horror

「ホラー、あるいは恐怖を楽しむ」

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僕は自分の小説「幽霊譚」をポップなホラーとして書いたつもり。しかし、読んだ人はみんな、恋愛小説でしょう、と言う。確かに、僕はわざと「怖くないホラー」を書いた。そもそもの発端が、煮詰まった挙句に「幽霊と恋をする」という使い古されて色褪せた、もっともありふれた素材でどこまで面白いものを書けるか、という試みだった。書き出しの一行が頭に浮かんだ時点でもう後はオートマチックに書いた。一人暮らしの2階のベランダに人がいたらかなり怖いだろうな、というのも途中で思いついた。でも全体を通してちっとも「怖くないホラー」をどこまで読ませるか、ってのが敢えて言えばテーマだ。同様にサイトにアップしている短編「リッスン」の方は実は「ちょっと怖いホラー」のつもりで書いたのだが、これを恋愛小説と捉える人が多いのでちょっとびっくりしたと同時に目論見が外れてがっかりしたのだけれど、恋愛小説として読んだ人が褒めてくれるのでちょっと複雑な気がした。

僕は「ホラーのキング」スティーヴン・キングをあまり好まない。僕には真っ当なホラー過ぎてキングの小説をあまり怖いと思ったことがないし、巷で言われているほどストーリーテラーとして引き込まれたことがない。っていうか、そういう印象があるのであまり読んだことがないので、単に知らないだけなのかもしれない。似たような立ち位置の作家、ディーン・R・クーンツの小説の方が読むには面白いと思う。スピード感が違う。ただし、クーンツの小説も本当に「怖い」と思ったことはない。キングの代表作であり、キューブリックの代表作でもある、傑作と呼ばれる映画「シャイニング」も何回も見たがそんなに怖いとは思わなかった。確かに狂気を具現化する映像は美しい悪夢のようなイメージだが、ラストに至るまで、本当に追い詰められたという感覚がない。キングにしてもクーンツにしても、所詮陽気で能天気なアメリカ人なのだ。どうしてもそれが透けて見える。だから「面白いんだけど怖くない」、というところに落ち着いてしまう。

たぶん、日本人の感じる恐怖と、キリスト教圏の恐怖は質が違うんだと思う。しかし、ラブクラフトやサキといった古典的なホラー、もしくはエドガー・アラン・ポーの作品の方がむしろ怖いと感じるのは、前者がキリスト教的に不吉と感じるところに着眼して書いていること、つまりそこに踏み出してはいけないところに手を伸ばしていること、後者に関しては「文学」として成立している、つまり筆力と着想が図抜けているからだと思う。

「エクソシスト」の場合、先に映画で見た。前評判があまりにも高く、見る前からいろんな情報をあまりにも吹き込まれていたのでハナから怖いものだと思って見ていた、ある意味恐怖を事前に刷り込まれていたのでなんか怖いと思って、こう、どきどきしながら見たのだが、後で考えてみると首が180度回転するところなんて笑っちゃう。ああなるともはやギャグである。ただ、全編を通して(マイク・オールドフィールドの「チューブラーベルズ」を音楽に使ったこともあり)、不吉さと禍々しさには満ちている。その点が成功した原因だと思う。結局のところ、キリスト教圏のホラーに重要なのは、事象としての恐怖よりもむしろ不吉さだと思う。映画「オーメン」はタイトルがそのものずばり、って感じだ。

そういった諸々の観点を踏まえても踏まえなくても、僕が読んだホラーでもっとも秀逸なのはアイラ・レヴィンの「ローズマリーの赤ちゃん」だ。腰が抜けるほど怖いわけじゃない。びっくりするようなことは最後の最後に、ホントにラストの数行になってようやく出てくる。その構成自体がまず秀逸だ。なんとなく不吉な予感を終始漂わせながら、なんでもないことの積み重ねで雪が降り積もるように次第に恐怖が静かに降り積もって満ちて行き、それは最後の最後に具現化するまでストイックなまでに抑制されているが故に怖い。本当によく出来ている作品だ。小説の手法としても美しい。

日本人の感じる恐怖のツボを一番よく知っているのは稲川淳二かも知れない(笑)。稲川淳二は恐怖を具体的にイメージ化することに長けている。それに比べると、一連の「リング」関連作品とか、話題になった「呪怨」とかは結果的にちっとも怖くない。「リング」のアイディア自体は怖いと思うのだが、最後に台無しになる。「呪怨」に至っては笑っちゃうだけで、馬鹿馬鹿しいだけだけど、監督の清水崇が敢えて笑いを狙ったのであれば分かる。タランティーノみたいに。清水が本当に怖がらせようと思って撮ったのであれば、お化け屋敷とさして変わらない。「リング」は本を買って読もうとはしたのだけれど、冒頭の何十ページを読んだところで、映画と変わらないじゃん、と思ったのと文章力のなさから読む必要はないな、と思ってそれっきりになっている。もしかしたら最後までちゃんと読むと怖いのかもしれないが、たぶんそれはないだろう。作者の鈴木光司は躍起になって怖がらせようとしすぎ。そういうのはかえって逆効果だ。大サービスすればいいってもんじゃない。

単純にエンターテインメント作品として日本のホラーで怖いと思ったのは、最近(でもないか)では貴志祐介の「黒い家」。サイコパスを描いたこの作品は冷静に考えると終盤でエスカレートしすぎ、って感じがしないでもないが、サイコパスの怖さというものを描いたその着眼点がよかった。映画の方は期待外れだったけど。貴志はその後「天使の囀り(さえずり)」という腰が抜けるほどの駄作を書いて僕をがっかりさせた。ベストセラーになった瀬名秀明の「パラサイト・イヴ」と同じぐらいくだらない作品。ところでその貴志がふたたびサイコパスを題材にした新作「悪の教典」を書店で目にして、気になってしょうがない。もしかしたらとんでもなく面白いのではないか、と思って。たぶん、物凄く面白いか物凄い駄作かのどちらかだと思う。

いずれにしても、実は一番怖いのはノンフィクション、つまり事実そのものだ。「新潮45」からのアンソロジーが文庫化されている中で、僕が以前勤めていたレコード会社の人間が自分が自殺するのをカセットテープに録音して実況中継したものがあって、それはもうホントに怖い。シャレにならんくらいに怖い。蓮見圭一の「悪魔を憐れむ歌」は熊谷で起きた埼玉愛犬家殺人事件の共犯者の独白という形のドキュメンタリーだが、人間の狂気の本質を描いていて怖い。

まあ、僕としてはそんなに怖がりたいわけじゃないんだけど。要するに僕が得たいのはスリルであったりするので。だからリドリー・スコットの「エイリアン」とか、マイケル・クライトンの処女作、「アンドロメダ病原体」とかでいいのだった。

written on 23rd, sep, 2010

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