、同時にアタマの違う方では僕の子を妊娠してくれと祈る声も聞こえた。そんなことはお構いなしに、彼女は僕の背中をきつくきつく抱き締めた。

 うっすらと汗をかいて、並んで天井を見つめながら、僕は考えた。ホントに彼女が妊娠してくれればいいと。そしたら僕は彼女にプロポーズしよう。いや、妊娠していなくても、このいまの訳の分からないゴタゴタが収まって、それでも僕が生きていたら、プロポーズしようと思った。そんなことを考えながら、いつのまにか僕は眠りに落ちていった。

 

 電話が鳴っていた。

 気がつくと僕はいろんな疲れが一度に押し寄せて、すっかり熟睡していたようだった。隣でケイコがちょっと不安気な顔で、ねえ、電話、と僕をゆすっていた。僕は寝ぼけまなこを擦りながら、のそのそと隣の部屋に行って受話器を取った。ちらとオーディオタイマーを横目で見ると、午後十一時半だった。

「もしもし」

 すると、受話器の向こうから、聞き覚えのあるしゃがれ声が聞こえてきた。

「もしもし、マカベくーん。二百万はできた?」

「二百万? 二十万じゃないの?」

 答えながら、また胃に酸っぱいものがこみ上げてきた。現実ってのはどうしてこう急に僕を引きずり戻すのだろう?

「お前案外記憶力悪いな。まあそんなことはどうでもいい。女連れてこいや。そしたら返してやる」

 何度聞いても不愉快な声だ。まるで胃に巣食った潰瘍のように暑苦しい顔が嫌でも目に浮かぶ。また怒りがどこからともなく湧き上がってきてアタマを満たして行く。今の僕は以前とは違う。僕には彼女がいるし、トカレフも持っている。

「免許証ならくれてやるよ、再発行できるから」

「だれが免許証って言った? 女だよ。女連れてきたらもうひとりは返してやる」

 僕は顔から血の気が引いていくのが分かった。受話器の声が少し遠くなり、ほーらケンジくんだよー、というデブの声の後に、ワタベマチコのすすり泣く声が聞こえてきた。僕は怒りで一瞬目の前が真っ暗になった。殺してやる、と腹の中で呟いた。コロシテヤル。

「じゃあ、待ってるからよ」

 電話は唐突に切れた。

 気がつくと目の前にケイコが立っていた。彼女はいまにも泣き出しそうだった。会話から誰と話しているか分かったらしい。僕は彼女を見ないようにして慌しく服を着ると、トカレフをジーンズに差した。

 ケイコは床にぺたんと座り込んでいた。彼女の頬を大粒の涙が伝っていた。僕は彼女の肩を抱いて言った。

「行かなきゃ。マチコがつかまった。大丈夫だから」

「お願い、行かないで」

 彼女は涙でくしゃくしゃになった顔を僕の胸に押しつけた。僕は彼女の額にキスすると、もう一度言った。

「大丈夫だから。オレがなんとかするから。ここで待っててくれればいいから」

 彼女は嫌だ嫌だとしがみついてきた。僕はその手をほどいて言った。大丈夫だから、必ず戻ってくるから、マチコを連れて。本当はその後にたぶん、と付け加えたかったけれど。

 僕はケイコの唇にキスすると、部屋を飛び出した。

 

24.

 

 早稲田通りまで全力で走った。

 ケイコにはああ言ったけれど、本当はなにが大丈夫なのか自分でも分からなかった。ただ怒りだけが僕を突き動かしていた。マチコを巻き込んだのは自分だと思った。

 早稲田通りでタクシーを拾って、小平まで、と運転手に告げた。

 行き先を尋ねるときにちらっと僕の怒りに歪んだ顔を見て、運転手の顔に一瞬後悔の色が浮かんだ。走り始めても話しかけてこなかった。それはそうだろう、目の辺りを腫らして必死の形相をした僕がはあはあと息をしているのだから。

