literature

「夜中に文体について考える」

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僕は最近こそ本を1ページも読めなくなってしまったが、まだ読めているころは、ごくたまーにアマゾンに書評を書いたりしていた。で、ちょっと驚いたのは、同郷(と言っても鶴岡だが)の作家、奥泉光を酷評したところ、反論が凄く多かったこと。えーと、僕は確か、奥泉は同郷のよしみということもあって、一応代表作と言われる2・3冊を読んだが、とにかく読みにくいのに閉口した。文体が硬質で難解過ぎるのである。そのわりには話自体は面白いとも言えない。過度に修飾された、あるいは描き過ぎた文体というのは、逆にちっともイメージが浮かばないものだ。ただくどくどと書いているので説明的になってしまう。面白くもない話を物凄く読みにくい文体で書いて、文学でございます、というのは。一体、反論している、つまり奥泉を評価している読者は、何をもって評価しているのだろうか。全体、こういった難解な文章をもって純文学でござい、という傾向は日本の現代文学には往々にして見られる傾向だ。難解な文章というのはとにかくストレスが溜まる。苦痛を覚える。何が悲しゅうて金を出して苦痛を覚えなければならないのか。

この傾向は中上健次辺りに端を発しているように思えるのは気のせいか。僕自身は中上健次を評価していないわけではないが、えーと、なんの本だったか、たぶん後期のある本は、2ページも読んだら苦痛が溜まり過ぎて、それ以上とうとう読めなかった。一体全体、何の意図でこんな難解な文体を使わなければならないのか、理解に苦しむ。小説というのは読まれてなんぼ、というものではないのか。井上ひさしが、確か「名文というのは誰が読んでも分かる文章である」というようなことを言っていたが、その通りである。果たしてドストエフスキーが読みにくいか。ディケンズが、サマセット・モームが読みにくいか。僕が読んだ中でも斬新で前衛的な小説と思われたマルグリット・デュラスの「愛人(ラ・マン)」ですら、文体はむしろ読みやすい。つまり、何が言いたいかというと、文学は決して難解な文体など必要としない、ということである。確かに、例えばアントニオ・タブッキの一部の作品などは非常に難解である。しかし、僕はそれらは彼の失敗作、もしくは単なる実験作だと思っている。実験というのは発表するための検証であり、それ自体が目的ではない。したがって、それをもってタブッキの本懐だとするのは誤りで、タブッキには他にいくらでも読みやすく、完成度の高い作品がある。

こういった文体の難解さ、ある意味において錯誤は、筆者のイマジネーションの貧困さを逆に表しているように思える。簡単に言えば、自分のイメージを上手く表現出来ないか、やたらとボキャブラリーを使うことによって、逆にボキャブラリーの不足というパラドックスを生むということである。一を聞いて十を知る、ではなくて、一のために十の説明をしているようなものだ。これはかえって読者を混乱させ、読者のイマジネーションに通せんぼをしているようなものである。つまり、自分でイメージを狭めているようなものだ。

ま、くどくどと書くのはよそう。僕はただ、買って損した、というのが悔しいだけなのだ。

written on 22nd, nov, 2008

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