ナイトソングス  (2)

 

 

 

 






 新千歳空港から札幌へと向かう電車の中で、母がトイレに行っている間に、斎藤真紀子にもらった封筒を開けてみた。中には便箋が一枚入っていた。便箋は封筒と同じピンク色で、微かに香水の匂いがした。短い手紙だった。がんばってください。いつも応援してます。どこにも好きだとは書かれていなかった。僕はその、女の子特有のクセのある文字を、特に「いつも」という部分をしばらく眺めた。そして便箋に顔を近づけてもう一度匂いを嗅いでみた。それは甘酸っぱい匂いがした。母が戻ってくるのが見えて、僕は慌ててそれを鞄に戻した。それから窓に頬杖をついて、外を流れる北海道のだだっ広い景色を眺めながら、やっぱりテニス続けようかなあと思った。それからふと、もしかして斎藤真紀子は僕が負けた試合を見ていたのだろうか、と考えた。僕の負け試合を見て落胆している彼女を想像すると胸が痛んだ。便箋の匂いは、しばらく僕の鼻腔の奥に貼りついて離れなかった。

 JRの札幌駅から地下鉄に乗り継いで、それから十分ほど歩いてようやく母の実家に辿り着いた。札幌に来るといつも思うのは、東京と変わらないな、ということだ。むしろ札幌の駅前は、中野よりも遥かに都会に見える。母の実家のある界隈も、北海道というよりもむしろ八王子とか、横浜とかのベッドタウンを思い浮かばせた。要するに、田舎に来たという感じがちっともしない。通り沿いにコンビニや大きなレンタルビデオ屋が軒を並べているし、幅員の広い道路はひっきりなしに車が通る。違うところはと言えば、ちょっと電車に乗って新宿や渋谷に行けないということぐらいだろう。それでも地下鉄に乗れば繁華街はすぐだ。そこに行けばなんでもある。僕がちょっと行けなくなったのは、真木の家や、斎藤真紀子のいる学校なのだ。それらはホントに、ホントに遠くなってしまった。
 母がただいま、と言って玄関のドアを開けると、祖母が満面に笑みをたたえて玄関口に現れて、お帰り、と言った。母にとってここは帰る場所なのだな、と改めて思った。僕はちょっと不思議な感じがした。ここはこれからは僕の帰る場所でもあるのだ。
 祖父は仕事からまだ帰っていなかった。祖父は個人タクシーの運転手だ。もともとは小さい印刷会社を経営していたのだが、その会社が倒産してからはもっぱらタクシーの運転手をやっていた。個人タクシーになったのはここ最近のことだ。祖母の話によると、今日は早目に切り上げて、夜には帰ってくるだろうとのことだった。
 僕と母は、二階のふた部屋を使うことになった。僕の部屋は、もともとは母の部屋だったところだ。母が子供のころから使っていた机と本棚、それにベッドはそのまま残っていた。僕は畳の上に鞄を置くと、母が長年使ってきた机に座り、椅子を回して部屋を見渡した。さきほど玄関先で感じた違和感はさらに強くなっていた。僕は無理やりここが自分の部屋なのだと思おうとした。そう思おうとすればするほど違和感は強くなっていく。たぶん、僕はここを知り過ぎているのだ。これが単に見知らぬ土地に新たに引っ越して来たということなら、ここまで違和感は感じないだろう。この家は祖父母の家として、母の実家として、年に一度は訪れてきた。そこを改めて、これから自分の生活する場所なのだと、自分の帰る場所なのだと言われても、すぐには切り替えが効かないのだ。ここはひとの家なのだという意識がまだ強い。そもそもイエというのはなんなのか? ここには父はおらず、その代わりに祖父母がいる。これまでの家族とは違った家族。東京と北海道という場所の違いよりも、自分がこれまで十四年間一緒に過ごしてきたイエとかカゾクというものはもうないのだ、という喪失感の方が強かった。あんなに酷い状態でも、僕にとってはそれがイエであり、カゾクだったのだ。そう言えば、ここに来るときは大抵は母と二人で、父が一緒に来ることは滅多になかった。珍しく一緒のときは、居心地が悪そうに口数が少なくなり、いかにも肩身が狭いといった風情だった。しかしそれももう昔の話だ。もう父がここを訪れることはないのだ。階下から僕を呼ぶ母の声がする。僕はそれに返事をして椅子から腰を上げながら、いずれ慣れるだろうと思った。それはいかにも頼りなげでまだ不安で一杯だったが、そう自分に言い聞かせるしかなかった。いずれ慣れるはずだ。この新しいイエにもカゾクにも。
 祖父は七時ごろに帰ってきて、それからみんなで近くの寿司屋に行って寿司を食べた。祖父母は僕らがやってきたのが嬉しくて仕方がない、といった様子だった。僕にもっとなにか食べろとさかんに薦めるのだが、僕は脂の乗ったトロとか光り物とか高いものが苦手で、もっぱら玉子だのなんだのを食べていた。
「わたし仕事しようと思うの」
 母が突然言い出した。祖父は心配そうに顔をしかめて言った。
「まだ無理しなくてもいいぞ。それに、保険金も入るだろ」
 祖母も祖父に調子を合わせるように母の顔を覗き込んで言った。
「そうよ。少しゆっくりしたら。せっかく戻ってきたんだし。それで落ち着いたら再婚でもしたらいいじゃない」
 母は箸を置くと、眉間に皺を寄せて怒ったような口調で言い返した。
「わたしもう結婚はしないから」
「そんなこと言ったってお前、まだ若いんだし、それにミツオのこともあるし……」祖母が目だけ動かして僕の方を見ながら言った。
「とにかく、もう結婚はしないから」
 母の勢いに場がちょっと気まずくなった。祖父はその場をとりなすように、まあ、好きにしたらいいさ、と無理に笑みをつくった。祖母は僕の方を向いて、さあ、穴子食べて、穴子、と僕の皿に自分の皿から穴子を置いた。僕は穴子をつまみながらちらりと母の横顔をうかがった。母の顔はまだ少し上気していた。

