nationalism

「ナショナリズム その2」

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自慢では無いが僕はいままで10歳以下の子供と後輩にふざけて呼ばれる以外で、「おじさん」と呼ばれたことは無い。訂正、自慢である。要するに若く見えるのだが、本業では初仕事でよくナメられたりしたので仕事上ではあまり得とも言えない。そんな僕でも、もうすぐ四十(!)になってしまうので、近頃白髪を一本見つけて死ぬほど驚いたり、最近随分老けたなあなどと思ってしまうのだ。ちなみにうちは両親とも六十過ぎまで髪が真っ黒だったのである。世の中と相対的に考えてみると、見かけはともかく、中身はどうもすっかりおっさんになってしまっているようである。まあ、もう押しも押されぬ(不良)中年になってしまったのかも知れないなあ。

僕が自分がおじさんになったと思うのは、前も書いたように年々自分のナショナリズムみたいなものが強くなっているような気がするのだ。まあ、電撃的な啓示を受けて宗教に目覚めでもしない限り、基本的に人間の中身や考え方というものはそう簡単に変わらないわけで、僕もそれほど変わったわけではないのだが、コンプレックスの持ち方みたいなものは微妙に変化してきている。

若いころは、自分が田舎者であるというコンプレックスが結構強かったのだが、自分がある程度大人として成立するようになると、次第にそれは日本人であることのコンプレックスみたいなものに変わったりもした。考えてみると、年代的に日本の高度成長期をリアルタイムで通過してきたりしてきているわけで、僕とか僕の前の全共闘世代とかは欧米に対するコンプレックスというか、あこがれが結構強かったりするのである。多分敗戦思想の残り滓のようなものだと思うのだけれど。なんだかこんなことを書いていると自分がひどく年寄りのように思えてくる(笑)。

それでいまはと言うと、どちらかというと大人(中年)になってしまったというコンプレックスの方が強くなってしまい、要するにもう若くないという思いの方がコンプレックスになっていたりする。反面、かつて抱いていた田舎に対するコンプレックスとか、日本人であることのコンプレックスみたいなものは愛情へと変わった。いまではたまに田舎に帰るとうれしくてしょうがないし、田舎を散策するのが楽しくてしょうがない。日本人でよかったなあなどと愛国心や誇りをもっていたりもする。

最近の業界の傾向を見ると、ここ数年来海外資本による侵略(笑)みたいなものが水面下で随分進んでおり、それは何も業界に限らなくて街を歩いていても目にすることができる。例えば、僕が初めてアメリカ(ロス)に行ったころには日本のどこにも無かったものがそこらじゅうにあったりする。当時向こうにしかなくて、MM氏がダンボール一杯Tシャツを買いまくったGAPであるとか、向こうではただのファーストフードだと思っていたSUBWAYとかJOHNY ROCKETSであるとか、確か2度目に行ったときに初めてビバリーヒルズにできてアメリカのコーヒーも結構いけるなと思ったSTARBUCKSとか。こう言った傾向と言うのは、いわゆる終戦後の侵略(進攻)みたいなものとはちょっと意味合いが違って、ようやく日本も市場戦略の一環として認められたと言う感じがする。古臭い言い方をすればようやく世界の一員になってコンテンポラリーな国になりつつある、みたいな。反面、個性を厭う国民性みたいなものは相変わらずなんだけど。

こんなことを書き始めたのも、今朝新聞でカンヌで北野監督が拍手喝采を浴びたと言う記事を読んで心の中で快哉を叫ぶ自分がいたから。サッカーの中田といい、野球の野茂といい、日本人たる自分の溜飲を下げてくれる思い。いま恵まれているなと思うのは、インターネットの存在によって、自国のメディアの一方通行の情報だけだったりせず、またタイムラグも存在せず、リアルタイムに情報が存在すること。ホントにホントなんだな、なんてね。北野監督と言えば、リンクにも載っけているデータベースで検索すると、その映画に対する世界各国の評価のコメントが読めるので、それで誉められてたりすると自分のことのようにうれしかったりする。人間て単純なんだよね(笑)。

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