ナイトソングス (5)
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21
「今日さ、あそこ借りていい?」
僕は昼休みにショウジに訊いた。
「あそこって?」
「アルバトロス」
「別にオレの持ち物じゃないからいいけど、なんで?」
「いや、ピアノ弾こうかと思って」僕は少々歯切れの悪い口調で答えた。
「あ、じゃオレも行くよ」
ショウジは目を輝かせた。
「わたしも行こ」
いつのまにか聞き耳を立てていたらしいユリが振り向いていた。僕は困り果てた。いきなり一同に介しても、そうすんなりとうまく行くかどうか。
「あの、それがさ」
僕がもごもごと口篭もると、なによ、とユリが不満げに口を尖らせた。
「山岸を連れて行こうと思うんだ」
今度はショウジが憮然とした表情を浮かべる番だった。
「やっぱ、まずい?」
僕はショウジの顔色をうかがうようにして言った。ショウジは眉を八の字にして困り果てた顔をすると、歯切れの悪い口調で言った。
「いや、別にそんなことはないけど……またあることないこと言われるんじゃないか?」
「ひとまず、山岸と二人だけで行ってみようかと思うんだ。さっきさ、美術の時間に話してみたんだけど、あいつもそんな悪い奴じゃないような気がするんだけど」
「そりゃそうかもしれないけど……」ショウジは明らかに戸惑っていた。「なんで急にあいつにこだわってるの?」
ユリは興味津々と言った顔で僕の机に頬杖をついている。僕はそろそろ計画を打ち明ける頃合だと思った。
「実はさ」僕が前屈みになって、少し声を潜めると、ユリとショウジも顔を寄せた。「計画があるんだ」
「計画う?」ふたりはほぼ同時に、いかにも胡散臭いといった顔をした。
「うん」僕はいったん腹を決めると、熱を込めて言った。「バンドをやる計画だ」
「バンドお?」今度はユリだけだった。
「そう」僕は意味ありげに二人を交互に見やると言った。「文化祭でバンドをやるんだ」
「文化祭い?」今度はショウジがなに言ってんだ、という顔をした。
「いいか、メンバーはオレがキーボード、ショウジがボーカルとギター、ユリもボーカル、そしてベースが山岸だ」
ふたりはしばらく唖然として声を失っていたが、ユリがぽつりと言った。
「そんなこといつ考えついたの?」
「昨夜だ」
「で、なにやるの、曲は?」ユリが訊いた。
「こいつが」僕はショウジを指差した。「とんでもない名曲を作ってる」
「へえ」ユリはぽかんと口を開けた。
「もしかしたら天才かもしれない」僕が大真面目に言うと、ショウジはちょっと赤面した。「ま、秀才ぐらいかもしれないけど」
ショウジは照れ臭そうに首の辺りを掻いた。それからようやく思い出したように言った。
「それで、なんで山岸なんだ?」
僕はすっかりボルテージを上げて説明した。
「まず第一に、生のベースが必要だ。山岸はベースをやってる。第二に、文化祭に出るのに都合がいい。あいつは合唱部で黒木とのパイプもある。第三に」そこで僕はショウジの目を見て言った。「いまのショウジと山岸の関係を修復するためだ」
「なんか話だけ聞いてると壮大な計画みたいな気もするわね」ユリが半分感心したように言った。
「なんで文化祭なんだ?」ショウジが訊いた。
「つまり」僕はいまやすっかり昨夜の熱気に捕らわれていた。「反体制的行動だ。これはロックでもあり、ジャズでもある。考えてもみろ、いまのショウジはなんて言うか、一種のガイジンみたいなものだ。去年、鹿島アントラーズにいたベベットみたいなものだ」
随分な言い方だな、とショウジがぼそりと言い、なんか例えがわかりにくいわね、とユリがぶつぶつ言った。僕は構わず熱弁を振るった。
「これは一種の差別だ。だからこれは差別の撤廃を目指すことでもある」
そこまで行くと誇大妄想入ってない? とユリが言った。
「まあ、多少大袈裟ではあるかもしれないけど」僕は少々トーンダウンしながらも、多少ね、と苦笑するショウジの発言にもめげす、先を続けた。「とにかく、体制を象徴する、制服の連中をノリノリにするんだ」
よくわかんないけど面白そうね、とユリが言った。だろ、と僕はふたたび勢いを取り戻し、これはアンチヒーローをヒーローに変える闘いなんだ、と余計なことを言った。それってオレのことか? とショウジが憮然として言った。
「とにかく、そういうことだ」
僕の演説は終わった。ふーん、と二人は感心したような、呆れたような声を出した。
「あの」
突然蚊の鳴くような声が聞こえて、僕ら三人は一斉に声のした方を振り向いた。見ると、顔を真っ赤にした浜崎がこちらを向いていた。
「なんて言うんですか?」
「え?」僕は質問の意味がよくわからなかった。
「バンドの名前」
「ああ」どうやら聞き耳を立てていたらしい浜崎に戸惑いながら、僕は名前なんてちっとも考えていなかったことに気づいた。ユリとショウジはこちらを向き直り、僕の口からバンド名が出るのを固唾を飲んで見ている。僕は頭をフル回転させたが、なにも思い浮かばなかった。ようやく浮かんだのは、さきほどショウジが口にした曲名だけだった。
「ナイトソングス」
口から出まかせという奴だった。
結局、始業のベルが鳴ってしまったため、二人がどこまで僕の話を納得したのかはわからなかった。それに、僕もつい興奮していつになく雄弁になってしまったような気がした。どうも昨日以来、僕はちょっとした興奮状態にあるようだ。思い返してみて照れ臭くなったが、いまさらどうにもならない。もう計画は始動してしまったのだ。まだイントロの前の、カウントを叩いている状態だろうけど。
六時間目の終業のベルが鳴り、僕は一応ショウジにもう一度確認の意味で、いいよね、さっきの話? と訊いたが、ショウジは無言で肩をちょっとすくめて見せただけだった。
すすきのの駅で降り、先に繁華街の中をずんずんと歩く僕に、山岸は少々不安げに眼鏡を直しながら、ねえ、どこまで行くの、と声をかけた。僕は、ピアノを思いきり弾けるところがあるんだよ、とだけ答えた。
例のすえた匂いのする薄汚れたエレベーターに乗り込むと、山岸は神経質そうにきょろきょろと狭い室内に目を泳がせた。チンと音がしてエレベーターが開き、薄暗い廊下に出ると、随分久しぶりに来たような気がした。考えてみれば先週の週末にも来たのでそれほどあいだは開いていないのだが、ここはいつ来ても別世界という雰囲気なので、毎回久しぶりに来た感覚がする。
重い木のドアを開けると、例によって、ぎい、と鳴った。薄暗い店内には、ハービー・ハンコックが控え目な音量で流れていた。こんにちは、とカウンターの中のコウさんに声をかけると、おう、来たね、と例の顔中が皺だらけになる笑顔を浮かべた。僕はさっさとカウンターのスツールに座ると、山岸が入り口のところに顔をこわばらせて突っ立ったままなのに気づいた。僕が笑みを浮かべて、こっち来て座って、と声をかけると、山岸はぎこちなくうなずいてカウンターに向かって歩いてきたが、その様子は明らかにコウさんを見て怯んでいた。僕はその様子を見て、案外小心者なんだな、と思ったが、まあ初めてだから無理もないか、とも思った。僕も最初はこんなものだったのかもしれない。
