ナイトソングス (3)
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11
そこはいかにも、僕らのような学校帰りの、しかも制服で鞄をぶら下げた中学生が間違っても入らないような場所に見えた。いかにも重そうな、年季の入った木でできたドアには、「アルバトロス」とだけ書いてあった。僕にはまるで、前にテレビの映画で見た、トルコの刑務所の監房の入り口みたいに見えた。ショウジは僕の緊張をよそに、平気な顔で取っ手を持ってドアを開けた。それは微かにぎい、と音を立てた。
案外と広い店内は薄暗く、まだ営業していないようだった。入った途端に思ったのは、なんでこんなに暗いんだろう、ということだ。一応窓はあることはあるのだが、ブラインドが下ろされていてほとんどその機能を果たしていなかった。もしかしたらこの界隈のビルの立て込みようから言って、ブラインドが上げられても大差ないのかもしれない。もしくはろくな景色が見えないのかもしれない。小さい音量でマッコイ・タイナーが流れていた。右手にあるカウンターの頭上にだけ明かりが灯っていて、細長いカウンターを照らし出していた。カウンターの中では、白髪混じりの頭をポニーテイルにした、痩せた初老の男が煙草をふかしていた。僕は一瞬、父を思い出した。
こんちは、とショウジが声をかけると、男は、おう来たね、と顔中を皺だらけにして笑った。僕は緊張でそっと生唾を飲み込むと、ショウジのあとについて店内に入った。
ショウジと並んでカウンターのスツールに座った。近くで見ると、男は父とは似ても似つかなかった。まず、男は片目だった。右目は閉じられたままで、斜めに刃物かなんかの傷の跡があった。よく見ると、同じような傷は顎鬚で目立たないようにはなっていたが左顎の辺りにもあった。黒い皮のベストの下に着たシャツの袖から覗く二の腕には、ちらっと刺青が覗いた。僕の頭の中では小学校のときに読んだ「白鯨」に出てくる刺青の男とエイハブ船長が合体して、ついでに「宝島」に出てくる海賊が無人島に流れ着いてロビンソン・クルーソーになっていた。とにかく、確かにショウジの言うように、僕がこれまでに出会った人間の中では一番インパクトが強かった。
「珍しいね。おともだちかい?」
男は煙を吐き出しながら、ショウジに笑いかけた。黄色い乱杭歯が見えた。
「うん。酒井って言うんだ」
「コーラでいい? ふたりとも」男が言った。
ショウジがこちらを向いて目で尋ねたので、僕はうなずいた。
「大丈夫だよ、タダだから」
ショウジは僕の耳元で囁いた。
男は手早くグラスふたつに氷とレモンを入れてコーラを注ぐと、はい、と僕らの前に置いた。僕は男の左手の、小指と薬指の第一関節から先がないことに気づいた。ついでに、どうやら右足の膝から下が義足であることにも。
僕はまた生唾をごくりと飲み干してから、コーラをひと口飲んだ。僕の緊張を感じ取ったのか、男は人懐っこい笑みを浮かべると言った。
「おどかしちゃったかな、ごめんな、おじさんこんなで。坊ちゃんから聞いてなかったかな?」
「い、いえ」僕はこわばった笑みをなんとか浮かべた。坊ちゃんというのはどうやらショウジのことらしかった。
「コウさんはやくざだったんだよ、昔」
ショウジは僕の方を向いて不器用な笑みを口元に浮かべながら言った。
「そりゃ、誰だってわかるわな、見たら」
そう言って、コウさんはあははと笑った。ショウジも一緒になって楽しそうに笑った。僕はまだうまく笑えなかった。
「ま、ゆっくりしてって。お代わり欲しかったら言ってよ」
そう言うと、コウさんはちょっと跳ねるような感じでカウンターの隅に動くと、まな板の上にセロリやトマトといった野菜を並べて包丁で切り始めた。
「ここはよく来るの?」
僕はショウジに尋ねた。ショウジはコーラをひと口飲むと、うん、と答えた。それからカウンターの上に目を落として言った。
「オレのことなんて言ってた? クラスの連中」
「うーん……不良だって」
「そうか」ショウジは苦笑を浮かべた。
「それから、お父さんがやくざだって」
ショウジは黙ってコーラをもうひと口飲むと、宙を見つめながら寂しそうな顔をした。
「それってホントなの?」
僕が訊くと、ショウジは眉間に皺を寄せて思い詰めたように口をきっと結ぶと、無言でうなずいた。それは不条理に対する諦めの表情のようにも、もしくは悔恨に耐えている表情のようにも見えた。いずれにしてもショウジがその事実を歓迎していないことは明らかだった。僕は訊いてしまってから、考えてみれば当たり前か、と思った。そうじゃなければ、コウさんみたいな知り合いがいるはずがない。
「しかしさ、なんでクラスの連中がそんなこと知ってるの?」
僕は訊いた。考えてみれば不思議だった。ショウジが自分から言ったとは思えなかった。
「山岸っているだろ」
「学級委員の?」
僕は授業中の、山岸がショウジを見る視線を思い出した。
「小学校が一緒だったんだ」
ショウジは口の中で呟くように言うと、グラスを傾けた。
それから訪れた少しばかりの沈黙を、ヴォリュームを絞ったマッコイ・タイナーが埋めて行った。僕はコーラをまたひと口飲んだ。よく冷えていておいしかった。正面の棚に並ぶ、さまざまなブランデーやカクテルのボトルをぼんやり見ながら、ちょっと大人になったような気がした。それから、なんでショウジは僕をここに連れてきたんだろうと思った。考えてみると、僕はやくざの息子に、元やくざがやっている怪しげな店に連れて来られている。しかし、何故か怖いという感じはしなかった。それよりも、なにか大事なものを打ち明けてもらったような、連帯感のようなものを感じていた。それから僕はふと思い当たり、ぽつりと言った。
「なんか今日はオレが質問ばかりしてるな」
僕らは顔を見合わせて笑った。
「オレのこと不良だと思うか?」
ショウジは真顔になって訊いた。
「さあ、どうかな。そこまでまだ知らないから。でも、正直言って、さっきエレベーターに乗ってこの店に入るときはちょっとびびった。それぐらいかな」
「なんかみんながオレのことを腫れ物でも触るみたいに怖がっているのがわかるんだ」ショウジは正面を見つめて溜息をついた。「そのうちオレも面倒くさくなっちゃってな。もう慣れちゃったよ、そういうの」
ショウジは手の中のグラスを見つめながらそれをちょっと揺らした。氷がからからと鳴った。それから顔を上げて僕の方を向くと言った。
「こういうのもいじめなんじゃないかな、一種の」
「一種の、ね」僕はなんとなく答えた。「しかし、いじめられるタイプには見えないけどな」
僕が苦笑すると、ショウジも自嘲気味に笑った。
「酒井はオレのこと怖いか?」
「だったらここにいないだろ、実際」
「オレのオヤジのこととか怖くないのか?」
「オレはショウジのお父さんのことを知らない。だから怖がりようがない」僕はそう答えてから、付け加えた。「そりゃ、やくざは怖いけど」
「そりゃそうだよな」ショウジはグラスを持って氷を揺らすと、またちょっと寂しげな目をして言った。「ホント言えばちょっとグレそうになったよ、実際」
「オレだったらグレてるかもな」
僕はそう言いながら、コーラをひと口飲んだ。僕がショウジのように孤立してしまったらどうするだろうか。父親がやくざだったらどうなっていただろうか。口にはしたものの、たぶん僕にはグレるほどの度胸はない。かと言って自分から他人にすり寄って行くほど器用にも卑屈にもなれない。ただ途方に暮れるだけだろう。
ショウジはカウンターの隅のコウさんに、一本ちょうだい、と声をかけた。おうよ、とコウさんは答えた。ショウジは目の前のカウンターに置いてあったセブンスターから一本取り出してくわえると、百円ライターで火を点けた。ふーっと大きく煙を吐き出すと、煙草のパッケージを僕に向けて言った。
「吸う?」
僕は生唾をごくりと飲んでからうなずいた。真似をしてライターで火を点け、よくわからずに煙を思いきり吸い込んだ。途端に僕はげほげほと咳き込むはめになった。
「なんだ、初めてだったの?」
そう訊くショウジに、僕はむせながらうなずいた。それから言った。
「やっぱり不良じゃん」
「そうかもな、確かに」
僕らはまた顔を見合わせて笑った。僕はもう一度、少しずつゆっくりと吸ってみた。今度はむせなかった。口の中が苦い感じがして、どこがうまいのかはわからなかった。隣のショウジはうまそうに煙を吐き出している。僕も慣れてくればうまいと感じるのだろうか?