 翌日の土曜日には、前々日に出した分の荷物が届いた。僕は自分のダンボールを部屋に上げると、封を開けて自分の部屋を作り始めた。まずは本棚に本を並べて行く。本棚の半分以上は母の本で埋まっていて、全部は並べきれなかった。僕は母の本の中から読みそうにないもの、例えば少女マンガとか、少女向けの文庫本みたいなやつを本棚から取り出してダンボールに入れた。いずれ読みたくなりそうなもの、例えば文学全集とか、ミステリーなんかはそのままにしておいた。自分の本でも、もう二度と読みそうにないもの、例えば子供向けの少年文学の類などはダンボールに入れたままにしておいた。考えてみると、なんでこんなものを持ってきてしまったのだろうと思った。そんな風に分類していくと、本棚に並べる本は数えるほどしかなかった。僕は届いたときとさほど重さの変わらないダンボールを、押し入れの隅に押し込んだ。
 次のダンボールを開くと、CDラジカセをまず机の上に置いた。机の下を覗くと、コンセントがひとつ余っていたのでそこに電源を差し込んだ。一緒に入っていた衣類を、造り付けの衣装箪笥の引き出しに詰めて行った。
 次のダンボールには、学校で使う教科書やノートと一緒に、CDが入っていた。教科書とノートは机の引き出しにしまい、CDを本棚の空いているスペースに並べた。その中からレニー・クラヴィッツを取り出して、CDラジカセに入れて再生ボタンを押した。ヘヴィなギターのリフが部屋を満たし、ようやく少しは自分の部屋らしくなった気がした。
 最後に残ったダンボールには、アナログのレコードが詰まっていた。これはやたらめったら重くて、持って階段を上るのに息が切れた。これらは父が持っていたレコードだった。ほとんどがジャズの古いレコードだった。いつかの関谷との一件以来、しばらくジャズは聴いていなかったのだが、これらを持ってきたのはかつて聴いていたジャズに対する一種の感傷と言ってもよかった。そもそも僕と言う人間は貧乏性なのか、なにかを捨てるということは苦手なのだ。そのうちまた聴きたくなるかもしれないと思ったのだ。レコードプレイヤー自体は母が処分してしまったので聴けはしないのだが、僕はそれらを本棚の一番下の、少し大きめの棚に並べて行った。並べていると、父が一枚だけ出したソロアルバムが出てきた。僕は机の前の椅子に座ると、それを眺めた。不精髭を生やし、インドの服を着て鍵盤に向かう父の姿は、やっぱりクールだった。部屋に響き渡る、レニー・クラヴィッツのグルーヴのようにヒップだった。僕はしばらくそれを手にとって見ていたが、例の、父に対するやり場のないジレンマがよみがえり、僕はそれを振り切ろうとするように、棚の一番端に押し込んだ。
 僕は鞄を開けると、斎藤真紀子の封筒を取り出した。便箋を広げてひとことだけの手紙を読んだ。相変わらずほんのりと香水の匂いがした。斎藤真紀子の匂い。レニー・クラヴィッツはファルセットでハモっていた。僕は時計を見た。二時半。今日は学校が休みの日だ。僕は大きく深呼吸をした。それから鞄をあさって生徒名簿を取り出すと、斎藤真紀子の名前を探した。僕はもう一度深呼吸をすると、CDのヴォリュームを下げて、机の上の受話器を取った。意を決してダイヤルボタンを押した。呼び出し音が鳴る。心臓が口から飛び出しそうだった。受話器の上がる音がして、中年の女性の声がもしもしと言った。
「あ、あの、斎藤さんのお宅ですか?」僕は声がちょっと上ずるのがわかった。
「違います」
 電話はあっさりと切れた。
 僕はしばし放心するように宙を見つめた。何故だ。いったい全体、これはどういうわけだ? その疑問はレニー・クラヴィッツのエフェクトをかけたエコーのように頭の中をぐるぐると回った。それからはたと気づいた。市外局番を押すのを忘れた。バーカ、と言う真木の顔が頭に浮かんだ。
 僕はもう一度息を整えると、今度は市外局番からダイヤルボタンを押そうとした。そこで指が止まり、もう一度深く息を吸い込んだ。それからゆっくりと息を吐き出した。そして静かに受話器を戻した。僕はいったいなにをしようとしたんだ? いまさらなにができるというんだ? ありがとうとひとこと言いたかったんだ、と自分に向かって呟いた。だがそれでいったいどうなるというんだ? 違う自分が問いかける。お前と彼女のあいだに、この先いったいなにがあるというんだ? 僕は深く溜息をついた。ここは遠い。あまりにも遠い。いまさらながら自分と斎藤真紀子の距離に驚いた。僕は斎藤真紀子の便箋を封筒に戻すと、引き出しの奥に押し込んだ。