コウさんは、あれ、今日は珍しい組み合わせだね、と言ってコーラをグラスに注ぎ、はい、と僕の前のカウンターに置くと、そちらは初めてだよね、と山岸の方を見て言った。山岸はいまだに顔をこわばらせながら、はい、と歯切れの悪い声で答えた。いつもの、世渡りを心得ているような山岸の面影はなかった。素の自分を垣間見せた山岸はやっぱりまだ中学生だった。僕はコウさんを、元やくざのコウさん、と言って紹介し、コウさんは、こら、余計なこと言うんじゃないよ、と言いながら、あはは、と笑った。コウさんは山岸の前にコーラを置きながら、ボクも坊ちゃんのともだちかい? と訊いた。山岸は眼鏡の奥で僕の方をちらりと横目で見ながら、はい、と力なく答えた。たぶん山岸にはコウさんの言う「坊ちゃん」がショウジのことを意味することぐらいはわかるはずだった。僕はコウさんに山岸を紹介した。コウさんは煙草をうまそうにふかしながら、そうするとなにかい、ヤマギシくんもミュージックやるのかい? とどちらへともなく訊いた。山岸が、あ、と言ったっきり口篭もってしまったので、僕が代わりに、彼はベーシストなんです、と答えた。すると、コウさんは、へえ、と感心したように唸り、それから指の欠けた手のひらを見せて、おじさんもこんなになってなかったらベースやりたかったんだよな、と言って、また顔をくしゃくしゃにして笑った。山岸はそれに対して笑顔をつくったつもりだったのだろうが、単に口元がひきつったように見えるだけだった。僕はコウさんが、山岸がビビっているのをわかってからかっているのだと気づき、くすくすと笑った。山岸は恐怖かなにかを飲み込むように、グラスのコーラをひと口飲んだ。ま、ゆっくりしてってよ、と言いながらカウンターの隅にぴょこぴょこと跳ねるようにして戻るコウさんに、今日もピアノ弾いていいですか、と僕は訊いた。コウさんは、おう、いくらでも弾いてってくれよ、と嬉しそうに言って、ハンコックのCDを止めてくれた。
店は静寂に包まれた。料理を煮込む、ことことという鍋の音だけが微かに聞こえた。さてと、と僕は口にしながらスツールを降り、じゃ、なんか弾くね、と山岸に言った。山岸は、うん、と小さく微笑むと、またコーラをひと口飲んだ。
僕はピアノの前に座ると、なにを弾こうか考えた。目的が目的だけに、どうも邪念が入りそうだった。とにかく無心になることだ、と僕は考えた。蓋を開けて白鍵と黒鍵が交互に並ぶ鍵盤をしばらく見つめた。バンドのことも、ショウジと山岸の確執のことも、とりあえずいまは忘れよう。ただピアノを弾くことだけを考えよう。
ふーっと大きく息をひとつ吐くと、僕は「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」を弾き始めた。
22
僕は熱に浮かされたように長いインプロヴィゼイションを弾いた。無心になろうと思ったのに、何故か父の姿や、中野のマンションや、母の笑顔や、子供のころの思い出が頭に浮かんでは消えて行った。そういったイメージが浮かぶたびに、僕は胸が詰まるような思いがして、闇雲に激しいパッセージを叩きつけたり、かと思うと次の瞬間にはそれを鎮めようと静謐を表現しようとしたりした。額にはうっすらと汗が浮かび、ときおり僕の口からはフレーズに合わせて知らず知らず声が漏れた。イメージは次から次へと現れては消え、僕はいつ果てるともしれない長い演奏をした。既に曲は原形を留めないほどに崩れ去り、ときにはワンコードでブルーノートを多用したフレーズを執拗に繰り返した。とうに自分がなんのために弾いているのかは忘れていた。そのうち次第にうっすらと僕の元に現実がよみがえり、自分が中野ではなく札幌の空気を鳴らしているのだと気づき、それとともに僕はテーマへと戻り、静かにエンディングをリフレインしてようやく僕の長い演奏は終わりを告げた。
僕は鍵盤を見つめてしばらく荒い息を吐いた。イエーイ、といういつものコウさんの声と拍手で、やっと我に返った。顔を上げてカウンターの方を見ると、山岸が紅潮した顔でこちらを見ながら拍手をしていた。
僕は椅子を立つと、いつもここで弾いたあとに覚えるように、急に照れ臭くなって頭を掻きながらカウンターに戻った。喉がすっかり乾いていたので、グラスのコーラをぐいと呷ると、ふうと息をついてから、山岸に向かって、どうだった? と尋ねた。山岸は、まだ紅潮した顔で、どうもなにも、と言いかけてそこで思い出したようにコーラを飲み、凄いよ、と言った。ホントに凄いよ、と興奮した口調で繰り返した。
僕はコウさんに、一本もらっていいですか、とことわって煙草を一本もらい、深く吸い込んだ。山岸がそれをどう思うだろうか、なんてことは頭になかった。煙を吐き出しながら、もしかしたら生まれて初めて、煙草をうまいと思った。それから、なんのためにピアノを弾いたんだっけ、と考えた。ああ、そうか、山岸を説得するんだったっけ? それともなにか訊こうと思ったんだっけ? どちらでもいいような気がした。
コウさんが気を利かせてくれたのか、パット・メセニーが控え目な音量で流れ始め、僕の演奏のあとで張り詰めていた店内の空気が緩やかに循環を始めたような気がして、それとともにようやく僕の意識も束の間の幻想の数々からようやく解き放たれた。山岸も僕も、興奮した状態から次第にリラックスし始めた。そのころはまだ知らなかったが、このある種の熱狂から鎮静へと至る過程というのは、いま考えるとセックスの流れにも似ているような気もする。違いがあるとすれば、男のように急激なカーブを描いて冷めるのではなく、女のように緩やかなカーブを描くということか。
僕は煙草をゆっくりと吸いながら、ようやく本来の目的を思い出したが、いったいどうすればいいのか皆目見当がつかなかった。僕は隣の山岸をちらりと見た。山岸は興奮を鎮めるようにちびちびとコーラを啜っていた。もうやることはやった。あとは彼が話してくれるのを待つだけだ。僕らのあいだにしばらく沈黙が訪れ、カウンターの上を、まるでトランペットのように聞こえるパット・メセニーのギターが踊っていた。
「オレさ」
僕がカウンターの上の灰皿に煙草を押し付けて消していると、山岸がぽつりと言った。僕はちょっとした違和感を覚えて山岸の方を見た。山岸は「オレ」と言った。「僕」ではなく。山岸はカウンターの奥に立ち並ぶ色とりどりのボトルにぼんやりと目を泳がせながら話し始めた。
「実はつまんない人間なんだよね。自分でもわかってるんだ。酒井みたいに特別じゃないんだ」
僕は思わず、オレだって特別なんかじゃない、と口を挟もうとしたが、黙って山岸の好きなように喋らせようと思った。
「オレも特別になりたいと思って、そう努力した。けど、そう思えば思うほど、自分が嫌になるほど平凡な人間だってわかってくるんだ。オレはみんなから尊敬されるような人間になってやろうと思った。勉強も必死でやった。みんなに好かれるように振舞った。でもさ、気がつくとホントに平凡な田舎の優等生みたいになってた。たかだか四十人足らずのクラスで人気者になれたからって、それがどうだって言うんだ? まったくお笑い種だよ。それどころか、ますます自分が嫌な奴になっていくような気がした。オレは、ショウジがクラスから浮くように噂を流した」そこで山岸はコーラのグラスを傾けた。コーラはもうほとんどなくなりかけていて、氷がころんと転がる音がした。「オレさ、ショウジにどこか嫉妬してたんだよね。彼は特別な人間だから。ショウジんちに行ったことある?」
