最近よく作詞家とちょっとした喧嘩になる。
こういうときはたいがい、せつない詞を頼んだときだ。つまり僕の考えるせつなさと相手(大概は女性)の考えるせつなさにギャップがあったりするのだ。要因はいくつかあって、ひとつには、男の感覚と女の感覚の違い。ひとつには個人の感性の違い。もうひとつは優しさの違いだ。
論点の推移としては、この詞はリアリティがない、故にせつなくない、なおかつ優しくない、だから感動しない、というのが大方のところだ。僕は詞の判断、ディレクションについてはもともと自信があって(いいことなのかわからないが。)、僕が直したものは必ずグレードアップしているという自信があった。これは何も自信過剰になってたりするということではなくて、僕は詞に感動を求め、エキサイティングなもの(もしくはポップなもの)を求めているという、ただそれだけのことだ。これには弊害があって、やたら直しを入れるものだから、大御所を使いにくいということ。だから新人を使うことの方が多い(最近はアーティスト自身が書くことの方が多いが)。
そもそも音楽の判断というのは、詞にしろ、メロディーにしろ、サウンドにしろ、最終的には個人の好き嫌いの判断でしかない訳で、ひとそれぞれ価値観がまったくいっしょということはないから、ぶつかるのは当たり前といえば当たり前だ。
いずれにしろ、最近女性の作詞家とぶつかってよく思うのは、どちらかというと女性は求めることを書きたがるということだ。どれぐらい相手のことを好きか、相手に会いたいかということは、つまり求めていること、簡単に言えば「恋する」ことだ。よくぶつかるのは、求めるだけの恋は激しさはあるが、優しくないと僕が主張するからだ。僕の言い分としては、求めてばかりのときは相手のことが客観的に見えていない、いわゆる「あばたもえくぼ」、「恋は盲目」の状態になっているから、自分の主観でしか相手をみていない、これは一歩間違えればストーカーだ、ということを言っていたのだが、もしかしたら極論だったかなと少し反省はしている。要するに女性は「恋しているときのせつなさ」にこだわる傾向がある、という感じか。これはこれでまったくありな訳で、単に僕がもっと微妙な気持ち(せつなさ、優しさ)にこだわっているだけかも知れない。ここのところ、精神的に余裕がなかったせいで、僕の方が少し偏っていたかもしれない。反省することしきり。ただ、美化するだけの恋はせつなくも、優しくもないよ、マジで。
多分なにかの本で読んだのか、誰かの受け売りなのか、忘れてしまったが、僕がつねづね思っているのは、「恋は求めるもので、愛は受け入れるものだ」ということだ。違う言い方をすれば、恋しているときはひたすら相手を欲しがり、愛しているときはお互いに相手を受容し、かつ許しているということになる。恋とはある意味一方通行な部分がほとんどなのだ。一方、現実を受け入れることは愛につながる。このはざまにいるときが、いちばんせつないような気が僕はするのだ。これは僕の価値観なので異論があったら申し訳ない。ひとそれぞれの解釈があっていいのだ。
こんなことを書いたのも、恥を忍んで告白すると、以前(一番最近まで)つきあっていた子からたまたま電話があって、新しい彼氏と一緒に住み始めた、という話を聞いたから。実はいま、僕はかなりせつない気持ちなのだ。あれだけ、つきあっているころに傷つけてしまったから、幸せになって欲しいのだけれど...気がついてみると自分自身がそれ以上に傷ついている...人間とはなんと勝手でわがままな生き物なのだろう。20代のころ、優しい目をしたひとに当時の彼女を奪われて以来、優しくなることは僕の永遠のテーマだ。
今日はちょっとせつない...