 翌日の日曜は快晴だった。考えてみれば北海道に梅雨はないのだ。僕は昼過ぎにひとりで出かけることにした。これから僕が生きていくことになるこの街を、もっと知っておく必要がある。
 地下鉄に乗ると、大通駅で降りた。地下街を少し歩くと、地上に出た。デパートやテナントビルがひしめく休日の大通りは人でごった返していた。僕は見上げたビルにタワーレコードの名前を見つけて、エレベーターで上に昇った。一通り売り場をぶらぶらしてみたが、特に欲しいものは見つからなかった。また地上に降りると、しばらく通りを当てもなくふらふらと歩いた。アーケード街を見つけては、中を探検した。しかし、まったくここにはなんでもある。改めて札幌という街の大きさに感心した。もしかしたらいまの日本という国は、どこに行ってもそんなに変わらないんじゃないか、と思ったりもした。結局のところ、僕はまだ母の実家の周りしか知らず、北海道という場所をこれっぽっちも知ってはいなかった。広大な原野も、ヒグマのうろつく山々も、流氷が流れ着く氷に閉ざされた北の果ての街も、風の吹きすさぶ岬も。
 少々歩き疲れて、休憩がてらマクドナルドでコーラとフライドポテトを食べた。店内は家族連れや中高生で賑わっていた。僕はぼんやりとストローでコーラをすすりながら、もしかしたらこの中に僕の同級生になる人間がいるのだろうか、と思った。明日行くことになっている新しい学校のことを考えるとちょっと緊張した。僕にはまた真木のような親友ができるのだろうか。それとも東京から来た人間として、血中に混じり込んだ異物のように白い目で見られるのだろうか。考え始めると次第に憂鬱になる。考え過ぎは禁物だ。僕は早々に想像に見切りをつけ、残りのコーラをひと息に飲み干すと、店を出た。
 気がつくと楽器屋の前にいた。さっきから楽器屋はやたら目について、札幌って街は楽器屋だらけだと思っていたが、この店は特にデカい。僕は店を見上げた。僕の財布の中身から言って、この店で買えるものはせいぜいがギターのピックか、それとも弦ぐらいなものだろう。まあいい。ともかく入ってみよう。見るだけならいいだろう。僕はちょっと肩をすくめて、それから店内に入った。
 一階のギター売り場は、高校生や大学生ぐらいの客で賑わっており、そこここで下手糞なチョーキングの音がキュイーンと鳴っていた。並んでいるギターにはどれも僕には到底買えない値段が付いており、僕は肩を落とした。どうやら僕のギターを始めるという構想が実るのはいつになることやらわからなかった。通路で溜息をついていると、あとからあとから僕を押しのけるように客が入ってくる。混んでいる場所は苦手なので、階段を上がって二階のキーボード売り場に向かった。階段の壁にはベタベタとバンドメンバー募集の張り紙がしてあった。二階は一階に比べれば随分と客が少なかった。入り口に近い方はデスクトップミュージックのコーナーで、コンピューターのディスプレイが並び、シンセサイザーの音源やサンプラー、シーケンサーといったラックがところ狭しと並んでいた。そこをやり過ごし、奥の方に進むとエレクトリックピアノが並んでいる一角があった。その辺りは店でももっとも人気のないコーナーなのか、ひとりふたりの客しかいなかった。僕はなんとなくその中のひとつの鍵盤を押してみた。高い方のCの音だ。本物のピアノのようなタッチで、サンプリングらしい音は響きこそ足りないものの本物のピアノそのものだ。懐かしい感触がした。右手でスケールを昇っては降りてみた。もう何年もろくに弾いていないというのに指が勝手に動くことに驚いた。僕は辺りを見回して店員が近くにいないことを確かめると、椅子に座ってペダルを踏んでCメージャー・アド・ナインスのコードを押さえてみた。懐かしい響きだ。鍵盤の上にプリセットのスイッチがいくつか並んでいて、その中のエレクトリックピアノの1という奴を押してみた。それで弾いてみると、ローズの音がする。僕はちょっと嬉しくなり、「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」を弾いてみた。最初はゆっくりと、音を確かめるように、響きを楽しみながら。弾いているうちにかつての感覚がよみがえってきた。それはやけに懐かしく、思いのほかスリリングだった。僕は次第に夢中になり、右手は勝手にアドリブを弾き始めた。父のように、ときには狂ったように激しく、それから急に優しく。僕は次第にテーマを離れて、勝手に転調を繰り返し、テンポを変えながら好き勝手に弾いた。最後はブルースになり、一番低いCまで降りて終わった。ふう、と僕は息をついた。
 ふと僕は誰かの視線を感じて顔を上げた。見ると、並んでいるキーボードの向こうから、僕よりもちょっと年上ぐらいの、黒いVネックのサマーセーターを着た背の高い坊主頭の奴が、口をぽかんと開けて正面から僕を見ていた。僕は急に恥ずかしくなって顔を赤らめると、慌ててその場を離れて階段を降りた。





 さっき校長室で紹介されたばかりの、黒木という担任の男の先生が、黒板の真ん中に大きく「酒井光男」とチョークで書いた。それからその隣に、ひらがなではなくかたかなで「サカイミツオ」と書いた。僕は教壇の上に立って緊張で顔をこわばらせながらそれを見ていたが、その一方でかたかなで書くとまるでスガシカオみたいだな、と頭の隅でぼんやりと思った。僕はスガシカオの歌が大好きなのだ。
 黒木は教室の方を向き直ると、机に両手をついて言った。
「えー、今日から転校してきた、サカイミツオくんです。みんな仲良くするように。酒井くんは東京から転校してきました。まだ札幌や北海道のこともよく知らないだろうから、教えてやってくれ」黒木はそれから見上げるような長身をこちらに向けて言った。「じゃ、酒井、ひとこと挨拶しろ」
 そこで僕はようやく顔を上げて教室を見渡した。当たり前だが、見知らぬ顔が一斉に自分に視線を向けているのがわかった。まるでさらしものだな、これじゃ、と思った。
「えーと、酒井です。よろしくお願いします」
 ぺこりと頭を下げた。相変わらず教室の中はしーんと静まりかえっていた。僕はまるで陪審員に取り囲まれた被告のような気がした。とにかく一刻も早くこの教壇から降りたかった。判決はともかく。
「なんだ、随分シンプルだな」黒木がようやく判決を下した。「えーと、席はショウジの隣だな、一番後ろだ」
 僕はとにもかくにもこの場から解放されたことに安堵しながら、教壇を降りて窓際の一番後ろの空いている席を目指して歩いた。席に辿り着いて、腰を下ろそうとして思わず「あ」と声を上げた。
「なんだ酒井、早く座れ」
 黒木の声が飛んできて僕はようやく我に返って腰を下ろした。僕の隣には、昨日楽器屋で口を開けて僕を見ていた、坊主頭が座っていた。僕はもう一度ショウジと呼ばれた彼の方をちらりと見た。ショウジはにこりともしなかった。