山岸が僕の方を向いたので、僕は黙ってうなずいた。
「オレさ、初めてショウジんちに遊びに行って、ホントに驚いた。世の中にはこんな奴もいるんだなって。うちはさ、母子家庭でさ、それでいじめられるのが怖くてさ、とにかくいじめられないようにしようと思って、勉強ができて人気者になって、クラスで特別な存在になってやろう、と思ったんだ。リーダーになってやろうと。あ、オレなに言ってんだろう?」
山岸はようやく我に返ったように口元に苦笑を浮かべた。それは困惑と自嘲の入り混じった、複雑な表情だった。僕はそこでようやく口を挟んだ。
「わかるよ。オレもそうだったから。うちは貧乏でさ、それでいじめられるんじゃないかと思っていつもびくびくしてた」
僕がそう言うと、山岸は少しほっとしたような顔を浮かべ、それから手に持ったグラスに視線を落とすと、グラスを意味もなく揺さぶりながら言った。
「ねえ、酒井って口固いよね?」
僕は山岸が少々本音を喋り過ぎて後悔しているのだと思った。僕は黙ってうなずいた。
「ホントはさ、それだけじゃないんだ。ショウジのこと。これは誰にも話したことがないんだ。話せるような奴がいなかった。結局、オレにはともだちが一杯いるけど、ホントの親友なんていなかったんだ。昔のショウジがそうだったんだけど、オレはそのショウジを自分から追い払っちゃった。でもさ、それには理由があるんだ」
そこで山岸はなにかを決心するように間を置いた。僕はコーラとともに緊張を飲み下した。パット・メセニーが、落ち着けと言わんばかりに、プリミティヴでノスタルジックなメロディーをライル・メイズとともに流麗に奏でていた。
「うちは母子家庭って言っただろ? でもさ、小学校の三年ぐらいまでは、月に一度は、うちに母さんが言う、お父さんってひとが来てたんだ。いつも運転手つきのでっかい車で来て、おみやげを持ってきてくれるので、オレはそれを楽しみにしてた。見た目はちょっと怖いんだけどね、うちに来るといつもにこにこして、オレはおじさんって呼んでなついてた。ああ、またおじさんがおみやげ買ってきてくれたってね。そのおじさんはオレが四年生になるころにはぱったりとうちに来なくなった。オレはよく母さんに訊いたよ、ねえ、おじさんはって。母さんはそのたびに困った顔をして寂しそうに笑って、もう来れなくなっちゃったのよ、って言った。それで五年生になってショウジと同じクラスになって、六年のときにあいつんちに遊びに行ったんだ、さっき言ったみたいに」
そこで山岸は一息つくと、オレも煙草が吸いたくなった、と言った。僕はカウンターの隅で黙々と料理していたコウさんに声をかけて、煙草を二本もらうと、山岸に一本渡して、自分がくわえた煙草にカウンターの上に置いてあるマッチで火を点けた。山岸は僕からマッチを受け取ると、火を点けて煙を吸いこんだが、その途端にげほげほとむせた。それでも煙に目をしばたたかせながら、また話を続けた。
「そりゃあびっくりすることは、びっくりしたよ。あんなにデカいうちは見たことないし、あんなに贅沢な部屋も見たことないから。でもさ、こんな奴もいるんだな、と思ったけど、それはどってことなかったんだ。羨ましいと思ったのは確かだけど。それで、帰りに玄関を出ると、目の前に停まっていたでっかい車から、その、『おじさん』が降りて来たんだ。びっくりしたよ。久しぶりに見るけど、間違いなくあの、『おじさん』だった。オレはなんか見てはいけないものを見てしまった気がして、逃げるように門を出た。向こうもまさかオレが来ているとは思ってもみなかっただろうし、オレも随分背が伸びてたし、なにか凄い剣幕で助手席かなんかのひとを怒鳴りつけていたからこっちには気がつかなかったみたいだ。外に出てから恐る恐るショウジに訊いたよ、いまのは、って。すると、ショウジが言うんだ。オヤジだって。笑っちゃうだろ?」そこでまた山岸は煙草を吸い込むと、さっきと同じようにげほげほと咳き込んで、やっぱりまずいな、と言って灰皿で揉み消した。「ショックだったよ。子供だったけど、なんとなくどういうことかはわかった。なんか自分が酷く惨めな気がした。もしかしたらオレとショウジは兄弟かもしれないってそのときは本気で思った。もうどうしていいかわからなかった。ショウジとはそれまでみたいに接することなんてできなかった。なんだか知らないけど、ふつふつと怒りが湧いてきて、それをどこにぶつけたらいいかわからないんだ。ショウジが憎くてたまらなくなった。なんであいつだけあんな生活をしてるんだって。同じ親かもしれないのに。それからショウジとは口を利かなくなった。母さんを見る目も変わった。母さんのことをとても惨めな人間だと思った。家では母さんのことを無視するようになったし、たまに口を開けば馬鹿野郎って怒鳴ったり。中学に入って、ショウジがまた同じ学校だと思ってうんざりした。オレは学校ではいい子を演じ、家では母さんのことを馬鹿にしていた。一度問い詰めたことがあるんだ。母さんの胸倉を掴んで、オレはあいつの子なのか、って。オレはやくざの子なのかって。オレに蹴られて、母さんは泣きながら答えた。あのひとは世話になってただけよ、あんたの本当のお父さんはもう死んじゃったのよ、って。たぶん、それは本当なんだと思う。オレとショウジって、全然似てないだろ? 正直言ってちょっとほっとした。でもオレの怒りは収まらなかった。とにかく惨めだった。オレと母さんをこんなにしたのはショウジのせいだと思った。いま考えてみると無茶苦茶な理屈だけど。もう引っ込みがつかなかった。誰かのせいにしないといても立ってもいられなかった。とにかくショウジにオレと同じ惨めな思いを味わわせようと思った。一度、隣のクラスの佐伯って馬鹿をけしかけたんだけど、ショウジがあんなに強いとは思わなかったよ。結局、オレにできたのはせいぜいショウジを孤立させることぐらいだった。なあ、オレって嫌な奴だろ?」
そこまで一気に話すと、山岸は深い溜息をついた。カウンターの上に両手を握り合わせてぎゅっと力を込め、なにかに耐えているようだった。それからふと思いついたように、オレ、なんで酒井にこんなこと話してんだろ? とぽつりと言った。僕は気がつくとフィルターまで燃えていた煙草を灰皿に押し付けた。カウンターのもう一方の隅では、コウさんがことこと言う鍋の前で、腕を組んでこっくりと居眠りをしていた。それはもしかしたら狸寝入りなのかもしれなかった。ふと横を見ると、山岸が背を丸めて、肩を震わせていた。山岸は声を殺して泣いていた。眼鏡の奥から大粒の涙が溢れ、端正な頬を伝って顎の先からぽとりと落ちた。僕はしばらく声をかけるのをためらった。なんて声をかけていいものかわからなかった。なんだか僕も胸が一杯になってつられて涙が滲みそうになり、それをごまかすためにスツールから立ち上がると、カウンターの端に置いてあったティッシュを二枚引き出し、黙って山岸に手渡した。山岸は眼鏡を持ち上げて片手で乱暴に目を拭うと、ティッシュで洟をかんだ。僕は、なんか言わなきゃ、と思った。