「酒井はどうして転校したの?」ショウジはそう口にしてから、しまったという顔をした。「あ、話したくないか」
僕は自分の吐き出す煙と格闘しながらちょっと考えた。何故だかわからないがショウジは信用できるような気がした。例えば、たぶん彼にとって秘密の場所であるはずのここに連れてきたこと。僕はまたひとしきりむせってから、諦めて煙草をカウンターの上にあった灰皿に押し付けた。そしてコーラをぐいと飲むと、言った。
「父さんが死んだんだ。車にはねられて。それで母さんの実家に越してきた」
僕は父が自殺だったかもしれないとは言えなかった。それに、かもしれない、ということをわざわざ言うこともないと思った。
「そうか。悪いこと訊いちゃったな」そう言って、ショウジは決まり悪そうに煙草を灰皿に押し付けた。
「しょうがないさ。人間いつかは死ぬんだ」
僕はそう答えながら、ほとんど氷だけのグラスを呷った。氷がグラスの中でからから鳴った。
少し会話が途切れた。僕は首を回して薄暗い店内を見渡した。カウンターの後ろには、テーブル席がいくつかと、入ったときには気づかなかったが隅の方にグランドピアノが置いてあった。
「なあ」
ショウジが声をかけて僕は振り向いた。 「昨日も訊いたけど、なんでピアノやめちゃったんだ? お前のピアノ、凄かったよ。オレ、自分と同い年の奴があんな風に弾くの初めて見たよ。尊敬したよ、マジで」
僕は溜息をひとつついた。考えてみると自分でもよくわからなかった。僕はなんでピアノをやめたんだろう? 確かに、関谷のあのひとこと、あの人を小馬鹿にしたような顔、あれがきっかけになったことはそうなのだが、それが何故ピアノをやめることに結びつくのか、いまになって考えるとまったくもって不可解に思えた。あのころは確かにいろんなことにうんざりし始めていた時期なのはそうなのだが。
「それが、自分でもよくわからないんだ」
とりあえず正直な気持ちが言葉になって出た。ショウジは、そんな僕を理解に苦しむといった顔で見ていた。子供のころ熱心に耳を傾けていた、マッコイ・タイナーが控え目な音量ながらスリリングなパッセージを弾いていた。昔はそれを素直にカッコいい、と思ったものだった。いつから聴かなくなったのだろう?
僕はもう一度改めて順を追って思い出そうとした。僕がピアノをぷつりと弾かなくなったのは、父がアルコールに溺れるようになってからだった。だが、その話はしたくなかった。僕の沈黙が続くと、ショウジは遠慮がちに言った。
「オレさ、あんな風にピアノ弾けたらって思うよ。なんて言うかさ、自由に弾けたらって。なんかさ、酒井がさ、凄く自由に見えたよ」
「自由?」
僕は呆けたようにショウジを見た。ショウジは黙ってうなずいた。自由なんてものは、僕には楽器屋に並ぶギターと同じくらいに手の届かないものだと思っていた。
不意に自分というものが酷く愚かな人間に思えてきた。関谷の顔が浮かんだ。あんなものがなんだって言うんだ。あんな、音楽がなにもわかってない奴にひとこと言われたことぐらい、なんだって言うんだ。僕は周りをきょろきょろと伺って、大事なものを捨ててしまったのかもしれない。自由。かつての父が光り輝いて見えたのは、それなのかもしれない。晩年の父は、アルコールの代わりにそれを捨ててしまったように見えて、僕にはそれがたまらなく嫌だった。ジャズにがんじがらめにされている父も、その父をがんじがらめにしてしまったジャズも。だが、僕はとんでもない愚かな間違いや勘違いをしてきたような気がした。なにか、根本的なところで。僕にとってジャズは、ピアノは、奔放で自由でカッコいいものだったのではないか? 僕はそれをいともあっさりと捨ててしまった。
僕を急に酷い脱力感が襲った。
「弾きたくても、もううちにはピアノがないんだ」
「ここにはあるよ」ショウジは店の片隅のピアノを目で指して言った。それから氷をからからと転がしながらグラスを傾け、にっこりと微笑んだ。「気が向いたら弾いてくれよ」
僕は不意に笑い出したくなった。なんだ、弾こうと思えばいつでも弾けるじゃないか。
ショウジが僕をここに連れてきた意味がなんとなくわかったような気がした。それから、やっぱりこいつはいい奴だなと思った。
「気が向いたらね」
音楽がチック・コリアに変わった。コウさんがまた跳ねるようにして僕らの方にやってきて、お代わりいるかい、と訊いた。すみません、お願いします、と僕は言った。コウさんは僕らのグラスにコーラを注ぐと、また隅の方に行って料理の下ごしらえの続きを始めた。
「コウさんはさ」ショウジがぽつりと言った。「オヤジの組にいたんだ」
ショウジは新しく満たされたコーラをぐいと飲んで、それからカウンターに目を落として言った。
「コウさんは、オヤジをかばってあんな身体になっちまったんだ」ショウジの声は低く抑えられていたが、激しい怒りが篭っていた。「オレはやくざなんか大嫌いだ。オレは絶対やくざなんかにはならないんだ」
僕は黙ってコーラを飲んだ。なんて声をかけたらいいのかわからなかった。彼はきっと寂しいんだろうと思った。クラスの中でぽつんといるみたいに、もしかしたら家に帰っても孤独なのかもしれないと思った。
「ヘンな言い方かもしれないけど、オレは酒井が羨ましいよ」
ショウジがぽつりと言った。
僕はショウジの肩をぽんと叩くと、そろそろ帰ろう、と言った。たぶん彼は帰りたくないのだ、と心のどこかで思いながら。
「そうだな。補導されちゃうもんな」
ようやくショウジは表情を和らげた。僕も苦笑を返した。僕らは残りのコーラを飲み干すと、スツールから腰を上げて、コウさんにごちそうさまでした、と声をかけた。コウさんは包丁を持つ手を休めると、おう、いつでもまた来なよ、と例の顔中が皺になるような笑顔を浮かべて言った。
ぎいと音をさせてショウジがドアを押し開いている間、ふとドアの脇の壁にポラロイド写真がいくつか貼ってあるのが目に入った。僕はその中のひとつに目が釘付けになった。そこにはピアノを弾く父が写っていた。僕は振り返ると、暗がりの中にひっそりと佇む古ぼけたグランドピアノに目をやった。あれは父が弾いたピアノなのだ。そう思った途端に、あのピアノを弾きたいという衝動が僕の中に切ないほど押し寄せた。それはあっという間に僕の胸を一杯にした。
「どうした?」
ドアに手をかけたまま、ショウジが不思議そうな顔で見ていた。僕は、いや、なんでもない、と言うと、ショウジのあとに続いて店の外に出て重いドアを閉めた。それはまた、ぎいと小さく鳴った。
ビルの外に出ると、傾いた日が足元に長い影をつくり、けばけばしいネオンたちがそろそろ目を覚まそうとしていた。
僕らは混み始めてきた繁華街の中を並んで地下鉄の駅目指して歩いた。アルバトロスのある横丁を出て、駅の方に曲がると、一瞬、母の姿が見えたような気がした。それはほんの束の間のことで、脇道に入っていく姿がちらりと目に入っただけのことだった。僕は気のせいだろうと思った。その道の前を通り過ぎながら僕は母の後姿を探してみた。しかし、そこには灯り始めた色とりどりのネオンと、その中を行き交う背広姿の大人たちが見えるだけだった。
地下鉄のホームで電車を待ちながら、僕はショウジに訊いた。
「塾には行ってないの?」
「うん。酒井は?」
「うちは貧乏だからね」僕は笑った。
「あ、来週期末だなあ、そう言えば」
「いいじゃん、早く帰れるし」
僕がそう答えると、ショウジはちょっと複雑な顔をした。
「また行こう、あそこ」
ショウジがぽつりと言った。
「なあ、あそこ隠れ家みたいなとこだったんだろ? 秘密の」
僕がそう尋ねると同時に、轟音を立てて電車がホームに入ってきた。ショウジはなにも言わずに僕に微笑みかけた。それは秘密を共有した者だけに通じるものだった。ドアが開いて一斉にどっと降りてくる人々をやり過ごしながら、僕の胸は、このまだよく見知らぬ土地でともだちができた安堵感に満たされていた。
12
翌日の朝の食卓に母は眠たげな顔をして現れた。ぼさぼさの頭を掻きながら、大きなあくびをひとつすると、おはよ、と僕に言った。昨日見たのはやっぱり母だったのだろうかと思い、訊いてみようかと思ったがやめておいた。あんたこそそんなところでなにしてたのよ、と逆に突っ込まれるに決まっている。そういうのをなんて言うんだっけ、そうだ薮蛇だ。母はご飯を噛みながら、どう、新しい学校、ともだちできそう、と訊いた。僕はまあね、と味噌汁をすすりながら答えた。
学校に着くと、ショウジは先に来て席についていた。僕がおはよう、と声をかけると、今日はショウジも小さく笑って、おはよう、と答えた。僕は席に座って教科書を取り出すと、昨日は楽しかったな、とショウジに言った。ああ、とショウジは照れ臭そうに微笑んだ。
どうもヘンだ。休み時間に山岸の周りに何人か集まっているのはいつもと変わらないが、彼らがときおりちらちらと僕とショウジの方に視線を投げかけてくる。僕がそれに気づくと、彼らは視線をそらしてまた顔を寄せてこそこそとなにか話している。そう言えば、昨日まであれほど押しかけてきた連中も今日はハタと途絶えていた。僕は気のせいかな、とも思った。単に僕という人間が珍しくなくなっただけかもしれない。往々にして僕という人間は考え過ぎる傾向にあるのだ。僕の中のどこかに臆病な僕というものがいて、そいつはたまに僕にだらしない試合をさせたり、必要以上に人の目を気にさせたりする。
昼休みも終わろうというころ、ショウジがトイレに行ったのを見計らったかのように山岸が僕のところにやってきた。
「酒井くん、ちょっといいかな?」
