ナイトソングス  (1)

 

 

 

 

インタヴュー

―― それで、やっぱりお父さん(ジャズピアニスト・酒井光)の影響で始められたわけですか?
「きっかけはやはりそうですね。家にピアノもあったし、小さいころから、それこそ生まれたときから父のピアノを聴いて育ったわけですから」
―― じゃあ、最初からジャズを聴いて、ジャズをやろうと思っていたわけですか?
「最初はジャズばっかり聴いてましたね。まあ、途中ちょっと挫折もありました。一時はロックばかり聴いてたし。家にあったレコードもジャズばかりというわけじゃなくて、それこそビートルズからクラシック、ロック、R&Bとなんでもありましたから。ただ、いずれにしても古いものばかり聴いてたので、小学生のころは同級生と話が合わなくて(笑)」
―― 一番影響を受けたのはやはりお父さんですか?
「(しばらく考えて)……そうですね」
―― 今回の映画(「パルティータ」)は監督の御指名だったとか?
「ええ、喜多野監督とはそれまで全然面識がなくて、最初に依頼を受けたときはびっくりしました。まず思ったのは、僕なんかにできるかな、ということだけで。ただ、喜多野監督のファンのひとりだったので、話だけは聞いてみようと。僕はこんなことしかできませんよ、と言ったら、知ってるよ、ライブ見たから、って言われました」
―― 最初は音楽だけの依頼だったんですか?
「もちろんそう思ってました」
―― それだけでも、十代で映画音楽をやるというだけでも大変なことですが、出演という話になった経緯は?
「打ち合わせに呼び出されたんですよ。監督の自宅に。それで、おまえちょっと出ろ、と言われて(笑)」
―― それがケンジ役だったんですか?
「そうなんです。まあ、だまされたようなもんです。セリフも結構多かったし」
―― それまで演技の経験というのは?
「一度もありません」
―― それにしては自然な演技だということで話題になっていますが?
「まあ、単に地のままですから(笑)。自然と言えば自然です。あれが演技だって言われるとちょっと照れます。監督の手腕ですよ、演技するなって言われましたから。どうせできないんだからって(笑)」
―― 今回のサウンドトラックが初めてのレコーディングですか?
「そうです」
―― 次のアルバムの予定は?
「一応、来年に向けて契約を済ませたばかりです」
―― コンセプトはもう決まってるんですか?
「なんとなくはあります」
―― それは? 聞かせてもらっていいですか?
「えーと、そうだな、ボーカルものってことで」
―― 歌も唄われるんですか?
「僕じゃないです(笑)」
―― ではどなたが?
「友人です」
―― お名前は?
「それはまだ秘密です」
―― じゃあ、楽しみにしてます。今日はありがとうございました。
「ありがとうございました」
              (「BEAT&BOUND」十月号)