「なんて言ったらいいかわからないけど」スツールに腰を戻しながら言った。「もう許してあげたら」
僕がそう言うと、山岸は顔を上げて、え? と消え入るような声で言った。僕は左手でカウンターに頬杖をつくと、言葉を繋いだ。
「もう許してあげたら? ショウジも、お母さんも、自分も。もううんざりだろ? 山岸も」
僕はなんとか笑顔をつくった。山岸は一瞬、虚を突かれたような顔をしてから、はにかんだような笑みを弱々しく浮かべると、ああ、そうだな、と呟いた。僕は小さく溜息をつくと、オレなんかが偉そうなこと言えないけどさ、と苦笑した。でもさ、と僕は言った。
「もうそろそろいいんじゃないかな。結局、誰のせいでもないんだし、なにがどうなるってわけでもないし、切りがないよ。うちだって父さんが死ぬ前は酷かったし、惨めだったし」僕は話しながら、さきほどピアノを弾きながら浮かんだ中野のマンションの光景が頭を掠めて涙が出そうになったが、どうにかこらえた。「でも、いつまでも惨めだなんて思う必要はないんだ、たぶん。いつかは卒業しなきゃいけないんだ。そうじゃなきゃいつまで経っても惨めなままだ。いつまで経っても大人になれないよ。いつかはオレたちもひとりで生きていかなきゃなんないんだ」
言葉が勝手に僕の口から流れ出ていた。僕の頭の中にもうひとりの自分がいて、そいつが喋っているような気がした。そいつは半分、僕に言い聞かせているようでもあった。
「それに、ショウジだって考えてみれば可哀相な奴だよ。そりゃ、あんな贅沢なところに住んでるけど、ショウジがお父さんのこと物凄く嫌ってるの知ってるだろ?」山岸はこくん、とうなずいた。「あいつはやくざの家に生まれたことが嫌でしょうがないんだ。なんだか知らないけど、自分の父親が憎くてしょうがないんだ。それは辛いと思うよ。よくグレなかったと思うよ。あいつは絶対やくざになんかならないって言ってたけど、そのためにはあの家や、あの親父さんを乗り越えなくちゃいけないんだ。山岸が言ったみたいな意味ではショウジは特別じゃないよ。むしろ、可哀相な奴なんだ」
そこで僕はひと息ついた。もうひとりの僕はどうも饒舌に過ぎるような気がする。僕はちょっと疲れを覚えた。頭上のスピーカーからは、相変わらずパット・メセニーのバンドが軽快でありながら繊細なビートを刻んでいる。僕はしばらく呆けたように宙を見つめてぼうっとしていたが、不意に頭に現実が舞い降りてきて、僕は本来の目的を思い出した。
「あ」
僕が思わず口に出すと、やはり頬杖をついてぼうっとしていた山岸が、ん? と顔を上げた。
「いや、特別って言えば、ショウジは特別かもしれない。違う意味で。あいつはシンガーソングライターとして特別な才能がある」
それから僕は、例によってショウジの曲がいかに素晴らしいかを力説した。いまや山岸は憑き物が落ちたような穏やかな笑みを浮かべて、うんうん、とうなずきながら僕の話を聞いていた。
と、そのとき、ぎいと音が鳴ってドアが開いた。僕らがそちらを振り向くと、入り口にまるで幽霊屋敷にでも入るように恐る恐るユリとショウジが顔を覗かせた。
「あれ、どうしたの?」
僕が声をかけると、先に中に入ったユリが、へへ、と笑って首をすくめた。その後ろでショウジが僕らを見てばつの悪そうな表情を浮かべていた。ユリはカウンターに歩み寄ると、びっくりしている山岸の隣に座り、だって気になるんだもん、と言った。いらっしゃい、とカウンターの中からコウさんの声が聞こえ、ユリは、こんにちはー、と言った。どうやらやっぱり狸寝入りだったらしい。ショウジはまだ入り口のところでぐずぐずしていた。僕はショウジに、おい、なにやってんだ、早く来いよ、仲直りだ、と声をかけ、な、と言って隣の山岸の背中をどんと叩いた。山岸は、いて、と言って背中を擦りながらスツールを降りると、ようやくのろのろとやって来たショウジと向かい合った。山岸はなかなかショウジと視線を合わせられずに下を向いて頭を掻いていたが、意を決したように顔を上げると、きょとんと見つめるショウジに向かって、悪かったな、いろいろ、と言って微笑むと右手を差し出した。ショウジは驚いた顔でその差し出された右手を見ていたが、ようやく口元に笑みを浮かべると右手を出して握手した。なんのことかわかっているのかいないのか、コウさんがイエーイと叫んで拍手した。ユリも一緒になってにこにこと笑いながら拍手していた。僕は、まあ座れよ、と二人に声をかけた。二人は一様に照れ臭そうにしながら僕の両脇に腰を下ろした。コウさんが僕らの前に新たなコーラのグラスを四つ並べた。そして、ほらグラス持って、と僕らに声をかけると、自分もコーラのグラスを掲げて、カンパーイと叫んだ。ユリも一緒になってカンパーイと嬉しそうに叫び、揃いも揃って照れている男三人のグラスに身を乗り出してひとつひとつかちんと合わせた。僕ら野郎ども三人は、へへ、とお互いに照れながらグラスを合わせた。コウさんも一緒になってグラスを合わせると、ところで、なに? と誰にともなく訊いた。
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それから僕はまた忘れかけていた本来の目的を思い出し、またしても別の自分が乗り移って延々と壮大な計画について熱弁を振るった。昼間と同じ話を聞かされているショウジとユリはいささかうんざりした顔をしていたが、僕はお構いなしだった。
一区切りついたところで、隣の山岸に、どうする、バンド? と訊いた。山岸は、うん、やるよ、と言った。僕はほっと胸を撫で下ろし、今日の目的が達成できたような気がしたのだが、そこでようやくまだショウジとユリの了解をちゃんと得ていないことにも気づき、まずユリに、やるよね、と訊くと、ユリはほとんどなにも考えてないノリで、やるやる、と嬉しそうに答えたのでひとまず安堵し、それからショウジにも同じことを訊いた。ショウジはもはや引っ込みのつかない雰囲気に押されたかのように、ああ、と照れながら答え、こうしてようやく僕らのバンド、「ナイトソングス(仮)」は立ち上がったのだった。
そのあと僕らはカラオケで二曲ずつ唄い、腹の底から笑った。途中で入ってきた常連らしきサラリーマンの二人連れは、あれ、今日貸し切り? とコウさんに尋ね、コウさんは慌てて、違います、違います、親戚の子たちで、と言い訳し、なにを思ったかユリが彼らに向かって、いらっしゃいませ、と笑いかけた。
外に出るともう辺りは薄暗くなっていて、ネオンがさんざめくように灯り、風俗店や飲み屋が立ち並ぶ小路の中で制服姿の僕らはすっかり浮いた存在になっていたが、ちっとも気にならなかった。揉み手をしながらなにごとか口にし続ける呼び込みの男たちや、早くもアルコールの入った大人たちがうろうろする喧騒の中を、僕らは肩を寄せ合って今後の計画を声高に話しながら歩いた。アルコールや煙草やいろんな料理がごったになったような通りの匂いを運ぶ風も、爽やかに思えた。ビルの谷間から白い絵の具で描いたような月が見えた。
まったく、人生最良の日のように思えた。
翌日から僕らは折りを見て集まってはちょっとずつ具体的な計画を立てた。
