life

「あみだくじ人生」

...

人生があみだのようなものだとする。つまり、無数の選択肢があり、無数の結果がある。

ところが。

あみだには法則がある。つまり、曲がり角に来たら必ず曲がらなければならない。ということは、あみだの全体像を眺めれば、一見無数の選択肢、結果が待っているように見受けられるが、実は選択は最初の一回しかないのだ。一度選択してしまえば必ずひとつの結果へとたどり着く。つまり、人生がこのあみだのようなものであれば、そして我々が生れ落ちたときに既に選択がなされていると考えるならば、人生とは予定調和である。

 誕生は選択のうちに入らない、と仮定しよう。だが、この仮定はなかなか辛いものがある。なぜなら、本当に大事な選択は父親の精子が母親の子宮内で受胎した時点に既に行われていると見るべきだからだ。つまり、その時点で我々は男であるか女であるか決定し、DNAの配列も決定してしまうからだ。我々は生まれた時点で既に背負うべきものを背負い、定められたものを担い、受け継ぐべきものを受け継いでしまっている。どんな環境の元に生まれたか。どんな性質あるいは体質を遺伝したか。それらはどう考えてもあみだのスタート地点のように思える。もしこれに反論するならば、それは我々自身が選択したものではない、ということである。この観点から、先の仮定は成立する可能性を持つと言える。しかし、その後に我々が行う無数の選択のどれがそれに当て嵌まるのか、ということは実に厄介な問題である。そもそも我々のほとんどは最初に自分が行った選択を覚えていない。それはおっぱいを飲むことを拒否したことかもしれず、二切れあるバナナのどちらかを選んだことかもしれない。そんなことを自覚している人間などいるはずがない。となれば、さらに考えられるのは、我々が初めて自覚を持ってものごとを選択したとき、という仮定も成り立つ。しかし、この仮定の危ういところは、「自覚を持って」というところだ。つまり、それは主観的なものなのである。おまけに自覚のレベル、判断のレベルというものを考えれば、それは無数に細分化でき、その中のある一定のレベルを超えた場合と考えたとしても、それも主観的なものの中にある以上、主観的である。これを肯定するのであれば、たとえば、非常に高いレベルにおける選択しか認めないという人物がいたなら、もしかしたらその人物は一生選択をしないままに終ってしまう、などということもありうる。  これでは命題そのものが成り立たない。

 ここでは便宜上、もっとも客観的な選択をもって、選択と考えるべき、と考える。つまり、我々がまだ成立も誕生もしていない時点、まだ精子と卵子であった時点、精子は生きようとして卵子までたどり着き、卵子はそれを受け入れる。やはりこれがもっとも客観的な選択ではないだろうか。  はて? そうするとこれは運命論とさして変らぬものではないのか? 我々が物心ついた時点で、というよりも誕生した時点で既に選択は行われたのであれば、我々の人生は神あるいはそれに類似した存在もしくは時間というものが既に決定した運命をなぞっていることになるのだ。

 つーことは。

 つまり、後悔などなんの意味もない、ということになる。なぜなら、我々の選択はそれを行う以前から既になされたものであるからだ。結果的には他の選択肢を選びようがなかったことになる。我々は既に生まれ出でたときから選択してしまっていたのだ。我々が生きているということは、我々の運命を確認しているに過ぎない。だからなにかを後悔するということは本質的には意味がない。いくら心底から願っても、過去というもの、現実というものが変容しないように。

 なんて考えると人生は空しい。という虚無感に陥ってしまう。この、虚無感に陥って自暴自棄になるというのも、実は選択の結果のひとつであるとも言えるのだが。いずれにしろ、なんか人生というものが面白みに欠ける、味気ないものに感じられる。それがたまたま、非常によくできたハリウッド映画のように波乱万丈、スリルとサスペンス、ついでにロマンス、それでいて最後はハッピーエンド、という運命であるなら楽しめるだけまだよいが、もし退屈で鬱屈しているだけの文芸大作、ただのゲテもののB級映画、涙なしには語れないほどの悲劇、とかであった場合は悲惨である。

 正直言って、台本ぐらいは自分で選ばせて欲しいものだ。あとは演技次第。

 こういう図式が成り立つ。


 人生=あみだ=映画


 ということは、人生は映画である、ということになる。
 プロデューサー:神、脚本・監督:神、主演:自分、技術担当:両親その他環境、エキストラ:大勢、ロケ:いろんなとこ。

 うむ。これでは人生という映画の出来不出来は、神の手にかかっているということになる。となると、これはどの神を選ぶか(あるいはどの神に選ばれるか)という、宗教的な次元の問題になってしまう。

 うーむ、ややこしいことになってきた。こういうときは意外と簡潔な答えが待っている。人生はあみだのようではない。はずだ。っていうか、そういうことにして。少なくとも、演じている我々は、自分の次の台詞を知らない。幸いなるかな。要するにさ、知らなくてもいいことはたくさんあるし、考えなくてもいいこともたくさんあるわけだ。

written on 6th, may, 2005

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