また昔話である。
数年前、同い年の四人で渋谷でメシを食った。メンバーは、僕と、このコラムにも数回登場したと思う、ずっとアメリカに住んでいて当時はコーディネイターをしていた友人S、某放送局系の音楽出版社に勤めているK君、大学の同級生で同じサークルでもあった、当時は通訳をしていたRちゃん。ちなみにRちゃんは帰国子女であり、僕がプロデュースして一枚アルバムを作ったことのあるアメリカ人ミュージシャンと結婚して現在はアメリカに住んでいる。皆で台湾料理を食べた後、新宿生まれの一番の都会人であるK君がいい店があるから行こうということで、井の頭通りのBというカフェに流れた。その店はいわゆる70年代から80年代初頭のフュージョンやAORをメインにかけている店で、言わば僕らが青春時代の一番音楽に情熱を傾けていた時代の音楽をかけている店だった。店に入るなり、リー・リトナーの「キャプテン・フィンガーズ」がかかっていた。おお、と僕らは歓喜しながら席に着き、未だに昔ながらのリクエスト用紙にリクエストを書いて、ジョー・サンプルの「Rainbow Seeker(確か虹の楽園とか云う邦題が付いていた)」などをかけてもらい、一同、やっぱりいいよねえなどと嬉々として話したものである。やはり、同じ時代を同じものを聴いて過ごしたもの同士というのはいいものだ。懐古趣味と笑わば笑え。
思えば、僕と云う人間の感性のほとんどは70年代に作られたものである。いい時代だった。ベトナム戦争の余波が残り、学園紛争はまだまだ尾を引きずり、ビートルズが解散し、ヒッピー・ムーブメントが起こり、ロックというものがようやくその精神とともに形を明確にし、ジャズはそのストイックさを増すと共に、一方ではクロスオーバーと云う名と共によりヒップな形も作られた。テレビの画面では全盛期のアイドルたちが踊りながら唄い、ニューミュージックと云う名のセンチメンタリズムが世を席捲し、村上龍は福生で黒人連中とラリっており、僕は深夜まで営業している喫茶店で「がんばれ元気」を読んで涙していた。ときには登場したばかりの羽根モノのパチンコですっからかんになって隣街の弟の下宿まで金を借りるために歩いた。そしてときには薄暗いアパートの廊下に蹲って声を潜めて付き合い始めた彼女と電話で話していた。
考えてみると、幾度も書いているように僕が変わっていないと云うことは、とどのつまり、未だに70年代後半の二十歳ぐらいの精神年齢そのままだと云うことだ。まだ十九歳にもなっていなかった僕が、生まれて初めて東京に住むために中野の駅に降り立ち、喫茶店でコーヒーを一杯飲んだ後、下宿へと向かう道を歩きながら、マーサ三宅のジャズ・ボーカル教室を横目に見ながら通り過ぎ、美容室からジェフ・ベックの「Wired」が聞こえて来たとき。あの日から僕は現在に至る第二の人生を歩み始めていたのだ。
中野の下宿は大家が煩くて、半年で隣の高円寺に移り住んだ。それから八年もその街に住むことになるとは思いも寄らなかったが。駅のガード下にたぶん今でもある「仲屋むげん堂」と云うインドやネパールの輸入品を売る店があって、そこでインド界隈の服を買って、長髪の僕は高円寺の街をうろうろと徘徊した。当時全盛だったジャズ喫茶はミュージシャンの多いこの街には数多くあって、僕は地下の薄暗い穴蔵のようなジャズ喫茶で多くの時間をただぼーっと過ごしていた。
当時のジャズ喫茶で一番人気のあったアルバムがキース・ジャレット(Keith Jarrett)の「ケルン・コンサート(The Koln Concert)」であった。当時はほぼ毎日のようにかかっていた、このジャズ・フリークならいまさら何を言ってんだと云うぐらいに有名な名盤。それまでまともにジャズを聞いたことが無かった僕。生まれて初めてあの有名な出だしを聴いた瞬間の衝撃と感動を未だに忘れない。全てが止まって、全てが流れ出すとき。
CDになった「ケルン・コンサート」を買ってきて、恐らく17・8年振りだろうか、最初から最後まで聴いた。僕は何故このアルバムを今まで持っていなかったのだろう?恐らく聴くのが怖かったのか。あまりにも神聖な気がして。それとも昔に引きずり込まれるような気がして。聴き始めると、記憶にあるよりも思ったより固い音。こんな音だったっけ。多分、僕の中では大方の想い出同様、何時の間にかぎりぎりまで美化され続けていたのだろう。しかし、それも束の間、音が全てを紡ぎ出して行く。時にはクラシックのように厳粛に、時にはゴスペルのように神聖でリズミカルに、時にはフォーク・ソングのように大らかでかつセンチメンタルに。まるで永遠に続くかのように。そして、永遠に続くことを祈ってしまうのだ。音だけですべてを洗い流すかのように。ああ、生まれて初めて聴く瞬間をまだこれから控えている人が羨ましくてしょうがない。この、全てを包み込む瞬間に、ケルンのオペラ・ハウスで立ち会った人たちが羨ましくてしょうがない。コンサートが苦手な僕が立ち会えたのは、考えてみると渋谷公会堂でその後この世を去ったジャコ・パストリアスが、迸るピーター・アースキンの果てしなく続くパワフルなビートをバックに、ベース・アンプから飛び降りた瞬間ぐらいである。
さあ、もう一度最初から聴こう。永遠の時を紡ぐ音を。そして全てを忘れよう。