 一時間目は黒木の数学だった。ちょうど先週習ったばかりのところで、僕には退屈な授業だった。僕はときおり窓の下に広がるグラウンドをぼうっと眺めたり、黒木という教師を観察したりして過ごした。
 黒木は二十代後半か三十代前半といったところで、身長は百八十センチちょっと。身長が高いのでひょろっとして見えるが、案外と肩幅は広い。髪は肩辺りまで無造作に伸ばし、低いが通る声でぶっきらぼうに喋る。男っぽい、怒ると怖い熱血教師、という感じだった。ときどき耳に入ってくる教え方は、先週習ったのと比べてもわかりやすかった。案外いい担任に当たったのかもしれないなと思った。
 例のショウジはと言えば、ときどき僕の方にちらっと視線を送ってくるのを感じた。僕が視線を返すと、すぐさま彼は目を教科書か教壇の方に戻した。口をむすっとした感じで結び、なにか不満でも抱えているのかと思える。顔も同い年にしては武骨な感じで、上背のある体格もなにか格闘技でもやっているようなしまった筋肉質に見える。僕は昨日年上かなと思ったことを思い出した。よく言えば精悍な感じ。悪く言えば無愛想な印象を受ける。どっちにしても、付き合いづらそうな奴だな、というのが第一印象だ。
 ざっと教室全体を見渡すと、基本的には男女ふたりずつ交互に席が配置されていて、どうやら僕が来たことでちょうど男女の人数が釣り合ったというところみたいだった。
 僕がそんな風にぼんやりとこの新しいクラスを観察しているうちに、ベルが鳴って一時間目が終わった。黒木はそれなりに気を使ったのか、僕を指名することはなかった。もし指名されていたとしても、全部答えることができただろう。周りががやがやと席を立ち始めると、壇上に残っていた黒木に呼び出された。
「酒井、ちょっと来い」
 僕はなんだろう、といぶかしりながらも教壇に近寄った。
「なんですか?」
 僕が隣に行って問いかけると、黒木は机に両肘をついて尋ねてきた。
「お前、部活はなにかやってたのか?」
「一応テニス部だったんですけど」
 僕がそう答えると、黒木はちょっと失望の色を目に浮かべて言った。
「じゃあ、やっぱりテニスやるのか?」
「それはまだ決めてません」
「なあ」黒木は教科書の類を抱えて立ち上がりながら言った。「合唱部入んないか?」
「合唱部?」
「お前、ピアノ弾けるんだろ? お父さんに習ってたんじゃないのか」
「ピアノはもう随分前にやめたんです」僕は下を向いて答えた。
「そうか」黒木はちょっと肩を落とすと、入り口の方に向かいながら僕の肩をぽんと叩いた。「ま、考えておいてくれや」
 そう言うと、黒木は教室を出て行った。
 僕が席に戻ると、ショウジはトイレにでも行ったのか、隣の席は空だった。次の授業の教科書を机の上に出していると、「ねえ」という女の子の声が目の前から聞こえた。顔を上げると、前の席の女の子がこちらを向いていた。
「酒井くんて、東京のどこから来たの?」
 女の子は勝気そうな目を好奇心にきらきらさせて言った。
「中野」
「それってサンプラザがあるとこ?」
「うん」
「ふーん」
 僕は女の子を観察した。ボブにした髪、通った鼻筋、ちょっとボーイッシュな感じ。どうしてこの歳の女の子ってのは自分よりも大人に見えるのだろう。彼女は僕の机に片手で頬杖をつくと、ちょっと物憂げな感じで訊いた。
「ねえ」
「なに?」
「どうしてわざわざ東京から北海道なんかに来るはめになったわけ?」
 僕は答えに詰まった。なにも馬鹿正直に父親が死んで、などと答える必要はない。
「親が引っ越したから」
 僕は無難な答えで済ませた。
「ふーん」
 彼女はその答えでは物足りなそうだったが、僕があまり積極的に語りたがってないことも察したようだった。
「わたしシンドウユリ。新しいに藤に花の百合。よろしくね」
「ああ」
 新藤百合はようやく向こうに向き直った。気がつくとショウジは席についていた。僕がちらりと見ると、相変わらずぶすっとした顔で教科書を出しているところだった。二時間目の始業のベルが鳴った。

