ナイトソングス  (4)

 

 

 

 



16


 遅刻するよ、と祖母が起こしにきた。僕は寝ぼけまなこを擦りながら階段を降りると、顔を洗って食卓についた。寝不足もいいとこだ。熱中するにもほどがある。僕は大きなあくびをひとつした。
 僕が朝飯を掻き込んでいると、同じく寝不足らしい母があくびをしながら降りてきた。母は目を擦りながら、おはよ、と言ってテーブルについて食べ始めた。僕は食べ終わって箸を置くと、母さん、と声をかけた。え、と母が充血した目を上げた。僕は立ち上がりながら、ありがとう、と言った。母は箸を持ったまま、きょとんとしていた。僕は母の頭上にクエスチョン・マークが点灯しているあいだに、着替えるために二階へと駆け上がった。母は元々呑気な人なのだ。とにもかくにも、僕は憑き物がひとつ落ちた。

 翌週には僕は十五歳になっていた。家族の皆は奮発して注文した店屋物の鰻を食べながら、しきりに早いねえと感心していたが、当の僕はと言えば、一日経ったぐらいでなにが変わるというほどのものではないように思われた。ただ、いまになって考えればあのころの僕は刻々と変化を遂げていたのだと思う。例えば、顔の造作ひとつ取っても、日一日とどこかしらちょっとずつ変化していたに違いないのだ。思い返してみれば、その一年後、たまたまバスに乗ったときに、バックミラーに映った痩せこけた顔を自分だとはすぐに気づかなかった。それはある日突然顔が変わるわけではないから、ちょっとずつ、僕の顔は子供の部分が抜け落ち、削ぎ落とされていたのだ。ただそれも一足飛びに大人に近づいているはずもなく、僕はようやく少年(ここで言う少年とはいわゆる犯罪を起こすと少年A・Bという風に表現されるあれである)という中途半端な過程に辿り着いたというだけのことだ。実際のところ、法律上ではどこからどこまでを少年として扱うのだろう? その意味では僕はとっくに少年であったわけだが、自分の中では去年までの自分はまだまだ半分は子供で、人間の成長過程には、子供と少年のあいだの過程というものが存在するような気がした。いっぱしの少年、というものが存在するのであれば、それは一応身体の成長が止まり肉体がほぼ完成して、あとは精神の成熟を待つばかり、ということであるように思う。それは、あの頃から数年経って、いまこれを書いている僕自身がまだ法律上は少年であるからだ。やっと陰毛が生えてきたぐらいの中学生と、放っておけば髭が伸び放題になり、自分の性欲をもてあましている、一見どこで大人と区別するかといういまの僕とを、ひとくくりに同じ少年と呼んでしまうのはどこか奇異に思える。しかしながら、誰が考えたのか、十五歳というのを義務教育の終わりに選んだのは、それなりに根拠があったものなのかもしれない。実際、そこから社会に出て大人と同じ世界を生きていく者も現れるし、ある種のターニングポイントとなる歳であることは確かだ。
 
 月も変わり、そろそろこの北の街にも夏の気配が近づいてきていた。梅雨がない分、夏の境目は希薄だ。この年の北海道はすこぶる快適な天候が続き、僕は夏休みに思いを馳せた。それは待ち遠しくもあり、その一方では、去年までのように部活に打ち込むわけでもないので、もしかしたら酷く退屈な日々になるかもしれないという杞憂もあった。
 週明けの昼休みに担任の黒木に呼び出された。職員室に顔を出すと、黒木は、まあ座れ、と言って隣の椅子を僕にすすめ、僕がなんだろうといぶかしりながら腰を下ろすと、アルミの灰皿にマイルドセブンの灰を落としながら言った。
「あのさ、お前以外はみんなもう進路相談一度受けてるんだけど、酒井は進学でいいんだよな、もちろん」
 僕はてっきりまた合唱部の話かと思っていたので、突然卒業後の話になって少々戸惑った。考えてみれば、僕はもっと先の、自分が一人前の大人になることをしばしば想像し、それを待ち望んではいたものの、ほんの半年先にある未来というものを真剣に考えたことはなかった。僕はぼんやりと中学を卒業したらまるで当たり前のように高校生になるものと頭の片隅で思っていたが、よくよく考えてみればそれはちっとも確約されたものではないことに気づいた。もちろん、そこに至るまでには受験という関門もあるし、それ以前に我が家の経済的事情というものも関係するのだ、ということにそこでようやく気がついたのだ。父の死と、それに伴う東京から北海道への引越しという、僕のこれまでの人生の中での最大の環境の変化に対応することにすっかり気を取られていた。もちろん受験は当然するものと思っていたし、秋になったら本腰を入れて勉強すればいいや、となんとなく思ってはいた。黒木のひとことで、中野に住んでいたころは嫌というほど自覚していた我が家の経済的な問題、つまりうちには決して余裕はないのだ、ということに思い至った。どうも札幌の祖父母の家での安穏とした雰囲気(たぶんそれは一軒家であるということも大きいんだと思う)に、僕はそのことをすっかり忘れてしまっていた。唐突にその自覚がよみがえると、にわかに僕はすぐ目の前にある自分の未来に不安を覚え、確信を持てなくなった。
 僕は顔を曇らせると、歯切れの悪い口調で答えた。
「あの、僕はそうしたいんですが、母と相談してみないと」  黒木は自分の吐き出した煙に一度顔をしかめてから、表情を緩めると言った。
「あのな、酒井、心配すんな。お前の成績だったらどこでも大丈夫だ。それにその、なんだ、お前みたいな事情の生徒には奨学金って制度も支援団体もあるから」そこで黒木はもう一度マイルドセブンをうまそうに吸い込んで煙を盛大に撒き散らすと、満面に笑みを浮かべて大きな手で僕の肩を叩いた。「な、心配すんな。大丈夫だから。進学でいいだろ?」
「はあ」
 僕はうつむいて小さく答えた。黒木の勢いにそう答えてはみたものの、自信は持てなかった。
「じゃあ、志望校どこにする?」黒木が言った。
「は?」
「志望校」
「あ……」考えてみれば僕は札幌の高校などひとつも知りはしないのだった。「わかりません」
「わかりませんてお前、全然考えてなかったのか?」黒木は呆れた顔で目を丸くした。
「すみません」
「しょうがねえなあ」黒木はぼりぼりと頭を掻いた。
「あの、私立じゃないとこだったらどこでもいいです」
 僕は下を向いてそう答えながら、ショウジやユリはどこに行くつもりなのだろうか、と考えた。黒木に訊いてみたいと思ったが、なんかいかにも主体性がないような気がして訊けなかった。
「どこでもってお前……あ、そうか、転校したばかりで知らないのか」
 黒木はなんだ、という風にふっと笑うと、オレに任せとけ、と言って机の上をごそごそと探すと、プリントを一枚取り出して僕に手渡した。それには札幌市内の高校がリストになってずらりと並んでいた。黒木はその中のひとつを鉛筆で囲むと、ここにしとけ、と言った。僕はプリントを手に、はあ、と答えるしかなかった。黒木は、な、大丈夫、大丈夫、と言うと、ははは、とデカい声で笑って僕の肩をもう一度どんと叩いた。
 僕は職員室をあとにすると、廊下でプリントを四つ折りにしてズボンのポケットに入れ、窓の外に広がる雲ひとつない青空を見上げた。本当に黒木の言うように大丈夫なんだろうか。お前みたいな事情。そうなのだ。僕は特別な事情に置かれているのだ、と改めて思った。とにかく一度母さんに相談してみよう。もし万が一高校に行けなかったらどうしよう。就職。それはなにかやけに憂鬱な響きだった。アルバトロスでピアノ弾きで雇ってくんないかな。コウさんの顔を思い浮かべたとき、始業のベルがけたたましく鳴り始め、僕は慌てて駆け足で教室へと向かった。
 