 僕は息を整えながら、なぜワタベマチコのことがあいつらに分かったのか考えた。やっぱり奴らは僕の手帳を見たのだ。あのとき。恐らくケイコの住民票を持っていたのも。くそ。ぼんくらだと思っていた僕が馬鹿だった。

 タクシーは青梅街道に入り、真っ直ぐに小平を目指して行く。僕はようやく息が整うと、ケイコのことを思った。なぜかもう会えないような気がして背筋に寒気を覚えた。僕はまた今朝見た夢を思い出した。周りからチューブが伸びてきて僕のからだに絡み付いてくるような気がした。これは恐怖なのだろうか、と僕は考えた。もしかしたら僕は死ぬのだろうか。そうだとしたらいったいなんのために? しかし、アドレナリンが支配しているいまの僕には、いくら考えても答えは見つからなかった。僕は考えるのを一切止めた。

 

 くるみハイツの向かい側でタクシーを降りると、僕は通りの向こうの二階に明かりが灯っているのを見上げた。一階のスナックからはカラオケの音が漏れていた。相変わらず辺りは人通りはなかった。僕はガードレールに腰掛けて、マイルドセブンを一本取り出して喫った。煙を吐き出しながら、僕は思った。ああ、またここに来てしまった。ここは本当に嫌な場所だ。ケイコの言うように、まだ彼女の亭主の邪悪さが残っているようだ。まるで未だに地下の駐車場の車の中には武史の死体があって、そこから腐臭が漂ってくるようだった。ここは僕にとっていったいなんなのだろう? 僕の死に場所なのだろうか? 不思議と恐怖は感じなかった。ただ不快なだけだ。僕は煙草をフィルター近くまで喫うと、アスファルトに捨ててリーボックのスニーカーで踏んで消した。そして通りの向こう側に歩き始めた。

 

 スナックの脇を通り過ぎると、どうやら中で唄っているのは「川の流れのように」のようだった。階段の下でもう一度トカレフを触って確かめると、僕は階段を上った。

 例のドアの前に立つと、一度深呼吸をした。右手にトカレフを握った。大丈夫だ。自分で言い聞かせた。大丈夫だ。

 試しにドアのノブをそっと回してみた。鍵はかかっていなかった。僕は音を立てないようにゆっくりとドアを開けると、中に入って同じように音を立てないようにドアを閉めた。部屋のどこかから女の嫌、と泣き叫ぶ声が聞こえる。僕は新たな怒りが足元からゆっくりと自分を満たして行くのを覚えた。それはとても言いようのない怒りだった。

 トカレフを右手に構えながら、スニーカーのままで足音を立てないように玄関の突き当たりまで行った。マチコの泣き声に混じって、先日ボコボコにされた部屋からはテレビの深夜番組の音が聞こえる。僕はドアを開けると中に入った。

 ソファに金髪の金田が座って、テレビを見ていた。僕が入っていくと、例の三白眼を見開いて、あ、と小さく声を出してそのまま呆けたように口を開けて僕とトカレフを見て固まった。僕は近寄るとトカレフの銃口を金田の額に押し付けた。金田は口を開けたまま、もう一度、あ、と言った。僕は顔を近づけると声を殺して、伏せろ、と言った。金田はひっと小さく声をあげると、ソファに顔を埋めるように伏せた。僕はトカレフを左手に持ち替えて、テーブルの上の、先日僕がしこたま顔を打ったクリスタルガラスの灰皿を右手に持つと、金田の後頭部に思いきり振り下ろした。ぐっと言って金田はからだを一瞬のけぞらせると、動かなくなった。血が飛び散ったが、ソファがクッションになっているので、死んではいないかもしれない。念のために、部屋の床に落ちていたコンビニのポリ袋で両手を後ろ手に縛った。僕はもしかしたらもう人を殺したのだ、と思った。しかし、不思議なもので怖くなかった。何も感じなかった。案外平気なものだな、と思った。それとも後になって怖くなるのだろうか。