 その後休み時間のたびにいろんな奴が好奇心にかられて僕の元を訪れた。僕は人見知りする方だし、友人というのは営業努力をして手に入れるものではない、という都合のよいポリシーを持っていたので、ただひたすら待ち受けているだけだった。
 僕の元を訪れたのは、例えば、ちびで出っ歯の、まるでねずみのような顔をした栗田。彼はやたら早口でまくしたてるので、なにを言っているのか全部はわからなかった。例えば、眼鏡をかけていかにも真面目な優等生といったタイプの山岸。彼はどうやら学級委員らしく、物腰も柔らかくて紳士的な印象だった。例えば、大下と木下という、字で書くと一画しか違わない、女の子ふたり。見た目はまるっきり好対照で、大下は小柄で髪の毛がちょっと茶髪(たぶん天然)の華奢なアイドルタイプ、木下はどちらかというとデブ寸前の、陸上部系のがっしりとしたスポーツウーマンタイプ。共通点は二人とも喋っている時間よりもきゃっきゃっと笑っている時間の方が長いということだ。
 彼ら全員に共通しているのは、恐らく僕という人間よりも東京という場所に興味があるということだ。つまり、僕という人間が東京から来た、というところに意義があるというわけだ。だから彼らは必ず同じ質問をする。それは新藤と同じ質問だ。僕が東京のどこから来たのか。何故東京から札幌に来たのか。前者はともかく、後者の質問には次第にうんざりしてきた。新藤のようにあっさりと引き下がる人間はともかく、なんでなんでとしつこく訊いてくる奴に、のらりくらりと答えるのにもパワーがいる。少しは話を作る必要まで出てくる。しかし、下手に嘘をつき始めると、例えばいろんな奴に違う話をしたりすると、あいつは嘘つきだと言われかねないので、どうしても歯切れが悪くなる。僕は父が死んだことを知られることで同情されることが嫌だった。なによりも、父が自殺だったかもしれないということだけは、誰にも知られたくなかった。
 昼休みが過ぎて、午後の時間に入っても、相変わらず隣のショウジは僕にひとことも話しかけてこなかった。僕は何度か彼に声をかけてみようかと思ったが、そのたびに前述の連中が現れては同じ質問を浴びせかけてくるのだった。そんなわけで一日目の僕が心休まる時間は、むしろ授業中だった。
 五時間目が終わった休み時間に、ショウジはまたどこかに席を立った。新藤がまたこちらに向き直ったので、僕はまた突っ込まれるのかなと身構えた。新藤は机に両肘をつくと、こちらにかがみ込んで耳打ちするように言った。
「ねえ、ショウジくんって変わってるでしょ」
 新藤の息が耳にかかり、彼女の髪のシャンプーかリンスの匂いがほのかに香った。僕は少しどきっとした。それに間近に見ると、案外可愛い顔をしていることに気づいた。
「ショウジって名前なの? それとも苗字なの?」
 僕はずっと気になっていたことを尋ねた。
「苗字よ。東海林って書いてショウジ。ショウジアキミツ。昭和の昭に光る」
「そう言われて見ればそんな感じだな」
「みんなちょっと怖がってるのよ。不良だって噂もあるし」
「噂?」
「まあ、別に誰がどうって目に遭ったわけじゃないのよ。あくまでも噂よ。ほら、彼ってあんまり喋んないじゃない」彼女はますます顔を近づけて声を潜めた。息が首筋にまでかかり、僕はどきどきした。「ショウジくんのお父さんってやくざだって噂なのよ」
「また噂か」
 僕がそう言うと、新藤は肩をちょっとすくめてようやく顔を離した。僕は少しほっとした。ショウジがちょっと気の毒に思えた。噂というものほどいい加減なものはない。おまけに厄介なものはない。僕も気をつけなければ、と思った。
「ねえ、酒井くんのお父さんてなにやってる人?」
 ほっとしているところに爆弾が落ちてきた。僕はどう答えたものか迷った。かと言って嘘はつきたくなかった。
「ミュージシャン」
「へえ、すごーい」新藤は目を丸くした。
「ねえ、新藤さん」今度は僕が顔を近づける番だった。
「ユリでいいわよ。なに?」彼女は微笑んだ。
「できたらその、あまり人には言わないで欲しいんだ」
「なんで?」
 ユリは不満そうに頬を膨らませた。僕は溜息を小さくつくと、腹を括った。この子は最初に声をかけてくれたし、まんざら悪い子ではないように見えるし、べらべらと喋りまくるタイプには見えない。ような気もする。ちょっと自分のタイプでもある。ような気もする。それにどうせいつかはバレてしまうことなのだ。
「あのさ、実は死んじゃったんだ、オヤジ。それで転校してきたんだ」
 僕が意を決してそう言うと、ユリは口を結んで眉を八の字にしてから言った。
「わかった」
「ありがと。恩に着るよ」
 僕がそう言うと、ユリはにっこりと笑って始業のベルとともに前に向き直った。