 このころになると、ようやくクラスのひとりひとりの個性もなんとなくわかってきた。例えば、ユリの隣の浜崎歩は、歌手と名前が同じだというだけで、性格はまったく違う。僕が例えば、ねえ、浜崎さん、などと声をかけただけで真っ赤になってうつむいてしまうような、男に対してはまったく免疫というものがない女の子だ。その浜崎に、ねずみそっくりの栗田がやたらとちょっかいを出して彼女が真っ赤になるのをからかっては、ユリに、アユミになにすんのよ、ねずみ、と怒鳴られてほうほうの体で退散する、ということを繰り返していた。それによるとどうやら栗田は見かけどおりねずみというあだ名であるらしかった。女子は、例えば例の大下と木下のように、仲のいい何人かのグループがある。これはどこに行っても同じだ。板垣という、こう言ってはなんだが、見てくれのあんまり良くない女子がいて、彼女は自分をブスだと公言してはばからず、なにかというと、わたしブスだからさ、と言って高笑いする。それが一部の女子には何故か一種のリーダーシップのようなものに感じられでもするのか、板垣のグループというものも存在していた。僕ははっきり言ってこういう開き直ったような女の子は苦手だ。板垣のグループはみんなブスで、ずうずうしくて、やかましいように思えた。要するにおばさんの集まりみたいなものだ。そうかと思うと一方では、見てくれは悪くはないが、どこかちょっとひとを見下したようなところがある、中山真里加を中心とした何人かは、全員が携帯を持っていてやたらと年がら年中携帯でメールのやりとりをしていた。
 女子に比べると、男の方はそれほどまとまりはない。山岸がその中学生らしからぬ人当たりのよさで人望を集めているぐらいだ。どこのクラスにもひとりぐらいはいる、見るからにドロップアウトしたような不良という生徒はいなかった。ユリの話によるとどうやら隣のクラスにはひとりそういう奴がいて、本当かどうか知らないが刺青まで入っているという噂だ。どうもそいつがいわゆるこの学校の、古臭い言い方をすれば番長気取りらしい。僕にとってそんな奴はどうでもよかった。ただ、ユリの話によれば、二年のときにそいつがショウジに因縁をつけて、逆にこっぴどく殴られたらしい。噂によると、そいつはナイフまで取り出したらしい。ショウジにそれとなく訊いてみたが、照れたように笑うだけで否定も肯定もしなかった。まあ、ボクシングを習っていたやくざの息子に絡む方が馬鹿というものだ。どうもそのことも学校の伝説のひとつみたいになっていて、皆がショウジにちょっと距離を置いているらしかった。
 ショウジとはまた違った意味で孤立している者もいて、例えば倉田という度の強い眼鏡をかけた男子は、やたら太っているというだけでなにかと笑いものにされ、鏡という内向的なブスの子は、見るからにおどおどしていてまるでなにもしないうちから防御にまわっているようなところがあり、そのせいなのかそれとも結果的にそうなってしまったのか、女子にいじめられているようだった。それも同じブスである板垣のグループが特に辛く当たっていた。同類だけに余計にムカつく、という奴なのかもしれない。
 要するに、どこにでもあるような中学のひとクラスだった。
 僕はただでさえ東京から転校してきた上に、真っ先にそんな平凡なクラスの中で唯一と言っていい異彩を放つ存在だったショウジと仲がよくなってしまったがために、早くもクラスからはちょっと浮いた存在になりかけていた。まあ、そうは言っても、僕にしてもショウジにしても、別に倉田や鏡のようにいじめられているわけではないし、無視されているわけでもなくて、ただなんとなくちょっと距離を置かれているという程度だった。ガイジンが混じっている、という程度の。そのたかだか何センチかの距離が、時を重ねれば半径数メートルのバリヤーをはりめぐらしたみたいになってしまうのかもしれない。その意味では、三年になってから転校してきたということはラッキーだったのかもしれない。あと半年もしないうちに皆受験に没頭して他人のことを構ってはいられなくなるはずだから。それに、僕とショウジとユリという三人が固まっている教室の隅っこというのもまんざら居心地は悪くなかった。オセロに例えれば、角の三つは絶対に引っくり返されはしないのだ。僕ら、僕とショウジにとって、ユリはクラスとの緩衝剤のような存在だった。彼女は誰とでも平気で話をしたし、特定の誰かとグループを組んでつるむということもなかったし、それは例えばひととほとんどロクに口も利けない浜崎もユリとは安心して話していることからもわかるように、そのあっけらかんとした性格は誰からも好かれるものだった。彼女はいわば、オセロで言えば一枚で何列も引っくり返してしまえるような存在だった。