まず、僕が基本的なアレンジをしてスコアを書くことにした。山岸とユリは譜面が読めるが、ショウジはコードはわかるが音符は読めないと言った。しかし、基本的には自分の曲なので問題はない。僕のアレンジのアイディアは、基本的にはショウジのコードカッティングの上に味付けをしていくものだ。だからショウジに関しては、僕が新たに付け加えた間奏のコード進行と、リフによるヴァンプのセクションを覚えてもらうだけでよかった。僕はショウジには全体の構成を書いたコード譜を渡して、リフの部分はまたショウジの家に行って、キーボードを弾いて教えることにした。ユリには一応メロ譜を書いて渡すことにしたが、彼女は音感がいいので、その場で教えればなんとかなるだろう。
問題は山岸だった。考えてみれば、あれほど苦労してメンバーに入れたものの、彼がどの程度ベースを弾けるのか皆目わかっていなかった。合唱部にいるくらいだから、音感もリズム感もなんとかなるだろう、という読みだった。とにかく、譜面は読めるというので、スコアに基本的なベースラインを全部書き込んで、それで練習してもらうことにした。念のために、ラインはできるだけシンプルにすることにした。
ドラムに関しては、山岸がリズムマシンを持っていると言うので、それを使うことにした。僕の頭の中にあるのはシンプルなループなので、たぶんプリセットの中にあるだろう。これも一応僕の理想のパターンをスコアに書いて、山岸に打ち込んでもらうことにした。
いずれにしても、山岸とユリには一度実際に曲を聴いてもらうのが、テンポとかノリを理解するためにも手っ取り早いと思った。一番簡単なのは、皆で一度ショウジの家に行って、ショウジにギターを弾きながら唄ってもらう、ということだが、ユリはともかく、山岸をショウジの家に連れて行くのはさすがにためらわれた。万が一、あの親父さんと山岸が鉢合わせしたらと思うと、考えただけで冷や汗が出る。結局、その考えは口に出さずに、僕がショウジの家に行ったときにMDかなんかに録音して、それを渡すということにした。
計画の戦略的な部分に関しては、予想通り山岸が頼りになった。山岸曰く、まあ、文化祭に関しては任せてよ、黒木に頼めば楽勝だよ、ということだった。
結局、バンド名については誰も異議を唱えず、僕が思いつきで安直につけた名前がそのままなし崩しで採用になった。そんなわけで「ナイトソングス(仮)」の(仮)はめでたく取れた。
もうあと二週間ほどで夏休みだった。僕らは夏休みに入った最初の週に、市内の貸しスタジオを借りて、最初の練習をすることにした。
僕らはそんなことを休み時間に首を突き合わせては話し合った。
相変わらず山岸は学校の中では「僕」というキャラクターに戻っていた。要するに彼は器用なのだ。それまで教室の対角線上に陣取っていた山岸が、急にいろんな意味で反対側の僕らの席でなにやら楽しげにひそひそと話し始めたのに、クラスの皆は戸惑いを隠せなかった。しかし、それすらも計画の秘密性を象徴するかのようで、僕らはわくわくした。唯一計画の存在を知っているのは浜崎だが、普段ユリ以外とはほとんど喋らない彼女から計画が漏れる心配はまずないと言ってよかった。いずれにしろ、僕らがバンドをやるという話は文化祭間際になれば知れてしまうことだ。バンドの存在を知られること自体はそれほど問題ではない。どうせ皆はたかが中学生がやるバンド、と思うことだろう。要は音を鳴らした途端に度肝を抜かせればいいのだ。
僕らはまだ一度も音を合わせていないうちから、ただ、なにかを企んでいる、ということに胸を躍らせた。「企む」というのは甘美な響きだった。僕らはまだなにも始めないうちから、秘密を共有しているという強い連帯感で結ばれていた。そしてそれを象徴している場所が、あの薄暗いアルバトロスであると言ってもよかった。
その週の金曜日の放課後、僕はふたたびショウジの部屋を訪れた。そしてフルコーラスをショウジに唄ってもらい、それをフォステックスのマルチトラックレコーダーに録音し、MDにダビングした。それから僕が考えたリフをキーボードで弾いてみせて、ショウジはそれを覚えようと何回もギターで練習した。
なんとかショウジがリフを覚えて一段落ついたところで、僕はふと思いつき、他には曲作ってないの? と訊いた。歌詞がついてないのならあるけど、とショウジは言って、オベーションを弾きながら鼻歌で唄ってみせた。それは驚いたことにボサだった。物憂げで、センチメンタルで、それでいてクールなメロディをショウジは口ずさんだ。ちょっとブルーノートを使ったサビは強烈なインパクトがありながらとても切ない。僕はショウジの才能は本物だと思った。こいつのどこからこういう感性は生まれたのだろう、と僕は頭の片隅で考えた。このまるでどこかの高原の避暑地かなんかの、高級リゾートホテルの一室のような部屋で、彼はどんな思いで作ったのだろう。この切なさと、どこかそれを遠くで見ているようなクールさが同居したメロディ。「夜のうた」もそうだが、ショウジの作る曲には、自由を求めてあがくような叫びと、ある種の諦観のようなものが混在していた。もしかしたらそれはショウジの孤独を表しているのかもしれなかった。どこかに置き去りにされ、取り残されたような孤独がそれを生み出したのかもしれなかった。それは僕なんかが考えるより、もっと深いものなのかもしれない、とおぼろげに思った。
三人分のMDと、ショウジに書いてもらった「夜のうた」の歌詞を持って、僕はショウジの部屋をあとにした。僕の分のMDにだけ、さっきのボサを入れた。
例のぴかぴかに磨かれた廊下を歩きながら、またいきなりショウジの父親が出てくるのではないかと思わず緊張したが、幸いなことに留守のようだった。正直言って、玄関を出たときにはほっとした。ショウジには悪いが、どうもこの贅を尽くした屋敷は、どこか気詰まりを覚えてしまうのだった。心なしか張り詰めたものを感じてしまうのも、もしかしたら高い塀の上にある有刺鉄線や、監視カメラを見たせいなのかもしれなかった。それは外の世界に対して固く門を閉ざしているようにも見え、なにかを頑なに拒んでいるようにも見えた。いずれにしても、この高く厳しい塀に囲まれた世界は、僕には無縁な世界なのだ。それと同時に、ショウジにとっては、抜けようにも抜け出せない、出口を塗り込められた場所なのかもしれなかった。
ショウジは門のところまでついてくると、門扉を開けてくれた。僕は、もう道わかるからここでいいよ、と言って、じゃ明日アルバトロスで、と手を上げた。僕ら「ナイトソングス」の面々は、持ち帰ったMDをもとに僕が今晩譜面を書いて、翌日の土曜の午後にアルバトロスに集まることにしていた。僕は歩き出してから、さっきの曲はなんてタイトルなんだろうと思い、ショウジに訊こうと思って門のところまで戻った。ゆっくりとスライドしながら閉まる門扉の向こうに、切妻屋根のポーチへと戻るショウジの背中が見えた。そのちょっとうつむき加減の背中が、気のせいかやけに寂しそうに見えて、僕は声をかけそびれた。