彼は相変わらず窓口の銀行員のように穏やかに笑みを浮かべていた。
「なに?」
僕はちょっと身構えるように眉をひそめた。どうもショウジから話を聞いて以来、僕は彼に先入観を持ってしまったのかもしれない。本当はこういうのもよくないな、と頭の隅で思った。そんなことにはお構いなしに、山岸は笑みを浮かべながら僕を手招きで廊下へと誘った。
「で?」
僕は訊いた。僕らは廊下の窓の外に広がる、緩い上り勾配の道沿いに連なる街並に背を向ける格好で窓にもたれて並んでいた。
「黒木から聞いたんだけど、酒井くんのお父さんてピアニストなんだって?」
僕はいよいよもって警戒した。しかし、いまさら嘘をついても始まらない。僕はスニーカーのつま先を見つめながらもごもごと答えた。
「そうだけど」
「じゃあ、酒井くんもピアノ弾けるんだよね?」
僕は顔を上げて山岸の横顔をちらりと見た。端正な顔をしている。眼鏡を取れば、キムタクみたいなジャニーズ系と言ってもいいだろう。もてるんだろうな、こいつ、と一瞬僕は関係ないことを考えた。僕には彼の真意が計りかねた。心のどこかでは微かに警鐘が鳴ってはいるのだが、ホントにこいつはショウジの言うようにタチの悪い奴なのだろうか、と一方では疑問に思っていた。それぐらい彼は人当たりがよかった。皆が彼の元に集まるのもわかるような気がした。僕が答えあぐねているうちに山岸はさっさと先を続けた。
「ね、バンドやんない? 僕ベースやってるんだ」
僕は意外な言葉にちょっと戸惑った。それから答えた。
「悪いけど、先生にも言ったけどオレ、ピアノやめたんだ」
「そうか」
山岸はそれ以上突っ込みはしなかった。僕にはそれが有り難かった。
「余計なことかもしれないけど」山岸はちらっと廊下の向こうを見ながら声を落として言った。「ショウジくんには気をつけた方がいいよ」
「あいつはいい奴だよ」僕は思わずちょっとむきになって言ってしまった。
山岸は一瞬顔を曇らせたように見えたが、すぐに例の柔和な笑みを浮かべると言った。
「そう。でも彼は怖いよ」
僕が口を開きかけたとき、始業のベルが鳴った。山岸は、じゃ、と言うと足早に教室に戻っていった。
授業が始まると、さっきの山岸との会話のことを考えた。案の定という感じではあったが、何故か気になった。彼は怖いよ、と山岸は言った。彼の父親は、ではない。彼は、と。山岸の話し方はもっともらしく聞こえることも確かだが、それ以上になにか確信を持っているように聞こえた。いったい山岸はショウジのなにを知っているというのか。いったい山岸とショウジのあいだになにがあったのか。僕はちらっとショウジを見た。ショウジは相変わらず気難しい顔をしてノートを取っていた。僕は自分の中にショウジに対する疑念のようなものがちょっと芽生えていることに戸惑った。それはなんとも言えず嫌な感じだった。僕はその疑念を振り払おうと努力した。ショウジはともだちなのだと自分に言い聞かせた。そしてそれは確かなことなのだ。僕には確かなものをひとつずつ信じていくしかない。
終業のベルが鳴ると、ショウジは、一緒に帰んない? と声をかけてきた。
昇降口を出て校門へと並んで歩きながら、僕はさきほど浮かんだ疑念がまたちょっとよみがえり、ショウジに申し訳ないような気がした。それを打ち消すように、僕はショウジに声をかけた。
「ショウジは部活やってないの?」
「うん、オレ、去年までボクシングのジム通ってたから」
「もうやめたの?」
「うん」
僕はなんで、と訊こうかと思ったが、ショウジの浮かない表情を見てやめた。彼にとってあまり愉快な話題ではなさそうだ。その代わり、僕はふっと思い出した。
「ねえ、そう言えば、なんで楽器屋にいたの?」
僕がそう尋ねると、ショウジは照れ臭そうな表情を浮かべて言った。
「いや、オレ、ギター少しやっててさ、恥ずかしいんだけど」
「へえ」
「酒井のピアノに比べたら、なにって感じだよ」
「誰が好きなの?」
「スガシカオとか……」
「あ、オレも」
僕がそう答えると、ショウジはちょっと嬉しそうに不器用な笑みを浮かべた。
僕らは校門を出ると、緩い下り坂を黙って歩いた。学校の角の信号は赤だった。信号待ちをしていると、後ろから肩をぽんと叩かれた。振り向くと、ユリがにこにこしながら立っていた。
「ねえ、あんたたち、いつからそんなに仲良くなったわけ?」
「いいだろ、別に」僕はぶすっとして答えた。
「いいじゃない、教えてくれたって」ユリは膨れっ面をした。
「いつからって、昨日と今日しかないじゃん」
僕がそう答えると、ユリは舌をちょろっと出して、そうか、と笑った。信号が変わったので渡り始めると、ユリは僕らのあとをついてきて、ねえ、なんか食べて帰ろうよ、と言った。僕はどうする、とショウジを見て言った。ショウジは目に微かに戸惑いの色を見せながらも、いいよ、とぽつりと言った。
「ふーん」 平日半額のビッグマックを食べている僕とショウジを見ながら、ユリが突然言った。
「なにが?」僕は顔をしかめた。
「別に」ユリは意味深な笑いを浮かべると、マックシェイクをストローですすった。
僕はコーラを飲みながら、この子も不思議な子だな、と思った。考えてみれば、不良だとか、怖がられているといったショウジに関する噂を教えてくれたのはこの子だ。でも、こうしてみると、当の本人はちっともショウジを怖がっているようには見えない。
「なんだよ?」
僕はもう一度訊いた。
「こうしてみると、二人とも不良には見えないね」
僕はもしかしたらショウジが不良と呼ばれて怒っているかもしれないと思い、慌てて隣のショウジを見た。ショウジはさほど気にする素振りもなく、黙々とビッグマックを頬張っていた。
「なんでそうなるわけ?」僕は訊いた。
ユリはショウジを見つめると言った。
「話してないの? あのこと」
ショウジはうなずいた。
「話しちゃっていい?」
ユリが尋ねると、ショウジはうん、と小さく答えた。僕はなんのことかさっぱりわからず、コーラのストローをくわえたまま、ただ成り行きを見守るだけだった。
「去年さ、停学食らっちゃったのよ、ショウジくん」ユリは僕の方を向いて話し始めた。「隣のクラスの不良、殴っちゃって」
僕はへえ、と言いながら、さっきのボクシングをやってたというショウジの話を思い出した。
「相手はそれこそ札付きの不良よ。ショウジくんは絡まれただけってわけ。だから停学で済んだわけなんだけど。それが話に尾ひれがついちゃってさ。いまでは彼が不良だってことになってるわけ」
「で、そのショウジと付き合ってるオレも不良ってことになるの?」
「うちのクラスの理屈だとそうなるわね」
「ふーん」僕は不満げにうなった。「でもその理屈で言うと、ユリだって不良ってことになるんじゃないの。オレらといると」
「そうか」そう言ってユリはあはは、と笑った。「そうよね」
「お前も結構呑気だなあ」僕は呆れて言った。
「どうせわたしはもう酒井くんと噂立てられちゃってるし」
ユリが嬉しそうに言うので、僕はちょっと赤面してしまった。それをごまかすためにコーラを勢いよく飲んだ。それでゲップが出てしまい、またユリに笑われた。ショウジもくすくすと笑った。僕はさらに赤面しながら憮然として言った。
「しかし、噂って立つの早いなあ」
「ホントだよな」ショウジがようやく口を開いた。なんか実感が篭っていた。
それからしばらくはユリの独壇場だった。クラスの誰が誰のことを好きだとか、先生の中でもっとも人気のある奴とない奴とか、あだ名がついている奴とか一通り喋りまくると、時計を見て、あ、わたしもう行かなきゃ、と席を立った。
ユリが帰ると、僕らのテーブルは一気に静かになった。
「女ってのは、どうしてああお喋りなんだろう?」
僕がそう呟くと、ショウジは黙って笑みを浮かべた。それから僕は、何故ユリは最初にショウジのことを僕に話したときに、停学の話を言わなかったんだろうと思った。要するに、彼女は確かにお喋りだが、余計なことは喋らないのだ。さもなければ、いまごろはクラス中の人間が僕の父のことを知っているだろう。待てよ、と思った。山岸が知ってるってことは、どっちにしてももう知れ渡っているのだろう。遅かれ早かれ、それは覚悟していたことだった。まあいいか、と心の中で呟いた。
「どうする? 帰る?」
僕がぼんやりと考えていると、ショウジが声をかけた。
「あ」僕はアルバトロスの壁の写真を思い出した。「あそこ行かない?」
「あそこって」
「昨日の店。もう遅いかな」時計を見ると、四時を過ぎていた。
「いいよ。あそこ開店するの確か六時だから。でも、どうしたの?」
「気が向いたんだ」僕は答えた。
相変わらずアルバトロスはカウンターの上だけに明かりが灯っていた。コウさんは、二日続けて来るなんて珍しいね、と顔中を皺だらけにして笑った。
「コーラでいいかい?」コウさんが訊いた。
先にさっさとスツールに腰掛けたショウジが、いいよね、と僕を向いて言った。
「あの」僕は立ったままでコウさんに言った。「ピアノ弾いてもいいですか?」
ショウジが驚いて目を丸くした。コウさんは、ああいいよいいよ、いま明かり点けるから、と言ってぴょこぴょこと跳ねるようにしてカウンターの隅に行くと、照明のスイッチを入れた。