17


 その日の帰り、いつものように一緒に昇降口を出ながら、ショウジに志望校を訊いてみた。ショウジが口にしたのは、黒木が鉛筆で囲った高校の名だったので、僕は少し安心した。
 校門を出て歩き始めると、道端に大きな黒いベンツが停まっていて、黒いスーツを着た男と真っ赤なスイングトップを着た若い男という、格好は見るからにアンバランスだけれどなぜか人相の悪さでバランスが取れている、といった組み合わせの二人の男が車にもたれて煙草を吸いながらこちらを見ていた。それはすすきの辺りならともかく、この学校のある、見渡す限り平穏でのどかな街並みにはいかにも似つかわしくない光景だった。この時間ではまだ帰る生徒も少なく、彼らはじっと僕らの方を見ている気がした。僕は嫌な感じがして、見ないふりをして素通りしようとした。
 ところが、僕らがちょうどベンツの前に差し掛かると、スーツの方が足元のアスファルトに煙草を捨てて踏みつけ、僕らの前に立ち塞がった。
「東海林昭光くんだよね?」
 三十代前半と思われる男は一応愛想笑いを浮かべたつもりのようだったが、酷薄そうな目はちっとも笑っていなかったし、引きつったような口元はどこか爬虫類を思わせた。
「はい」
 さすがにショウジは不安の色を浮かべながら答えた。僕は思わずあとずさったが、いつのまにかスイングトップの方が僕の後ろに回っていて、にやにや笑っていた。ディップで撫でつけた髪の下の目は強暴な犬みたいで、下卑た口元といい、いかにもちんぴらという感じだった。
「送って行きます」
 スーツの方が言った。有無を言わせない調子だった。さ、と言ってショウジの肩を掴むと、ベンツの後部ドアを開けて乗るように促した。肩を掴んでいる指に血管が浮き出て力が篭っているのが見えた。小指の先が欠けていた。ショウジは不安げに僕の方を見ながら、仕方なくといった感じで中に乗り込んだ。
「おともだちもどうぞ」
 スーツにそう言われて、僕は足がすくんでいたが、後ろからスイングトップにほら、とこづかれたので、仕方なく僕もショウジの隣に乗った。
 スーツがドアを閉め、スイングトップが小走りに運転席に回ると、スーツは助手席に乗り込んだ。中に入ると、後部座席にはもうひとり、明らかに先のふたりよりは年が上の、がっしりとした体格でやっぱり黒いスーツを着た、サングラスの男がいた。  出せ、とサングラスが言うと、運転席のスイングトップがはいと答えてエンジンを掛け、車をスタートさせた。
「少しドライブして帰ろうか」
 サングラスの男が、まるで風邪でもひいているかのようなしわがれ声で言った。
 ベンツはまるで自転車みたいにのろのろと通りを走った。僕はどこに連れて行かれるのだろうと考え、恐怖で喉元まで心臓がせり上がってくるようで、足が震えそうになるのをどうにかこらえていた。ショウジは僕とサングラスに挟まれ、窮屈そうに身を縮めながら、眉間に皺を寄せてときおりちらちらと僕の方を見た。バックミラーに運転席のスイングトップのにやにやした目元が映り、僕はそれから目をそらした。
 誰もひとことも発しなかった。ベンツはただひたすらゆっくりと、たらたらと走るばかりで、いくらまだ交通量が少ないと言っても、あっという間にベンツの後ろには何台かの車が連なった。そのうち、痺れを切らした後ろを走っていた車がクラクションを鳴らした。ちょうど交差点の信号が黄色に変わろうとしたころだった。
 突然、スイングトップは舌打ちをして車を停めると、ドアを開けて車道に降り立ち、つかつかと真後ろを走っていた軽自動車の運転席を覗き込み、なんだコラあ、と声を張り上げた。運転席のおじさんは自分じゃないと必死で手を左右に振り、後ろを指差した。スイングトップはもう一台後ろの車に歩み寄ると、またなにやら大声を張り上げた。僕は首を回してリアウィンドウ越しにそれを見て、縮みあがってしまった。いつのまにかワイシャツの脇の下にじっとりと汗をかき、知らぬ間に両手はズボンの膝の辺りを握り締めていた。その手のひらも汗ばんでいた。そのうちスイングトップはどんどんと二台後ろの車のドアを蹴り始め、そこでようやく助手席のスーツが窓越しに顔を出し、スギ、いい加減にしとけ、と声をかけた。スイングトップは腹立たしげに最後にもう一度ドアを蹴りつけると、ようやく車に戻ってきた。スイングトップが運転席に戻ると、それまで黙っていたサングラスがひとこと、馬鹿、と言って、スイングトップは、すいません、と振り向きながら謝り、ふたたび車をスタートさせた。
 また無言のドライブが始まった。ベンツは地下鉄の駅までのろのろと辿り着くと、交差点を左折した。僕はいったいどこに連れて行かれるんだろう、とそればかりを考えていた。悪いことばかりが頭に浮かんだ。小指の先を切り落とされることを想像し、ピアノが弾けなくなるかもしれないと思ってぞっとした。考えてみれば僕なんかの小指を落とす理由なんてこれっぽっちもないとは思ったが、やくざのすることに理由なんてないのだ、という風に思えて、そのことはさっきのスイングトップの行動が象徴しているような気がした。彼らの真の目的はなんだかわからないけれど、最初に声をかけたことから見ても、ショウジが目的であることは明らかだった。だからその意味では僕はとばっちりというわけだが、そんな風に思ってショウジのことを恨んだりする余裕も、そんなつもりもなかった。むしろ、ショウジがなにか酷い目に会わされるのではないかということを心配した。まさか校門の前で拾った中学生をそのまま殺したりはしないとは思うが、彼らがちっとも余計なことを喋らないことがかえって不気味で、彼らの意図がさっぱりわからなかった。  僕は緊張のあまり次第に気分が悪くなってきて、いつもなら平気なのに車に酔ってしまいそうだった。僕らは拉致されたのだろうか、と考えた。これはもしかしたら誘拐なのかもしれない。そう考えると、胃の辺りに吐き気がして、それはちょっとずつ僕の食道を伝ってせり上がってきた。
 ベンツはいちょうの大木が連なる神社の前を通り過ぎ、交番のある角をまた左折した。交番には制服の警官がひとり机に向かっているのが見えたが、スモークガラスの車内に僕らが乗っていることに気づくはずもなかった。例え気づいたとしても、なにもアクションを起こさないかもしれない。サングラスもスーツもスイングトップも、交番の目の前をゆっくりと通り過ぎるあいだ、まったく気にする素振りは見せなかった。僕は生唾をごくりと飲んで、交番の前でドアを開けて飛び降りることを考えた。しかし、僕はともかく、隣にサングラスがいるショウジは無理だろう。彼を見捨てることはできない。それに、その行動がショウジの身にさらなる危険をもたらすだろうことは容易に想像できた。窓を開けて助けてと叫ぶことも頭に浮かんだが、それも事態を悪化させることは目に見えていたし、そもそもよく考えてみたらウィンドウがロックされていたらそれまでのことだ。結局、僕の頭の中に浮かんだアイディアのひとつひとつはその場しのぎでしかなく、例えどれかひとつうまくことが運んで逃げ出せたとしても、連中はまたいつか同じことを繰り返すだろう。僕らは毎日怯えながら帰ることになるだろう。八方塞がりだった。僕らはあまりにも無力だった。僕は絶望感とともにまた吐き気が顔をもたげ、生唾と一緒にそれらを飲み込もうと努力した。隣のショウジの顔をちらりと見ると、なにかをこらえるように歯を食いしばって正面を見つめていた。少なくとも連中がショウジの父親の友好的な知り合いである可能性はなさそうだった。
 二三十キロは出しているはずなのに、僕にはまるで永遠にどこにも辿り着かないぐらい遅いスピードに思えた。どこでもいいから早く停めてくれ、と願った。もう吐きそうだ。僕がここで吐いたらいったいどうなるのだろう。たぶん、少なくともスイングトップは烈火の如く怒るに違いない。僕は額に脂汗を浮かべていた。
「停めろ」
 ようやくサングラスがそう呟いて、ベンツは歩道に寄せて停まった。なんの変哲もない住宅街のど真ん中だった。やくざの事務所になるような、ビルのような建物は見当たらず、いかにも平和そうな街並みが連なっている。ショウジをちらりと見ると、大きく目を見開いていた。サングラスがこちらを向いて、ショウジの顔を覗き込むと、口元でにやりと笑いながら左手でショウジの腿の辺りをぽんと叩いて耳障りな声で言った。
「お父さんによろしく言っといてくれ」
 ショウジがごくりと生唾を飲むのがわかった。彼の表情は恐怖というよりも、怒りと嫌悪感に満ちているように見えた。
「降りよう」
 ショウジが僕に言った。僕はこくんとうなずくと、ドアを開けて外に降り立った。まるで深海から浮かび上がったみたいに、ようやく呼吸ができるようになった気がした。僕に続いて降りるショウジに、助手席のスーツが振り向いてにやにや笑いながら、お疲れさん、と言った。ショウジがドアを叩きつけるように閉めると、ベンツはそれまでのトロトロした走りが嘘のように、急加速してあっという間に走り去って行った。
 僕はほっとすると同時に猛烈な吐き気がこみ上げてきて、それはもう押さえようがなく、歩道際の民家の壁に手をついてしゃがみ込むと吐いた。
「大丈夫?」
 胃液まで吐き終わって肩で息をする僕に、ショウジが心配そうに声をかけた。僕は苦しさと恥ずかしさで顔を上げられず、答える代わりに何度かうなずいた。
「うちで少し休もう。すぐそこだから」
 ショウジが言った。僕は口の周りにまとわりついた吐瀉物や唾液をぬぐいながら、ようやくのことでショウジを見上げた。かがみ込んだショウジの肩越しに、どこまでも続く空が見えた。それは、ついいましがたまで見ていた、スモークガラス越しのフィルターをかけたような風景に比べて、やけに青く透き通っているように見えた。