 父が死んで、母の実家に引っ越すことになった。
 父は夜中にべろんべろんに酔っ払って早稲田通りに飛び出し、トラックにはねられてあっけなく死んだ。遺書はなかったが、僕も母も、そしてたぶん警察も、半分以上自殺だと思っていた。父をはねてしまったトラックの若い運転手は、涙を流しながら何度も頭を床に擦りつけるようにしてすみませんと母に謝っていた。僕は彼を気の毒だと思った。災難なのは彼の方なのだ。結局、警察は事故として処理した。
 あまりにもあっけない死に方だったので、それが現実として身に沁みて感じられるのには時間が必要だった。損傷が酷いということで僕は遺体を見せてもらえなかったので、そのせいもあるかもしれない。感覚としては、ある日突然ふっと出かけてしまっていなくなったような、そんな感じがしていた。
 実際、父は旅の多い人だった。父はジャズピアニストだった。若いころはメジャーなレコード会社からソロアルバムを出したこともある。二十年ぐらい前が父の全盛期だった。そのころの父の写真を見ると、長髪にインド辺りの服を着て不精髭を生やし、まるでビートルズのジョージ・ハリスンか、さもなければキリストみたいに見えた。まだ僕が生まれる前だ。僕は写真の中の父をかっこいいと思った。小学校の父兄参観日のときなどは、父がそんなキリストみたいな格好で来てくれないものかと思った。しかし、そのころには父はもう少しまともな格好をするようになっていた。もうそんなインド系のファッションは、ミュージシャンのあいだでも時代遅れになっていた。
 その代わりに父は後ろで髪を束ねてポニーテイルにするようになった。これがヒップなんだ、と言って。ヒップってなんだろうと僕は思った。頭が尻だというのは。そのころまだ僕は小学生で、ヒップの意味をわかっていなかった。父に訊くと、ヒップホップのヒップだと教えてくれた。僕はデカいラジカセを担いで機関銃のようにラップを口にしながら跳ね回る太った黒人を思い浮かべてげんなりした。頬がこけて痩せている父は、ポニーテイルにすると貧相に見えた。僕は大人になってもポニーテイルにはしないぞ、と思った。その代わり、髪を伸ばして髭を生やし、インドの服を着るのだ。いずれ僕も父のように頬がこけていくのだろう、とぼんやり思った。そのころの僕はまだ、母に似て頬がふっくらとした健康そのものの子供だった。
 父は夜仕事のことが多く、旅も多いので、ことに僕が小学校に通うようになってからは時間も違うので家にいない印象が強かった。たまの日曜日の昼過ぎに起き出した父と昼食をともにするときは、父も「おう久しぶり」などと言う始末だった。
 僕らが住んでいたのは中野の古ぼけたマンションで、居間には当然のようにアップライトのピアノも置いてあったが、父が家で弾くことは滅多になかった。いや、きっと弾いていたんだろうけど、僕が学校に行っている昼間のあいだのことだったのだろう。父は僕が学校に出かけた後で、昼近くにいつも起き出す人間だったから。そして僕が学校から帰るころには大概もう出かけた後だった。それに学校が夏休みや冬休みに入ると、父は決まって長いツアーに出て留守にしていた。
 マンションには生のピアノの他にもうひとつ、エレクトリックピアノもあった。フェンダーのローズ。スピーカー付きのスーツケースという奴だ。父はシンセサイザーもいくつか持っていたが、それらはいつもフライトケースに収まって父の車のトランクに積まれたままだった。ローズは両親の寝室の窓際に置かれていた。
 母はたまたま父が演奏していた店でウェイトレスのバイトをしていて父と知り合った。まだ母が短大に通っていたころだ。母は短大を卒業するとすぐに父と結婚し、既にお腹の中に入っていた僕を産んだ。父と母はだいぶ年が離れていたし、母方の祖父母は二人の結婚に当初かなり難渋を示したようだ。父の仕事自体を胡散臭いものと思っていた節もある。結局、僕という子供の存在がそれを押し切る形になった。一方、父の両親は早くに亡くなっていて係累も途絶え、父は母と結婚するまで天涯孤独の身の上だった。
 母は若くして僕を産んだので、学生時代のウェイトレスのバイト以来、働いたことがない。考えようによってはまるで子供のような人だ。母は同級生の母親たちの中では誰よりも若く、そして綺麗だった。僕はそれが誇らしかった。まだ小学校に上がる前から、僕はよく母に連れられて、新宿や高円寺辺りのライブハウスに父の演奏を聴きに行った。そんなときの母の目はいつもきらきらと輝いていた。母にとって、父はいつもヒーローだった。そしてもちろん、僕にとっても。父のピアノは素晴らしかった。突然上空に舞い上がるようにスケールアウトして行ったり、代理コードを使って巧妙に織られた幾何学模様のような複雑な響きを作ったり、気まぐれな哲学者のような転調をしたり、かと思うと風のない日の湖面のような静けさをもたらしたり。髪を振り乱して、汗を飛び散らせながら弾く父の姿は、母の腕に抱かれた幼い僕の目には神がかったようにも見えた。演奏の合間に、ときおり母は膝の上の僕に、お父さん、カッコいいね、と笑いかけた。あのころが僕ら家族にとって一番幸せなときだった。