長い塀の終わりを曲がると、駅前の通り目指して歩き始めた。途中、僕はなんだか胸騒ぎを覚えて振り返った。道の反対側にベンツが停まっていた。僕はちょっと立ち止まってそれを見ていたが、考え過ぎだ、と自分に言い聞かせると、また前を向いて歩き始めた。ベンツなんてそんなに珍しい車じゃない。それにこのあいだショウジの家の車回しに停まっていたリムジンだって黒のベンツだ。考えてみれば、あれ以来一度も帰り道に見かけたことはなかった。やっぱり僕の思い過ごしなのだ。僕は自分の小心さに呆れ果てた。ただ、僕がちょっと気になったのは、その車の窓がスモークガラスになっていたことだった。
その晩、僕はMDを聴きながらコードとメロディーを五線紙に書いてメロ譜を作ると、それをもとにT3を弾きながらアレンジを考えていった。基本的なコードはそのままで、僕がその上に少しテンションの高いエレピを被せる、というのがベーシックなアイディアだ。基本となるリズムはショウジが弾いているコードカッティングをできるだけ活かすように、最初にベーシックなドラムのパターンを書いた。いわゆる跳ねた十六ビートだ。次に、間奏を考えた。ツーコーラスが終わったあとに、まず皆でユニゾンで弾くリフによるヴァンプのセクションがあって(これは最初に聴いたときに思いついたアイディアだ)、それから間奏に移る。僕はいろんな間奏のパターンを試してみたが、結局、元のワンコーラス分のコードをそのまま使うことにした。その上に僕がジャズっぽいハードなソロを弾く方が、シンプルでインパクトが強いような気がした。あまりコードをいじってしまうと、ショウジの原曲のよさが薄れてしまうような気もしたし、見え見えの下手な小細工はグルーヴをかえって弱めてしまう。僕はせいぜい、サビに戻るときの決めのフレーズを付け加える程度にした。それからベースのラインを書き始めた。ひとつはまだ山岸の演奏能力がどの程度かわからないということもあり、これは欲を言えば切りがないので、なるべくシンプルで音数が少なく、かつ効果的にうねる感じを出すラインを、音符にしてひとつひとつ書いていった。あとはユリのコーラスパートだが、まずはサビの上を単純にハモるラインを書いたところでいったん鉛筆を置くと、そこでひとつアイディアが浮かび、エンディングにイントロのコード進行を繰り返し、その上にショウジとユリがハモりながらスキャットで繰り返すフレーズ(これはブラスセクションのイメージだ)を考えて、それを譜面にした。これで一応ベーシックなアレンジは完成だ。基本的に、バンドのキーボードとしての僕の役割は、エレピで決まりごとではなく、適度なテンションを加える感じでわりと自由に弾く。そして曲の後半になって盛り上がるに連れて、ボーカルの合間を縫うように絡んでいく。歌モノのアレンジをやるのは、と言うより、曲のアレンジをすること自体初めてだったが、これは我ながらなかなかの出来映えのような気がした。僕がひとつ学んだのは、原曲がよければ、イメージがひとりでに膨らんでくるし、それほどいじくりまわす必要がない、ということだ。
僕は一通りスコアを書き終えると、大きく伸びをひとつした。あとは実際に音を合わせてみるだけだった。
24
この街にも短い夏が訪れていた。この年の梅雨は北海道に限らず、全国的に雨が少なかったようで、その境目が曖昧なままに日本列島は例年になく暑い夏に入っていた。
二日前に終業式を終え、僕は中学生最後の夏休みを迎えていた。
一際高いところで照りつけているように思える太陽の元を、フライトケースに入れたDX7を手に地下鉄の駅まで歩いた。T3よりは軽いとは言っても、さすがに歩き始めるとやけに重く、やたらと手を持ち替えたり、しょっちゅう下に降ろしては休みながら歩いたが、それでも駅に着くころにはTシャツの背中には汗が滲んですっかり息が上がっていた。地下鉄の車内には、真っ赤なユニフォームを着込んだコンサドーレのサポーター連中がちらほらと見受けられた。スタジアムでの熱狂とは裏腹に、車内での彼らは実に大人しく、日本人の国民性を象徴しているかのようだった。
駅を降りて地上へと出ると、土曜の午後の繁華街は買い物客でごった返していた。手に手を繋ぐ親子連れや、Tシャツに短パンという格好で群れて歩く連中の合間を縫って、重いシンセサイザーを抱えた僕はよろよろとした足取りで昼間からすえた匂いのするごみごみとした飲み屋の立ち並ぶ小路へと入っていった。
今日は僕らが待ちかねていた、バンドの最初の音合わせをする日だ。
僕らは夏休み前にアルバトロスで行ったバンドのミーティングで、ひとまず当分はアルバトロスで練習することに決めていた。一番大きな理由は、スタジオ代という問題だ。所詮僕ら中学生の小遣いでは、割り勘だとは言っても週に一度スタジオを借りるのはきつい。ショウジはオレがスタジオ代出すよと言ったが、それは皆が反対した。僕らがそんな話を口角泡を飛ばして闘わせていると、コウさんがごそごそと店の奥から古ぼけたローランドのギターアンプを引っ張り出してきて、なんならここでやればいいじゃねえか、とひとこと言って、僕らの問題は一気に解決したのだった。
エレベーターにようやく乗り込んだときはもうすっかり汗だくになっていた。ただでさえ妙な匂いのするエレベーターの中はまるで蒸し風呂のように暑く、のろのろと上昇するあいだに僕の汗腺をさらに押し広げ、自分の汗の匂いまでもが混じり合ってむっとする臭気が立ち込めて、僕はしばし呼吸を止めた。チン、と音がしてエレベーターのドアが開くと、もうそこは、外のさんさんと陽射しが降り注ぐ世界とは別世界だ。まるで昼から瞬時に夜に来たような、何度訪れてもそんな気がしてしまう薄暗い世界。どう見ても消防法に引っ掛かりそうな廊下から、いつもながら重たいドアをぎいと鳴らして開けて、店内に入る。
店の中はそれなりにではあるが冷房が効いていて、ようやく重い荷物から開放されたこともあって、僕はあたふたと呼吸した。
「おそいじゃん」
僕が溺れかけて九死に一生を得た人間のように膝に手を当ててぜいぜいと肩で酸素を吸い込んでいると、目の前にユリが腰に両手を当てて立っていた。
「そんなこと言ったって、これ、死ぬほど重いんだ」
僕は足元のフライトケースを指差して言い訳した。顔を上げると、僕以外の全員が既に揃っていた。ユリは真っ赤なTシャツにジーンズという格好で、制服姿じゃないユリを見るのはそれが初めてだった。いつもはしていない化粧(と言ってもルージュぐらいだが)をしていたこともあり、なんとなく急に大人っぽく見えて、僕はちょっとどきっとした。ショウジは黒い長袖のTシャツに膝の擦り切れたジーンズを穿いていて、とてもあの豪勢な屋敷から現れたとは思えなかった。一番印象が変わったのは山岸で、派手なアロハシャツを着ていた。優等生というものはアロハシャツなどというものは着ないものだ、という先入観があったので、妙な感じがした。
僕はとにかく死にそうなほど喉が乾いていたので、コウさんが出してくれたコーラをごくごくと喉を鳴らして飲んで、ようやく生き返った。
それから僕らはセットアップを開始した。基本的な方針は事前に打ち合わせしてある。コウさんが出してくれたローランドのギターアンプはインプットが二つあるので、それに山岸のベースと、彼が持ってきたリズムマシンを繋ぐ。僕はDX7をテーブルに置いて、ショウジが持ってきたフェンダーの小さいアンプにケーブルを繋いだ。それから電源を入れると、音色を一番ローズに近い、エレクトリック・ピアノの1にセットした。ショウジのギターはオベーションのアコースティック・ギター(と言っても、いわゆるエレアコという、マイクが付いている奴だ)なので、そこそこ音量があるからアンプはなし。同様に、ボーカルの二人はマイクなしで、僕と山岸のアンプを使う二人が音量を控え目にしてバランスを取る、という作戦だ。