天井に付いていた申し訳程度の照明が灯り、店内がうっすらと明るくなった。僕は店の隅のグランドピアノに近づくと、椅子に座って蓋を開けた。だいぶ使い古されたヤマハのピアノだった。鍵盤はところどころ黄ばんでいた。コウさんが気を利かせて、流していたマイルス・デイビスのCDを止めてくれたので、店内はまったく静かになった。コウさんがカウンターの上に置いたグラスにコーラを注ぐ音だけが微かに聞こえた。僕は右手の親指でBの音を押さえた。音は店内に響き、コンクリートの壁や天井に当たって残響が返って来る。僕はなにを弾こうかな、と思った。父さんはここでなにを弾いたのだろう? 僕は肩で溜息をついた。Bの鍵盤を押さえたまま、うつむいて考えた。いや、そうじゃない。お前がなにを弾きたいかだ。頭の隅で父の声が聞こえた。この店に合うのはなんだろう? 僕はなにを弾きたいのだろう? 僕はもう一度Bの音を弾き、そのまま右手でラウンド・ミッドナイトのメロディを弾いた。途中から左手でコードを加えていき、次第にメロディを崩して行く。倍音が低い天井に当たって跳ね返って来る。それは僕の耳を通して脳細胞をほんの微かに、だが心地よく揺する。僕は次第に曲を崩して行く。ワンコーラスを通り過ぎると、左手のコードのテンションを変えながら右手のメロディは既にその形を失い、奔放に鍵盤を走る。僕はわざとスケールアウトする。不協和音が複雑怪奇な響きをするが、それは僕がそれを望んだからだ。僕の右手は次第に力を増す。ほんの少しだけ調律の怪しい古ぼけたピアノは、僕が叩きつける分だけの響きを僕に返す。それは壁に当たり、天井に跳ね返り、僕の耳をすり抜けて僕の頭を空っぽにする。新たなシークエンスが僕の空っぽの頭の中から勝手に流れ出ては、僕の両手の指を伝って黄ばんだ鍵盤を叩く。響きは僕の身体を熱で満たす。僕が流れを止めれば、時は止まる。僕が急がせれば時もそれに合わせて進む。僕は時間を制した。次第にテンポを落とし、メロディの欠片をよみがえらせる。それは思い出のようにゆっくりと浮かび上がり、古ぼけた写真のように減衰する。僕は最後に転調を繰り返しながらトニックに辿り着く。そしてもう一度テーマの断片を浮かび上がらせると、すべてをひとつの響きに収める。僕はすべての音が鳴り終わるのを待つ。僕は空っぽだ。僕は空っぽというものに満たされている。それでいいんだ、と父の声が聞こえる。僕は大きくひとつ息を吐く。
イエーイ、と煙草をくわえたコウさんがカウンターの中で叫び、手を叩いた。ショウジは唖然とした顔でこちらを見ていた。僕はピアノの蓋を締めると、急に照れ臭くなって頭をかきながらカウンターに戻った。
「やっぱりすげえよ」
ショウジが感嘆の声を洩らした。
「そんなんじゃないってば」
僕はコウさんが差し出したコーラをひと口飲むと、照れ隠しに言った。
「あんた、ヒカルさんの息子さんだろ?」
コウさんが言った。僕は驚いて一瞬声を失った。それから失望が僕の胸にせり上がり、言葉になった。
「そんなに似てますか、僕のピアノ?」
「ピアノじゃないよ、顔が似てるんだ。弾いてる姿がそっくりだよ」
「なんの話?」ショウジが取り残されたような顔で訊いた。
「彼のお父さんはここで演奏したことがあるんだよ。ほれ、あそこに写真が貼ってある」
コウさんはそう言うと入り口の脇を指差した。
「でも」僕は言った。父の真似ばかりしていた小さいころが頭に浮かんだ。「やっぱり僕のピアノは父さんの真似なんです」
コウさんは、はっはっは、と声を上げて笑うと言った。
「そりゃあ随分な勘違いだ。いま、真似しようと思って弾いたかい?」
僕は首を横に振った。
「あんたはあんたのピアノを弾いてるよ」
そう言うと、コウさんはまた顔中を皺だらけにして笑った。
コウさんはしきりに中学生じゃなけりゃなあ、うちで弾いてもらうんだけどなあ、と残念そうに言った。僕らが帰ります、と言うと、中学卒業したらうちで弾いてくれよ、バイト代払うからさ、と言った。
帰りのエレベーターの中で、ショウジは真剣な顔で僕に言った。
「やっぱり酒井はピアノやるべきだよ。ミュージシャンになるべきだよ」
僕はなんと答えたらいいのかわからずに黙っていた。僕にはわからなかった。どうすべきなのか。ただ、ひとつだけわかったのは、ピアノを弾いていると僕は違う人間になれるということだ。そしてそれは無性に心地よかった。ピアノを弾いてこんな気持ちになったのは初めてだった。僕はまるで麻薬のようだ、と思った。父が死ぬまでピアノにしがみついていたのがなんとなくわかるような気がした。
13
翌日の朝教室に入ると、ショウジはまだ来ておらず、ユリが隣の浜崎とくっちゃべっていた。僕はその背中におはよ、と声をかけて席につくと、ユリが振り向いて言った。
「ねえねえ、あれからどうしたの?」
「えっ? 別に。帰ったよ」
「ふーん」
僕は思わず嘘をついた。どうしてかはわからないけど、あのアルバトロスという場所と、そこでピアノを弾く自分というものは、この学校という場所と、そこでの自分という存在とまったくかけ離れた異質なものに思えた。ただ、ユリに嘘をつくのは少々うしろめたい気がしたことは確かだ。
「あ」僕はふと思いついた。「ねえ、山岸んちってなにやってるの?」
「えーと、なんだったかな。どうして?」
ユリはちょっと眉をひそめて答えた。
「いや、ちょっとね」
「ねえ」ユリは顔をよせると声を潜めた。
「なに?」
「あんまり大きな声では言えないけど、山岸くんには気をつけた方がいいわよ」
「なんで?」
「うまく言えないけど……とにかく、なんか気に入らないのよね、あの子」
「ふーん」
僕は曖昧にうなずきながら、ユリの言わんとしていることがなんとなくわかるような気がした。山岸に感じる違和感というのは、一見あまりにも彼がバランスの取れた模範的な生徒に見えるところであって、欠点がなさそうなところなのだ。だからうまく説明できない。もしかしたらそれは単に自分たちの彼に対する一種の嫉妬かもしれないし、それによって無意識に彼の欠点を探してしまっているのかもしれない。つまり、僕らの歳であんな風にうまくバランスが取れるわけがないという気がしてしまう。どこかに同じだけの欠陥を備えているはずだと思ってしまう。だから彼には裏がある、と思いたがっているのかもしれない。だから、それは酷く矛盾したことのようだけれど、それだけなにかよくわからない、うまく説明の出来ない致命的なバランスの悪さのようなものを感じてしまうのだ。僕は溜息を小さくつくと、窓の外をぼうっと見やった。それも大いなる勘違いかもしれない。もしかしたら彼は僕らよりほんのちょっとだけ大人だというだけかもしれないのだ。山岸の人当たりのよさを無条件に受け入れて、彼の周りに群がっている者たちは、単に僕よりも素直だというだけかもしれなかった。僕は元々ともだちを作るのがうまくなかった。特に小学生のときはクラスメイトと話はなかなか噛み合わなかった。みんなのように新しいゲームに熱中しているわけでもないし、聴いている音楽もあまりにも違い過ぎた。僕は本ばかり読んでいたし、みんなが読んでいるようなマンガにはちっとも興味がなかった。だからそういう話題になると、しばしば僕は取り残された。自分から話しかけるのも苦手だし、誰かに擦り寄って行くというのは、うまく言えないけど、ヒップじゃないような気がした。それももしかしたら、人見知りする小心者の自分に対する、都合のいい言い訳に過ぎないのかもしれなかった。僕はもしかしたら、そんな自分を受け入れてくれるともだちが現れるのを待っているだけの、ただのずるい人間なのかもしれなかった。 僕は机に頬杖をついて、窓の外をのんびりと流れる雲を見た。教室の中は皆が次第に集まって騒々しくなっていった。僕は昔から自分を表現するのが苦手だ。山岸のように上手に人と付き合っていけるような人間ではない。昨日のことを考えた。結局はショウジの言うことが正しいのかもしれない。僕はピアノを弾いているときが、一番自分というものを表現出来ているのかもしれない。しかし、それはコミュニケーションというよりは、あまりにも一人よがりで孤立無援なものにも思えた。それもまた考え過ぎなのだろうか? 僕はちょっと自分に苛立った。どうせ僕は、矛盾だらけのまだガキなのだ。
あれ以来帰りはいつもショウジと帰るようになった。ショウジは早く帰りたくないらしく、いつもどこかに寄り道しようと言った。僕らは日が傾くまで、街をうろうろして、タワーレコードを覗いたり、マクドナルドで話したり、ときにはゲームセンターでつまらなそうにゲームに興じたりした。僕らはお互いに言葉が少ないので、まさに時間をつぶしているという言葉がふさわしいような気がした。アルバトロスにはあれからもう一度行って、僕はビートルズを一曲弾いて、煙草を一本吸った。
母は祖父母の反対を押し切って仕事を始めた。同級生がやっているすすきののスナックの手伝いだ。あの日、すすきので見かけたのはやはり母だったのだろう。
母はすっかり元気になり、いつだったか僕が父のあとを追うのではないかと心配したことが嘘のように活き活きとしていた。これまで鬱屈していたものが、この札幌という土地に帰ってきてすっかり吐き出されて解放されたように若々しくなった。僕はそれを喜んでいない自分がいることに驚いた。それはなにも母が水商売を始めたらしいからということではなかった。考えてみれば父の仕事も一種の水商売のような側面もあったし、それ自体にさほど抵抗はなかった。それに、学生時代にウェイトレスをしただけの経験しかない母に、この不況の時代に他の仕事がそうそう見つかるとも思えなかった。しかし、なんとなく腹の底から湧き起こってくる嫌な感じは拭えなかった。母が自分から遠ざかって行くような気がしていた。確かに中野のマンションは、空気さえ重く淀んでいるようで、父と母の苦悩の匂いがするようだった。それに比べれば、この街は遥かに空気が澄んで空が高いような気がするし、けして広いとは言えない母の実家も、北海道というだだっ広い存在のように呑気で大らかな雰囲気があった。この家は、なにも問題がないように見えた。僕にはそれが気に入らなかった。ここには父がいない。それなのに、まるで父など存在していなかったかのようにこの家は平和だ。僕の中に、また新たな矛盾が芽生えていた。中野にいるころは両親のことなどすっかり無視していたにも関わらず、僕の家族はやっぱり父と母と僕の三人であり、それがどんなに酷いものだったとしても、僕らはそれを忘れてはいけないのだと思った。僕は、母が父のことを忘れかけているのではないかと疑った。僕ら三人が暮らした、あの淀んだ日々を綺麗に忘れてしまったのだろうかと。少なくとも、いずれはそうなってしまうのだ。ただの懐かしい思い出になってしまうのだ。あのすえたような匂いも、懐かしさの象徴のようにいつしか違うものに美化されてしまうのだ。