 いま考えると、僕が小学校の高学年になるころには、ライブハウスの客はめっきり少なくなっていた。もうジャズというジャンルは下降線を辿り、過去の音楽になりつつあった。父も生活のためにアイドルとか、いまではもう死語になりつつあるニューミュージックの歌手のバックミュージシャンとしてツアーを回るようになり、それとともに機嫌の悪い日も多くなった。母と喧嘩をする光景を目にすることも多くなった。レコード会社はジャズというジャンルを見限りつつあった。父はとうに自分のアルバムを出せなくなっていた。たまにインディーズで出さないかという話が来ても、すべて断ってしまい、そのことでも母とたびたび口論していた。たぶんプライドが許さなかったのだろう。シャイなくせにプライドだけは高かったから。父はときおり、もうジャズは終わった、などと口にするようになった。そういうときは大抵酔っ払っていて、そして酷く寂しそうだった。あの写真の中のヒップな父はもうどこにもいなくて、疲れ果てた中年のアル中みたいになっていた。
 僕が中学に進むころには、世の中の景気も僕の成長に合わせるかのように悪くなり、音楽業界も例外ではなかった。ツアーの本数も目に見えて減って、若いアーティストのツアーは若いミュージシャンにとってかわり、父の仕事もめっきり減って我が家の家計は苦しくなっていた。かといって母は一度も仕事をしたことがない人間なので、ただ溜息を洩らすだけだった。一度だけ母がパートの仕事をしようとしたことがあったが、父はそれを聞くと烈火のごとく怒った。あんなに怒った父を見たのは初めてだった。母はそれっきり仕事のことは口にしなくなった。父はたまにあるスタジオの仕事と、音楽学校の講師をやってなんとか家計を支えていた。ときには生活のためにほとんど演歌に近いベテラン歌手のツアーやホテルのディナーショーなんかもやり、そんな仕事の後は決まって酒を浴びるように飲んでいた。相変わらずライブハウスで演奏はしていたが、そのころにはもうギャランティーと言っても、父に言わせると「なにもないよりはマシ」な程度しか払ってもらえなかったみたいだ。それでもジャズのライブハウスでの演奏は、父にとって唯一の発散の場であった。自分が自分であるための。例えどんなに客が少なくとも。酔っ払ったオヤジが愛人を連れて酒のつまみに聴くような場所であっても。自分がやりたい音楽がやれるのであれば、例えそれがほとんどギャラの出ない下町のおでん屋であっても父は演奏しに行った。それによって父は、ピサの斜塔よりももっと傾いて崩れかけた自分のバランスをかろうじて保っていた。しかし、父の斜塔は彼の理想やプライドを支えるにはあまりにも傾き過ぎて、おまけに壁もぼろぼろと崩れ落ちるような状態で、もうそろそろ限界が来ていた。
 父は鬱病になり、医者に通うようになった。そのころには本物のアル中になっていた。医者にはアルコールと一緒に飲むなと言われていた睡眠薬を平気で飲んで、そうしないと眠れないようだった。コカインやヘロインといった、もっと危ない薬に手を出さなかったのは奇跡と言ってもよかった。もっとも、そんな高価なドラッグを買えるほどの経済的余裕がなかったのも確かだが。
 まるでうち全体が鬱病になったかのようになっていた。僕が学校から帰ると、家の中はすえたアルコールの匂いがした。ただでさえ日当たりのあまりよくない古臭いマンションは、ますます日が射さなくなったように思えた。室内の空気はまるでいつも梅雨時のように湿気をはらんでどんよりと淀んでいるようだった。父は相変わらずアルコールでどろんとした目をして、いつも生気のない顔をしていた。父と母は諍いが絶えず、父はアルコールの勢いも手伝って母に手を上げるようになっていた。僕はそんな様子を見られたくなくて、学校の友人を家に呼ぶことはなかった。
 
 父が生きていたころ、僕の家はそんな風だった。
 僕らが中野のマンションを引き払うとき、父がはねられた早稲田通りのガードレールのたもとに、誰が置いたのか、恐らくそれは母か近所の人だろう、牛乳瓶と空き缶に入れられた花が置いてあった。





 気がついたらピアノを弾いていた。たぶん二歳か三歳ぐらいから弾いていたと思う。親の遺伝なのか、僕には絶対音感があって、父の演奏を真似たり、レコードをそのままなぞって弾いたりしていた。父が僕にピアノを教えてくれたのは、ただの一度だけだ。あれはいつのことだったろう。たぶん幼稚園に上がったばかりのときだ。ブルースのコード進行を教えてくれた。僕が覚えたてのコードを喜んで繰り返し弾くと、父はそれに合わせて右手でインプロヴィゼイションを弾いた。その途端に、ただコードを繰り返し弾いていただけのものが、活き活きと躍動するクールな音楽に変わった。僕にはそれが魔法のように思えた。僕が父と一緒に弾いたのは後にも先にもその一度だけだ。僕はそれからしばらく、ブルースばかり弾いていた。父の影響でそのころはジャズばかり聴いていて、僕にとっては幼稚園で唄わされる歌の数々よりも、ジャズの方が当たり前の音楽だった。譜面が読めるようになると、ピアノの上に積んであった譜面は片っ端から弾いた。おかげでスタンダードナンバーやビートルズの曲はほとんど覚えてしまった。小学校に上がるころには、お気に入りのハービー・ハンコックやチック・コリア、キース・ジャレットといったピアニストの曲は大概弾けるようになり、そのうちついでにサックスやトランペットといった他の楽器のソロまでもコピーして弾き始め、そんなことをしているうちに気がつくと自然とアドリブで弾くことも出来るようになっていた。気が向くとクラシックも弾いた。ドビュッシーやショパンが好きだった。ただ、譜面に書いてある指使いなんかは全く無視して我流で弾いていて、それでなくても譜面通りに弾くというのはすぐ飽きた。いずれにしても、まだまだ子供だったし、いずれピアニストになってやるぞなどという大望はちっともなく、僕にとってはゲームやなんかと同じ、一番身近にある遊び道具みたいなものだった。

