jealousy

「嫉妬、あるいはシット」

...

地元で一番気に入っている喫茶店でカプチーノを飲んでいたら、カウンターの中で店員同士が話しているのが聞こえてきた。バイトの女の子が雇われ店長に「コンクリート詰めのホステスって、わたしの友達の下の階の人だった」と話している。なにっ、コンクリート詰め?そんな事件知らなかったな。それはともかく、その話を耳にして、なんだか「いいなあ、そんな派手な事件に関係してて」みたいな何やらよくわからないうらやましさみたいなものがふっと沸いてしまった。たぶん、しゃべっている女の子も知ってか知らずか、どこか自慢しているニュアンスがあるのだろう。一体全体、そんなものをうらやましがったり、自慢したりしてどうなるのだ、と言う感じがするが、人間というのは不思議なもので、とにかく何かにつけて他人より優位に立とうとしたり、嫉妬したりしてしまうものだ。

考えてみれば、このコラムに前も書いた、僕の同級生が同級生を殺した話なども知らず知らず、どうだオレはこんなにエキセントリックな事件を起こした奴と知り合いだったのだ、みたいな訳のわからない自慢みたいなものが含まれている気がする。当時の実際のところは、もう亡くなったおばあちゃんに朝起こされて、いきなりテレビで血だらけのTシャツで逮捕されている同級生の映像を見たときは、ショックが先に立っていた。朝日新聞の社会面にデカデカと載ったときも、まだホントなんだろうかと現実味があまり無かった。要は自分には累が及ばないとなると、人間ゲンキンなもので自分の演出に使いたくなったりしてしまうのだ。嫌な言い方をすれば、とにかく何でもいいから人より優位に立ちたいという気持ちが働くのだろう。

嫉妬というのは自分にとっては実にやっかいな感情である。不思議なことに英語のクソ!(shit)という悪態の発音と似ている。欲を言えば、「妬まれることはあっても、妬まない」というのが理想なのだろうが、人間というのは欲深いもので、ともすると「妬まれたい」みたいな欲が出てきてしまったりする。どっちにしても、嫉妬というのはろくなものではない。ひとつには劣等感の裏返しだからだろう。思い返せば、僕は20代前半まではとんでもなくやきもち焼きだった。というのも、自分が女性に対してオクテだったことから、男として自信がまだなかったのだろう。このコンプレックスは皮肉なことに、一時期遊びまくったことで少しは解消された。そんなことで自信もっちゃいけないような気もするけど...。

嫉妬心というのは、ただ単に自分の満たされない独占欲からだけ来るものではなく、ある種自分の中の劣等感や疎外感との戦いであったりする。例えば、好きな女の子がいて、自分の知らない彼女というものを知っている人間が他にいるということに嫉妬したりするのは、もしかしたら自分だけが知らないのかもしれないという疎外感や劣等感に苦しんでいたりするのだ。ある種自分の弱さと向き合っているわけで、人を妬んでしまうというのは自分の器の小ささに苦しんでいるようなものなのだが、かと言って、まったく嫉妬することがない完成された人間というのも、言い方を変えれば枯れてしまった老人のようである。我関せず、という孤高を貫くスタンスも格好のいいものではあるが、それなりに寂しい人間のような気もする。どっちにしても、僕の場合は当分自分の弱さと向き合って生きていかなければならないようである。シット!

back