 ワタベマチコの泣き声は奥のドアの向こうから漏れ聞こえてくる。ベッドがぎしぎし言う音とともに。

 僕はそのドアを開けた。中は寝室らしく、部屋の中央にセミダブルサイズのベッドが置いてあった。その上で、頭にヘッドフォンをしてせかせかと腰を動かしている醜悪なデブの裸の後姿が見えた。薄汚い尻と肉のはみ出した横腹の向こうに、這いつくばって涙で顔をくしゃくしゃにしているキョンキョンそっくりのワタベマチコが見えた。彼女は後ろから犯されているところだった。僕はデブに後ろから近寄ると、禿頭からヘッドフォンを引き剥がした。驚いて玉井がこちらを振り向いた。床に落ちたヘッドフォンからは演歌が漏れ聞こえていた。最低、と僕は思った。

「離れろ」

 僕は両手でトカレフを構えて言った。玉井は目を見開いたまま、まだ腰を動かしている。

「離れろ」

 僕はもう一度言った。ベッドの脇の床には、ワタベマチコのものらしいジーンズとTシャツとともに、僕があげたロゴ入りのスタッフジャンパーが脱ぎ捨ててあった。ようやく状況を把握したらしい玉井がこちらを向いてちょうど正座をするような格好で動きを止めた。ワタベマチコが僕に気付いて、ケンジくん、と涙声で言った。

「マチコちゃん、こっちに来て服を来て」

 玉井に銃口を向けたまま、僕が声をかけると、ワタベマチコはベッドから飛び降りて、床から服を拾うと裸のまま僕の背中にしがみついた。そして背中に顔を押し付けてしゃくりあげて泣いた。

「いいから早く服を着て。隣の部屋に行って。大丈夫、金田はオレが殺したから」

 そう言うと、ワタベマチコはようやく背中から離れて、隣の部屋に行った。

 玉井は目を見開いたまま、はあはあと肩で息をしていた。禿頭から汗がしたたり落ちている。

「免許証」

 僕は銃を構えたまま言った。玉井はヘッドフォンを繋いでいたベッドサイドのミニコンポを指差した。

「こっちへ投げろ、デブ」

 僕が言うと、玉井はのろのろと手を伸ばしてミニコンポの上に置いてあった僕の免許証を取って、こちらに放った。それは僕の足元に落ちた。

 これで十分だ、という声がアタマのどこかから聞こえた。もうすべて手に入れた。これで十分だ、と。後はワタベマチコを連れてケイコのところへ戻るんだ。

 もうひとつの声も聞こえる。殺せ。お前はもうひとり殺したんだ。こいつを殺さなければなにも解決しない。引き鉄を引けばそれでオーケイだ。それでお前もケイコもマチコも自由だ。殺せ。

 僕は混乱していた。顔を汗がしたたり落ちる。ああ、どうしたらいいんだ。この一週間と同じだ。なにがホントでなにがホントじゃないか。これが果たして現実なのか。金田は本当に死んだのか。僕は人を殺したのか。そして殺すべきなのか。

 服を着終わったらしいワタベマチコの声が背中の方から聞こえる。やめて、ケンジくん。やめて、というケイコの涙声もアタマの片隅で聞こえる。無理すんな、という高杉の声も。もう一度ワタベマチコが泣きながら叫んだ。やめて、ケンジくん、逃げようよ。ケイコの声がまた聞こえてくる。お願い、行かないで。わたしのこと好き? チューブが周りから伸びてきて僕に絡み付く。僕はなにをしているのだろう? これはいったいなんなのだろう? 誰か教えてくれ、どれがホントでどれが嘘なんだ。

 そして僕は引き鉄を引いた。

 

25.

 

 カチッという音がした。

 弾は出なかった。もう一度引き鉄を引いた。カチッ。二度、三度。カチッ、カチッ。

 なんだこれは。弾が入ってないじゃないか。

 玉井の二重三重になった顎が動いて、奴がにやっと笑ったんだと気付いた。のそっとベッドの上に仁王立ちになると、ガキが、と例のしゃがれ声で言った。

 僕は両手で弾の入っていないトカレフを握ったまま、まだ引き鉄を引いていた。何度引いたんだろう? どうして弾が出ないんだろう? チューブが僕に絡み付く。わたしのこと好き? 僕は死ぬのだろうか、ケイコ?