 あれは確か小学校の五年のときだった。昼休みに隣の席だった関谷という、最新のゲームや漫画なんかを語らせたら右に出る者がいないというタイプの、僕とは対照的にやたらとよく喋る奴とたまたま音楽の話になった。僕はそれまで級友と音楽の話をするのは故意に避けていた。僕が聴いていたのは父が持っていたCDやアナログのレコードだったので、ジャズを筆頭にしてビートルズや七十年代、八十年代の洋楽ばかりで、そのころ巷で流行っていた日本のバンド(特にビジュアル系)なんかは僕にしてみたらちっともロックに聞こえなかったし、メロディーだけとりあげればやたらとセンチメンタルな歌謡曲にしか聞こえなかったので、まるでダサいものとしか思えなかった。皆の話題にのぼるのはそんなバンドばかりで、とても自分と同じようなものを聴いている者がいるとは思えなかった。関谷はいつもの調子で機関銃のようにバンドの話をまくしたてると、突然その矛先を僕に向けてきた。
「酒井ってなに聴いてるの?」
 僕は思わず口篭もった。皆に話を合わせるべきなのか、それとも正直に言うべきなのか。僕は生来の優柔不断さをフルに発揮して散々悩んだ挙句、結局正直に答えた。
「ジャズとか」
「ジャズ?」
 関谷は目を丸くして、まるで宇宙人でも見るようにしばらく僕を見つめていた。それからぷっと吹き出すと、大声で言った。
「ださー」
 僕はなにも言い返せず、ただ赤面するばかりだった。金輪際音楽の話をクラスの奴とするのはよそうと思った。小馬鹿にしたような関谷のそのときの表情は、いつまでも僕の頭から消えなかった。
 実際、たまにテレビで見かけるジャズ(そのこと自体が滅多になかった)は、棺桶に片足を突っ込んだような老人連中がやけにめかし込んで、当の本人は思いきり気取ったつもりなのか、蝶ネクタイにワイングラスかなんかを片手に、古臭いスイングジャズをいかにも昔の銀座のバーのようなところでフィンガースナップなどをしながら斜に構えてスカして聴くという、見るからにダサいものだった。
 間の悪いことに、関谷との一件があった直後にそんな番組を見かけてしまい、僕のジャズに対する熱は急激に冷めてしまった。もしかしたら関谷の言うように、ホントにジャズはダサいのかもしれない、などと思い始めた。僕はぷつりとピアノを弾くことを止めてしまい、ロックを聴くことに傾倒した。特にお気に入りはレニー・クラヴィッツだった。そのうちギターを買ってもらって練習しようと思った。しかし、そのころから我が家の経済状態は日に日に傾くばかりで、その望みは到底かないそうになかった。
 僕のジャズに対する熱が薄れるのと時を合わせるかのように、父もかつてソロアルバムを出したころの、ヒップで颯爽とした姿とはほど遠い、ただのよれよれの、愚痴ばかりたれる中年のアル中になっていた。酒臭い息を吐いては母に向かって管を巻く父を見るにつけ、僕は父に対して軽蔑の念すら抱くようになっていた。僕がいつも憧れていた、アルバムジャケットの中の精悍で若々しい姿や、母の膝の上で見た神がかったような演奏をする父と、目の前で飲んだくれているだらしない男が、同じ人間とは思えなかった。僕にはそのギャップが理解できなかった。レコードの中に存在する二十年前の父に対する憧れと、目の前の父に対する軽蔑と、その二つの矛盾をどうすることもできなかった。結局僕は目の前で毎晩のように繰り広げられる醜態から目をそらし、さっさと自分の部屋に閉じ篭って本ばかり読むようになった。
 かつてはあれほど楽しみにしていた、父の演奏を聴きに行くこともなくなった。もしかしたらそこでも酔っ払って醜態をさらけ出しているかもしれないと思うと、足を運ぶ気にはなれなかった。ただ、いまとなってはそれも僕の考え過ぎだったのだと思う。夜、たまに気が向いたように自宅のピアノに向かうと、それまで死んだ犬のようだった父の目はらんらんと輝き、鬼気迫る演奏をした。しかし、そのころの僕には、それもアルコールがもたらす一種の狂気のようにすら思えた。マンションの隣人がどんどんと抗議の壁を叩く音が聞こえ、僕は部屋のドアを閉めてヘッドフォンをして、それらから耳を閉ざした。
 気がつくと、僕は父とほとんど言葉を交わさないようになっていた。




