my favorite things vol.19

「ヴードゥー・チャイルド」

いまだに僕のギターは5弦だ...

先日夜中にジミ・ヘンドリックスのドキュメンタリーをやっていたので見た。

年を食っていることを強調するわけでも、ましてやそれを自慢する気など毛頭無いが、僕の世代と云うのは、ちょうど全共闘世代の次の世代なのだが、僕らの両親のように第二次世界大戦(もはや遠い昔の話のようだ)を経験している世代と、今の全く戦争と云うものと無縁な世代との中間の世代である。恐らく今の若者にとっては、戦争と云うものはテレビのニュース画像でゲームのように報道された湾岸戦争か、せいぜいユーゴの内戦辺りを目にする程度で、しかもそれすら遊び歩いていて見たことが無い、と云う人も多い筈である。距離の遠さで云えば僕らも似たり寄ったりではあったが、思うに、ベトナム戦争の時代をリアルタイムで経験した人間と、そうじゃない人の間にはやはり戦争や平和と云うものに対する意識の違いは少なからずあると思う。言わば僕らは冷戦の時代の人間なわけで、資本主義あるいは民主主義対共産主義あるいは社会主義の不安定な均衡、もしくは愚かな妄想による危機感がまだ世界中に満ちていた。ベトナム戦争と云うのはその最も典型的な理不尽な産物であった。キューブリックの「博士の異常な愛情」では無いが、常にソ連かアメリカ辺りの誰かが血迷って核のボタンをいつ何時押すのではないか、などと云う漠然とした不安がまだあった。

理不尽なものは理不尽を産む、と云うわけで、自分たちにはどういう意味を持つか定かでは無いまま戦場に駆り出されたものには当然の如く狂気が宿る。有名なソンミ村の大虐殺の写真を見たりすると、子供ながらに人間の狂気をリアルタイムで目にするのはそれなりにショックだった。直接は関係無いとは云え、実際に当時は主に沖縄の基地からベトナムへと米軍は飛び立っていたのだった。

日本赤軍の連中が移送されたニュースがいきなり飛び込んできて、突然思い出したようにかつての悪夢のような名前が新聞やニュースに現れたが、実際僕が大学を出るころに至るまでも、時折思い出したように、とっくにサラリーマンと化した元全共闘の人間が内ゲバと称して駅のホームやら自宅前の路上やらで、長い目で見れば全く無意味に殴り殺されていたのだった。

ジミヘンの番組を見ていて、僕の中ではロックと云うものはベトナム戦争の時代と切り離せないものなのだな、と改めて思ったのだった。僕にとってのロックとは、当時のジミヘンそのものだった。彼の圧倒的なリズム感とインスピレーションにぶっ飛んだ。だから学生時代、友達が熱を上げていたプログレとかはどうしてもロックに思えなかったのだ。ジミのウッドストックで有名なギターを壊したり、燃やしたりと云うパフォーマンスや、ドラッグに溺れたりと云う部分だけを見て真似するアーティストは雨後の筍のように現れた。そこにロックがあるとでも云うように。僕が高校時代に最初にコピーしてやっていたディープ・パープルのリッチー・ブラックモアなどは、今考えてみると、さしたる意味も無くホテルの窓からギターをブン投げたりする、只の凡庸なギター弾きに過ぎなかった。その後も大方のパンクやヘビメタとかを見ても分かるように、単純に意味無く反抗したり破壊したりすることがロックであると思っている阿呆が現れては当然のように消えていった。

その国民性からか、日本では真似から始まったスタイルの抜け殻だけを踏襲してヘンなジャパン・オンリーのロックが育ってしまったが、それはともかく、当時の世代でも年末に毎年フェスティバルを開いているオヤジのようにいまだに勘違いしている人間もいる。ロックとは反骨そのものなのだと。クレイジーなものだと。しかし、やはり忘れちゃいけないのは音楽なのだと云うこと。

ドキュメンタリーを見ると、ジミは反戦を掲げてメッセージをアグレッシブに伝えるカリスマになろうとする人間ではなかった。貧困の中で育った、シャイで純粋な少年だった。彼はただ音楽をやりたかっただけなのだ。楽器を壊すのも、音楽に没頭した瞬間の自己表現の一環に過ぎなかった。彼は別に毎回ギターを燃やしたいわけでは無かった。ドラッグに溺れたのは、マネージャーを始めとする音楽ビジネスや周りに作り上げられたイメージに振り回された挙句の逃避だった。決してドラッグをやることによって世界に何かを伝えたいわけじゃなかった。彼はただ繊細でかつワイルドだっただけなのだ。

彼が純粋に音楽をやりたかったミュージシャンであったことを再認識して僕は安心した。しかし、何故当時は彼の中に皆狂気やメッセージや宇宙を見たのだろう?やはり、彼は平和と自由がまだ見せかけだった、ラヴ&ピースの時代を生きたのだった。

やっぱりアンタは最高だよ、ジミ。ラヴ&ピース。

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