 かくして僕の転校初日は何事もなく過ぎようとしているかに見えた。
 終業のベルが鳴り、部活へと急ぐ者、固まってだべっている者、さっさと帰る者、ぼんやりとなにをしようか考えている者。最後のが僕だ。
 僕は窓枠に腰を掛けると、眼下のグラウンドを見下ろした。野球部とサッカー部がそれぞれグラウンドの両端で準備を始め、横の方では陸上部が準備を始めていた。グラウンドの向こうに二面のテニスコートが見えた。果たしてテニスを続けるべきか否か。目下の問題はそれだ。ひとまず見にだけ行ってみるか。僕はようやく腰を上げ、鞄を手にすると教室を出た。
 校舎を出ると、グラウンドを横目に見ながらテニスコートの方を目指した。テニスコートは、グラウンドの向こうの道路に面した一番奥にあった。僕は一旦道路まで出て、金網越しにテニス部の練習を眺めた。巧い者も、そうでない者もいる。前の学校と似たりよったりだ。つまり、僕がもし入っても前と似たような位置に来るだろう。団体戦のメンバーにかろうじて入れるかどうか。たぶんダメだろう。大体、僕はどうしてもテニスをやりたかったわけではないのだ。どちらかと言うと、見る分にはサッカーの方が好きだ。まあ、さすがにいまからサッカーを始める気にはならないけど。黒木の顔が頭に浮かんだ。合唱部なんてまっぴらだ。スリルのない音楽なんて。
 大体、あと二三ヶ月もすれば三年生はみな引退して、ほとんどの者が受験勉強に専念するだろう。僕はあっさりと部活のことはアタマから捨てた。もう来週から期末試験が始まるし、それが終わればすぐに夏休みだ。どうやらこのままでは今年の夏休みは酷く退屈なものになりそうだ。いったい今年の夏はなにをすればいいのか。
 僕は金網に手をつきながら溜息をついた。いつまで経っても買えそうにないギターのことを考えた。いまだに自分の家という感じがしない祖父母の家のことを考えた。一度クリアされてまっさらになってしまった友人というものを考えた。まだ自分がよそ者に過ぎない新しいクラスを考えた。どれもこれもが中途半端だ。僕は宙ぶらりんだ。まるで心臓かなにかの移植手術だ。僕という組織が、新しい学校という組織に異物と見られるか、それとも受け入れられるのか、移植してみないことにはわからない。やれやれ。いったいなにを考えてるんだ? 受け入れられることがそんなに大事なのか? 僕らはみんなひとりの生き物として、個々に生きている。誰かを頼らなければ生きていけないようでは、寄生虫みたいなものじゃないか。群れから離れたら死んでしまうようでは、ひな鳥と同じだ。しかし、そんな風に自分に言い聞かせながらも、僕は途方もない焦燥感に捕らわれた。僕はなにかを見つけなければならない。なにか新しいものを。そうじゃなければ、このまま漠とした不安に包まれたまま、ただおろおろと孤独の中で無意味に中学生活を終わらせてしまいそうな気がした。なにかを見つけなければ。
 だが、それがなんなのか、さっぱりわからなかった。
「テニスやってたのか?」
 突然背後から声が聞こえた。振り向くと、そこにショウジが立っていた。相変わらず無愛想な顔で。僕は彼が喋ったことに少なからず驚いた。まあ、考えてみればそれほど驚くほどのことではない。別にヒグマが喋ったわけではないのだ。
「あ、ああ」僕は金網に向き直ると言った。
 ショウジは僕の隣に来て、同じように金網の向こうを見つめた。
「入るのか? テニス部」
「いや、やめとくよ」
「なんで?」
「いまさら入ってもしょうがないし、他にすることがあるから」そう答えてから僕は付け足した。「たぶん」
「たぶん?」
「そのうち見つかるさ」
「ピアノじゃないのか?」
「ピアノはやめたんだ、もう随分前に」
「なんで?」
 ショウジは驚いたように目を見張った。僕はさきほどからの苛立ちが頂点に達しようとしていた。それが自分自身に対するものだとわかってはいたが。
「お前、案外喋るんだな」
 僕はそう吐き捨てると、金網を離れて歩き始めた。ショウジが後をついてくるのがわかった。信号待ちをしていると、ショウジが横に並んで言った。
「なあ、怒ったのか?」
 僕は首を回してショウジを見た。その目には意外なことに戸惑いと、なにか繊細なものが垣間見えたような気がした。僕は少しばかり強く言い過ぎたかなと思った。
「いや、今日は質問ばかりでちょっとうんざりしてるだけだよ」
 僕にはまだショウジという人間が計りかねた。だが、少なくともユリが言うような怖さは感じなかった。皆はいったいなにを怖がっているのか? 僕には彼がただ孤独な人間に見えた。僕と同じような。
 信号が変わって僕が交差点に一歩足を踏み出すと、ショウジは背中越しにぽつりと言った。
「悪かったな」
 ショウジは信号を渡らなかった。そして、僕は振り返らなかった。

 地下鉄に乗ると、大通駅で降りた。まっすぐ帰る気にはなれなかった。僕の内なる憤りは、その矛先がわからないだけになかなか収まらなかった。
 大通り公園のベンチに座り、通り過ぎる人々をぼんやりと眺めた。急に、煙草が吸ってみたいと思った。ああ、こういう気分のときに人は煙草が吸いたくなるのだな、と思った。僕はいまだかつて煙草を吸ったことはない。父はヘヴィスモーカーだった。母も、父ほどではないがたまに吸うことがあった。僕は大人というものは煙草を吸うものだ、と小学生までは思っていた。
 僕は道を踏み外しかけているのだろうか? 僕は不良になりかけているのだろうか? それとも、これが反抗期というものなのだろうか?
 いずれにしろ、僕はまだガキなのだ。まだ何者でもない。そのことは酷く僕を苛々させる。こんなことで悩んでいること自体が世界中で自分ひとりだけのような気がして、僕は長々と溜息をついた。
 ショウジのことを考えた。僕は何故彼に突っかかってしまったのだろう? なにか彼に悪いことをしてしまったような気がした。曲りなりにも僕に声をかけてくれた人間に対して。よくよく考えてみれば、ショウジは昼間の連中とは違って、興味本位であれこれ質問したのではないような気がした。少なくとも彼は僕を受け入れてくれようとしたのだ。僕はそれを蹴り飛ばすような真似をしてしまった。
 次第に気分は滅入っていった。僕はじっとしていることが耐えられなくなり、ベンチを立つと人通りの多い方に歩き始めた。
 日はまだ当分落ちそうになかった。一日が途轍もなく長いように思えた。これが延々と繰り返されると思うと、さらに気分は滅入った。僕は日が傾くまで、しばらく当てもなく繁華街をふらふらと歩き回った。 

 ようやく日が落ちたころに家に帰ると、祖母がひとりで待っていた。祖父はまだ仕事なのだろう。食卓の上には既に夕飯が出来上がっていた。母の姿は見えなかった。
 台所のテーブルにつくと、祖母がご飯をよそってくれた。
 僕は焼き魚と格闘しながら、ちょっとした違和感を覚えた。そういえば、いつも夕飯は母と一緒だったのだ。
「母さんは?」僕は祖母に訊いてみた。
「なんか、同級生と食べてくるから遅くなるって」
「ふーん」
「それで、どうだった、新しい学校?」祖母も一緒に夕飯に箸をつけながら訊いてきた。
「来週から期末試験だって」僕は食べながら答えた。
「来た早々で大変だねえ。それで、ともだちはできそうかい?」
 僕は味噌汁をすすりながら、うん、と曖昧な返事を返した。やれやれ、今日はどこに行っても質問攻めだ。
 