 玉井がスローモーションで動いている。ベッドサイドに降りて、壁に立てかけてあった日本刀を抜くのが見える。まるでコマ送りを見ているようだ。僕はまだ銃を構えている。早く逃げろ、とアタマのどこかで声がする。玉井が日本刀を持ってゆっくりとこちらに足を踏み出している。太鼓腹の下に醜悪な性器が見える。半端な刺青の入った太い腕を汗が伝っている。日本刀の先がきらりと光る。その先がゆっくりと持ち上がるのが見える。ゆっくりと。まるで昔見た眠狂四郎の円月殺法みたいだ。ああ、僕は死ぬんだな、と思った。

 

「そこまでだっちゅうの」

 どこかで聞いた声だ。

 ブスッという音がした。玉井のてらてら光る額に赤い穴が開いた。もう一度ブスッという音がして今度は女の乳房のような胸に赤い点ができた。そして玉井はゆっくりと仰向けに倒れた。

 僕はなにが起きたのか分からなかった。これはホントなのか? 夢なのか現実なのか?

 急に酷い疲れがからだ中を襲った。トカレフがまるで何トンもの重さがあるように感じられて、僕はようやく両手を降ろした。

 振り向くと高杉がいた。右手にサイレンサーの付いた拳銃をぶら下げて。

「まったく、世話焼かせるよ、素人は」

 そう言うと、高杉は僕の肩をぽんと叩いた。それでようやく僕は我に返った。僕は鉛のように重くなったからだを折り曲げて、足元の免許証を拾った。

「高杉さん、これ」

 僕がトカレフを見せると、高杉は言った。

「ケイコが泣きながら電話かけてきてさ、弾抜いちゃったって。お前が寝てる間に」

 ケイコは僕を人殺しにしたくなかったのか。

 高杉は僕の肩を掴んで隣の部屋に引っ張って行った。いつのまにかワタベマチコの他に、スーツを着た商社マンみたいな端正な男が立っていた。男は僕を見ると、軽く頭を下げた。高杉が言った。

「紹介するわ。オレの大学の後輩で、桃田」

 僕は唖然として言葉が出なかった。

「そんなわけだから心配するな。後はこいつが始末するから」

 僕は思い出してソファの金田に目をやった。金田は相変わらずの姿勢で動かなかった。僕がそれを指差して、これ、と言うと、桃田が口を開いた。

「大丈夫。死んでません」

「そんなわけだから、お前は彼女をオレの車に乗せてやってくれ」

 高杉はそう言うと、僕のあげたスタッフジャンパーを着て身を震わせているワタベマチコを見やった。僕は座り込んでいる彼女に手を貸して、さあ行こうと声をかけた。

 僕は彼女の肩を抱きかかえながら玄関の方に向かおうとして、ふと思い出して桃田に声をかけた。

「あの」

「わたしらはブツが戻ればそれでいいんです。ご迷惑おかけしました」

 桃田はそう言うと、にこっと爽やかに笑った。ケイコの言ったように本当に物腰の柔らかい男だった。僕はぺこりと頭を下げると、ワタベマチコの背を押して玄関へと向かった。ちらっと後ろを降り返ると、桃田がソファに伸びている金田の頭にクッションを載せて拳銃を胸元から取り出すのが見えた。玄関でワタベマチコが靴を穿いていると、ブスッという鈍い銃声が聞こえた。

 

 僕はマンションの向かい側に停めてあった高杉のブルーバードの後部座席にワタベマチコと並んで座っていた。ワタベマチコはまだ泣いていた。僕は彼女を抱き締めて、もう大丈夫だからと何度も囁いた。