考えてみれば、この家に帰ってきてから、母は僕の母というよりも、祖父母の娘に戻ってしまったような気がした。母はまだ三十四歳で、若く、そして美しかった。小さいころいつもそれが自慢だった僕は、母が若さと美しさを取り戻したことを喜んでもいいはずだった。しかし、それは父のことを忘れることと引き換えに母が手に入れたもののような気がした。母を散々苦しめ、ときには母の顔に痣を作る父に、僕は軽蔑の念を覚えていたはずだ。ドアを隔てた向こうに聞こえる諍いの声に耳を塞ぎ、ときには父なんかいなくなった方がいいとさえ思った。ところが、いざそうなってみると、すっかり立ち直ったかのように見える母に僕は逆に苛立っている。僕の頭の中は、数え切れないジレンマが渦を巻いて、まるで自分というものが矛盾だけで出来ているような気がした。次第に僕の頭は混乱を極め、僕は誰に対して抱いているのかすらわからない苛立ちを募らせた。
その嫌な感じは、土曜日に決定的になった。その日学校が休みだった僕は、久しぶりに全員が揃った昼食のテーブルについていた。そのうち、祖父母と母の間でちょっとした言い合いが起きた。祖母が、お前、やっぱり夜の仕事はどうかと思うけど、と言うと、母はむきになって言い返した。なに言ってんの、この不況にそうそうわたしみたいなのができる仕事があるわけないじゃない、それにそんなヘンな店に勤めてるわけじゃなくて、ともだちの店なのよ。わたしだって自立したいのよ。祖父が言った。自立ってお前、このうちを出ようっていうんじゃ。母が苛々した口調で言い返した。そういうんじゃなくって。食卓は気まずい雰囲気になり、母は自分の部屋へと立って行った。僕は黙々と下を向いて食べていた。僕の中では母の言った、自立という言葉がアンプで増幅されてディレイを通したようにこだましていた。僕にはそれが、母が僕から自立する、という意味に聞こえた。正確に言えば、僕と父から。
夕方近くになって、今日も仕事に出かける母が階下に降りてきた。考えてみれば仕事に出かける母を見るのは初めてだった。母はこれまで見たことがないような派手な化粧をしていた。確かに綺麗だった。しかし、母は別人になってしまったような気がした。 僕は母と口を利かないことに決めた。
日曜日は部屋に閉じ篭って勉強に専念することにした。本音を言えば、なるべく母と顔を合わせたくなかった。
どうにも集中力が長続きしなかった。一時間ほど月曜に試験のある英語を復習したものの、ノートを閉じてベッドに寝転がった。昨日から、明らかに僕にとってこの家は居心地の悪いものになっていた。沁みのある天井めがけて溜息をついた。また、うまくもない煙草が吸いたくなった。中野のマンションを思い出した。いつも父の吸う煙草の匂いが沁みついていた。最後になにもない部屋の匂いを嗅いだときも、それは微かに僕の鼻腔に届いた。たまらなく中野のマンションに帰りたくなった。家具もなにもなくてもいい、誰もいなくてもいい。しかしそれは無理な相談だった。もうとっくに新しい家族が引っ越していて、新しい匂いがし始めているころだろう。そしてその匂いが沁みついたころ、僕と父と母が暮らしたあの場所は、完全にこの世から消え去るのだ。そう思うと、例えようのない寂しさがこみ上げてきて、涙がひと筋頬を伝った。僕はその涙を右手で乱暴に拭うと、くそ、と声に出した。
いつのまにか眠ってしまっていた。夢を見ていた。夢の中で僕は中野のマンションにいた。居間のピアノで「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」を弾いていた。ソファには父と母が仲良く並んで座って僕のピアノを聴いていた。窓際には真木と斎藤真紀子が並んで微笑んでいた。僕は幸せだった。いつまでも弾いていたいと思った。気がつくと、ピアノの両脇にはユリとショウジもいた。ショウジはピアノの上に両肘をついて、すげえよ、酒井、ヒップだよ、と言った。
目が覚めると僕はひとりだった。たったひとりぼっちだった。
僕はベッドから身を起こすと、机の前に座ってまたノートを広げた。
夕食の席でも僕は母に口を利かなかった。さっさと食べ終わると二階に上がった。なんだか自分まで嫌いになりそうだった。椅子に座って、机に頬杖をついた。ショウジのことを考えた。あいつも家ではこんな風に孤独なのだろうか。たぶん父親を憎んでいるであろうショウジよりも、僕の方がマシなのだろうか。それとも、まだ父親が生きている分だけショウジの方がマシなのだろうか。僕にはわからなかった。
頭のどこかで、いつかの、お前が羨ましいよ、というショウジの声が聞こえた。
14
週末だけで随分いろんなものを失った気がしていた。しかし、考えてみれば、父の死以来、僕は数え切れないほどたくさんのものを既に失っていたのだ。
僕は意気消沈したまま期末試験へと臨んだ。
僕は答案をさっさと書き上げると、窓の外を眺めては溜息をついた。半ドンで終わる一日目には、ショウジが一緒に帰ろうというのを断り、怪訝な顔の彼を残してひとりで帰って部屋に篭った。半分は試験勉強をして、半分はベッドに寝転がってCDを聴くか、本棚の文学全集を読んで過ごした。僕はとにかくひとりになりたかった。それでどうなるわけでもないということはわかっていたが。
翌日も溜息を繰り返していると、あっという間に期末試験も終わっていた。ベルの音とともに教室の中は解放感でざわめき、そこら中で皆が浮き足立っていた。僕が黙々と帰り支度をしていると、ユリが、ねえ、そんなに溜息つくほど難しい試験だった? と振り向いて言った。僕は一瞬きょとんと放心したように彼女を見つめたが、気がつくとまた鼻で溜息をついていた。
「そんなに気を落とすことないわよ。世界が終わるわけじゃあるまいし」
ユリがまるでJ2降格が決まった選手を慰めるかのように言った。
「いや。試験はどうでもいいんだ」
僕はようやく答えた。ユリは眉をひそめた。
「じゃなによ?」
「なんかあったのか?」
いつのまにかショウジが傍らに立って顔をしかめていた。どうやらどいつもこいつも、僕を放っておく気はないらしい。僕はもう一度溜息をついた。それから眉間に皺を寄せて答えた。
「生理なんだ」
一瞬間を置いて、二人とも、へえ、と同じように答え、同じように珍しい動物でも見るような目で僕を見た。
僕は無理やり二人に連れ出され、ぼうっとマクドナルドの窓際で外を眺めていた。ユリとショウジはそんな僕を持て余しているかのように飲み物をすすっていた。彼らは鬱病に罹った動物園の猿を檻の外から眺めてでもいるように、処置なしといった顔で僕をちらと見ては肩をすくめたりした。僕は引っ込みがつかなくて憂鬱な顔をし続けていたが、実際はそれほど悪い気分でもなかった。彼らは僕のことを心配してくれているのだ。僕は自分で思っているほど孤独ではない。それにこう何日も考え込んでいると、いい加減なにをどう考えていいものやらわからなくなっていたし、自分の中に閉じ篭っているのにも飽き飽きしてきていた。こうして見ると、おせっかいとも言えるユリも、不器用に黙りこくってコーラをすすっているショウジも、案外優しいのだと思った。僕はちょっとばかり感動した。しかし、照れ臭くてなかなかそれを表現できないでいた。奇妙にもどかしい時間が流れた。
そのうち痺れを切らしたユリが片手で頬杖をつきながら言った。
「ねえ、カラオケ行こうよ」
僕はユリを五秒ほど見つめてから言った。
「カラオケ?」
僕はあっけに取られた。自慢じゃないが、僕はカラオケというものに一度も行ったことがなかった。それはまったく僕の頭の中にないアイテムで、僕はまさに、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
「それこそ校則に引っ掛かるんじゃないの?」
僕がそう言うと、ユリは思いきり頬を膨らませた。
「それならオレが大丈夫なとこ知ってる。おまけにタダだ」
それまで黙っていたショウジがぽつりと言った。ホント、とユリは目を輝かせた。
そんなわけで僕らは何故か三人でアルバトロスに居た。ショウジがどうしてユリをここに連れて来る気になったのか、僕にはよく理解できなかった。とにもかくにも、ユリは僕らの仲間入りをしたというわけだ。
さすがにユリは入るときと、それからコウさんを初めて見たときは腰を引いていた。こんにちは、と言いながら引きつった笑いを浮かべていた。だがそれも最初だけで、コウさんが例の顔中が皺になる笑顔を浮かべると、すぐに慣れてしまったようだ。だいたい、見てくれなんてものはそんなものだ。例えば、ゾウとかキリンとかだって、すっかり慣れて当たり前のように思っているが、予備知識なしに初めて目にしたら相当にインパクトの強い動物のはずだ。