 
 家の家計が苦しいこともあって、僕は地元の区立中学に入り、みんなが通う塾にも通わなかった。
 僕はテニス部に入った。別にこれといった理由はなかった。小学校のときからの親友である真木が、テニス部に入ろうと言ったからだ。
 真木とは小学校に入ったときからほぼ一年おきに同じクラスだった。下の名前はシゲアキだが、何故か僕はいつも苗字で呼んでいた。その方が呼びやすかったんだと思う。僕らは一緒に近くの公園で野球やサッカーをやったり、ブロードウェイの商店街の中を探検したりした。彼の家は小料理屋を営んでいて、学校帰りに店を兼ねた真木の家に遊びに行くと、真木のお母さんは僕らに肉じゃがとか煮魚とかを出してくれた。真木はときどき夜に店の手伝いをしたりしていて、そんなときは彼が一足先に大人の世界にいるように見えてちょっぴり羨ましかった。
 いずれにしろ、なにか部活動には参加しなければならないことになっていたし、僕はまだ元気がありあまっていたので、身体を動かせるものならなんでもよかった。真木がなんでテニスなんてものを選んだのかはよくわからなかった。僕らがよく遊んだのはむしろ野球とかサッカーだったし、もうテニスなんてスポーツ自体、ブームはとっくに過ぎていた。とにかく、僕と真木は、秋の大会が終わるまでの最初の半年間を、球拾いと素振りに費やした。

 小学校から中学校に上がるときというのは、やけに大きな階段をひとつ上がるような気がした。それは小学校の六年間という時間が長かったということもあるのだろうが、生まれて初めて制服というものを着て、テニス部では上級生がやたら威張り散らすという縦の関係を初めて思い知らされ、否応なくひとつの社会の中に組み込まれたのだ、という感覚があった。
 クラスの中には、早々とそうした小さな社会から脱落する者が現れた。そのうちクラスという社会全体がいじめる側の多数派といじめられる側の少数派に自然に分かれて行った。まるで化学反応みたいに。
 僕はそんな様子を傍からぼんやりと見ていた。僕は単に試験の成績がよかったからという理由で、二学期から学級委員になった。僕は家のことは知られまいと努力をした。真木のように小学校から一緒だった奴は、僕の家がまだそれほど酷くないころを知っているので、そのまま変わっていないと思わせておけばよかった。問題は中学から新たにクラスメイトになった奴だ。お前んちなにやってんの、と訊かれると、うちの父さんはプロのミュージシャンだと胸を張って答えた。大方の奴はそれだけで羨望の目で僕を見た。いつかの関谷の小馬鹿にしたような顔はいつまでも僕の頭から消えず、ジャズミュージシャンとは言えなかった。なんとかって曲あるだろ、あれはうちの父さんが弾いてるんだ、と僕は数少ない父のスタジオの仕事を例に出し、大概の場合、相手はすげえ、と言ってひれ伏した。僕は内心、実は翌月の家賃の支払いに頭を悩ませるほど家が火の車で、父も母も精神的に酷い状態であることを悟られはしまいかとびくびくしていた。みんなが最新のゲームの話で盛り上がっているときも、そんなガキのやることには興味がないのだ、ということにしていた。実は買えないのだということを気づかれないように。勉強に関してはどちらの遺伝なのか、それとも小学校のころから本ばかり読んでいたのが効を奏したのか、さほど苦労しなくてもいい成績を取ることができた。だから僕が塾に通わなくても、クラスの連中は不思議に思わなかった。僕は自分の身を守るために少しずつ目に見えないバリヤーを巧妙に張り巡らせていたのだが、そうした小さな嘘の積み重ねはときおり僕を酷く孤独にした。
 小学校のころから一緒だった女の子連中も、中学に入った途端に急に大人っぽく見えて、中にはじっとりとした湿度の高い視線を僕に向けてくるようになった子もいた。僕にはそれが、その子が宇宙生物に乗り移られでもして急に別人になったような気がして(そんなSF小説を読んだことがあったのだ)、やけに気まずい感じを覚え、ときには鬱陶しいとさえ感じた。周りの連中はそういうことには敏感で、あいつはお前のことを好きなんだとさかんに耳打ちするようになり、終いにはその子をはやしたてて僕のところまで連れてきたりもした。彼女は顔を真っ赤にしてうつむいていた。僕はそれをまともに見ることができなくて、さっさと廊下へと逃げ出すのだった。
 かと思うと、中学から初めて一緒になった女の子たちというのは、そういう劇的変化を遂げた生物ではなく、最初からそこそこ大人っぽい(もちろん中学一年生のレベルの話だ)女の子として僕の目の前に現れて、中には僕の胸をときめかせる子もいた。隣のクラスの斎藤真紀子がそうだった。僕には彼女が誰よりも、例えばテレビに出てくる女優とか歌手とかと比べても、綺麗に見えて、彼女を見かけるたびにどきどきした。しかし、彼女とはひとことたりとも交わしたことがなく、そもそも向こうがこっちを知っているかどうかすら怪しかった。僕にはまだ声をかける勇気もなかったし、第一そんなことは酷く男らしくないことのように思えたし、それに周りから気づかれてはやしたてられるのも嫌だった。だから廊下で擦れ違ったりしても、僕は慌てて目をそらしたり、懸命に他のことを考えようとしたりした。
 相変わらず放課後のテニスコートでは、僕ら一年生はコートの隅っこで両手を後ろ手に組んでボールが転がってくるのをひたすらぼうっと待っていた。そしてようやく自分のそばにボールが転がってくると、いきます、と大きな声をかけてコートの中の上級生に玉を放った。要領の悪い奴は、声が小さいとか、放り方が悪いとか、なにかと難癖をつけられてラケットで頭をどつかれていた。僕ら一年のうちの誰かがヘマをやると、例えばたまたま大便をしていて遅刻した奴がひとりいたりすると、僕ら全員がコートの周りを延々と走らされたりした。僕らはその不条理にじっと耐えるしかなかった。
 