 五分ほど待つと、高杉が降りてきた。高杉は運転席に座ると、こちらを振り向いて言った。

「その子どうする?」

 僕は驚いて慌てながら言った。

「この子は大丈夫です。ホントに口固いから」

「そういう意味じゃないよ」高杉は苦笑した。「どっちにしても死体が出なかったら事件にもならんだろ。そうじゃなくて、その子んちに送り届けるか、とりあえずお前んちに送るかってことだ。ま、たぶん今日はひとりでいたくないだろうから、泊めてやってくれよ」

 僕はほっとしてうなずいた。

 車が走り始めてしばらくすると、ワタベマチコは僕の腕の中で泣き疲れたのか寝息を立て始めた。

「眠ったのか?」

 運転席から高杉が声をかけてきた。僕はうん、と答えた。

「なあ」高杉はバックミラーで僕をちらりと見ながら言った。「どんな感じがした? 怖かったか?」

「怖いとかは思わなかった。後でどうなるかは知らないけど」

「やっぱりお前オレの弟子にならないか?」

「考えときます。ねえ、高杉さん」

「なんだ?」

「本当に金田は死んでなかったんですか?」

「どっちでもいいんじゃねえか?」

 そう言うと、高杉はカセットをカーステレオに入れた。ジョン・レノンの「イマジン」が聞こえてきた。僕はそれを聞きながら、今度こそ信じようと思った。高杉も、桃田も、そしてもちろんケイコも。しかし、どうしてもまだ引っ掛かるところが残っていた。ジョン・レノンはすべての人が平和に暮らすことを想像しろと唄っていた。

 

 早稲田通りを入るころにワタベマチコは目を覚ました。僕は今日はうちに泊まるんだ、いいね、と言った。ワタベマチコはこくんとうなずくと僕の胸に顔を埋めた。

 アパートの前に車が停まると、僕はワタベマチコを抱きかかえるように降りた。高杉も一緒についてきた。

 部屋の前まで来ると、僕は胸騒ぎを覚えた。嫌な感じがした。

 ドアには鍵が掛かっておらず、僕はワタベマチコを連れてドアを開けるとケイコ、と声に出した。しかし、部屋には人の気配はなかった。ケイコはまた僕の前から姿を消した。そして、もう二度と会えないのだと僕は思った。

 

 コタツ兼テーブルの上に、シャブの残りの半分がフリーザーバッグに入ってちょこんと乗っていた。その下にメモが挟んであった。

 それにはこう書いてあった。

 ごめんね。 ケイコ

 僕は膝を付いてそれを読むと、涙がひとりでに湧いてきた。後から後から湧いてきた。

 ワタベマチコをベッドに寝かせていた高杉が僕の傍らに来てぽつりと言った。

「振られちゃったか」

 その口調にはいつもの茶化しているような感じはなかった。僕は涙を手で拭うと、下を向いたままテーブルの上のシャブを高杉に手渡した。高杉はそれを受け取ると、玄関に向かいながら僕に声をかけた。

「じゃあな。元気出せよ。気が向いたら電話でもくれ」

 背中でドアの閉まる音がした。僕はもう一度メモを見た。ごめんね。僕ははっと気付くと、慌ててスニーカーを引っ掛けて表に飛び出した。

 高杉はちょうどエンジンをかけたところだった。僕が走ってくるのを見ると、ウィンドウを開けた。

「どうかしたか?」

 僕はウィンドウに手をつくと、はあはあと息を切らせながら言った。

「ケイコが殺したんですね?」

「なに言ってんだ? いまさら」

「彼女が殺したんですね?」

 僕はもう一度問い詰めた。彼女の言っていたことはどこか無理があった。僕はそれを分かっていながら分かろうとしなかった。

 高杉はしばらく前方を見て黙っていたが、エンジンを切るとショートホープに火を点けた。そして口を開いた。

「なんで分かった」

「そうじゃなきゃ辻褄合わないんですよ。高杉さんが殺したんなら、シャブを見逃すはずはない。彼女が持って逃げるはずがない」

「いいセン行ってるが、ちょっと違うな」

 高杉はふうっと煙を吐き出した。いつかケイコが僕と高杉が似たもの同士、と言っていたことを思い出した。やたら煙草を喫って、コーヒーが好きなところは似ているかもしれない。