18


 コンクリートの高い塀がどこまでも続いていた。高さが二メートル以上はあると思われる塀の上はさらに一メートルぐらいの生垣で覆われていて、よく見るとその中を有刺鉄線が張り巡らされているのがわかる。
 ショウジの家はホントにすぐそこだった。その意味では彼らは言葉通り、ショウジを送ってきたとも言えた。車を降りた場所から半ブロックも歩かないうちにその塀は始まり、いつまで経っても終わらないように思えた。途中で入り口かなと思ったのは、優に三台分の横幅はありそうなシャッターの降りた駐車場で、とうとう入り口らしきものに当たらないまま、次の角を曲がった。そこでようやくショウジの家がワンブロックすべてを占めていることに気づいた。角の生垣からは監視用の小型カメラが顔を覗かせていた。僕はその広さに半ば呆れ、唖然としながらも、まるで収容所かなにかみたいだ、とも思った。  角を曲がってしばらく歩くと、ようやく門が見えてきた。車が二台擦れ違えるほどの門の前に辿り着くと、鉄の門扉が自動ドアのようにスライドしていったので驚いた。どうやら監視カメラでショウジを確認して、中からリモートコントロールで開けたらしい。僕はついさきほどまで道端でげえげえと吐いていたことも忘れて、口を半分開けたままショウジのあとにくっついて門の中に入った。
 アプローチの両脇は庭が広がっていて、僕にはまるで鬱蒼とした森のように見えた。とても自分が住んでいる町内だとは思えなかった。どこかヨーロッパの街にでも知らぬ間に迷い込んでしまったような気がした。家は切妻式のポーチのついた洋館で、二階建てだがまるでホテルかなにかのように広かった。車回しには大きなBMWが一台停めてあった。僕はやくざの家というのは、さきほどの連中のような強面の男たちがうろうろしているものと思っていたが、門から玄関まで人っ子ひとり見当たらなかった。たぶん、それでもなにか起きたときにはどこかからぞろぞろと出てくるんだろうけど。
 僕らが玄関に辿り着くと、ドアが開いてエプロンをした上品な中年の女性が顔を出し、お帰りなさい、と言った。ショウジはただいま、と言って靴を脱ぎながら、オレンジジュースかなんかもらえますか、と言った。女性は、はいはい、とにこやかに笑いながら言って奥に引っ込んだ。ヒノキの匂いがする吹き抜けの玄関に僕も靴を脱いで上がると、ショウジはこっち、と言って廊下を歩いて行った。外観も中も洋風なのに、玄関先に墨で黒々と書かれたなにやら読めない字が大きな額に掛けられていて、それが妙に周囲から浮いて見えた。
 ぴかぴかに磨かれた廊下をショウジのあとについて歩き、僕はシャンデリアの下がるやたらめったら広いダイニングや、かと思うと突然現れたように思える障子で仕切られた和室とかを物珍しげに眺めた。どうやらショウジの部屋は一番奥の方にあるようだった。僕はいったいいくつ部屋があるのだろうと思い、この家の広さに度肝を抜かれて、言葉を失ってついていった。
 廊下の途中にあった洗面所で僕は口の中をすすぎ、ようやく口の中に残っていた不快な吐瀉物の残りを洗い流すことができた。
 この調子ではもしかしたらショウジの部屋だけで一軒家ぐらいあるのかもしれない、などと思っていたが、実際は思っていたよりも意外に質素な部屋だった。それでも十六畳ぐらいの広さはあって、僕がいま住んでいる祖父母の家にあるどの部屋よりも広かった。ちょうど裏手の庭が窓の外に広がっていて、景色を木々が覆い尽くし、まるで高原にでも来たようだった。
 テキトーに座って、とショウジが笑った。僕はカーペットを敷き詰めた床の真ん中に置いてある、楕円形をした木のテーブルの脇に腰を下ろしてあぐらをかいた。入って左手の壁際には机があり、その上にはデスクトップのパソコンが置かれてあった。その隣のドア側の壁は天井まで造り付けの本棚になっていて、本やCDやビデオが並べてあった。出窓になった正面の窓の下にはオーディオセットが並べてあり、床に置いたブロックの上にボーズの大きなスピーカーが置かれていた。大画面のテレビも床に直に置いてあったが、プレステとかは繋がれてなく、どうやらそれを見る限り、ショウジも僕同様ゲームにはそれほど興味がないようだ。思い返してみれば僕らのあいだでゲームの話題が出たことは一度もなかった。机と反対側にはセミダブルのベッドがあった。とりあえずここまででも同じ中学生の部屋とは思えず驚いた。これでキッチンとバストイレが付いていたらここで一生生活できそうだ、などと思った。僕が驚いたのは、もう一方のドア側の壁際に、楽器が並んでいたことだ。ギタースタンドに立てかけられたフェンダーのストラトキャスターとオベーションのアコースティック・ギター、それにキーボードスタンドに載ったコルグの最新型のシンセサイザー、その隣にはエフェクターが入ったラック、その上にはフォステックスのマルチトラックレコーダー。ついでにアンプもある。フェンダーのツインリバーブ。
 僕は日焼けして畳の擦り切れた自分の六畳間と頭の中で比較して、その豪勢さに驚いた。あまり中学生らしくないのは、その豪華さもそうだが、壁に一枚もポスターの類が貼られておらず、すべてがきちんと整理されていて、乱雑なところがないところだ。物が多いわりにはシンプルであまり生活臭がない。家具も本棚に至るまで値が張りそうなものばかりで、まるでどこかの高級ホテルの一室のようだった。こんな贅沢な自分の城がありながら、どうしてあんなアルバトロスみたいなところに好んで出入りしているのだろうという疑問が僕の頭をよぎったが、もしかしたらショウジにとっては見かけほど居心地のいいところではないのかもしれなかった。
 そんな風に僕が唖然としながら部屋中を見渡していると、ドアをノックしてさきほどの女性が盆にオレンジジュースの入ったグラスをふたつ載せて入ってきた。女性はテーブルにグラスをふたつ置くと、ごゆっくり、と僕に笑いかけてから部屋を出ていった。机の前の椅子に座っていたショウジが立ち上がってテーブルの僕の向かいにあぐらをかくと、オレンジジュースをひと口飲んで言った。
「大丈夫?」
 僕もオレンジジュースをひと口飲みながら、ああ、さきほどのことを言っているのだとようやく気づき、照れ笑いを浮かべて答えた。
「うん、なんかびっくりして忘れてた」
 ショウジはそうか、と言って微笑んだ。僕はオレンジジュースを飲んで一息つくと、さきほどの恐怖がふっとよみがえり、急にショウジのことが心配になって言った。
「ねえ、さっきの連中、知ってるの?」
 ショウジは眉をひそめて首を横に振った。それから視線を窓の外に向けると、ぽつりと吐き捨てるように言った。
「どうせ糞みたいな奴らだよ、あいつと同類の」
 僕はあいつというのは誰のことだろうという疑問が頭をよぎったが、よみがえった不安がまだ消えずにさらに尋ねた。
「大丈夫? また来るんじゃないの?」
「平気だよ、どうせはったりだよ、あんなの。こっちが怖がったら思う壺だ」
 強い口調でショウジはそう言ったが、うつむいた顔に笑みはなかった。その横顔に浮かんでいるのは憂鬱そのものだった。それからショウジは顔を上げて言った。
「それより悪かったな、なんか。巻き込んじゃって」
 僕はいいんだ、と答えようと思ったが、それもヘンな気がした。げえげえと吐いてしまった自分を思い出し、途端に恥ずかしくなった。殺されるかと思った、と知らぬ間に呟いていて、照れ隠しに言った。
「びびって吐いちゃったよ、ああ、カッコわる」
 それでようやく僕らは顔を見合わせて笑った。
 僕はもう一度部屋の中を見渡して、凄いね、と言った。ショウジは照れ臭そうな、複雑な笑みを浮かべて黙っていた。たぶん、答えようがないのだろう。僕もそのことに気づいて、話題を切り替えた。
「優しそうなお母さんだね」
 僕がそう言うと、ショウジは一瞬きょとんとした顔をした。それから困惑の色を浮かべて言った。
「あれ、母親じゃないんだ。お手伝いさん」
 どうやら僕は失策を犯してしまったらしかった。それにしても、ショウジの顔に浮かんだ困惑の色はなんなのだろうとちらりと思った。この豪勢な部屋の代わりに、彼はいろんな複雑なものを背負わされているのかもしれない。僕は彼が自分から言い出さないかぎり、あまり家族のことは訊かないようにしようと思った。僕にしてみたところで、父のこととか、母の現在の仕事のこととか、積極的にひとに話したくないことというものはある。ましてやショウジのような場合、父親のことを話せばともだちが減ることはあっても増えることはない。もちろん、ショウジが本物の不良だったら話は別だが。ともかく、彼には話したくないことがたくさんあるような気がした。もしかしたらこの部屋だって、今日のような事情がなかったら呼んでくれたかどうかわからない。この家を見て、かえって引いてしまう者だっているだろう。逆に言えば、ショウジがこの部屋を自慢げに見せびらかすような人間であってもおかしくなく、むしろそれを恥じてでもいるかのような彼に好感を持った。引いてしまう者。もしかしたらそれに近いことが以前あったのかもしれない、と僕は思った。山岸の顔がちらりと頭を掠めた。考え過ぎかもしれない。勘繰り過ぎるのはよくない。そんな風に突き詰めて考え始めれば、切りがない。僕には知り得ないいろんなことの積み重ねが、いまの彼を作ったのだ。そして、それは僕も同様だ。
 僕が束の間そんな思索を巡らせていると、ショウジは立ち上がって机の方に向かい、引き出しからマイルドセブンと百円ライターを取り出した。部屋の片隅の出窓を開けると、煙草に火を点けた。彼は僕に向かって煙草を持ち上げ、吸う? と訊いた。僕はうなずくと、ふたりで並んで出窓に両肘をついて煙草を吸った。傾いた日が裏庭の木々に濃い陰影を与えるさまを、ふたりで黙って煙草を吸いながら眺めた。
「あれ」僕はふたつ並んでいるギターを指差して言った。「弾いてよ、なんか」
「えー、カンベンしてくれよ、酒井の前じゃ恥ずかしくて」ショウジは煙草を持った手を振った。
「オレだってピアノ弾いたじゃんか」
「レベルが違うよ、レベルが」
「そんなことないよ、オレ、ギター弾けないし」
 僕は照れるショウジを肘で突ついた。
 しょうがねえなあ、と言いながらショウジは机の引き出しから灰皿を取り出して煙草を消し、笑うなよ、と言いながらオベーションを手にして座り込んだ。僕はコウさんの真似をしてイエーイと言ってからかった。
 ジャーンとCのコードをショウジがかき鳴らした。いい音だね、と僕は感心して言った。それで少し勇気が出たのか、それから彼は開放弦を巧く使って、C、F、Gといったシンプルなコード進行を、ときおりリフやから空ピックを絡めながらリズムを刻んだ。それはちょっと跳ねた、ゴキゲンなリズムだった。
「カッコいい、レニー・クラヴィッツみたいだ、マジで」
 ショウジが弾く手を休めると同時に僕は声をかけた。ショウジはへへ、と嬉しそうに笑った。ホントに嬉しそうだった。「マジ?」と訊いたので、僕は「マジ」と答えた。
「そしたらさ、これどうかな?」
 そう言ってショウジはAマイナーセブン、Dナインスというコード進行を、基本的には八()のパターンで刻みながら合間に十六()のカッティングが入る、というリズムを刻み始めた。ゴキゲンだ。驚いたことにそれに合わせて彼は歌を口ずさんだ。それはシンコペーションで入る跳ねた十六分のメロディーで、ラップのようにギターのカッティングに心地よく絡んだ。こんな歌詞だった。