 僕は夕飯を食べ終わると、すぐに部屋に上がった。テレビは見る気がしなかった。期末試験の勉強をしようと、机に向かって教科書を開いてみたが、さっぱり文字が頭に入らなかった。諦めてCDラジカセにジャミロクワイの「スペースカウボーイ」を入れてスイッチを押し、ベッドに大の字に寝転がった。
 両手を頭の後ろに組んで天井の古ぼけた木目を見ながら、「スペースカウボーイ」ってどんな歌詞なんだろう、と考えた。それにしても、なんてタイトルだ。
 それから今日という一日を考えた。さっき大通り公園のベンチで考えたことが頭に浮かんだ。考えてみれば、まだ今日という日は終わっていないのだ。まったく、なんてこった。それにしても今日という日はやたらと質問ばかり……待てよ。本当にそうだろうか? 会話なんてものはそもそも質問ばかりじゃないのか? なにを過敏になっていたのだろう? やっぱり初対面の人間ばかりで緊張していたのだろうか?
 確かにそれもあるだろう。しかし、僕にはなんとなくわかった。僕は父のことを訊かれるのが嫌だったのだ。かつてはあれほど自慢げに話していた父のことを。だから父のことを連想させるピアノに関することも、ひいては人に質問されること自体にうんざりしてしまったのだ。僕には、父が自殺だったかもしれないということがどうしても引っ掛かっているのだ。あれは自殺ではなくて事故だったのだと論理的に説明してくれる誰かが現れて欲しかった。しかし、論理的に考えれば考えるほど、父は自殺したのだと思えた。そうじゃなければ、あんな夜中にいったいどこに行こうとしたっていうんだ? 目をつぶると、かつて母の膝の上で見た、髪を振り乱してピアノを弾く父の姿が浮かんだ。
 父さん、いったい、どこへ行こうとしたんだ?
 もちろん父は答えるはずもなく、額に汗を滴らせて一心不乱に鍵盤に向かっていた。


10


 翌朝の朝食の席に母は現れなかった。祖母に訊いてみると、昨夜は相当遅く帰ってきて、まだ寝ているらしい。母もそろそろ羽目をはずしたくなったのかなと思いながら、僕は祖母に行ってきますと声をかけて家を出た。
 相変わらずの晴天だった。それに、同じ都会と言っても、気のせいか東京と比べると空気中の酸素の含有量が多い気がする。気持ちのいい朝だった。すがすがしい朝というのはこういう日を言うのだろう。こうしてみると、昨日はなにを苛々していたのだろう、という感じだ。
 僕は学校までの道を歩きながら昨日頭を悩ませたことについて考えた。たぶん僕はともだちが欲しくてしょうがないのだ。ただ馬鹿話をするだけではなく、本当に心を打ち明けることのできるともだちが。真木のことが頭に浮かんだ。自分がまるで地球の反対側にでもいるような気がした。僕は世界から孤立してしまうのが怖いのだ。これ以上孤独になることが。今日は僕の方からショウジに声をかけよう。あいつは悪い奴じゃない。たぶん人付き合いが不器用なだけなんだ。
「おはよ」
 後ろからぽんと肩を叩かれた。ユリだった。ああそうか、彼女もいる。昨日僕をどきどきさせた彼女の髪の匂いを思い出した。大丈夫だ。僕は自分で思っているほど孤独ではない。僕はおはようと答えながら、肩を並べてきたユリに訊いてみた。
「ねえ、ユリはなにかやってるの、部活?」
「帰宅部」
「じゃオレと一緒だ」
「一年のときはバレー部入ってたんだけど、凄いのよ」
「なにが?」
「しごき。あれじゃいじめだよ」
「へえ、女子でもそんなのあるんだ」
「女子の方が陰険なんじゃないかなあ」
「そんなもんか。なあ」
「なに?」
「ショウジのことだけど、あいつそんなに悪い奴じゃないと思うんだけど」
「なんで?」
「昨日ちょっと話したんだ」
「へえ。彼、口数少ないからね」
「あいつ、ともだちっていないのか?」 「んー、どうかなあ……あんまり仲のいい人っていないんじゃないかなあ」
「へえ」
 ユリは女の子のともだちを発見したらしく、じゃあね、と言うと先に走って行った。
 僕にはショウジの孤独がなんとなくわかるような気がした。最初に彼を見かけたときの、自分よりも年上に見えたことを思い出した。たぶんショウジはただはしゃいでいるだけの周りよりも、ちょっとだけ大人なのかもしれない。父親がやくざというのは本当なのだろうか? 普通親がやくざだったら、タチの悪い奴だったらそれを笠に着るんじゃないだろうか? 少なくとも彼がグレているようには見えなかった。それに、父親に関して積極的に人に話したくないということに関しては、自分と共通するものがあるように思えた。僕の中に少しずつ彼に対する親近感のようなものが芽生えていた。