「考えてみろ。オレがふた月もうろうろするほど要領が悪いように見えるか? オレが首を突っ込んだのは今月、あ、月変わったから先月か、とにかく最近の話だよ。だいたいお前に辿り着くのに一ヶ月も掛かるわけないだろ? ケイコがいなくなったのは九月に入ってからだ。それから桃田が玉井を締め上げてようやくシャブの存在が分かった。武史の悪さが組にバレたのは奴が死んでからの話だ。彼女は先月まであそこにいたんだよ。たぶんシャブをどこかに隠して、タマにやって来る玉井や金田をトカレフをちらつかせて追い払いながら」

 彼女はなぜ武史が死んでからもあの部屋に留まったか。それは彼女が留まらざるを得なかったからだ。当日に姿を消してしまっては自分が殺したと言っているようなものだ。彼女の犯した間違いは、凶器と一緒に余計なものまで持ち出してしまったことだ。いや、持ち出さざるを得なかった。警察の余計な詮索を免れるためには。結局、彼女は最初からがんじがらめのところにいたのだ。傍から見れば、早々に玉井たちにシャブを渡してしまえば、とも思ってしまうが、たぶん、一度僕の部屋に隠してしまったがために、彼女はシャブを持っていないと言い続けるしかなかった。それに渡しただけでは済まないと思ったのだろう。それぐらい彼女は恐怖で追い詰められていた。

 彼女は玉井たちが合鍵を持っていたので、彼らが来るようになってからはなかなか外出もままならなかったのだろう。あの趣味の悪い部屋で、恐怖に膝を抱えながら。そして僕の部屋に電話をしてみても、留守電が流れるだけだった。僕はそのことを考えると胃がきりきりと痛んだ。

「あの日、武史が殺された日の二三日前から、三階のスナックのオヤジが階段から落ちて一週間ばかり入院してたんだ。一階のスナックも当然休業だ。彼女にしてみれば、今しかないと思ったんだろうな」

 高杉はそう言うと煙草を灰皿で揉み消した。僕は追い詰められた彼女を思い浮かべて胸が痛くなった。なぜ彼女がそこまで追い詰められなければならなかったか。武史という極道の担当になってしまった。ただそれだけのことで。僕はその理不尽さに改めて胸が締めつけられるようだった。

 分からないことがもうひとつあった。桃田との関係を持ち出せば、もっと簡単に僕からシャブを手に入れられたはずだ。もっとも、あのとき僕がその話を信じられたかどうかは別だが。

「まあ、人を簡単に信用しちゃいかん、ってことだ。オレの誤算は、お前がやくざと聞いても案外びびんなかったことかな。それと思いのほか無鉄砲だってことだ」

 僕はさらに問い詰めた。

「どうしてあの喫茶店で本当のことを言わなかったんですか?」

「なあケンジ」高杉は初めて僕を名前で呼んだ。「あの子は本気でお前に惚れてたよ」

 そう言うと、高杉はエンジンを掛け直し、あの人懐っこい笑みを浮かべてから走り去った。

 

26.

 

 夢を見ていた。

 それは悪夢のようでもあるし、そうではないようでもあるし、そもそも夢なんてものをつぶさに覚えていることなど滅多にないのだ。大概の場合、起きてしばらくすると跡形もなく消えてしまう。僕がうなされるのは、そのさなかにいる間だけだ。夢とは所詮そういうものだ。

 また電話が鳴っていた。それで僕の夢はフェイド・アウトした。電話で起きるのは今週何度目だろう? そのうちいい電話は何本あったのだろう? 夢の中でも電話は鳴るのだろうか? 音を立てて。