 僕は夜に生まれた
 月も凍てつくような夜に
 ちょうど今宵のような
 星の降るような夜に
  
 それはクールで、ブルージーで、それでいてどこかセンチメンタルなメロディーだった。ちょっとかすれ気味のショウジの声も、アルバトロスで思ったように切なくて乾いた味があった。僕はホントに、初めてレニー・クラヴィッツを聴いたときのように興奮した。なにかこう、凄いものを見つけてしまったような気がした。気がつくと唄い終わったショウジがきょとんとこちらを見つめていた。
「どう?」
 彼は不安げに訊いた。
「いまのは自分で作ったの?」僕は訊いた。
「そう」ショウジは照れ臭そうに答えた。
「お前はマジで日本のレニー・クラヴィッツだ」僕はもう一度言った。「マジで」

 それから僕らは、ショウジの本棚にあったレニー・クラヴィッツのCD、「ママ・セッド」をデカい音でかけた。僕はそれを聴きながら、やっぱり凄いよ、これ、ピアノとか弾き損ねた奴平気でそのまま残してるし、ベースとか大雑把でコードどうなってんだって感じだし、まるでデモテープみたいな音してるし、そのくせかっこいいんだ、それが、ワイルドって感じで、いや、クールって感じかな、グランジとかなんとかそんなことはよくわからないけど、そんなことはどうでもよくて、などといつになく饒舌にまくしたてた。要するに僕は少々興奮していた。ショウジはうんうん、とひたすら相槌を打っていた。
 気がつくと六時半を回っていた。僕は、いけね、もう帰らなきゃ、と言った。ショウジは送ってくよと言ったが、僕は道を教えてくれればいいから、と言った。僕はすっかりベンツの連中のことなど忘れかけていた。長い廊下を歩きながら、バンドやろうぜ、バンド、と興奮気味に言った。
 ちょうど障子が連なる和室の前に差しかかったときだった。開け放たれた障子のあいだから、太い声が廊下に響いた。
「アキミツ」
 僕らは急なことに驚いて立ち止まった。上気していたショウジの顔がみるみるうちに血の気が引いていくように見えた。
「なんですか?」
 ショウジは無表情とも言える険しい顔で答えた。見ると廊下との敷居のところに、白髪の混じった、髭を顔の下半分にたくわえた五十がらみのがっしりとした男が、笑みを浮かべて立っていた。丹前を隙なく着こなして、背筋をきっと伸ばしていた。表情は穏やかだが、こちらが気圧されるような押し出しの強さを男は持っていた。ああ、これがショウジのお父さんか、と僕は思った。
「珍しいじゃないか、ともだちを連れてくるなんて。パパにも紹介してくれよ」
 ショウジの父親は腹の底に響いてくるようなバリトンで言った。ショウジはなにかに耐えるように唇を噛み締めたあと、諦めたように僕を紹介した。
「酒井くんです」
 僕はぺこりと頭を下げた。ショウジの父親はにこにこと僕に笑いかけたが、ショウジは露骨に嫌な表情をして、行こう、と僕に声をかけた。僕はもう一度ちょこんと頭を下げると、先に歩き始めたショウジのあとを追った。
「酒井くん」
 僕の背中に声がかかった。僕とショウジの足が止まった。僕が振り向くと、ショウジの父親は僕に手招きして言った。
「ちょっといいですか?」
 言葉は丁寧だが、有無を言わせないものがあった。僕はどうしたものかと思い、ショウジを振り返った。彼は眉間に皺を寄せて、僕を見ているとも、その背後にいる父親を見ているとも、どちらともつかない視線を泳がせて、困惑しているように見えた。
「ちょっと」
 その声には到底抗えなかった。僕は、はい、と小さく答えると、廊下に立ち尽しているショウジを残して、和室に足を踏み入れた。掛け軸の掛かった床の間を背にして、ショウジの父親は正座した。どうぞ、と言われて、大きな木の座卓を挟んで、僕は座布団の上に慣れない正座をした。緊張して喉がからからに乾いた。彼がそれまで穏やかだった表情をきっと引き締めたので、僕は思わず息を呑んだ。それぐらい迫力があった。彼はいきなり腰を引くと、頭を畳に擦り付けた。僕は驚きに目を見張った。
「アキミツをよろしくお願いします」
 彼は土下座をしたままで言った。僕は突然のことに、あ、あの、と声を洩らしながら、おろおろするばかりだった。彼は顔を上げると、思い詰めたような顔をした。それは確かに怖かったが、同時に確かに父親の顔でもあった。
「あの子はともだちが少ないんです。どうか、よろしくお願いします」
 そう言って、彼はもう一度頭を下げた。僕はただ突然のことに狼狽して、はい、と答えた。
「もういいでしょ。行こうよ」
 声がする方を見ると、敷居のところにショウジが立っていた。僕はほっとして立ち上がると、失礼します、と声をかけて和室をあとにした。
 玄関を出ると、車回しにベンツのリムジンが停まっていて、黒いスーツを着た目つきの鋭い男が羽根でボンネットを拭いていた。僕らを見ると、男は無言で頭を下げた。
 ショウジがボタンを押すと、門扉はまたすうっと横にスライドしていった。それはまるでちょっとした魔法のように見えた。ショウジは角のところまでついてきてくれた。僕らは無言で西日の差す方に歩いた。ちょうど塀の切れ目まで来ると、ショウジは通りの向こうを指差して、あそこの信号を左に曲がると駅前の通りだから、と言った。僕がわかった、と言うと、ショウジは足元を見つめて、それから顔を上げると弱々しく微笑んで言った。
「なんかヘンな日だったな」
「ああ」
 僕は笑みを返すと、じゃ、と片手を小さく上げて歩き始めた。途中で振り返ると、ショウジはまだ角に立っていた。西日がショウジの顔をオレンジ色に照らしていた。僕は小さくうなずくと、また前を向いてとぼとぼと歩き始めた。歩きながら思った。
 まったく、なんて日だ。