 教室に入ると、前の方で固まって騒いでいる連中とは一線を画すように、ショウジはぽつんと机に座ってなにかを読んでいた。
 僕は自分の席に座り、教科書を取り出して机の中に放り込むと、ショウジの方を向き直って言った。
「おはよう」
 ショウジは驚いたようにいぶかしげな視線を僕に向けた。
「昨日は悪かったな、なんか」
 僕はそう言って笑いかけた。すると、彼は微かに口元を緩めて微笑んだ。彼が笑ったのを見るのは初めてだった。僕はなにか肩の荷がひとつ降りたような気がした。
 二日目ともなると、少しはクラス全体の様子がわかってくる。誰と誰が仲がいいのか。誰が孤立しているのか。リーダー格は誰か。くっついて回ってるだけの奴は誰か。ゲームの話ばかりしてる奴。マンガの話ばかりしてる奴。もちろん中には勉強ばかりしてる奴というのも数は少ないけれど存在した。なにしろ来週は期末試験なのだ。
 僕は去年のクラスを思い出してみた。去年は女子に比べて、自分も含めて男子は皆子供っぽく見えた。いまの歳は微妙だ。まだホントに子供みたいな奴と、大人びた奴に分かれてくる。例えば、昨日知り合った数少ない中では、学級委員の山岸とか、ショウジとかは大人びている方だ。僕はどうなんだろう? ま、中途半端って奴かな。でも、少なくとも去年に比べると僕は随分大人になったような気がする。どこがどうとは言えないけれど。たぶんそれは皮肉なことに父を失ったことが大きいのだろう。もうすぐ僕も十五歳になる。それが待ち遠しかった。
 質問攻めなのは相変わらずだ。入れ替わり立ち代わり新しい顔がやってきては質問を浴びせてくる。そのうちそれも収まるだろう。僕も少しは慣れてきた。コツも覚えてきた。答える代わりに逆にこっちが質問すればいいのだ。お前のオヤジはなにやってんの? そうすると面白いことがわかった。胸を張って答える奴もいるが、大抵の奴は、サラリーマンとか、建設関係とか、ちょっと下を向いて口篭もりながら答える。彼らはなにを恥じているのだろう。少なくとも、生きてるってだけでも十分じゃないか。僕は声に出さずにそう思った。
 僕は国語の授業をぼんやりと聞きながら思った。なんだかんだ言って昨日からやたらとみんな話しかけてくるではないか。これのどこが孤独だと言うのだ? あとは自分から近づいて行けばいいだけの話ではないか。ただ、そう思うのと同時に、彼らが道端で珍しい犬でも見かけて試しに手を出しているようなものであることもわかっていた。あとは僕が尻尾を振るかどうかというだけだ。結局、僕という人間はショウジ同様、人付き合いということに関しては不器用な人間なのだった。
 昼休みが終わるころに、席に戻ってきたユリが僕の方を振り返って言った。
「ねえ、聞いてよ。もう酒井くんとわたしのこと噂になってんのよ」
「へえ」
「笑っちゃうわよね」
「だったらこんな風に話してていいのか? 火に油を注ぐって言うだろ?」
「へへ」
 ユリは屈託のない笑顔を浮かべると前に向き直った。始業のベルを聞きながら、いまの笑顔はどういう意味なのだろうと考えた。
 授業を重ねて行くうちに、たまに指されると、ショウジはすべて間違えないで答えていることに気づいた。へえ、案外できるんだな、と思った。人は見かけによらないものだと。見かけによらないと言えば、一度ショウジが答えている間、なにか鋭い視線を感じてそちらに目を向けると、山岸が苦虫を噛み潰したような顔をしてショウジを睨みつけているのが見えた。温厚で紳士的に思えた昨日の印象とは打って変わって、その目つきは鋭かった。
 
 ホームルームが終わって、教科書を鞄に詰め込んでいると、ショウジが傍らに立って言った。
「このあとなんかある?」
「ないよ」僕は顔を上げて答えた。
「じゃあ、ちょっとつきあってくんない?」
 相変わらずショウジは無愛想な顔で訊いた。どうやら目をすがめて話すのが彼の癖らしい。たぶんみんなはそれに戸惑ってしまうのだろう。不良っぽく見えてしまうのかもしれない。僕には彼の目の中に、僕と同じような孤独と不安と戸惑いの色が見えたような気がした。僕らは結構似たもの同士なのかもしれない。それに、考えてみれば昨日も今日も、最後に声をかけてくれるのはショウジなのだった。
「いいよ」
 僕が答えていると、教壇から「酒井」という黒木の声が飛んできた。僕はショウジに、ごめん、ちょっと待ってて、と声をかけると、教壇の方に足を進めた。
「なんですか?」
 僕が尋ねると、黒木は横を向いてちょっと声を落として言った。
「例の件、考えてくれたか?」
「あ、やめときます、やっぱり」
「そうか……」黒木は失望の色を目に表すと、僕を手招きして声を潜めると、耳打ちした。「実はな、オレ、お父さんのレコード持ってるんだよ」
 僕はなんと答えたらいいのかわからずに、そうですか、と答えた。 「それだけだ」黒木はそう言うとにっこりと笑って、昨日のように僕の肩をぽんと叩いた。

「これから行くとこだけど」ショウジが地下鉄のドアにもたれながら言った。「ちょっとびっくりするかもしれない」
「なんで?」僕は訊いた。
「知ってる人の店なんだけど」ショウジは言いにくそうに足元を見ながら言った。「その、ちょっと見かけがインパクト強いんだ。でも、悪い人じゃないから」
「ふーん」
「いや、正確に言えば、世間一般から見ると悪い人だったのかもしれないし、もしかしたらいまでも悪い人なのかもしれない。でもいい人なんだ」
 僕はなに言ってんだこいつ、という具合にきょとんとした。
「で、いい人なわけだろ?」
「そう」
「ならいいじゃん」
 僕がそう言うと、ショウジは顔を上げて安心したようにちょっと微笑んだ。

 僕らはすすきのの駅で降りた。まだ日の高い繁華街を、ショウジのあとをついて歩いた。日が落ちるといかにもけばけばしいネオンが瞬きそうな、ごちゃごちゃした横丁に入ると、ピンクや黒の色とりどりの看板が万国旗のように縦に並んでいる雑居ビルの前でショウジは立ち止まった。
「ここ」
 ショウジは僕を振り返って言った。僕は、クラブとかサロンとかマッサージとかの文字を見上げながら、「へえ」と言った。そうとしか言い様がなかった。
 ショウジはすたすたと中に入って、エレベーターのボタンを押した。僕は階を示すランプが降りてくるのを見上げながら、ショウジに言った。
「なあ、暗くなったら補導されるんじゃないか、この辺?」
「かもな」
 そう言うと、ショウジはいかにも楽しげに笑った。それはいままでで一番楽しそうな笑顔だった。思わず僕もつられて笑った。
 エレベーターが開いて乗り込むと、ショウジは五階のボタンを押した。狭いエレベーターの中は、床に敷かれたカーペットの端がちょっとはがれかけていて、アルコールや煙草が入り混じったような匂いがした。僕は平気な顔を装ってはいたが、内心はいったいどこに連れて行かれるのだろうと緊張して手に汗が滲んだ。そしてショウジについてきたことを少しばかり後悔した。やっぱりこいつはヤバい奴なのかもしれない。しかし、いまさらもう遅かった。チンと音がして、エレベーターのドアが開いた。




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