 そのうち、僕はようやく自分がどやしつけることのできる下級生を持つ二年生になった。我が家は墜落寸前のよたよたとした低空飛行のようになりながらもなんとか一年一年を飛び終えてはいた。その間に僕はマスターベーションという余計なものをマスターし、身長は十センチ近く伸び、テニスの腕は一向に伸びなかった。ある日急に声がかすれてきて、それに驚いている間に喉仏が目立つようになり、気がつくと声が一オクターブ低くなっていた。知らぬ間にちょっとずつではあるが大人に近づいてはいるようだった。
 僕はアルコール臭くて愚痴ばかりの家の状態にもすっかり慣れて、それが当たり前と思えるようになった。と言うか、いつもさっさと自分の部屋に閉じ篭ってしまうので、もうそのころは両親の諍いも他人事のように思えていて、こんな状態でもなんとかなるものだ、とどこか楽観するほどにまでなっていた。どうせそのうち自分は、高校を卒業するころにはこのすえた匂いのする日の当たらないマンションから出て行くことになるのだと。父も年末から年明けにかけてひとつベテラン歌手の大きなツアーの仕事が入り、それで一時的に我が家の経済も持ち直し、春の訪れとともに少しは明るい兆しが見えたような気までした。
 そして僕が三年になり、もうどやしつけられる上級生もいなくなったころ、父はふらふらと深夜の早稲田通りに飛び出した。僕と母を残して。





 父の葬式にはびっくりするほどたくさんの人が来た。中にはテレビで見かけるアーティストとか、俳優もいた。誰でも顔を知っているような大御所と言われるジャズ・ミュージシャンも来たし、夜中のテレビでニュースを読んでいるキャスターまで来た。山のような花が、レコード会社やプロダクションやライブハウスから届いていた。僕は父の人脈の広さにいまさらながら驚いたが、こんなことなら生きているあいだになんとか父を助けてくれたらよかったのに、とわざとらしく涙を拭いている弔問客たちを見て思った。
 葬式には真木も現れた。彼は学生服を着て僕の前に来ると、神妙な顔でぎこちなく母に頭を下げたあと、僕に向かって弱々しく微笑んだ。
 うららかな春の日だった。焼き場に向かう途中も、こんな状況じゃなければ口笛でも吹きたくなるような陽気だった。焼き場の中は不思議な匂いがした。焼かれたばかりの骨に近付くと、それはまだ熱くて額に汗が滲んだ。骨を拾いながら、それはハシで持ち上げるとあまりにも軽くて、おまけに量が少なくて、それがかつて父であったとはどうしても思えなかった。それでもからからに乾ききった小さなかけらを骨壷に入れながら、これでようやくアルコールやいろんなジレンマやなにやかやでぼろ雑巾のように湿気を含んで重くなっていた父が、それらすべてから解放されて軽くなったのだと考えると、少しは救われたような気がした。もしかしたらそういうことを天国に行くと言うのだろうかと思った。帰り道に振り返ると、焼き場の煙突から細い煙がまっすぐに青空めがけて立ち昇っていた。
 母はずっと泣き通しだった。あまり何日も泣き続けているので、僕は母まで父の後を追うのではないかと不安に思ったくらいだ。あんなに殴られたり怒鳴られたりしていたのに、いったい母はどうしてこんなに父の死を嘆いているのか、僕には理解出来なかった。僕は泣かなかった。父の死というものがどこか現実感を欠いていたこともそうだが、父に対する自分の中のジレンマをまったく解消できないまま、放り出されたような気分だった。
 一度、日曜日に母が買い物に出かけているあいだ、僕は久しぶりにローズの蓋を開けた。本当に久しぶりだった。いま考えてもどうしてそんな気になったのか、よくわからない。自分の中に宙ぶらりんのままで不在になってしまった父というものを、いま一度手探りしようとでも思ったのか。それともただの感傷に過ぎなかったのか。窓から射し込む日に当たって鈍く光る、白と黒が交互に並ぶ鍵盤を僕はしばらく見つめた。父が最後までしがみついていたもの。半音ずつの十二音階を鳴らすだけのもの。ローズはシンセサイザーとは違って、ピアノのように弦を叩いて音を出すので、電源を入れなくても微かに音は鳴る。左手でGマイナーナインスを押さえると、右手が勝手に動いた。鍵盤がカタカタと鳴った。僕はあちこちに転調しながらひとしきり弾いて、溜息をひとつつくと蓋を閉じた。それが僕が父のローズを弾いた最後になった。