コウさんはコーラをグラスに注ぎながら、ともだちが増えるってのはいいことです、坊ちゃん、とショウジに向かって言った。坊ちゃん、と言うのを聞いてユリがくすりと笑った。ショウジはちょっと顔を赤らめた。
アルバトロスにカラオケのセットがあるなんて気づかなかった。それはカウンターの奥の隅にひっそりと置いてあって、普段は使っていないようだった。たぶん、コウさんが店を居抜きで譲り受けるかなにかして、前の店のなごりとでもいったものだったのだろう。
ユリがマイクを持って嬉々として浜崎あゆみを唄っているあいだに、ショウジが僕を突ついて言った。
「なあ、ホントになにかあったのか?」
僕はコーラをぐいと飲むと、それには答えずに、コウさんに一本もらいます、と言って煙草に火を点けた。ショウジも一本取り、僕らは並んでぼうっと煙草をふかした。
「うまく言えないんだ」僕は言った。「自分でもなんだかよくわからないんだ」
「そうか」
ショウジはそれ以上訊かずに、煙をゆっくりと吐き出した。ユリがマイクを持ったまま、僕らを指差して、あ、不良、と叫んだ。その声は店内にエコーを効かせて響き渡った。コウさんはそれを聞いて、ははは、と笑った。それから唄い終わったユリにイエーイと言って拍手をした。ユリはコウさんに向かってVサインを返した。
ねえねえ、あんたたちもなんか唄いなよ、というユリの声がディレイを伴って店内にこだました。僕は手を振ってノーという意志表示をした。なんだか知らないが、マイクを持って人前で唄うというのは、とんでもなく恥ずかしい気がしたし、それに唄えるとしたらスガシカオか、小さいころ聴いていたビートルズぐらいで、ビートルズはともかく、スガシカオがカラオケのメニューにあるかどうかは怪しかった。ああ、スティーヴィー・ワンダーとかジャミロクワイとかレニー・クラヴィッツだって知ってはいるが、もしあったとしても難しくてちゃんと唄える自信はなかった。本当を言えばカーペンターズも大好きなのだが、男の僕が唄ってもさまにならない。だいたい、歌番組なんてものはてんで興味がなくて見ないので、最近の日本の流行りの曲なんてほとんど知らないと言ってもよかった。僕はショウジを肘で突つくと、お前唄えよ、と言った。ショウジは照れ臭そうに、首を振った。
もう、わたしがもう一曲唄っちゃうからね、というユリの声がまた店内にこだまして、ミーシャのイントロが始まった。コウさんは嬉しそうにくわえ煙草で手を叩いた。歌が始まると、僕は相変わらずまずいだけの煙草をゆっくりとふかしながら、あれ、と思った。さっきはロクに聴いていなかったので気づかなかったが、ユリは歌が巧い。音感もいいし、声もいい。ミーシャの難しい曲をなんなく唄っているし、ビブラートも完璧だ。僕は少なからず驚いた。僕は煙草を吸うのも忘れ、口を半分開いて歌に聞き入った。唄い終わると、コウさんがまたイエーイと言って手を叩いた。僕の左手の指先から灰がぽとりとカウンターに落ちた。
ユリは息をはずませながらカウンターの僕の隣に座ると、コウさんが出してくれたコーラをぐいと飲んで、ふうと気持ち良さそうに息を吐いた。それから肩を僕の肩にぶつけると、なんで唄わないのよ、と言った。僕は同じように肩をショウジの肩にぶつけると、なんで唄わないんだよ、と言った。ショウジは眉をひそめて、たぶんクラスの連中が見たら怖がるような真面目な顔で、う、唄う、と言ってスツールを立った。僕は腰が抜けるほど驚いた。まさかホントにショウジが唄うとは思わなかった。その代わり、とショウジは言った。酒井も唄えよ。そうだそうだ、と言ってユリが僕の背中を平手でばしんと叩いた。要するに僕は墓穴を掘ってしまったようだ。
ともかく、ショウジはマイクを持って唄い始めた。照れ臭そうに下を向きながら。スガシカオの曲だった。なんだ、あるんじゃん、と思いながら、僕はまた、あれ、と思った。ショウジの歌も結構いける。抜群に巧いというわけではないが、ちょっとかすれた声に味がある。いい声だった。へえ、と僕は感心した。なんかこの二人はボーカルとして結構いけるんじゃないかと思った。いつか山岸が口にした、バンドやらない、という言葉が頭によみがえった。これならまんざらバンドがやれないわけじゃないな、とぼんやり思った。
とにかく、僕はふたつ新たに発見をした。この目の前での音楽的発見というのは、なかなかに新鮮な驚きであって、ちょっとした興奮を覚えた。もしかしたらショウジが僕のピアノを聴いて声をかけてきたのもこういうことだったのかな、と思った。 イエーイとコウさんとユリが声を上げて手を叩き、ショウジがぶすっとした顔で席に戻ってきた。酒井の番だぞ、と僕を睨んだ。これじゃあカツアゲと思われてもしょうがない。
僕は渋々と席を立つと、ビートルズの「カム・トゥゲザー」を選んだ。全部打ち込みで作ってあるオケは結構しょぼいと言えばしょぼかったが、いざ唄い始めてみると、これが案外気持ちよかった。それは元曲が名曲ってこともあるが、マイクを通して増幅された自分の声がオケに乗るってことは案外と快感だった。なるほど、これでみんなハマるんだな、と思った。最初はヤケクソで歌っていたものの、ツーコーラス目ぐらいに入ると、僕はすっかりジョン・レノンになりきった気分でいた。唄い終わると、なにかいい汗を流したような爽快感があった。例によってショウジを除く二人はイエーイと手を叩いた。それで我に返った僕は、照れ臭さと興奮のどちらともつかないものに顔をちょっと赤らめながら、さっさとカウンターに戻った。僕が半分残ったコーラをひと息で飲み干すと、ユリがにやにやしながら僕の肩を突つき、ね、案外気持ちいいでしょ、と言った。僕はうん、と曖昧な返事をした。
本当に気持ちよかった。なにか、頭の隅や、肩や、背中や、僕のいろんなところでわだかまり、凝り固まっていたものが、すうっと解きほぐされていくような感覚だった。ピアノを無心で弾き終わったときの感覚に近いが、こちらはもっとお手軽で乱暴な感覚だ。運動不足の身体を思いきり動かして汗をかいた、というような。いずれにしろ、これは今日三つ目の発見だ。
いつのまにか自分の表情も和らいでいることに気づいた。考えてみればこの数日間というもの、僕は投げやりなファミリーレストランのコーヒーのように煮詰まっていたわけで、なにか気分転換が必要だったのだ。
僕がそんなことをぼんやりと考えていると、ユリはカウンターの中でにこにこしているコウさんに話しかけていた。
「ねえ、コウさんってあだ名?」
「いや、本名ですよ。健康の康って書いて。わたしはほら、在日って奴で。両親は台湾の生まれなんですよ」
コウさんは嫌な顔ひとつせずに答えた。ユリは、へえ、そうなんだ、と笑顔で無邪気に言った。この子は無邪気というか、誰とでも簡単に打ち解けてしまうようなところがある。僕にはそれが不思議な力のようにも思えて、ちょっと羨ましかった。自分もこんな風に誰とでも平気でなんでも話せたらなあと思った。そしたらともだちもたくさん出来て、もっと人生も楽しくなるような気がした。たぶん僕がシャイなのは父の遺伝だろう。シャイと言えば、ショウジは僕よりももっとシャイだが、彼の場合はもっと屈折したなにかがあるように思えた。たぶんそれは彼の父親のこととかに関係していて、僕の想像以上に嫌な思いを積み重ねてきた結果なのかもしれない、と僕は勝手に想像した。彼と最初にここに来たとき、やくざなんて大嫌いだ、と言った彼の目の中に揺らいだ憎悪の炎を思い出した。あれ、と僕は思った。あんなにやくざを嫌っているショウジが、元やくざのコウさんを慕っているのはどういうわけだろう。
僕の心の中を読んだわけでもあるまいが、ユリは相変わらずずけずけと、こっちがはらはらするような質問をコウさんにしていた。
「コウさんてやくざ屋さん?」
「いや、もうとっくに引退してます」コウさんは照れ臭そうに答えた。
「なんでやめたんですか?」ユリは平気で突っ込んで行く。
「見ての通り、こんな身体じゃね」そう言ってコウさんは、ははは、と笑った。
「ねえ」ユリはカウンターに両肘をついて身をちょっと乗り出すと眉をひそめて言った。「じゃ、コウさんて人を殺したこととかあるわけ?」
一瞬、カウンターの周りが凍りついたようだった。僕の隣のショウジが緊張しているのがわかった。まったく、ユリは爆弾みたいなものだ。無邪気な、悪意のない爆弾。
コウさんはほんの束の間笑顔が消えて、空虚で悲しそうな顔になった。それはすぐに照れ臭そうな笑顔に掻き消され、コウさんはうつむき加減で言った。
「昔の話はよしましょうや」
それはどこか物悲しさが漂っていた。ユリはふーんと言ってそれ以上訊くのをようやくやめた。僕は何故かほっとした。誰にでも話したくないことのひとつやふたつはある。例えば僕で言えば父の荒んだ晩年のこととか、母を信じられなくなりかけていることとか。僕の歳ですらそうなのだから、とうに五十を過ぎていると思われるコウさんには、それこそ山ほどあるのかもしれない。しかし、僕の中には、いつかコウさんの昔の話を聞いてみたいものだ、という矛盾する思いもあった。ひとに話したくないことっていうのは、もしかしたら一番ひとに話したいことなのかもしれないのだ。もしかしたら僕はいま悩んでいる母のこととかを、ショウジやユリに話したいのかもしれない。それで馬鹿だなあ考え過ぎだよと笑い飛ばして欲しいのかもしれない。コウさんは片足をなくした代わりになにを手にしたのだろうか? もし足をなくなさかったら、どんな人だったのだろうか?