19


 その夜は寝床に就いてもなかなか頭の整理がつかなかった。
 あまりにもいろんなことが一日の中であり過ぎた。全部考えていたらとても眠れそうになかったし、ベンツのことを筆頭に、なにしろ憂鬱なことが多過ぎた。しかし、人間というのは案外都合よくできていて、一番いいことと一番悪いことだけが強く印象に残っている。そしてそれらを同時に考えることはまず不可能だ。それにまさか毎日帰り道にベンツが現れるとも思えないし、その点に関してはショウジのはったりだという意見は的を射ているように思える。まあ、考えてみればショウジの問題であって、僕には直接関係ないと言うこともできる。そんな風には考えたくはなかったが。いずれにしても、ただ車に乗ったというだけでまだなにも起きているわけではないし、確かに無闇に怖がってしまうことは彼らの思う壷だろう。それがやくざというものの常套手段なのだ。しかし、彼らの思う壷って言ったって、それはどんな壷で、いったい彼らの目的はなんなのだろう? 彼らがショウジの父親と敵対している組織の人間なのではないかということぐらいは中学生の僕にも想像がついたが、だからと言って、これ以上僕ごときがこのことについて考えてもなんの解決にもならないような気がした。まあ、はっきり言えば考えるのも怖かった。それに考えれば考えるほど、彼らや、それ以上にゲロを吐いてしまうほど怖がった自分に対して、むかむかと腹が立ってくることも事実だった。これ以上考えていると、そのうち、なんとかして連中に仕返しができないものかなどという馬鹿な方に頭が行ってしまいそうだったので、もうこのことについては考えないことにした。
 そんなわけで、僕はいいことばかりを考えることにした。つまり、シンガーソングライター、東海林昭光の発見である。音楽的発見というものほど僕をエキサイトさせるものはない。少なくともいまのところは。
 ショウジが唄った歌を思い返した。それと同時に、僕の頭の中ではベースラインのアイディアとか、エレピを絡ませるアイディアがひとりでに湧いてきて、それらを組み合わせてできるグルーヴが波打った。それは実にゴキゲンなグルーヴだ。僕はあのぴかぴかに磨かれた廊下で興奮して口走ってしまった、バンドをやろう、という自分の発言を、悪くないアイディアだと思った。それどころか、考えれば考えるほど素晴らしい思いつきのように思えた。ドラムはリズムマシンによる打ち込みのループでもいい。しかし、ベースは手弾きのベースが欲しかった。なによりもライブなバンドサウンドにすることがよりクールなように思えた。バンドという形態が好ましい。僕はわくわくしてきた。
 ベースをやっているという山岸の言葉を思い出した。あいつはどの程度弾けるのだろう? だが、この場合、テクニックはそれほど問題ではない。僕の頭の中にあるアイディアは、それほど難しいラインではない。必要としているのは生のうねり、ドライブ感だ。リズム感さえよければいい。だが、山岸を巻き込むとなると、彼とショウジのあいだにある、なにやら確執のようなものが問題となってくる。それとも他にベースを弾ける奴を探すべきなのか? しかし、わざわざ目の前にバンドをやろうと言っているベーシストがいるというのに、そんな遠回りをする必要があるのだろうか? どうも二人を隔てているものがはっきりしないだけに、僕の頭はそこでこんがらがってくる。ひとまず、山岸の件を考えるのは保留にしよう。一度山岸と話をしてみるのもいい。
 僕はまた漠然とバンドをやるというところに立ち戻った。と、そこで根源的な疑問に行き当たった。この受験を控えたときに、バンドをやっていったいどうしようというのだ? 受験という言葉が頭に浮かんで、昼間の黒木の話が頭をよぎり、あ、そうだ、母さんに進路のことを相談しなければ、と思ったが、これも深く考えると憂鬱になりそうなので、明日の朝まで保留にすることにした。
 とりあえず、楽しければいいのではないだろうか? 音楽という名の通り。しかし、聴衆のいない音楽というのは所詮なぐさみものでしかない。自己満足でしかない。僕がアルバトロスでピアノを弾いて得たものも、あの空気、あの場所、あそこに僕の叩き出す音に耳を傾ける者がいたからではないか? そこに一種のコミュニケーションが生じ、ヴァイブレーションが生ずるのではないか? なにより、それが音楽の醍醐味というものではないか? 誰かに伝えるという醍醐味。誰かと瞬間を共有するという醍醐味。
 目的が必要だ。
 僕はユリの言葉を思い出した。文化祭で弾いたら? それでいつか想像した、まるで体制を象徴するかのような、ずらりと並んだ制服の前で、それを突き崩すもの、揺り動かすものをやる、というところに思い至った。悪くないような気がする。ましてや、メインはショウジのボーカルであり、彼の曲なのだ。もしかしたらこれは痛快なことではないか? クラスのみんなからまるで腫れ物のように扱われているショウジを、一瞬にしてヒーローに、カリスマへと変化させる。これはとんでもなくゴキゲンなアイディアのような気がしてきた。こいつはすごくクールだ。僕はその瞬間を、制服の皆が唖然とするさまを、それからきちんと並んだ彼らが無意識のうちに隊列を乱して身体をグルーヴに揺らすさまを想像して、笑い出したくなった。
 それを実現するには、やっぱり山岸をなんとかするのが手っ取り早いような気がした。文化祭に出るということを実現するには、先生や文化祭の実行委員という人間を動かすことがまず必要だ。それにはあの妙に中学生らしからぬ人当たりのよさと、それによって得た人望というものが有効なように思われた。それに、もしかしたら山岸は文化祭の実行委員であってもおかしくない。いずれにしても、ユリと山岸という人望の厚い二人が動いてくれれば、なんとかなるような気がした。ユリ。あの歌の巧さを思い出した。彼女はバックボーカルで使えるな。そこで僕は頭の中でサビをハモらせるアイディアを思いついた。うん、クールだ。とにかく、これはなんとかしようとする価値はあるように思えた。最悪、黒木に頼めばなんとかなるだろう。
 僕は久々にわくわくするようなアイディアを思いついたことに満足し、ついでに数々の憂鬱なできごとを頭から払拭することにも成功し、疲れもあって深い眠りに落ちた。

 翌朝、ちょうど朝食を食べ終わるころに、母が目を擦りながら降りてきた。母はおはよう、と僕に声をかけると、自分で茶碗にご飯をよそい始めた。僕は昨日の黒木との会話を思い出し、朝から少々憂鬱な話になるのもどうかと思いながらも、早目に話しておいた方がいいと考え、思いきって話を切り出した。
「あのさ、母さん」
「ん、なに?」母はもぐもぐとご飯を噛みながら顔を上げた。
「オレ、高校行ってもいいかな?」
 母は一瞬、きょとんとした。
「あんた、なに言ってるの?」
「昨日先生に訊かれたんだ、進路どうするかって。だから母さんと相談しなきゃって……」
「あんた、なに言ってるの」母は箸を置くと、今度こそ呆れた声を出した。「わたしがなんのために仕事してると思ってるのよ。高校行ってもらわなきゃ困るからね、いまどき。だいたい、あんたが大学行くまでは仕事続けるつもりだからね、これでも」
 横で聞いていた祖母も横槍を入れた。
「まったくなに言ってるのかねえ、ミツオちゃんも。真由が」そう言って母を横目で見た。「仕事なんかしなくても、おじいちゃんがちゃんと行かせてくれるよ」
 母は祖母に向かって口を尖らせてから、また僕の方を向いて言った。
「あんたは勉強してればいいのよ、とにかく」
 それから母はまた黙々と朝飯に取りかかった。
 やれやれ。どうやら僕は取り越し苦労をしていたようだ。僕はとにもかくにもほっとすると、鞄を手にして、行ってきます、と言って玄関に向かった。
 母は、いってらっしゃい、と言ってから、ドアを開ける僕の背中に向かって声を張り上げた。
「私立はダメよ、公立にしてよ。しっかり勉強してよ」