ひとまず繋ぎ終わり、ちゃんとアンプから音が出ることを確かめると、まずはリズムからチェックしていくことにした。山岸に、じゃ、ドラム出してみて、と僕が言うと、山岸は、オーケー、と言ってリズムマシンのスタートボタンを押した。いい感じだ。僕がフィルと譜面に書いておいたところは、ちゃんとフィルインが入っていた。ドアタマにはちゃんとカウントも入っている。じゃ、とにかく一度合わせてみよう、歌は唄わなくていいから、と僕は声をかけ、リズムマシンのカウントに合わせて僕らは最初の演奏をスタートさせた。
いくつか修正点は見つかった。しかし、それは思いの外ノリがよかったので、欲が出てきたのだ。最初の演奏にしてはかなりゴキゲンだった。もちろん、コウさんはイエーイと言ってくれた。唯一の心配だった山岸のベースだが、僕が書いた譜面の通りそつなくこなし、正確なラインを刻んだ。難を言えば、少々生真面目に弾き過ぎるところがあり、もっとルーズに弾いて欲しい気もしたが、それは徐々に慣れてくればなんとかなるだろう。僕が思った通り、彼は器用だった。確かに以前僕に打ち明けたように、ショウジのような天性のセンスは感じられず、いろんな意味で平凡な人間かもしれなかった。しかし、一生懸命僕が書いたベースラインをなぞる姿勢に僕はちょっとした感動すら覚えた。それに、あの器用さなら、僕がフレーズのヴァリエーションを譜面に起こし、タイミングを教えれば、すぐに自分のものにするだろう。
僕らは初回の演奏に気をよくして、二回ほど続けて演奏した。ひとと呼吸を合わせて一緒に演奏することがこんなに気分がいいことを僕は初めて知った。同じリズムで感じ、同じテンポで息をする。目と目を合わせて互いの息遣いを確認しながら、同じカーブで高揚する。それはまったくもって、麻薬のような(もちろんやったことはないが)快感だった。父がいつまでもライブにこだわり、タダのようなギャラで北千住のおでん屋でまで演奏した気持ちがわかるような気がした。僕らは気持ちのいい汗をかき、互いに顔を見合わせて微笑んだ。ただひとりすることがなく、カウンターのスツールに腰掛けて見ていたユリまでも、顔を上気させていた。
僕はリズムアレンジで次回までに修正する点を譜面にメモしてから、じゃ、今度は歌を入れてやってみよう、と言った。僕らは勢い込んで演奏を始めたが、ここでひとつ問題が持ち上がった。やはりどうしてもボーカルが聞き取りにくいのである。かと言ってあまり音量を絞ると今度は演奏自体のテンションが下がってしまい、練習にならない。僕らは一旦中断し、さてどうしようと思案に暮れた。
ようやく自分の出番が来たと思ったら頓挫してしまい、スツールの上で足をぶらぶらさせていたユリがカウンターの隅を指差して、ねえ、あれ使えば? とぽつりと言った。そこには例のカラオケのセットがあった。僕ら野郎ども三人は、おう、と感嘆の声を洩らした。しかし、以前さんざんそれで唄っておきながら、それまで気づかなかったことも不思議と言えば不思議だが。これで問題は解決したように思えたが、ショウジがぼそりと言った。オレ、マイク持って唄うとギター弾けないんだけど。急上昇したかに思えた僕らの気分は、また一気に下降した。やっぱりマイクスタンドがいるな、と僕は溜息をついた。そのとき、コウさんがぴょこぴょこと店の奥に向かい、なにやらごそごそと探ると、これかい、と言ってマイクスタンドを取り出した。僕らはまた一斉に感嘆の声を洩らした。まったく、僕にはコウさんがまるで奇術師か、さもなければドラえもんのように見えた。
これでようやく僕らは準備が整い、演奏を開始した。ユリの音感は抜群で、見事にサビをハモってみせた。唯一僕が気になったのは、僕が付け加えたエンディングのブラスっぽいラインで、ニュアンスがもうひとつ掴めないようだった。僕は何度かDX7でフレーズを弾きながら、ニュアンスを説明した。それから僕らは何度か演奏を繰り返し、すっかりゴキゲンになった。
僕は一通り練習を終えると、いくつか修正する個所を譜面に起こして皆に説明した。まず、イントロはギターだけでスタートする。従って、ドラムはカウントのあとはハイハットを刻むだけに修正する。ドラムは八小節目にフィルインから入り、九小節目からリズムを刻む。これは山岸の宿題だ。ドラムとともに僕のエレピとベースが入るようにする。それからユリの唄うパートを増やすことにした。ツーコーラス目はAメロからところどころハモるようにする。それと、Bメロの後ろでカウンターとなるフレーズを唄ってもらう。僕はその場でフレーズを考え、五線紙に書いてユリに渡した。
「ナイトソングス」の最初のセッションはおおむね良好だった。と言うより、予想外に良かった。僕らは楽器を片付けると、一様に顔を上気させてコウさんの出してくれたコーラを飲みながら、興奮気味に語り合った。一週間後にまた落ち合うことに決め、意気揚揚と店をあとにした。
ちなみに、僕のDX7は、コウさんに頼んで店の隅に置いてもらうことにした。正直言って、あんな重い物をこの糞暑い中、毎回持ち運ぶのはこりごりだったのだ。
25
翌週の練習はわけあって飛んでしまった。最初の練習をした翌日にユリから電話があって、急に家族でハワイに行くことになった、と言うのである。旅行代理店に勤めている親戚からチケットが手に入ったからだそうだ。男三人で練習してもよかったのだが、その電話の三日後から僕は夏風邪をひいてしまった。つまり、僕が熱を出してうんうん唸っているあいだに、ユリはワイキキの浜辺で肌を焼いていた、というわけだ。ユリはハワイから真っ黒に焼けて戻ってくると、僕らにハワイのおみやげをくれた。他の二人(コウさんを入れると三人)はマカダミア・ナッツのチョコレートをもらったが、何故か僕だけは貝殻ひとつだった。僕は、これだけ? とユリに問いかけたが、ユリは自信たっぷりに、これだけよ、と笑って答えた。僕は不満げにちぇっと舌を鳴らして乱暴にポケットに入れたが、家に帰ってからそれを改めて見ると、とても綺麗な貝殻だった。平たいその貝殻は耳に当てると潮騒の音が聞こえてくるような気がし、何故かユリの匂いがするような気がした。僕はそれを大事に机の引き出しにしまった。
僕らは結局、夏休みのあいだに三回バンドの練習をした。その結果、「夜のうた」に関してはかなり完成度は上がった。僕以外のメンバーにも余裕が生まれ、いつ演奏しろと言われてもオーケー、という感じになった。そうなると欲が出てきて、もう一曲レパートリーを増やそう、ということになった。そこで僕は、例のもう一曲の歌詞はどうなった? とショウジに訊いてみた。もうほとんどできてる、という答えが返って来た。なんだ、じゃあもうアレンジ始めなきゃな、と僕は呟きながら、タイトルは? と訊いた。ショウジは意味深な笑みを浮かべると、まだ内緒、と答えた。