もしかしたら、ユリにもそういう話したくないことってのはあるのだろうか?
僕がぼんやりと考えていると、ショウジが僕の肩をぽんと叩いて言った。
「なんか一曲弾いて」
僕はちょっと考えて、わかった、と言ってスツールを立った。コウさんの昔の話に触れかけて、一瞬凍りついた雰囲気をほぐすのも悪くない、と思った。
僕はグランドピアノの前に座って蓋を開けると、鍵盤を見つめてなにを弾こうかと考えた。カウンターの中でコウさんがいつもの表情に戻ってイエーイと手を叩いた。ユリはいったいなにが始まるのかといった風にきょとんとしていた。ショウジは穏やかな笑みを浮かべていた。僕はそれらをちらっと横目で見ると、自然に自分にも笑みが浮かぶのがわかった。僕は弾きたいように弾こう、と思った。なにも考えずに。
Gアドナイン・オンBを弾いて、それからCメージャーナインに移った。あとは勝手にイメージが膨らんだ。右手はひとりでにテーマらしきメロディーを奏でる。それはほっとするようなメロディーで、恐らくさきほどのちょっとした解放感を反映している。僕はしばらくそのテーマをちょっとずつ解体しながら繰り返し弾いて解放感に浸っていたが、そのうち次第に気分が高揚し、ブルーノートを多用したフレーズを黄ばんだ鍵盤に叩きつけた。そのタッチに応じて、ハンマーは弦を変幻自在に叩き、それによって生じた倍音は打ちっ放しの壁や天井に反響して増幅される。その残響は僕をさらに高揚させる。僕はその興奮を、やたらめったら速いパッセージで表現し、その隙間を左手のコードが埋めていく。急激な高揚の次は、左手で低音のアルペジオを弾きながら緩やかに沈静させて行き、ブルージーでセンチメンタルなメロディーを右手で絡めていく。ドミナントモーションを使って細かい転調を繰り返しながら、それはいつのまにかまたノスタルジックなテーマへと戻る。久しく家から遠ざかっていた人間が帰宅するように。最初のコードに戻り、ゆっくりとアルペジオを繰り返しながら眠りに就くように終わる。僕は最後のコードが鳴り終わるのを待った。
イエーイという例のコウさんの声が響き、手を叩く音が聞こえた。僕は椅子から立ち上がった途端にいつもの自分に戻ってしまい、急に照れ臭くなる。演奏で興奮しているのか、それとも鍵盤によって現実から遊離してしまったような自分に照れているのか、どちらともつかないもので僕の顔は少し紅潮する。ショウジは僕に笑顔を向ける。ユリは空からUFOでも降りてきたようにちょっと口を開けて、あっけに取られたような顔で目を丸くしていた。
「あんたなに?」
僕がカウンターのスツールに戻ると、ユリが呆れた顔で言った。僕は答えようがないので、いつのまにか注ぎ足されていたコーラのグラスを傾けた。喉がからからに乾いていたので、やけにうまかった。僕はふうと息をついた。
「な、凄いだろ?」
ショウジが珍しく興奮気味にユリに言った。ユリはこくんとうなずいた。
「いまのはなんていう曲?」ショウジが訊いた。
「テキトー。もう一回弾けって言われても弾けないよ、たぶん」僕は照れながら答えた。
「すげえなあ、オレもあんな風に弾けたらなあ」
ショウジが宙を見つめて言った。僕は心の中で、それはたぶんオレが中学生だからだよ、それに周りにジャズをやる奴がいなかったから物珍しいせいだ、と思ったが、口には出さなかった。
「驚いた」ユリがコーラをひと口飲むと言った。「同じクラスにこんな子がいるなんて」それから僕の方を向くと真顔で言った。「やっぱりあんた、東京に行くべきよ。こんなとこじゃなくて」
言ってからしまったと思ったのか、慌ててコウさんに弁解するように、あ、そういう意味じゃなくて、とユリが言うと、コウさんは、いや、まったくだ、と言ってはははと声高に笑った。
「ここだから弾けるってのもあるんだけど」
僕はぼそりと言った。それは本音だった。僕はどちらかと言うと、生のピアノよりもローズの方が好きだった。それが、ここで弾いてみて、改めて生のピアノというもののよさが身体に直に伝わってきたような気がした。この打ちっ放しのコンクリートの店内の響き、その反響や残響が僕の脳細胞を揺り動かし、勝手に僕の指を突き動かしているような気もした。
「そりゃあ買い被りってもんだ」
コウさんはそう言うと僕らのグラスにコーラを注ぎ足して、新たな煙草に火を点け、うまそうに煙を吐き出した。
「ねえ、いまのはやっぱりジャズなの?」ユリが僕に訊いた。
「だからテキトーだってば」
僕がそう答えると、コウさんは、ジャズ、ジャズ、これがジャズってもんだ、と煙を吐き出しながら言った。僕はへえそうなのかと他人事のように感心した。僕はそれまでジャズはロックやポップス同様、単なる音楽のスタイルのひとつに過ぎないと思っていた。たぶんあの違う自分になってしまうような瞬間、一日を刻む時の流れとは別個に存在するような時間、自分の叩いた音が跳ね返って無意識に次の音に繋がる手触り、自分と、そして周りの空間と対話をしているような感覚、それらのすべてがコウさんの言うジャズなのだろうと改めて思った。でも一方では、ジャズに限らず、ロックもそういうところがあるんじゃないか、とも思った。クラシックやポップスでも。つまりは音楽の瞬間、ということなのではないかと僕はぼんやりと思った。生きた音楽というのはただなんとなく全体像がそこにあるのではなくて、そういう忘我の瞬間の積み重ねのようなものではないかと。それを人はジャズとかロックという言葉で表現しているのではないだろうか。呼び名はなんでもよかった。僕は父がかつて存在し、対話していた空間に少しは近づいているのだろうか。
僕はなんとなくそんなことを考えながら、新たに注ぎ足されたコーラをひと口飲んだ。乾ききった喉をきりきりと冷えたコーラが伝うのを心地よく感じながら、あの関谷との一件以来、ずっと光を失っていたジャズという言葉が、また僕の中で輝きを取り戻したことに気づいた。いつかショウジが口にした、自由、という言葉が頭をよぎった。そのときそれは天啓のように突然閃いた。
なんだ、オレはピアノを弾きたいんじゃないか。
僕はおかしくなって思わず、くく、と笑った。
「なによ?」ユリが怪訝な顔をした。
「ひとつ発見をしたんだ」僕は答えた。
「なにを?」
「内緒」
「ケチ」ユリは頬を膨らませた。「昼間はまるで世界が終わるみたいな顔してたくせに」
僕はそうか、と呟くと、喉の奥で笑った。
15
日が傾いたすすきのの繁華街を僕らは肩を並べて歩いた。ネオンが怪しげに瞬き始めた街は大人の匂いがして、僕らのような制服姿のガキを拒絶しているようにも思えた。どう見ても風俗街には不釣合いな僕らに、怪訝な一瞥をくれる大人も少なくなかった。しかし、三人で歩くとそんなことも気にならなかった。
ユリは急に前に回り込むと言った。
「ねえ、楽しかったね」
僕とショウジはうなずく代わりに小さく口元で微笑んだ。それからショウジは申し訳なさそうな顔をして、言いにくそうにユリに向かって言った。
「あのさ、新藤、あの店だけど」
「わかってる。誰にも言わないよ」ユリは答えた。「言えるわけないじゃん。学校にバレたら大変だもん。それこそ不良の仲間入り」そう言って満面に笑みを浮かべた。「でももったいないよね、酒井くんのピアノ。ねえ、文化祭で弾いたら?」
僕は頭の中で一瞬、ずらっと制服姿が並ぶ講堂の中でピアノをひとりで弾く自分を想像した。
「かんべんしてくれよ」
僕は眉をひそめて情けない顔をすると言った。ユリは上を見上げて少し考えると、確かに似合わないかもしれないわね、と言った。ショウジがぼそりと、まあジャズって感じはしないな、学校ってのは、と言った。じゃあなに、とユリが訊いた。ショウジはうーんと唸ると、モーツアルトかなあ、と言った。ユリは、ショウジくんて似合わないね、モーツアルトとか言うの、と言ってぷっと吹き出した。僕もつられて笑った。ショウジは不満げに仏頂面をした。
僕はちょっと考えた。似合わないからこそやってみるのも面白いかもしれないな。体制を象徴するかのように椅子にきちんと足を揃えて行儀よく並んだ皆の前で、それをぶち壊すような演奏をするのも悪くないかもしれない。唖然として口を開ける教師たちを見るのも悪くないかもしれない。しかし、口には出さないでおいた。やっぱりひとりじゃやだな。バンドならどうだろう?