 引っ掛かっていたものがひとつ解決して、学校に向かう僕の足取りも少し軽くなった。今日も爽やかな天気だ。口笛でも吹きたい気分だった。これで安心してバンドのことを考えられる。僕は頭の中でアレンジしたショウジの曲を鳴らしながら、リズムのバリエーションや間奏のアイディアを練った。
 僕の軽快な足取りも、グラウンドの角まで辿り着くと途端に重くなった。そういえばここに昨日はベンツが停まっていたんだった。思い出すと不快さがこみ上げてきた。くそっ、と僕は足元の歩道を踏みしめながら毒づいた。それからショウジのことを考えた。あれからショウジはあいつらのことを父親に話したのだろうか? 自分の父親と向かい合うときの、憎悪に満ちたショウジの目を思い出した。たぶん、話していないだろう。恐らく、ショウジにとって父親と関わること自体が不快なのだ。僕は突然土下座したショウジの父親を思い出した。どうしてショウジがそれほどまでに父親を憎むのかよくわからなかった。彼の父親は確かに怖い人間だ。しかし、僕にはそれと同時に、人一倍息子を思う父親のようにも見えた。それは親バカと言ってもいいほどの。もしかしたらショウジにとってはそれが鬱陶しいのかもしれなかった。僕は昇降口で内履きに履き替えながら、自分が同じ立場だったらやっぱりそう思うのだろうか、と考えた。よくわからなかった。僕の父は、あんな風に直接的になにかを表現するような人間ではなかった。あれほどひとを圧するほどの気を発してもいなかった。僕の父はシャイな人間だった。僕はどれほど父と言葉を交わしたのだろう? 廊下を教室に向かいながらぼんやり考えた。それは意外なほど少ないような気がした。やがて教室に辿り着くと、僕を不意に捉えかけていた追想も、朝の喧騒にその姿を曖昧模糊としたものと変え、徐々に頭の中から掻き消されていった。

 一時間目は国語の授業だった。国語を受け持っているのは、棚田という風采の上がらない、度の強い眼鏡をかけた中年の小男で、さしたる感情の起伏がないような単調なイントネーションでとつとつと話すので、この時間はいつも僕の眠気を誘った。それでなくても国語の時間というのは僕にとって退屈な時間だった。別に国語が嫌いでも、不得意というわけでもない。ただ、僕が思うには、国語なんてものはひたすら本を読めば済むことであり、読みたくもない文章を、ここはこう解釈すべきだ、などと講釈されるのが僕には苦痛だった。これだったらむしろ、毎回自習にして各自好きな本を読んでいい、という授業でもいいのに、などと勝手なことを思った。似たようなことを考えている者が多いのか、それともただ朝の一時間目というだけなのか、こっくりと頭を揺らしてしまう者がいつも二三人はいて、それでも棚田は我関せず、といった具合に相変わらず秘書が書いた原稿を読む政治家のように教科書の一節を読み上げていた。
 僕はときおり窓の外をぼんやりと眺めたりしながら、バンドに関する作戦を練った。順番としては、まずは肝心のショウジをその気にさせることが絶対条件だが、これはまあ、なんとかなるだろう。ユリはまず誘えば面白がるに違いないし、僕とユリが一緒ならショウジも抗い切れないだろう。
 問題は山岸だった。山岸という人間をいまだに僕自身がいまひとつ掴みきれていないということも大きかった。山岸という人間は、一見クラスの中で一番わかりやすい人間のようでいて、その実、かえって本当のところはどうなのか、なかなか見えてこなかった。言わば八方美人と言ってもいいぐらいの山岸の周りに接する態度は、あまりにも出来過ぎていてむしろ演技なのではないかと思えるくらいだった。つまり、典型的な優等生であり、かつ典型的なクラスの人気者であるという彼のキャラクターは、典型的であるが故にむしろ平凡なキャラクターであるとも言える。それはまるで意識的に作られた個性のようにも見えるのだった。まあ、それが僕のうがち過ぎだとしても、そんなキャラクターである彼が、ショウジに対してだけあからさまに敬遠、もしくは牽制する言動をとるというのは解せなかった。もしも彼が演技をし、個性を作り上げているのだとしたら、それはクラスに対する一種のパフォーマンスと言っていいが、ショウジに対してだけはそのパフォーマンスを忘れてしまうということであり、いったいなにが彼をそうさせているのか、その原因がわからなかった。結局それは山岸本人に訊くか、ショウジに訊くかしかないのだ。いつぞやアルバトロスで山岸の名がショウジの口から漏れたときも、山岸に対して辟易しているような印象を受けた。やはり、こういった確執というのは、一方から聞いただけでは解決へと繋がらない気がした。双方でまったく違う見方をしている可能性があり、お互いに決して交わらない一方通行の意識が働いている可能性もある。とにかく、両方に訊いてみるしかない。そこからなにか解決の糸口を見つけるしかない。いつから、どういう原因でそうなったのかわからないが、果たして僕にそれを解決する力があるのだろうか? なるようになれ、と僕は思い、グラウンドの向こうに立ち並ぶけやき欅のあいだから雀が群れをなして飛び立つのを眺めた。とにかくやってみるしかあるまい。ダメだったらそのときはまた違う解決法を見出すしかない。僕は棚田の退屈な声をうつろに聞きながら、溜息をひとつついた。


20


 どちらに先に訊いてみるべきか。
 僕は散々頭を悩ませた。むろん、ショウジの方が話しやすいが、自分にとってもあまり馴染みがない山岸を先に理解することがより重要なようにも思えた。しかし、なんと切り出したものかわからず、僕は休み時間に頬杖をついて思案にふけっていた。
「なに難しい顔してんの?」
 気がつくとユリがこちらを振り向いていた。僕は知らぬ間に眉間に皺を寄せていたらしい。僕が答える前にショウジが僕に声をかけた。
「もしかして昨日のあれ、気にしてんの?」
 ショウジの言う「あれ」がベンツの件を言っているのだということはわかった。
「なになに、あれって?」
 ユリが身を乗り出して目を輝かせた。
「なんでもない」
 僕らは同時に答えた。ユリは頬を膨らませて僕らを睨みつけると、ケチ、と言って前を向いた。
「ショウジさ、ちょっといい?」
「なに?」
 僕は椅子を引いて教室の隅にショウジを呼び寄せた。
「あのさ、山岸ってどうしてショウジのこと目の敵にしてんの?」
 僕が声を潜めて訊くと、ショウジは小首を傾げて五秒ほど考えると、答えた。
「それがよくわかんないんだ、オレにも」それからふと思いついたように逆に僕に尋ねた。「なんで?」
 僕は山岸を交えたバンドの計画を打ち明けるにはまだ早いかな、と思い、言葉を濁した。
「いや、なんとなくさ」
「んー」ショウジは少し上目使いでなにかを思い出すような素振りをすると言った。「昔は違ったんだ」
「え?」
「いやさ、小学校のときはともだちだったんだ、実は」
「へえ……」僕は心底感心した声を出した。
「五年から同じクラスだったんだけどさ、六年のとき辺りから急にいまみたいな感じになって。うちのオヤジのこととか吹聴するようになって」ショウジはズボンの膝の辺りをいじりながら少しずつ記憶を引っ張り出しているようだった。「あれは……そうだな、一度遊びに来たんだ、うちに、あいつ」
「へえ」
 またも僕は感嘆の声を洩らした。ショウジの父親の言葉をなんとなく思い出した。
「そういえばそれからだな……」ショウジは窓の外に目をやりながら言った。
「なるほど」
 僕はただ感心するばかりだったが、なにがわかったというわけではなかった。ただ案外根が深そうだ、と思っただけである。
「なんで?」ショウジはまた訊いた。
「いや、そうだな、あとで話すよ」僕はまた言葉を濁すと、話題を変えた。「それよりさ、昨日の曲、なんていうんだ?」
「ああ、あれ」ショウジは照れ臭そうに頭を掻いた。「『夜のうた』っていうんだ」
「あれいいよ。クールだ。マジで」僕は真顔で言った。
 へへ、とショウジは下を向いて照れ臭そうに笑った。始業のベルが鳴ったので、僕らは机に戻った。ユリがまたいつのまにかこちらを向いていて、なによ、こそこそと、感じわるー、と言った。僕は、へへ、と笑ってごまかした。ユリはまた膨れっ面をすると向こうを向いた。数学の教科書を取り出しながら、やっぱり山岸に直接訊いてみるしかなさそうだな、と僕は思った。