僕の中学最後の夏休みは、バンドの練習の他は、祖父の運転で家族揃って洞爺湖に泊りがけで遊びに行ったぐらいで、途中一週間近く、室蘭に住んでいる母方の従妹が泊まりにきたりして、あとは家でキーボードを弾いたり、ビデオで映画を見たり、本を読んだりしているうちに、あっという間に終わった。もちろんたまには勉強もやった。印象としては、バンドの練習以外はなにをやっていたのかよく覚えていない。それぐらいバンドは楽しかった。合間に自分の曲もいくつか作ったが、それはバンド用ではなく、ピアノで弾くためのものだった。ショウジが唄うものに関しては、ショウジの曲にはかなわない、と思ったからだ。僕はまだまだ歌モノの作曲に関しては自信がなかった。自分で詞を書き、自分で唄う者の方が説得力がある、と思った。その分、アレンジと演奏の方に磨きをかけようと思った。そのころから、聴くもののジャンルも広がったし、アレンジの参考にしようと、キーボードだけではなく、ギターやベースやドラム、弦やブラスといった他の楽器にも注意深く耳を傾けるようになった。それとともに、僕のソロで弾くピアノのスタイルも徐々に変わっていった。以前のようにまったくのオーソドックスなジャズのスタイルで弾くことは少なくなり、ロックやR&Bはもちろん、ときにはカントリーといったものや、クラシックに近いもの、タンゴのようにセンチメンタルなものといった、いろんな要素が混じるようになった。もちろん、その根底にあるのは依然としてジャズではあったが、僕は父やいろんなアーティストの真似から始まったスタイルから少しずつ形を変え、次第に自分独自のスタイルというものを身につけつつあった。
いよいよ二学期が始まった。休み中の自堕落な生活に慣れてしまった身には、登校初日というのはやけに気が重い。久々の早起きは辛かった。仕事を始めたころは起きられないことも多かった母だが、いまではすっかり慣れて朝食は僕や祖母と一緒に摂れるようになっていた。ちなみにいつも深夜明け方近くまで仕事をする祖父は、ひとりだけ朝が遅い。
二学期の登校初日の朝、そんなわけで僕と母と祖母の三人で朝食の席についていた。食べながら母が言った。
「最近は物騒になったわね。昨夜、店の近くで発砲騒ぎがあったのよ。もうパトカーとか一杯で大騒ぎよ。誰も怪我人とかはいなかったみたいだけど」
それを聞きつけた祖母が、それ見たことかと言わんばかりに眉をひそめながら口を挟んだ。
「だからあんた、夜の仕事なんかやめなさいって言うのよ」
母は口を尖らせて、そんなこと言ったらお父さんはどうなるのよ、と言い返したが、たまたまつけっぱなしになっていたテレビを箸で指差すと、これこれ、と言った。見ると、すすきのの雑居ビルで発砲、とテロップが出て、現場のビルの前で女性のレポーターがマイクを持って喋っていた。
―― 事件があったのは、こちらのビルの五階にある事務所で、ドアに三発の銃弾が撃ち込まれました。この事務所は広域暴力団傘下の事務所のひとつと見られており、警察では暴力団同士の抗争の可能性があるとの見解を……
ミツオ、二学期早々遅刻するわよ、と母が言い、僕は鞄を持って席を立った。
退屈な始業式が終わり、教室に戻ると、そこここに真っ黒に日焼けした顔が並んでいた。その中でもユリが一際黒かったのは言うまでもない。それは隣の浜崎が真っ白だというせいで余計にそう見えるということもあるのだが。
ショウジの髪は大分伸びた。これは僕らバンドメンバーからの指令である。夏休み前のミーティングで、ショウジは伸びるまで髪を切ってはならない、という提案が山岸からなされ、何故ならバンドのフロントが坊主頭ではカッコ悪い、というのがその主旨だった。本人はこれから暑くなるのに、と不満げだったが、残りの僕とユリが賛成したために、渋々受け入れざるを得なかった。しかし、その甲斐あって、髪の長さもスティングぐらいにはなってきて、少しはミュージシャンぽくなってきた。
僕は知らなかったが、北海道の学校は冬に入るのが早いせいか、文化祭は九月に行われるということだった。とすると、あとひと月もない。平日は山岸が部活があるし(合唱部は文化祭で発表するので忙しい)、日曜はアルバトロスが休みなので、練習は土曜日しかできない。とすると、せいぜいあと二回ぐらいしか練習できないということだ。まあ、どうせ本番は一曲しかできないだろうから、ひとまずレパートリーを増やすのは断念して、「夜のうた」の完成度を上げた方がよさそうだ、というようなことを昼休みに僕らは話し合った。山岸は今日の放課後に早速黒木に話を通すと言った。彼の話によると、文化祭には個人枠もあるのでまず問題はない、ということだった。
こうして僕らの計画は着々と進んでいるかに思えた。
ホームルームが終わり、終業のベルが鳴ると、僕はショウジにタワーレコードに寄って帰ろう、と声をかけた。ユリにも声をかけたが、彼女は用事があると言って残念そうに断った。
ショウジとふたりで校門を出て歩き始めると、ショウジの足が止まり、顔色がさっと変わった。その視線の先を追うと、歩道の脇にベンツが停まっていて、スーツを着た陰気な顔の男が傍らに立っていた。僕は、すっかり忘れかけていたいつかのできごとが瞬時にしてよみがえり、自分の顔から血の気が引いていくのがわかった。
ところが驚いたことに、次の瞬間にショウジは険しい顔をしてつかつかとその男の方に歩み寄っていった。僕はただおろおろとして、お、おい、とその背中に声をかけるのが精一杯だった。
「加藤さん」
ショウジは男と向かい合うと、強い口調で呼びかけた。僕はそれを唖然として見ていた。加藤と呼ばれた男は、一礼するとベンツの後部座席のドアを開けた。ショウジはそれを見て顔をしかめると、相変わらず怒気を含んだ声で言った。
「なんの真似ですか?」
すると、加藤は表情を変えぬままドアに手をかけてもう一度深々と頭を下げると言った。
「お願いします。おやっさんから言われてますんで」
それを聞いて、ショウジは唇を噛み締めると、吐き捨てるように言った。
「やめてください。オヤジには僕から話しますから」
そこで加藤は初めて表情を崩し、苦痛に耐えているような顔になった。そして、またもや深々と頭を下げながら切羽詰まった声を出した。
「坊ちゃん、せめて今日だけはお願いします。さもないと、わたしがけじめをつけないといけなくなりますから」
ショウジは頭を下げたままの姿勢で固まっている加藤をしばらく無言で見つめていたが、肩で大きく溜息をつくと、僕の方を振り向いて申し訳なさそうな顔で僕に言った。
「ごめん。そういうわけだから」
「ああ」
僕はなんとか口元に笑みを浮かべたつもりだが、うまく笑えたかどうかはわからなかった。ショウジは、じゃ、と言ってベンツの後部座席に乗り込んだ。加藤はドアを閉めると、何故か僕に向かって軽く一礼した。僕は思わずちょこんと頭を下げた。加藤はそれをろくに見ずに運転席に乗り込むと、ベンツをスタートさせた。リアウィンドウ越しにちらっとこちらを振り向くショウジの横顔が見えた。それはどこか困惑した、救いを求めている顔のようにも見えたが、僕の気のせいかもしれない。いずれにしろ、僕だってそんな顔をしていたに違いないのだ。僕はとぼとぼと歩き始めた。たったいま、ショウジは加藤の小指の第一関節から先を救ったのだと考えると、妙な感慨が湧いた。