 僕はベッドから起き上がった。傍らにはワタベマチコが寝ている。昨夜一緒に寝てくれとせがまれたのだ。彼女はよほど憔悴していたと見えて、電話の音でも起きる気配はない。

 僕は隣の部屋に行き、受話器を取った。もう誰からの電話とか、いい電話なのかそうではないのかとか、そんなことは考えないことにした。大体いい予感なんてものは滅多にないし、受話器の向こうにあるのは現実のひとつに過ぎない。数多くの現実のうちのひとつが、気まぐれでやってくるのに過ぎないのだ。

「もしもし」

 そういえば僕は名乗らないのが癖になってしまっている。受話器の向こうは無言だ。もう一度言ってみる。

「もしもし」

 もしかしたらこれは夢の続きで、どこにも繋がっていないのだろうか? どの現実にも。

 そんなことを考え始めた途端に、声が聞こえた。

「よかった。生きてたんだね」

 ケイコだった。僕はやっぱりこれは夢の続きなのかもしれないと思った。どちらでもよかった。昨夜僕が分かったと思ったことも、確証があるわけでもない。僕が分かっていることなど高が知れている。現実はいまだに謎だらけだ。それはいつまで経っても平行線を辿り、辻褄が合うことなどないようにさえ思える。僕はその間をふらふらとさまようだけだ。

 それでも僕は返事をする。

「うん」

「よかった。本当によかった」

 受話器の向こうから聞こえるケイコの声は涙声だった。僕は次になんと声をかけようか考えた。なんと言っていいのか分からない。結局僕の口から出たのは、なんとも間が抜けたものだった。

「元気?」

「ごめんね、ケンジ。わたし一杯嘘ついた」

 大丈夫だ、ケイコ、嘘を吐くのはきみだけじゃない。そもそも僕には嘘と現実の区別がつかない。だからすべてが嘘であっても不思議ではないし、すべてが本当であっても不思議ではない。

「オレのこと好き?」

「好きよ」

「ならいいんだ」

「ありがとう。……さよなら」

 それで電話は切れた。今のは現実だったのだろうか? 夢だったのだろうか? たぶんそれはどちらでもいいのだ。さほどの違いがあるわけではない。でも、だったらなぜ僕は涙を流しているのだろう?

 

 昨夜は熟睡するワタベマチコの隣で、しばらく寝つけなかった。からだはまるで自分のものでないように疲れ果てていたにも関わらず。かといって、異様に精神だけが高ぶっていたというわけでもない。僕は混沌に身を置くことにすっかり慣れてしまっていた。僕はぼんやりと考えていた。この一週間あまりが僕にもたらしたものはいったいなんだったのか。混沌を混沌として理解することもそのひとつかもしれない。そして僕自身がその混沌のひとつであるということも。僕は金田のことを考えた。僕は果たして人を殺してしまったのだろうか? それはたぶん僕には永遠に分かるまい。今ごろは既にあの死体はどこかに運ばれて、明日の今ごろは、いつか夢に見たようにコンクリートの塊となってゆらゆらと暗い海を沈んで行くか、それともどこかの山の中で朽ち果てて行くのか。いずれにしても彼らが存在したことすら怪しくなってしまうに違いない。僕は怖くなかった。自分が殺したのだとしても。僕は彼らを殺したかった。そういう自分のことを考えても怖くはなかった。奇妙な曖昧さだけが残る。もしかしたら高杉の言うように、僕は本当に人殺しに向いているのかもしれない。ケイコはなぜ弾を抜いたのだろうか? 彼女は単に僕に人殺しをさせたくなかっただけなのか。それとも一瞬たりとも僕のことを知り過ぎた人間だと彼女が考えなかったとどうして言い切れる? 彼女はなぜいなくなったのか? 彼女は自分の過去をすべてリセットするしかなかったのかもしれない。彼女が本当に自由になるには、過去に関わるものすべてを忘れるしかないのかもしれない。そして僕もそのひとつなのだ。たぶん。

 

 どうやらワタベマチコが目を覚ましたようだ。コーヒーを淹れよう。