地下鉄は帰宅する人々で混み合っていた。僕らは元の駅で降りると、駅前の道をとぼとぼと歩いた。五分ほど歩くと、ショウジがじゃあな、と言って交差点を右に折れ、僕とユリはふたりで肩を並べて歩いた。
「誰かに見られたらまた噂になっちゃうね」
ユリがぽつりと言って、彼女には不釣合いなちょっとはにかんだ表情が浮かんだ。それから少しのあいだ言葉が途切れて、僕らは街灯が照らす足元の歩道に目を落としながら歩いた。僕はなんだか気詰まりを覚えてユリに訊いた。
「きょうは塾は休みなの?」
ユリは黙ってうなずいた。気持ちのいい風が吹いて彼女の髪をなびかせた。僕はユリの髪の甘い匂いを思い出し、それはやけに甘酸っぱくて懐かしいような気がした。さっきまであんなに元気よく喋っていたのに、どうしてユリは黙っているんだろう? 僕はなんか話さなきゃ、と焦った。
「ねえ、ユリ、歌巧いね」
僕が言うと、ユリは、えー、と恥ずかしそうな声を出した。僕は何故かますます焦って言った。
「巧いよ、マジで。感動したよ」
えへへ、とユリは笑うと、嬉しい、と言ってうつむいた。僕はそれがいつもの彼女っぽくないような気がして、それ以上なんて言ったらいいのかわからなかった。僕らはまた黙ってとぼとぼと歩いた。そのうち僕の方が先に家に辿り着いた。あ、うちここだから、と立ち止まって僕が言うと、ユリはうん、とうなずいて、じゃあね、と笑って手を振った。僕はそのちょっと赤みが差した頬を見ながら、じゃあ明日、と言った。照れ臭くて手は振れなかった。
祖母とふたりで夕飯を食べながら、なんかこの母さんがいない夕食にも慣れてきちゃったなと思った。僕はとんかつを口の中でもぐもぐと噛みながら、このところ自分の中にわだかまっていたもやもやした怒りがいつのまにか収まっていることに気づいた。まったく、ともだちというのは偉大だ。それと音楽と。それにしても、僕はなにをあんなに思い悩んでいたんだろう? 母が仕事を始めたからといって、それがいったいどうしたというのだ? なんだか自分が馬鹿みたいに思えた。つい昨日までの自分が、ホントにガキみたいに思えた。
「ミツオちゃん、今度の日曜日誕生日だよね?」祖母が訊いた。
「うん」僕は味噌汁をすすりながら答えた。
「もう十五かい。早いねえ」
祖母は呆れたように言ったが、僕は思った。まだ十五なのか、と。
祖母に付き合って「水戸黄門」を見終わり、なんて都合のいい話だ、と思った。とにかく印籠を出せばすべてが解決つくなんて。そんなのはジャズじゃないな、一種のファシズムだ、などと思いながら二階へ上がった。
部屋の戸を開けると、六畳間の真ん中に銀色のフライトケースがふたつ、でんと置いてあった。僕は慌てて階段を駆け下りて、祖母に訊いた。祖母曰く、ああ、あれ今朝届いたのよ、なんか車のトランクに入ってたとかで、あんたが弾くかもしんないからって、真由が置いといたのよ。ちなみに真由というのは母の名前だ。父の車は、確か父とよく一緒に組んで演奏していたベーシストに譲ったはずなので、そのひとが気を利かせて送ってくれたのだろう。
僕はまたダダッと階段を駆け上がると部屋に入り、肩で息をしながら傷だらけのフライトケースを眺めた。ベタベタとシールやなんかが角に貼ってあるフライトケースの真ん中には、「H.SAKAI」と白くペイントしてあった。よく見ると、二つのフライトケースのあいだにソフトケースがあり、先にそれを開けてみると、折りたたみ式のキーボードスタンドとサステインペダル、それにケーブルが何本か入っていた。手前のフライトケースをそっと横倒しにすると、蓋を開けてみた。中には使い古されたヤマハのシンセサイザー、DX7が入っていた。一回り大きいもうひとつの方も開けてみた。こっちはコルグのシンセサイザー、T3だった。大きいので鍵盤数が多いのかと思ったら、DX7と同じ六十一鍵だった。
机とベッドのあいだの窓際にキーボードスタンドを置いた。スタンドは二段になっていて、二つとも置けるようになっていた。僕は父がライブのときにそうやっていたように、大きい方のT3を下の段に、DX7を上の段に置いた。どちらも持ってみるとかなり重かった。CDラジカセを差し込んでいたコンセントをいったん抜いて、ソフトケースの中に入っていた電源タップをコンセントに入れ、ラジカセとシンセの電源をタップに繋いだ。それからこれもソフトケースに入っていたミディケーブルでT3とDX7を繋いだ。これでT3を弾けばDX7も鳴るようになるはずだ。はずだ、というのは、前に読んだ雑誌でミディのことを知っていたからで、実際にシンセサイザーを触るのは初めてだからだ。ミディというのは楽器同士を同期させるための規格で、これで繋げば音程からタッチまでコントロールできる、ってことだったと思う。サステインペダルをT3に繋ぎ、これで一応セット完了だ。
マニュアルはどちらも入ってなかったので、あとは手探りでいじってみるしかない。試しに両方とも電源を入れてみた。デジタルのディスプレイが灯り、かっこいい、と思った。机の椅子を持ってきて座り、T3の鍵盤を弾いてみた。カタカタいうだけで音が出ない。僕は一瞬焦ったが、考えてみればローズと違ってアンプが付いてないので音が出るわけがないのだ。やれやれ。僕はヘッドフォンを繋ぐと、もう一度弾いてみた。サンプリング音源らしい、ワリと本物っぽいピアノの音がした。鍵盤がピアノタッチじゃないプラスチックの軽い鍵盤なので妙な感触だが、これはまあしょうがない。僕はヘッドフォンを今度はDX7の方に差し込み、ホントにミディで鳴るのかどうか、T3の鍵盤を弾いてみた。ちゃんと古臭いDX7の音で鳴った。これにはちょっと感動した。
僕はそれからしばらくのあいだ、両方のシンセのプリセットされた音色を確かめるのに熱中した。T3は結構使える音があるが、DX7は古いだけあってプリセットされた音色が入っているカートリッジのほとんどはいま聞くとちゃちな音だ。しかし、エレピの音だけは独特のよさがあった。ああ、これは父さんのレコードにあった、アル・ジャロウのアルバムとか、八十年代のアルバムでよく使われた奴だと気づいた。内蔵のバンクには父が作った音色と思われるものが並んでいて、エレピだけでも固いのから柔らかいものまで大分揃っていた。どうも父は主にエレピとして使っていたようだ。T3は元がサンプリングっぽいので、どれもそこそこ使えそうだ。生のピアノとか、弦とか、生楽器の代用にはなりそうだ。音源のバンクが三つあるので、全部確かめるのはやたらと時間が掛かった。それだけに拾い物もあって、ハードピアノという音はそこそこローズの代わりになるな、と思った。ハーモニカなんかは本物そっくりだ。とりあえずはこっちをメインに使うことにした。表示をみると、シーケンサーも付いているようだが、これはマニュアルなしに使いこなす自信はなかった。
そんなことをしているあいだに、あっという間に三時間が過ぎていた。これが届いたのが今日でよかった、と思った。もし試験前に届いていたら、期末試験の結果はかなり悲惨なものになっていただろう。結局、僕という人間は鍵盤を与えられるとこれだけ熱中してしまうのだ。やっぱり僕は父の息子だ。僕はヘッドフォンを耳からはずすと、ふうと大きく息をついた。