 喪が明けて学校に出てみると、周りが僕に気を使っているのが分かった。僕は親を亡くしたキノドクな人なのだ。僕は努めて明るく振舞おうかとも思ったが、それも面倒だった。放課後になると、何も考えずにコートの中でボールを打った。僕らの後ろには、かつての僕らのように両手を後ろ手に組んだ新入生が不安げにボールが転がってくるのを待ち受けていた。真木はことテニスに関しては僕よりも遥かに才能があるらしく、キャプテンで一番手になっていた。僕はと言えば、団体戦に出れるか出れないかのボーダーラインをうろうろしていた。
 練習が終わって、汗の匂いがむせ返るほど立ち込める部室で着替えながら、真木の背中に声をかけた。
「マキ、このあいだは来てくれてサンキュ」
 真木はタオルで汗を拭きながらこちらを向いた。
「もう大丈夫か?」
「うん、オレはね」
「そうか」
 本当はちっとも大丈夫じゃなかった。葬式の後で祖父母が、母に僕を連れて実家に帰れと躍起になって説得していたのだ。こうして真木と汗を流していられるのもいつまでかわからなかった。
「母さんがちょっとね」僕は言った。
「そりゃそうだよな」真木は汗を拭く手を止めてもう一度言った。「そりゃそうだよな」
 
 母が実家に帰ることを決めるのには、二週間ほどの時間を要した。それまでぼうっとした抜け殻のようだった母は、そう決めることによってふんぎりがついたのか、少しずつ生気を取り戻していった。僕が転校するのになるべく早い方がいいだろうということで、四十九日を終えたら引っ越すことになった。
 母にその話を持ち出されたとき、僕にはノーとは言えなかった。母ひとりでこの先生活が成り立つとは到底思えなかった。それに、そろそろ母にも楽をしてもらいたいという気持ちもどこかにあった。
 考えてみれば僕と父とは東京とホノルルぐらいの時差があったし、その両方と付き合って面倒を見るというのは相当な負担だったろう。僕という人間は母の睡眠時間を食べて成長したのだ。金属疲労みたいに磨り減ってきた母は、さすがに朝起きられないときもしばしばあった。毎日明け方まで酔っ払う人間と、かたや朝七時半に起きる人間がいたのだから、それももっともなことだ。そんなわけで中学に入ってからは、僕もなるべくひとりで牛乳とトーストの朝食を摂ることにしてきた。それでも母はときどき真っ赤に充血した目をして起きてきて、僕が慌しく朝食を食べて出かけるのをぼうっとやつれた顔で見守るのだった。ただいってらっしゃいとひと声かけるためだけに。

 僕はゴールデンウィーク明けの土日に行われたテニスの個人戦で、二回戦で負けた。真木は三回戦を勝って、準々決勝で敗れた。なかなか順当な結果だと思う。僕は改めて自分が本番に弱いことを知った。
 試合の帰り道、転校したらテニスはやめようかと電車の中で考えた。どうもこの先続けても芽が出ないような気がしていた。それに受験を控えた三年生はどうせ秋には引退することになる。駅を降りて、僕は真木とふたりで中野通りを歩きながら、真木に言った。
「オレ、テニスやめようかな」
 真木は驚いた顔をして足を止めた。
「なんで?」
 真木にはまだ転校することを話していなかった。僕は話そうかどうしようか迷った。いずれはわかってしまうことなのに、黙っていれば転校自体を引き伸ばせるような気がして。もう少し一緒にいられるような気がして。話した途端に僕らの距離が遠くなるような気がして。僕は少し考えて、やっぱりこいつには一番最初に知らせなきゃ、と思った。
「オレ転校するんだ。母さんの実家に引っ越すんだ」
 真木はぽかんと口を開けて歩道に立ち尽くしていたが、やがて眉を八の字にすると、「そうか」とひとことだけ言ってまた前を向いて歩き始めた。僕らはそのまま無言で歩き続けた。先にうちのマンションの前に辿り着いた。僕がじゃあな、と言うと、真木は眉間に皺を寄せてじゃあなと答えた。僕はマンションの入り口で、真木の少し肩を落としたように見える後姿をしばらく見送った。真木は早稲田通りの信号を渡ったところで一度振り向いた。そして小さく右手を上げた。
 階段を上がってドアを開けようとすると、母は夕食の買い物にでも出かけたのか、鍵が掛かっていた。合鍵でドアを開けると、居間のピアノがなくなっていることに気づいた。玄関先に鞄を置くと、両親の寝室のドアを開けた。そこにあるはずのローズもなくなっていた。カーペットの上に、跡だけが残っていた。僕は西日が窓を染める中、しばらくその跡を眺めていた。





