horse is horse vol.5

「名前のない馬」

このタイトルを懐かしく思った人...トシです。

このあいだテレビでシンザンの特集をしていた。しかし、本当の名馬というのはどうしてこうもいい顔をしているのだろう?

something newにも書いたのだが、先日後輩に友達を紹介されて、彼の知り合いのアーティストについての相談を受けていた(ややこしくてすいません)。彼は某大手出版社に勤めていて、たまたま話の流れでパチンコと競馬だったらオレ記事書けるよという話をしていたら、競馬の本でも書いてみたらみたいな話になった。何でも彼の会社で出版したタクシーの運ちゃんが書いた競馬の本が売れているそうなのである。どうせ冗談だろうと思っていたのだが、翌々日スタジオから朝方帰ると、なんと彼からそのタクシーの運転手の書いた本が届いていた。

いろんなところに書いているように、僕はここ半年あまり競馬のデータ更新をさぼっていて、それとともに馬券も買っていないし、競馬中継もダイジェストでちょこっと見る程度。したがってホントに本を書くかどうかはさておき、いちおう読んでみることにした...。

やっぱり。予想通り。売れる競馬の本てこんなもんなんだなあ、というのが僕の感想。要するに全く論理的な根拠がないのだ。この運転手は年間500万プラスになったというのが最大のウリで、実際この本が売れたり彼が話題になっているのも、その一点だけだろう。彼の予想の最大の特徴(でもこの手の本にはホントによくある)は、馬を馬として見ていないこと。単に賭けの対象としての数字もしくは番号としてしか見ていない。実際彼もほとんど馬の名前すら知らないことを自慢気に語っている。彼の予想法は日刊スポーツ(たまたま僕が購読している新聞だ)のコンピュータ予想の指数を使って、過去の成績の偏りからパターンをあてはめているだけ。しかも、論点は一つではなく、ひとつのレースに全然違う買い目が数パターンが存在したりする。つまり「この数字が出現したときはこのパターンで決まることが多い」というヤツ。おわかりだろうか?つまりいままではこうだったということを言っているに過ぎない。過去のデータの偏りがそうだっただけで、これからもそうなるという根拠は何もないのだ。

この人の自慢は10万馬券を含む万馬券等の高配当を数多く的中したこと。彼のプラスはそこから来ている。当然である。何しろ彼は一レースにつき少なくとも10点以上、多い時は20点以上も買っているのだから、毎回当る訳でもなし、万馬券でも当らん限りプラスにはならん。ではなぜ万馬券が当ったのか?それは彼が根拠のない買い方をしているので、根拠のない馬券が当るのだ。一応根拠はなくともある程度一定の(そうでもないが)買い方を続ければ、確率論からいって何パーセントかは必ず的中する。その買い方が理に叶ってなければないほど、普通は買えない馬券が的中したりする訳だ。ようするに誕生日馬券をひたすら買い続けてたまたま万馬券が当ったというのとほとんど変わらない。賭けてもいいが、この本を読んでひたすら有り金を賭け続けたらケツの毛まで抜かれちゃうよ、マジで。

僕が一番気に入らないのは、彼が競馬をチンチロリンとかと同じ単なる賭事としか見ていないこと、競馬を数字が走っていると思っていることだ。確かにテラ銭を25パーセントという世界でも例を見ないほどボッタくっているJRAはひどいよ。純然たるスポーツと言えないのも確か。でも競馬にドラマがあるのも確かなのだ。たったの三頭から始まったサラブレッドの血が延々と現代まで続いているのは単なるギャンブルとしてではない。競馬が他の公営ギャンブルと違う点は、馬が走っていること、そしてその馬には「意志」があり、「個性」があり、「歴史」があることだ。だから僕は血統やそこから来る距離適性や馬場適正、馬の賢さやそこから来る気性や意志の強さを予想するときに無視することはない。血統を超えてしまうような個々の馬の個性を無視することもない。それらすべてを含めたことに競馬の予想の本当の面白さがあるからだ。だいたい、全く根拠の無い買い方や、人の言う通りに買って偶然当って面白い?自分の予想通りに当ってこそカタルシスが得られるんじゃないの?

ちょっとアツくなってしまったが、冒頭のシンザンの顔や、ラムタラの気品や、昔脚を折って競走中止した馬(また名前を度忘れした)が落馬した騎手に鼻面をよせた逸話を僕は大事にしたい。僕には所詮正論しか書けないだろう。かの運転手のように大万馬券を連発することも、大幅プラスにすることもないだろう。だからたぶん僕は本を書けない。書いてもたぶん売れないだろうから。買う人はいくらプラスになったということしか目に入らないから。

でもこれだけは言っとくけど、競馬場では、名前のない馬はただの一頭も走っていないよ。

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