 その機会は意外にあっさりと向こうからやってきた。
 三時間目の美術の授業は、学校の敷地内での写生だった。三々五々、皆が適当に散らばっていく。オレはあっちで書くよ、と言ってショウジは校舎の裏手の方に行った。僕は校庭でも書こうと思った。芝生に腰を下ろして書く場所を決めると、スケッチブックを広げて鉛筆を走らせた。
「や」
 声がしたので顔を上げると、山岸がスケッチブックを持って例の爽やかな笑みを浮かべていた。彼は僕の隣に腰を下ろすと、スケッチブックを広げた。僕も、や、と声をかけながら、どうやら山岸は僕に対してはそれほど警戒心や敵愾心のようなものは抱いていないようだ、と思った。たぶん僕と同じように、山岸は山岸で、まだ僕のことを掴みかねているのだろう。いずれにしろ、山岸が特に意識しているのはショウジだけのようだった。
「山岸、合唱部だっけ?」
 僕はさりげなく訊いた。
「うん」山岸は顔を上げて微笑んだ。
「あのさ、ベースやってんだよね? 誰が好きなの?」
 僕が訊くと、山岸は途端に目を輝かせた。
「ジャコ・パストリアスとスティングとジョン・ポール・ジョーンズ」
「なんか傾向バラバラだな」
「節操ないからね、僕」
 そう言って山岸は笑った。
「いつもなに聴いてるの?」僕は訊いた。
「なんでも聴くよ。大体ロックだけど、ジャズもたまに聴くし、日本人だったらチャラとかスガシカオとか……」
 今度は僕が目を輝かせる番だった。リンクするものがあるではないか。もしかしたら、と思ってさらに訊いてみた。
「レニー・クラヴィッツは?」
「サイコー」山岸は親指を一本立ててみせた。
 おお、なんてこった、こんなにうまくことが運ぶとは、と一瞬思って僕は知らぬ間に笑みが浮かんだが、考えてみれば肝心なことには一切まだ到達していないことに気づいた。だが、傾向としては悪くないぞ、と僕は思った。ここは思いきって正攻法で行った方がいいかもしれない、と思った。しかし慌ててはいけない。順番が肝心だ。
「ねえ、やっぱりバンドやろうかなと思って」
「ホント? ピアノやめたんじゃなかったの?」
 山岸はまた目を輝かせた。僕らはとうに写生はそっちのけになっていた。
「気が変わったんだ」
「やろうよ、やろうよ」
 山岸は無邪気に笑みを浮かべて言った。こいつはそんなに悪い奴じゃないな、と僕は思った。音楽をやる奴に悪い奴はいない。ような気もする。基本的には。とにかく、見込みがないわけじゃなさそうだ、と僕は思った。ここからが肝心だ。
「それでさ、メンバーなんだけど」
 僕がそう言いかけると、山岸はなにか勘違いしたのか、勢い込んで言った。
「なんなら僕が見つけてくるよ。駅前の楽器屋でメンバー募集してもいいし。合唱部にさ、ひとりドラムやりたいって奴がいるんだけど、やっぱり初心者じゃね」
 山岸が早口で一気に言うのを聞きながら、僕はタイミングを見て切り出した。
「あのさ、粗方決めてあるんだ」
「え?」山岸は勢いを遮られて一瞬きょとんとし、それから眼鏡を指でちょっと持ち上げると言った。「それってまさか」
「ユリ」僕が言うと、束の間不安がよぎった山岸の顔に安堵の色が浮かんだ。しかしそれも、僕の次の言葉であっという間に掻き消えた。「それとショウジだ」
 山岸の顔が失望でみるみる曇り、足元の芝生に目を落とすと小さく舌打ちして、やっぱり、と口の中で言うと、芝をひとつかみむしって放り投げた。それから溜息をひとつ洩らすと言った。
「ごめん、僕は降りるよ」
 僕はある程度予想していた答えとはいえ、失望と戸惑いを覚えた。もしかしたら山岸がすんなりやると言うかもしれないという、いささか都合のいい一縷の望みを頭のどこかで抱いていた。もうあとはストレートで攻めるしかない。いつのまにか山岸と同じように足元の芝を見つめてむしりながら、僕は言った。
「なんかあったの、ショウジと?」
「そういうわけじゃないけど……」
 山岸らしからぬ歯切れの悪さだった。僕らはふたりで足元の芝を意味もなくちょっとずつむしっていた。
「あいつ、そんな悪い奴じゃないよ。怖くなんかないよ、全然」僕は足元を見ながら言った。
「知ってる」
 山岸がぽつりと言った言葉に僕は不意を突かれた思いで彼を見上げた。
「じゃあなんで? ともだちだったんだろ。ショウジに聞いたよ」
 山岸はそれには答えず、頑なな顔でひたすら芝をいじるだけだった。そんな山岸を見るのは初めてだった。いつもは自信満々でやけに大人びて見える山岸が、そのときばかりはまるで駄々を捏ねる子供のように見えた。
 どのくらいのあいだだろう、僕らは写生することなどすっかり忘れ、黙って足元に広がる芝生や、校庭に立つ大きな欅の木を見つめていた。静かだった。大木の枝の中に潜む無数とも思える雀の声と、グラウンドの方からサッカーのボールを蹴る音や、パス、パス、という声が聞こえてくる。
「わかった」先に沈黙を破ったのは僕の方だった。山岸が驚いたように顔を上げて怪訝な顔で僕を見た。「じゃあ、こうしよう。とにかく、一度オレのピアノ聴いてよ。バンドのことはともかく。それでどう?」
「うん」
 そう答える山岸の目にようやく弱々しい光が差したようにも見えた。彼は彼なりに僕という人間に興味を抱いているようだった。それだけが僕の頼りだった。僕は自分のピアノでなにがどうできるという確信があるわけでもなんでもなかったが、それ以外のアイディアはなにも思いつかなかった。孤立することに慣れきっていたショウジが、僕に声をかけるきっかけになったのは、たまたま僕のピアノを聴いたからだ。僕はそれに賭けてみるしかなかった。音楽の持つマジックみたいなものに。
「今日はどう? あ、部活があるか」僕は訊いた。
「いいよ、一日ぐらい休んでもどうってことない」
 山岸は微笑んだ。いつのまにか、普段の山岸に戻りつつあった。
「じゃあ、一緒に帰ろう」
「うん」
 それから僕らは残り少なくなった時間で慌てて乱暴なデッサンをした。僕はいつのまにか自分の中にあった山岸に対する先入観のようなものが少し薄れて、とにかく話せてよかったと思った。結局写生はロクにできはしなかったが、どうせ皆同じようなものだろう。
 美術の時間なんて大概はそんなものなのだ。







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