oblivion

「忘却」

...

魂の崩壊を回避するにはどうしたらいいか、などと愚にもつかないことを考えながら僕は夜道を歩いていた。自動販売機の上にでっぷりと太った薄汚い野良猫がいて、僕を軽蔑の眼で見ていた。阿呆、とその眼は言っていた。なるほど、といささか僕は感心した。確かに、魂は崩壊するような形態を持つものではそもそもない。だから崩壊のしようがない。猫にも教わるべきものはある。

突如、交差点の向こうから爆音が聞こえ、二人乗りのバイクが2台、何処ともなく現れ、赤信号を無視して通り過ぎていった。バイクの後部に乗った一人は旗竿のようなものを持っていた。プチ暴走族である。僕は唖然とした。このような前時代的な風俗がいまだに残っていたとは。たぶん、旗竿には「昭和」とでも書いてあったのだろう。僕はちょっと安心した。下には下がいる。阿呆よりもさらに阿呆が存在する。現にこうして車一台通っていない、僕以外には人っ子一人歩いていない道をこれみよがしに爆音を轟かせながら自己表現しているつもりの馬鹿が少なくとも4人いる。なんとか給付金とやらは、彼らにも給付されるのだろうか。だろうね。馬鹿馬鹿しいことこの上ない。

まあそんなことはどうでもよくて、夜空は星ひとつ見えないが妙に明るくて、夜ってのは意外と明るいものなんだな、と思う。そういえば田舎に帰ったとき、田んぼの真ん中を流れる小川沿いに散歩をしたときがあって、果てしなく続く田んぼの中の畦道はもちろん街灯ひとつなく足元は真っ暗なのだが、夜空には満天の星が溢れ、何故か不思議に暗闇とは思えなかった。だから、僕が今見ているこの夜空が明るいのも必ずしも都会の灯りに照らされているからとも一概に言えず、基本的に夜というものは明るいのであって、漆黒の闇などというものは滅多に存在しない。まあ洞窟とか鍾乳洞とかに入ればあるのだろうが。あるいは完全にロックされた地下室。要するに空というのは常に開放されているのであって、決して僕らを閉じ込めることはない。

それはともかく、僕はふと、自分が何処に向かっているのか、何のために歩いているのか見失ってしまったことに気づいた。恐らくうつ病という厄介な病気のせいで、現在の僕は限りなく記憶喪失に近い。だから目的を忘れてしまうことも別に珍しくないのだが、それにしても困った。自分を観察してみると、一応駅の方に向かって歩いている。前方に見えるのは駅前のビル群だ。そこに何があるというのか。僕は左手のGショックで時間を確認する。午前2時10分。こんな時間に開いているのはコンビニぐらいのものだ。とすると、果たして僕はコンビニで何を買おうと思っているのか。ダウンジャケットのポケットから煙草を取り出して本数を数えてみる。15本。ま、今夜のところは買う必要はないだろう。取り出したついでに一本抜いてくわえて、ライターで火を点ける。僕の吐き出した煙は夜空になんとなく吸い込まれていく。ああそうだ、何をしようとしているのか考えているのだった。何かな。飲み物だとしたらさっき通り過ぎた自動販売機で事足りる。とすると朝食用のパンかな。超熟。ふむ、可能性としては考えられるが、果たして何枚残っていたのか思い出せない。それとも風呂上りに食べるヨーグルトだろうか。だが、たかがヨーグルト如きのためにこんな夜中にわざわざ外出するだろうか。大体、コンビニに行くのであればいつもなら車で行くはずだ。ところが僕は今歩いている。考えてみれば歩いていること自体が珍しい。うつ病が酷くなってからというもの、歩くのがやけに億劫なのだ。だから、よもや散歩をしているとは思えない。何か具体的な目的があるはずだ。必要に迫られて歩いているはずだ。

不意に耳鳴りがする。左の耳だ。ギターのフィードバックのようにフェイド・インしてきて、ほうき星のようにフェイド・アウトしていった。それにしても静かだ。なんでこんなに静かなのか。都会の夜というものは、静寂のようだが塵のような喧騒に満ちているものだ。何かが変だ。世界が変なのか、僕が変なのか、区別がつかない。どちらでも同じことなのかもしれない。気がつくと僕はさっきの自動販売機から100mぐらい歩いている。なんで歩いているのかも分からずに、何処に向かっているかも分からずに、それでも僕は歩いている。どうして止まらないのだろう。引き返せば済むことではないのか? 今ここで、踵を返して帰宅すればいいだけの話だ。しかし、それでは結局自分が何のために何処に向かおうとしているのかは闇の中だ。僕が歩いたことは全くの徒労に終わってしまう。無意味だ。それにしてもどうして思い出せないのか。途中で余計なことを考えたせいだろうか。このまま歩き続けて、果たして僕は何処に辿り着くのだろう。ぼんやりとした不安のようなものが頭上で旋回している。僕はまた紫煙を中空に向かって吐き出す。どうにも収まりが悪い。居心地が悪い。この妙に明るくて、妙に静かな夜が気に入らない。

僕はなおも歩き続ける。止まる理由が見つからない。煙草を歩道に投げつけ、リーボックのスニーカーで踏みつける。誰かに電話したくてしょうがない。しかし、こんな時間に電話出来る相手などいない。いるとしたらせいぜい田舎の母親を叩き起こすぐらいだが、しかしそこで何を喋ったらいいものか分からない。僕は「分からない」ということと「忘れた」ということの区別がつかなくなった。本当に僕は何かを忘れたのだろうか。それすら自信がなかった。もしかしたらそもそも僕は何も忘れておらず、目的などハナからなかったのかもしれない。行動に常に目的が伴うとは限らない。しかし、どうして僕はこんなに考え過ぎるのだろう。昔からそうだ。僕は考え過ぎるのだ。過ぎたるは及ばざるが如し。いや、いまさらそんなことを言っても始まらない。何も解決しない。解決? 一体何が解決するというのだ。何処に問題が存在するのだ。もういいや、考えるのはよそう。もしかしたらあの前方に見える交差点の角を曲がると誰かが僕を待っているのかもしれない。それが誰かは知らないが、そんなことはこの際どうでもいい。世界はオートマチックに動いているし、現に僕はオートマチックに歩いている。

ふと僕は立ち止まった。ついに、と言ってもいい。理由などない。ぐるりと四方を見渡してみる。地平線は何処にも存在しない。何かしらの凡庸な建物の連なりがあるだけだ。また昔を思い出す。子供のころ、田舎に住んでいたころは、360度、何処を見渡してもそこに山はあった。結局のところ、地平線がないことには変わりはない。それとも、この延々と続く建物の影を地平線と呼ぶのだろうか。不意に、無性に、今度こそ僕は不安になる。唐突な、底のない不安。すべてが落ちてくる。頭上からすべてが降り注ぐ。夜空が墜落する。それとも僕が落ちているのだろうか。物凄いスピードですべてが墜落する。そこで僕は必死に耐えながら、改めて思った。魂が崩壊する。

written on 15th, feb, 2009

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