 酒井くんはこのたび北海道に転校することになりました。担任の林先生が長い前髪をかきあげながらホームルームで切り出した。そのころにはクラスの連中には既に知れ渡っていて、驚く者は誰もいなかった。みんなが僕の方を見るのがわかった。僕は気恥ずかしさで下を向いていた。
 酒井くん、と林先生が声をかけた。しょうがなく顔を上げると、彼女はにっこりと微笑んで、クラスのみんなに挨拶して、と言った。僕は困り果てた。そんなことはまったく考えていなかった。僕が目を丸くしていると、林先生は、さあ立って、と僕を急かした。
 僕はしょうがなく立ち上がると、言葉を探した。
「えーと……」
 真木が怖いぐらい真剣な顔で僕を見つめているのが見えた。一年のときに噂された女の子が下を向いて泣きそうな顔をしているのが見えた。教室の中はこれ以上ないほど静かで、時間が経つのがこれ以上ないほどゆっくりに思えた。
「な、長いようで短いあいだ、お世話になりました」
 僕がぼそりと言うと、一瞬の静寂のあと、真木がぷっと吹き出して言った。
「オヤジくさー」
 それをきっかけにクラス中にどっと笑いが広がった。林先生も口を手で押さえながら笑っていた。僕は頭を掻くと、みんなと一緒になって笑った。
 ホームルームが終わると、男子生徒が僕の机の周りに集まってきて、ヒグマには気をつけろよとか、ススキノがどうとか、冬はマイナス五十度になるとか、めいめいが勝手なことをまくしたてた。
 真木を含む二三人と談笑しながら廊下に出ると、そこに斎藤真紀子が立っていた。結局彼女と同じクラスになることは一度もなかった。彼女は顔を真っ赤にして、これ、と僕になにか差し出した。それはピンク色の封筒だった。僕が戸惑いながらもそれを受け取ると、彼女はあっという間に振り向いて廊下を走り去って行った。僕のうしろで口を開けて呆然とそれを見ていた真木たちが、我に返ってはやしたてた。なんだそれ、ラブレターか。お前転校しない方がいいんじゃないか。今からでも遅くないぞ。ほら、走って追いかけろ。しかし、彼らの言葉は僕の耳には入らなかった。僕は肩の辺りを皆にどつかれながら、封筒を持ってしばらく立ち尽くしていた。

 その週の金曜日に引っ越しの当日を迎えた。
 その週の学校でのできごとはあまりよく覚えていない。斎藤真紀子にもらった封筒はまだ開けずに自宅の引き出しの隅に押し込まれていた。僕は開けたくてしょうがなかったのだが、いまさらその中になにが書かれてあってももう遅いような気がしていた。結局僕はひとことも彼女に声をかけずじまいだった。僕にはどうしたらいいのかわからなかった。なにをしても後悔しそうだった。
 僕はいつものように学校のスケジュールをこなしていたが、もうみんなの心は僕から離れているような気がして、ひとり取り残されたような孤独感を覚えた。僕らは普段と変わらずに休み時間に馬鹿げた冗談を言い合って笑い転げたりしていたが、僕はもう彼らと袂を分かつ存在として認識されてしまっているのだ。僕はもういないも同然だった。それは酷く寂しいことだった。
 その日は朝から運送業者が出入りして、手際よく荷造りしたダンボールを次々と運び出し、慌しく午前中が過ぎて行った。彼らがすっかり運び終え、昼過ぎを迎えるとマンションの中はすっかりがらんとしていた。家具もなにもない部屋はやたらと広く見えた。母は業者の合間を縫って、一通り掃除機をかけたり、雑巾で拭いたりして掃除していたが、それももう終わるところだった。居間の壁を拭き終わり、母は両手を腰にあてて伸びをして、首に巻いていたタオルで汗を拭くと、さてと、と言った。
 玄関先でボストンバッグを手にした母が、もう行くわよ、と声をかけた。僕はうん、と答えながら、もう一度なにもなくなって殺風景になった部屋を見渡した。そろそろ梅雨が始まる窓の外はどんよりと曇っていた。僕は大きくひとつ深呼吸して部屋の匂いを嗅ぐと、それから玄関に向かった。


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